52, 早すぎる夏休みの課題
白いディスプレイに、無機質なはずなのに、威圧感すら迫る文字が並んでいる。
ある昼下がりの自室で、僕はその字面を目で追っていた。
『相坂さん、はじめてきみを見たときから、僕は相坂さんのことが気になって仕方がなかった。正直に言えば一目惚れした。でも、一目惚れだといっても相坂さんの見た目だけを可愛いと思って好意を抱いたわけじゃない。相坂さんはいつも教室で本を読んでいることは、もちろんみんなも知っていることだ。僕にはその読書姿がとても知的に見えるだけでなくて、相坂さんの強い意志を感じるんだ。
つまり、僕は単にほかの女子と群れないということだけで、相坂さんにほかの女子にはない魅力を感じているなんてわけじゃない。僕は、相坂さんが自分の確固たる信念のために敢えて孤高を貫いているように思えるんだ。まるで、相坂さんだけが知っているひみつを守りとおすために、そうしなければならないっていう、信念のようなものがあるような気がするんだ。
相坂さんはひとりでなんでもこなせてしまう、才色兼備だというのは当然の事だけど、たまには、面倒なことを押しつけられるような気楽な話相手がいてもいいんじゃないかと思う。相坂さんはたくさんの男子に告白されていることは知っている。僕はその中のひとりとして参戦したいと思っているけれど、それを抜きにしても、相坂さんと話をしたいと思っているんだ。どうか返事をくれないだろうか』
とりあえず、僕はキーボードから手を離した。
……なんて動作からすると、まるで僕がこの頭のネジが3本くらいどこかにやってしまったんじゃないかと疑うような奇っ怪な文章を書いたように思われてしまう。けれども、僕はこんな夏の暑さに頭をやられてしまったようなことを書いたわけじゃなかった。
ううん、もちろん僕はこの文章を書いたひとに対して一方的に批判をしたかったわけじゃない。けれども、この文章はとにかく意図した目的に反して、あまりにも多くの問題点を抱えていた。それをひとつひとつあげつらってもいいのだけど、物事には人づきあいとか思いやりとかが必要だから、ひとつだけ挙げるだけにしておこう。
――僕ならきっと手書きする。
ぴろぴろぴろ。
手元に置きっ放しにしていた僕のケータイが鳴った。今日だけで3回目の電話だった。その電話の主にはなんの恨みもないし、文句を言いたいのはむしろ電話の主自身だったに違いないから。
僕は受信ボタンを押した。
「もしもし」
「よう、読めたか」
河原崎くんはこれまでなかいくらいにうんざりした声で言った。
昨日の晩――というか今日の未明、河原崎くんから送られてきたメールに添付されていたのがさっきの文章だった。もちろん送り主は僕じゃない。とりあえず河原崎くんが一言だけ「これを読んでおいてくれ。俺は寝る」と書いてあった。タイムスタンプは3時過ぎだった。
「読むには読んだよ」
「どう思った」
「どう思ったって言われても……」
僕はさすがに躊躇した。まさかこの文章を考えた人物が河原崎くんだなんてことはないだろうけれど、万が一そうだった場合には僕と河原崎くんの友人関係は破綻しかねない。少なくとも僕は見直しを検討しないといけない。
とにかく、この文章にはものすごくアブない香りがした。その危うさを理論立てて説明してくれと言われたら、これがあっさりと説明できてしまうくらいにアブない。
それに、いま僕はこうしてパソコンの前でケータイ片手に話をしているわけだけど、もしいま背後に母親が立って、このメールを読み上げたとしたらどうなるだろう。たぶん家族会議が開催されてしまう。
「まさかとは思うけど、これを書いたのは河原崎くんじゃ……ないよね?」
「んなワケあるか!」
受話器の向こうで河原崎くんが珍しく声を荒げていた。僕はちょっとだけ受話器を耳から話して謝った。
「ああ、でもそうか……すまん、疲れて名前を書くのも忘れていたか」
「ええと、この文章はいったい何なの?」
「ラブレターだそうだ」
僕は受話器を握りしめたまま硬直した。耳慣れない言葉だった。いや、言葉の意味そのものは分からないわけじゃない。要するに、どこかの男子が女子のことを好きになって、その思いの丈を文字にしてしたためたものだ。
それが無機質な電気信号と化していることの是非はあるかもしれないけれど、べつにそれがインクの連なりだとしても、骨に刻みつけられたものであっても大して変わらないような気がする。……もちろん受けとる女の子の趣味次第だけどさ。
それはともかく、少なくともラブレターは僕にとって縁遠い物だった。そもそも手紙なんて何年も貰った覚えがない。チェーンメールをカウントしてもいいなら、今までに一度もあったことがない女の子から卑猥なメールを貰ったことはあるけど、これはカウントしないのがフツーだ。
「ええと、いまどきそんなものがあるとは思わなかったんだけど」
「言うな。俺だってラブにレターなんて言いたくもなかったんだ。だが恋文なんて言ったら俺が羞恥心で死ぬ」
「き、気持ちは分かるよ……」
でも安心した。僕の知らないところで河原崎くんが恋煩いに煩って患った結果、こんな重態になってしまったわけではなかったんだ。
「それで、このメールはいつ、誰から送られてきたの?」
「双嶋のやつだ」
「双嶋くん?」
僕は双嶋くんのことを思い浮かべた。双嶋くんというのは僕たちのクラスメートで友達と言っていい男子である。口数はそんなに多いほうじゃない。でも、僕よりも運動神経はいいし、真面目だし、派手さがないだけで高校1年生としてはとても大人びていると思うんだ。
その双嶋くんがどうしてこんなことに……、じゃなくて、どうしてこんなことをしてしまったのか。
「そのメールが来たのは昨日の晩のことだ。もっとも晩といっても日が変わってからのことだ。夜の1時過ぎのことだったか、俺の携帯電話が突如として鳴り出した。当然だがマナー違反の時間だ。俺はそういう電話には出るような心の広さを持ち合わせてはいないが、掛かってきたのが双嶋からだったから、一応とることにした」
ちなみに、僕はその時間には寝てた。
「俺はその時間帯にはネットをしていたから、電話に出ることはできないわけじゃない。とはいえ、日付が変わってからの電話を歓迎することなんかできなかった。とはいえ、俺にとってはそこまで態度を変えるようなことじゃない。双嶋ははじめにこう言ったんだ。『本当は司に電話したかったんだが』と」
僕はとりあえず空笑いしておいた。昨日の晩から今朝になるまで、僕は自分の携帯電話の電源を切ったまま忘れていた。
もっとも、真夜中に電話が掛かってきたところで僕が目を覚まして電話を取るかどうかは分からないし、河原崎くんがケータイで僕に電話を掛けてくることは滅多になくて、パソコンのメールが送られてきたことにはすぐに気がついた。でも、電源が切れている間に僕は双嶋くんから電話を貰っていたらしいことと、電源が落ちているせいで河原崎くんがとばっちりを食ったことは、河原崎くんの恨み節を聞くまでは知らなかったんだ。
「そこからだ、俺は朝になるまで聞きたくもない相坂の話を聞かされ続けた。曰く、初めて見たときから相坂のことが気になっていたこと。他の女子とは全く違う、あの深い黒のつり目が最高だとかそんなことをだ。詳しいことは覚えてない。パソコンの画面を見ながら生返事をしていただけだからな」
河原崎くんはうんざりしたような声のまま続けた。
「とりあえずそんな話が30分くらい続いてから、双嶋は見てほしいものがあると言った」
「それがあの文章だってこと?」
「そういうことだ。俺が返事もしないのに、適当に打っていた相づちを勝手に肯定と解釈して、メールで即座に送ってきやがった。そのうえ感想まで求めてきたから気分は最悪だ。俺は精一杯のお世辞を含めて感想を言ったつもりだ。お前の気持ちはまあ伝わらなくもないとか、これほど気合いの入った手紙は滅多にないだろうとかな。当然だがかなり分厚いオブラートに包んだ表現で、飲み込むことすら大変な代物だっただろうが」
双嶋くんはそれにもかかわらず外が明るくなるまで話し続けたらしい。その会話内容は河原崎くん自身の記憶にも残っていないので謎だけど、僕も敢えて聞きたくはなかったからそのままでよかった。
「それで、司はあれを読んでどう思った」
河原崎くんはひとしきり僕に愚痴ってから、僕に尋ねた。僕はそれにどう答えるか迷ったけれど、結局ごまかした。
「いやぁ……意見を求められても、僕にはなんとも言えないよ」
「正直に言え。俺だって朝方まで付き合わされたんだ」
べつに僕は双嶋くんの悪口を言いたいわけではなかったけれど、それでも河原崎くんの言いたいことはとてもよく分かった。河原崎くんは口が悪いけれども、今回に関しては双嶋くんが悪い。もっといえば双嶋くんの行動に疑問点が多いんだ。
「まあ実際のところ1学期のあいだ、何度も話しかけようと思ったけれどできませんでしたって、これマイナスだよね。アピールになってないよ。僕だって嘘を書いていいとは思わないけどさ、まずいよこれ。アブない香りがするよ。止めないといけない案件だよ」
「強いて言えば俺が止めてやるべきだったか。まあその点についていえばまだ安心だ。あいつは行動を起こすような機会を得ていない。今のところはな」
「何が重症かっていうと、わざわざ夏休みに入ってからこんなことを言い出すことなんだよね」
「まったくだ。どうするんだよ、あいつが相坂のことをどう思っているにしても、もう相坂と会うチャンスすら無いだろうに」
僕と河原崎くんは同時に溜息をついた。
夏休みだった。7月の梅雨明けを待ってから、僕たちの通う久良川高校は8月末まで続く長い夏休みに入った。残り日数はまだまだ30日以上も残っていた夏休みのはじめ、河原崎くんが双嶋くんから受けとった愛のこもったメッセージは、河原崎くんにとっては厄介で面倒な問題以外の何物でもなかった。
1学期じゅうそれだけアツい思いを抱いていたのに話もできなかったヤツが、夏休みになってからそんなこと言い出すなよ……ということだった。うーん、改めて考えてみると河原崎くんの言っていることは正論以外の何物でもない。
「でもさ、僕に電話を掛けてきたってことは……」
「そりゃあ、お前に仲を取り持ってほしいということだろうさ」
当たり前だけど、夜中にわざわざ電話を掛けてきたということは、僕に頼み事をしたくてたまらないということだった。つまり、河原崎くんと似たような思いをすることになるわけだ。
「仕方ないだろう。校内の男子で相坂と話ができるのはお前だけだ。女子を合わせても七倉くらいのものだろう。だが、あいつが七倉に物を頼めるわけがない。だいたい、七倉に堂々と頼み事ができる男子だってお前くらいのものさ。そんなことができるなら、もうチョクで相坂のところへ行っているだろうしな」
「いや、それは言い過ぎだと思うけど……」
「あの鍵開けのお嬢さまは相坂に気をつかうだろうさ」
そういえばそうかもしれない。
僕のクラスメートの女の子である七倉さんと相坂さんは、実は僕みたいなフツーの人間には使えない、超能力みたいなものを持っている。そういう不思議な能力者は、このあたりの町には特に多く暮らしている。
そのなかでも、七倉さんは長い歴史をもつ旧家・七倉家の実質的な当主とも言われているお嬢さまだ。僕はちょっとしたきっかけで七倉さんと知り合って、僕と僕の祖父にかかわる事件や問題の解決を助けてもらっている。
七倉さんはとても強い鍵開けの能力を持っている。それに、この町の能力者のなかでは顔も広いし、とてもたくさんのことを知っているんだ。
そんな七倉さんだけど、同じクラスメートの相坂さんのことだけは、一目置いているみたいだった。相坂さんは、たぶん七倉さんよりも強い能力を持っている。それは僕がこの1学期のあいだ、ふたりの行動を目にして分かってきたことだった。
七倉さんはほかの能力者が能力を使ったことを察知することができる。この町の能力者について知っていることも多いし、京香さんや楓さんのように味方になってくれるひともたくさんいる。
でも、相坂さんも七倉さんと同じことができる。さすがに鍵を開けてしまうことはできないし、七倉さんと全く同じ知識を持っているわけじゃない。それに、七倉家のような名家の出身でもない。けれども、相坂さんは七倉さんに全くひけを取らないどころか、七倉さんの代わりに僕を助けてくれたこともあった。
七倉さんもそれは分かっているみたいだった。七倉さんは、相坂さんがあまり他人と関わり合いにならないようにしていることについて、クラスのなかで何も言うことはない。むしろ、相坂さんの最大の擁護者だと言っていい。それは、入学してから時間が経つにつれてはっきりしてきたことだったんだ。