56, 僕の受難の一日
「聡太!」
相坂さんが手を振ったのは、ひとつ隣のゴンドラに乗っていた「僕」に対してだった。
成功したみたいだった。最後の観覧車で双嶋くんが相坂さんに抱いている感情を消してしまうと聞いたとき、僕はとても驚いたのだけれど、いま思うと相坂さんの対処が正しかったんだとよく分かる。
双嶋くんは相坂さんに夢中で、あまりにも夢中で、周りのことが「見えなくなって」いたんだ。それはもちろん相坂さんが魅力的だからでもあるのだけど、相坂さんが能力者だから、双嶋くんがあまりにも強い影響を受けてしまったということでもあったんだ。
それは、ほとんど魅了といってもよかった。僕は一度だけ、双嶋くんと同じような状態を経験したことがある。
「御子神さんの能力のせいで、七倉さんのことが認識できなくなったときと同じだったね」
僕はゴンドラの対面に腰掛けている七倉さんに話しかけた。せっかく七倉さんと一緒に観覧車に乗ったのに、僕たちはさっきから相坂さんのことしか話をしていなかった。
機械みたいに頷く七倉さんは、夏だというのにとても丈の長いスカートを履いている。絹みたいな布地の服に、肩にはポシェット。ようく見るとそれにはお洒落なロゴが入っている。僕にはそのブランドが分からなかったけれど、あまり調べないほうが良さそうだった。……高いんじゃないかな。
動きやすそうで露出の多い相坂さんとは対照的で、僕はどちらも可愛いと思っていたんだけれど、双嶋くんはまるで七倉さんのことを見ていなかった。
そして……、どうやら僕のことはいないものと認識されていたみたいだ。
そもそも、今日のデートは僕が双嶋くんを誘ったものだった。相坂さんに事情を打ち明けたあと、相坂さんは僕と同伴で双嶋くんと会うことを提案してくれた。もちろん僕は、はじめはメールからでいいと思っていた。教室で話したこともないのにデートからだなんて……。
でも、相坂さんは双嶋くんが相坂さんの魅力……いや、魔力といったほうがいいかもしれないものの、虜になっていたみたいだった。
それで遊びに出ることは決めたのだけど、僕と双嶋くんと相坂さんではバランスが悪いと思ったから、僕は七倉さんを拝み倒して誘ったんだ。いきなり「ちょっと事情があって、一緒に遊びに行ってくれないかな!」なんて誘いを受けてくれてくれた七倉さんに、僕はとても感謝した。
もちろん、双嶋くんは僕たちの計画を喜んでくれた。それで今日は駅前に集合することになったのだけど、あれほど僕に相坂さんとの仲を取り持ってもらおうとしていた双嶋くんは、なぜか今日は僕がいくら話しかけても生返事しかしなくなっていた。
もっとも、隣に相坂さんがいたから、相坂さんのことにばかり目が行ってしまうのも無理はないとは思ったけれど……。
ただ、双嶋くんがとても緊張していたのはよく分かった。自分をよく見せようと自称を普段の「俺」じゃなくて「僕」に変えていたし、相坂さんや七倉さんの不興を買うような乱暴な言動は絶対にしなかった。
いま、双嶋くんは憑きものが落ちたように興奮がさめていた。僕たちよりも先にゴンドラに降りると、相坂さんと別れてふらふらと遊園地を出て行った。そんな不思議な光景を見ながら、僕と七倉さんはゴンドラを下りた。
「おしまいです、聡太。これでもう彼は聡太に迷惑をかけることはありません」
相坂さんはとても神秘的な雰囲気を纏っていた。それは僕にでも分かる、能力者の纏う空気の残り香みたいなものだった。
「双嶋くん、僕のことは一度も目に入ってなかったよね。七倉さんのことだってほとんど見ていなかったし、本当に相坂さんのことだけしか見えていなかったみたいだ」
「入場券を4枚買おうとしたときには、確実に聡太のことは見えなかったみたいですね。たぶん、待ち合わせのときにはもう見ていなかったのに違いないです」
もちろん、僕は入場券を買うときにもみんなと一緒にいた。けれども、4枚の入場券を買おうとしたときに、双嶋くんがあからさまに怪訝そうな顔をしたので、相坂さんは3枚しか買うことができなかった。
僕は内心ちょっとだけ傷ついたうえに、3人が買った後ろから、なぜか平日の昼間にひとりで遊園地に来てしまったイタイ男子高校生として、受付窓口のお姉さんの視線に耐えなければならなかったんだ。それはジェットコースターでも同じだった。
ただ、はしゃいでいた相坂さんのテンションの高さと、僕のことを気にしてくれた七倉さんが何度も慰めてくれたのが救いだった。
ふたりがいなかったら耐えられなかったところだよ……。
「聡太の名前を呼んだときも、全くの無反応でした。聡太のことは意識の外だったとみなければならないです」
「薄情だなあっ」
「仕方ありませんよ。それに、双嶋さんはどこか司くんの代わりを果たしているように思いました。相坂さんが司くんに向かって話しているときも、自分が話をしているような……そんな状態だったように思います。司くんは双嶋さんの隣にいましたから」
「そのわりには徹底的に無視されていたけどね……」
今日一日の双嶋くんの態度を思い出すと、僕は溜息が出てしまう。もちろん、これで友情が崩壊してしまうわけではないけれど、これでも僕は双嶋くんのフォローを一生懸命かんがえていたんだ。
でも、双嶋くんは僕よりもよほどデートコースについて調べていたみたいで、僕は素直に感心していた。それに、僕よりもずっと長くこの街に住んでいるから、いちどだって迷うことがなかった。地下鉄や町並みの、時間帯による人出の多さもきちんと計算に入れていた。あれは僕にはできないことだった。
「もういちど、レストランで七倉菜摘だけを別の席に座らせたときに、気がつくチャンスを与えました。でも、彼はかなり強力に暗示がかかっていたとみなければならないです。当然のようにわたしとふたりで座ってしまいました」
僕は思い出して笑いそうになってしまう。
「七倉さんが2人掛けの席をふたつ頼んだときは、絶対に気がつくと思ったよ。だって、七倉さんがひとりで余ることになるんだからさ。2人掛けの席にひとりで座る七倉さんなんて可哀想だよ」
七倉さんも肩をふるわせてくすくす笑っていた。
「もしかしたら、双嶋さんには私がひとりで食事をとっているように見えていたのでしょうか」
「七倉菜摘のことも半ば忘れていたのに違いないのです。もっとも、そのおかげで3人ぶんの席が空くまで待つと言い出さなかったのが救いだったと言わなければならないです。だって、聡太がまたひとりだけ余ってしまったのに違いないです」
それを避けるために、双嶋くんが何か言い出す前に七倉さんが席を取ってくれた。さすがの僕も、4人で入ってきたはずの客が、3人と1人に別れるなんて場面をたくさんの人に見られたくはなかった。
「貧乏くじでしたね、聡太。わたしは謝らなければならないです」
「いいよ、なんだかんだで楽しかったしさ。でも正直に言えばけっこうたいへんな受難で参ったけどね」
「仕方なかったのですよ。わたしの能力の影響が及んでしまったので、どうしてもああするしなければならなかったのです」
「でも、相坂さん、今日の双嶋くんの行動はいったいどういうことだったんですか。口調だって、ふだんの双嶋くんとはまるで違いましたし……」
「彼の行動に合わせてわたしが命令したからですよ。わたしの能力の影響下にあるなら、わたしが命令すれば解けますから。だから今日は一緒に出かけるという体で、一日をかけてわたしの能力の影響を強めていったのです。行動にも干渉して、最後はわたしのことを忘れてもらうようにしました。もちろん、わたしの存在を忘れてしまったわけではありませんよ。でも、わたしへの関心は無くすように命令しました。やったことは、それだけです」
「それって……」
僕は思わず口を挟んだ。たしかに相坂さんの能力は身をもって知っている。今日の双嶋くんとのやりとりでも分かったけど、相坂さんの能力っていうのは、相坂さんに好意を持っている相手に対してほとんど無条件に効いてしまう。
僕が聞いているだけでも、相坂さんは何度か特徴的な命令形の言葉を、双嶋くんに囁いていた。その中のほとんどは双嶋くんの意思とも合致したことだった。
でも、相坂さんへの感情を消すことだけは、双嶋くんの行動には反することなのだろうけれど、相坂さんの能力が最大限まで強くなっていればそんな命令も可能なのかもしれない。
「本当に好きなら、相手が嫌がることをやってはいけない」という常套句も聞いたことがある。もっとも、それは相坂さん自身に関することだからこそできる命令なんだろうけれど。
僕は相坂さんのことを感心するばかりだったけれど、同時に僕は七倉さんが相坂さんのやり方に対してどこか不満みたいなものがあることに気づいていた。間違いなく、七倉さんは相坂さんみたいなやり方を好まない。
七倉さんは手を強く握って、すこし大きな声で叫んだ。
「そんなのおかしいです! 双嶋さんが相坂さんに好意を抱いていらっしゃるのでしたら、相坂さんはそれを受け止めて、きちんとお返事を差し上げなければいけません! こんな……こんなやり方で想いを消してしまうなんて、間違っています!」
たしかに、七倉さんの言うことも正しいと思った。相坂さんがやったことは、双嶋くんにとっては大切な想いを消去してしまうことなんだ。双嶋くんの暴走といっていいほどの相坂さんへの執着は、相坂さんの不思議な能力に影響されたものなんだけど、それでも相坂さんが魅力的だからこそ双嶋くんは相坂さんのことが好きになったのに違いないんだから。
「でも、七倉さん。ほかに方法がないから仕方ないよ……」
僕は七倉さんをなだめようとした。双嶋くんが引き起こした事件に、僕もちょっとした責任みたいなものを感じていたからだった。
「聡太、いいのですよ」
相坂さんはそんな僕に申し訳なさそうに言った。
「七倉菜摘には分からないのです。菜摘は力が足りないので、わたしが何をやったのかも把握することができなかったのですから。理解できなくても当然です」
「えっ……?」
僕は一瞬、相坂さんの言っていることが分からなかった。力が足りないってことは、七倉さんの実力が足りないということになる。でも、そんなことがありえるものなのか?
だって、七倉さんは七倉家の実質的な当主ともいわれる、とても強力な鍵開けの能力者だ。七倉家に何百年ぶりに現れて、能力者が生まれなくなった七倉家に繁栄をもたらすとされる象徴。能力の天才。僕は何度だってその能力を目にしてきた。
でも、相坂さんの表情には余裕があった。いや、余裕のように見えたのは僕の気のせいで、相坂さんはいつものように冷淡な顔だった。
けれども、七倉さんはそれで俯き加減になった。握りしめた手が白くなる。
「使われた能力の本質が分からないのに、口を出すのは褒められたことではないと言わなければならないのですよ、七倉菜摘」
「でも、力が強いからって、ひとの心や感情にまで力を使うなんていけないはずです!」
「菜摘はひとの心に影響を及ぼすことが悪いと思っているのですね」
七倉さんは顔をあげた。それは自信のある表情ではなかった。七倉さんの澄んだ瞳にはどこか迷いが浮かんでいた。それは僕が今まで見たことがない表情だった。
「能力で他人に影響を及ぼすことを否定するのなら、菜摘はその手で七倉家を潰しますか。それとも、七倉が今まで手に入れた家も財産は、全て能力とは無縁のものだと言いますか」
七倉さんが言いたいことは僕にも分かる。でも、相坂さんの言いたいことも、能力者ではない僕にはよく分かったんだ。
相坂さんの能力は僕たちの心を操作してしまえるように見えるけれど、どんな時にでも使える能力ではない。そして、七倉さんの能力は鍵を開けるというだけのように思えるけれど、実際にはその能力はいろいろなところに影響している。それは直接か間接かという違いだけだったんだ。
相坂さんはとても優しく、七倉さんを諭すような口調で言った。
「もし彼がわたしに好意を抱いているのなら、能力を破ればいいのですよ。もちろん、このさき彼がそうしてくるのなら、わたしはそれで構わないのです。それでも、わたしの能力は何もしなくても周囲に影響を及ぼすのですから、彼にかかっている力だけは解除しなければならないのです……」
七倉さんは、もう反論しなかった。ただ自分の心を落ち着けるみたいに大きく息をしてから、弱々しく頭を下げた。
「失礼なことを言って申し訳ありません。わざわざお教えいただきまして、ありがとうございました――」
それで七倉さんは、俯いて僕たちとは反対の方向に向かって駆け出してしまった。僕は驚いて、七倉さんを引き留めようとした。
「七倉さん!」
「聡太、心配しなくていいのですよ。菜摘は今日一日わたしのやっていることが理解できなくて、恥だと思っているだけなのです。みっともないと思っているだけです。今日はすこし丁寧に能力を使いすぎましたから、露骨に分かってしまったのに違いないのです」
「どういうこと?」
相坂さんは落ち着いた声で言った。
「簡単なことですよ。もともと、七倉菜摘よりもわたしのほうが上なのです」