50, 最後の一族
ただ、僕はこれでもかなりの可能性をつぶしたつもりなんだけれど、この証明方法だとどうしても悪魔の証明になってしまう。異能の力のことを考えるときはいつだってそうだ。どんな能力があるのか際限がないから、絶対にこれだという能力は断定できない。
でも、可能性を絞っていけばかなり真実に近づくことができた。能力者は自分の能力を使うときに、ふつうの人間には明らかに不可能なことをやってのける。
だから、単純な抜け道は残されていないことが多いんだと思う。そうじゃないと、たぶん僕たち能力が使えないひとに迷惑がかかるからだと僕は思っている。
「しかし、まだ何か侵入経路がありませんか」
東使さんは冷ややかな声で確認した。それは僕が全ての可能性を消すまで永遠に続けるつもりの質問ではなくて、僕が東使さんの能力にどこまで近づくことができたのかを試しているような聞き方だった。
「外側だけならともかく、内側も開かないなんて尋常じゃない密閉空間だよ。僕は今までそんな空間に出くわしたことすらない。そんな状態になったらどうやって出入りすればいいのか分からないくらいだ。たぶん、僕だけじゃなくて、能力を持たない人間ならみんな戸惑うと思う。パニックを起こすひとすらいるかもしれない。もちろん、窓を開けて助けを呼ぶことができるけれど、今回の事件では関係のない話だよ」
御子神さんと東使さんは、僕の言ったことをよく理解してくれたと思った。でも、七倉さんはひょっとしたら分からないかもしれない。余程の事故に巻き込まれない限りは、七倉さんは閉じ込められるという経験を一生しないかもしれない。
僕は説明を続けた。
「ほんの一瞬の間に、御子神さんに見つからない――となると、よっぽどの早業ってことになる。人の手じゃ絶対に見つかっちゃうから、飛び道具や、そうでなければ生き物を使うっていうのは、けっこう古典的な方法なんだ。毒蛇を使って人間には通れないような狭い通路を侵入するとかね」
七倉さんが手を合わせて笑顔になった。
「あっ、その推理小説なら読んだことあります!」
もちろん、どうやって動物をけしかけるかが問題になるんだけれど、それはさっき東使さんの能力を見たからみんな分かっていた。
「この高校はそう古くないから、小さな虫程度ならともかく、それなりに大きさのある動物が入るような隙間はなかなか無い。もしそんな隙間があったら虫だらけになるよ。鉄筋コンクリート製の建物で、出入り口を塞ぐと侵入経路はほぼ無し。もし冷房が集中管理だったら、ダクトからの侵入経路がありえたかもしれないけれど、この公立高校にはそんなに贅沢な設備はなくて、ここのクーラーもすこし大型なだけの代物だった」
「クーラーの排気口も使えない?」
御子神さんがふと思いついたように聞いてきた。もちろん本気でその経路が使えるとは思っていない。
「うん、当たり前だけれど小さすぎる出入り口じゃ意味がない。最終的には御子神さんの机の上にきちんと紙片を置かないといけないんだ。僕たちがこうして立っていると、なんとなく置けるようにも思えるけれど、この部屋っていろんな物が置いてあって、障害物も多い。でも、御子神さんの机だけはとても綺麗に片づいているから、それを荒らしてもいけない」
「だから、ほんの一瞬に道具を使うよりも、どうにかして私と一緒に出入りするほうがいいってことなんだ。でも、私が鍵を掛けると、もう中から出ることもできなくなっちゃう……」
御子神さんは腕組みをしながら、考えをまとめていた。
「要するに、内側からも鍵を開けられないから、出ることがものすごく大変なんだねっ」
僕は大きく頷いた。この部屋の密室の鍵は全て御子神さんにあった。単に外側から開けられないだけなら、御子神さんと一緒に侵入して、頃合いを見て脱出することができる。
でも、僕も体験したように、御子神さんの鍵は内側ですら開けられないものだった。一応、天井際の窓から出られる可能性は残るけど、高い窓を人がくぐり抜けるのはかなりの難しさだし、確実に痕跡が残ってしまう。
「それに、御子神さんは鳥が入ってきた気配を感じ取ってはいるんだよね。何か湿ったものが首筋を通り抜けていったような、不気味な感覚を覚えている。それって、きっと本当に何かが通り抜けていったからそう感じたんだよ」
「じゃあ、私がそのときに後ろを向いていたら、犯人を見つけられたんだ!」
もしかしたらそうかもしれない。けれども、僕はたぶん御子神さんは見つけられなかったとおもう。さきほど、御子神さんの背後から部屋に飛び込んできた小鳥の進路は、明らかに御子神さんの死角を通る最短経路を通っていた。わざわざ狭くて通りにくい、壁際を通ってきていたんだ。
それを見ていると、東使さんの特別な能力が、命令や操作なんてレベルではないことが分かる。それは、きっとその鳥にとって飛ぶことができるギリギリの経路を、お願いして飛んでもらっていたんだ。
「きっと、東使さんはこうやってお願いしたんじゃないかな。『御子神さんにみつからないように、そっと紙を置いてきて』って」
僕は言いながら、そんな能力が本当にあるのだとしたら、僕も使ってみたいと思った。とても羨ましいと思った。
だって、その能力は東使さん自身では何もできないかもしれないけれど、東使さんがお願いをした鳥たちは、きっとできる限りのことをしてくれるだろう。それで、きっと東使さんも、鳥たちの信頼を勝ち取るような努力をしているに違いない。もしかしたら、東使さんにとっては鳥たちのほうをとても仲がいい親友同士か、それ以上の関係だと思っているのかも知れなかったんだから。
「あなたと言うとおりです。わたしはあの子にそのようにお願いしました」
東使さんはとても静かにそう言った。それから、御子神さんのほうを一瞥して、口元だけで微笑した。
「鍵掛けの一族のちからを利用しようと思いましたが、すこし力が及ばなかったかもしれませんね」
けれども、褒められたはずの御子神さんは、すこしも嬉しそうじゃなかった。むしろ、いつものようなキラキラした目は、自分のことよりも東使さんのことに向いていた。
「そんなことないよっ。私、鳥と話をするなんて能力、聞いたことがなかったよ!」
「私もです。久良川町内では耳にしたこともありません。東使さんはどちらのご出身なのですか?」
これは七倉さんだった。七倉さんが知らないということは、久良川町内では他人に見せることがないか、よほど一族の人数が少ないということだった。
でも、僕は東使さんのことを知っていたんだ。
「東使さん、とても厚かましいお願いで申し訳ないんだけど、僕の持ち物で取ってきてほしいものがあるんだ。もし良かったら、今回の事件を解いた……とまではいかなくても、近いところまでたどり着いた見返りとして、僕にもういちど能力を見せてくれないかな」
「どうしてほしいの?」
東使さんはちょっとだけ警戒が解けたような口調だった。
「東使さんはいくらか大きめの鳥でも仲良くなることができるのかな?」
「私の能力なら、小鳥ならどんな子でも仲良くなれるし、夜行の鳥なら昼と変わらないように動けます。でも、大型鳥でも仲のいい鳥はいるから可能よ。意思も通じるから、説明すれば複雑なことでもやってくれる」
「もしかしたら怒るかも知れないけど、僕の机から物を取ってきてほしいんだ」
東使さんは一瞬だけ眉を顰めたけれど、すぐにもとの涼しげな表情に戻った。
「いいわ。何を取ればいいの?」
「僕の手帳なんだけど、内容は祖父が遺したノートなんだ。窓側の前から2列目の、僕の机の中に入ったまま。写しだから汚しても大丈夫だよ。さすがに祖父の形見をいつも持って歩くのは怖いからね」
七倉さんがなぜか小さく声をあげたので、僕はそれがちょっとだけ気になった。もっとも、七倉さんは僕の祖父に会ったことがあるから、それで何か気になったことがあったのかもしれない。
「対面の校舎ね――いいわ、頼んでみます」
僕はほっとして、東使さんの動作を見守った。
東使さんは中庭を向いた。僕たちが授業を受ける教室なら、東使さんの向いている方角は里山になっていた。もっとも、ここから見えるのは大きな校舎の姿だ。
でも、充分に高さがある。向こう側に山が見える。
東使さんの前髪の隙間から、まっすぐな目が見えた。
「来て――」
風が吹いた。
久良川高校のそばにはまだ木々が多く残っている。傾斜の緩やかな山肌は段々畑になっているところもあるけれど、ほとんどは山林だ。だから、鷹はこのあたりにはたくさんいる。何十羽もいるわけではないのだろうけれど、毎日自転車で走っていると目につくくらいには存在感がある。
でも、それが僕に向かってくるなんて経験は初めてで、僕は思わずたじろいだ。
「わわっ!」
体が大きくて立派な鷹だった。けれども、たぶん若い個体なんだろう。僕が見たことのある鷹は、遠目から見ても更に大きいことがあった。かれは窓の縁に器用に留まって、僕をじろりと睨みつけた。
けれども、東使さんはとても親しげな声色でかれに懇願した。
「ごめんなさい、急ぎなの。あなたには簡単すぎるでしょうけれど、行ってくれる? 人がいたら引き返していいわ。あなたの手をわずらわせることないもの」
東使さんが言うやいなや、かれは飛び立って。開きっぱなしになった窓から僕たちの教室に入っていった。それはとてもありえないような光景だったけれど、僕はその目に焼きつけようと、かれと東使さんの姿を追いかけたんだ。
やがて、僕の手帳を鉤爪に持って、かれが戻ってきた。
東使さんがそれを受けとって、僕に手渡してくれた。
「ありがとう」
これはちょっと馴れ馴れしかったかも知れない。かれは僕の挨拶をほとんど無視するようにして立ち去った。まるで東使さんと意識を共有しているかのようだった。僕の座席の、机の中ということもほとんど説明しなかったのに――ひょっとしたら、かれは僕の姿をいつも見ていたんじゃないだろうか?
僕はかれを見送ると手帳を繰った。
「このノートは祖父が遺してくれたノートなんだ。でも、はじめはとてもがっかりした。このノートには七倉さんのことも御子神さんのことも書いていないんだ」
七倉さんは目をぱちくりさせた。
「それでは、聡一郎さんは何を書き残していたんでしょうか?」
「久良川町からいなくなった能力者の一族のことだよ。……あった、東使一族」
僕は顔をあげて、僕のことをじっと見つめる東使さんに聞いた。
「これは東使さんの話になるけど、いいかな?」
「私も知りたいです」
東使さんは頷いた。もしかしたらこれが目的だったのかもしれないと、僕は思った。
「じゃあ話すね」
これは、祖父の記憶のなかの物語だ。
「東使一族……東使一族は動物と話をし、心を通わせることができる一族だった。動物と友人のように過ごし、また長い時間を共にし、ときには一緒になって野山で起こる問題事を解決することもある。
東使一族は昭和19年秋頃を最後に久良川から姿を消した。私が知る最後の能力者は、東使昭狼だ。昭狼は私よりも2つ年上だったが、あまり人慣れせず、私たちも初めのうちは私のほうが年上だと思っていた。私が彼を呼び捨てにするのはそのためだ。
東使一族はふたつ以上の名前をもつことが多い。
ひとつは、東使一族以外が目にするような戸籍上の名前だ。私の友人である昭狼ならば昭朗というのが戸籍上の名前である。もうひとつは、能力を使える動物に対する名前だ。昭狼はオオカミであったが、平素はその近縁のイヌを良き友としていた。ただ、オオカミは絶滅したと聞いているが、もしかするとまだ生き残りがいるのかもしれぬ。
昭狼は未亡人と幼い男子を遺して昭和19年に亡くなった。南方だったと聞いている。だが詳しいことはあの混乱の時代に分からなくなってしまった。もともと東使一族は人とのつきあいを好まないうえ、私もまた久良川を離れていたからだ。あれ以来、東使一族の足取りは杳として知れない。
私が知る限り、東使一族は昭狼が最後の家系である。動物との間に友好関係を築く家系は、決して東使一族だけではないが、どの家系も断絶してよいものなどない。東使の能力者である昭狼が早逝したことで、その能力が途絶えてしまったと思うと、私はただただ口惜しい。
それでも、一縷の望みがある。昭狼が幼い子供に能力を伝えていたかもしれないということだ。通常、いちど途切れた能力者の系譜はまず再び繋がるということがない。だが、東使一族は生まれたときに祝福してくれた動物の名をもらうそうだ。ひょっとしたら、動物たちが子供の成長を見守るかもしれない。
もしそうだとすれば、いつかふたたび東使一族の末裔と出会える日が来るかもしれぬ。私もまたそうであってほしいと願う。だから、ここに東使一族の記憶を残す」
「そのときの子供は、私の祖父でしょう」
東使さんは言った。それはとてもやわらかな声だった。
「曾祖父が亡くなった後、祖父は曾祖母の実家に引き取られて育ちました。その祖父も引退する歳になりましたが、父親の足跡をたどってここまでたどりつきました」
「今は久良川にお住みなのですか?」
尋ねたのは七倉さんだった。七倉さんはいつもみたいに迷いのない目で東使さんを見据えて、とても綺麗な声で言った。
「七倉菜摘と申します。ご存じかもしれませんが、七倉の家は久良川本町の旧家のひとつです。東使家が久良川の古いお家なら、お手伝いできることもあると思います」
「七倉のお嬢さまからの申し出はありがたく受けとります。しかし、東使の家はもはや人との関わりを望みません。あなたの郷土を守ろうとする心は美しいと思いますが、東使の家にとっては、家族を守ること以外に大切なことはありません。それは、祖父も父も、そして私も一緒です」
髪が長いせいで、東使さんの表情はよくは分からなかった。でも、それはきっとお祖父さんやお父さんから何度も聞かされている、東使さんの家での絶対の決まりごとなんだろう。たとえ能力者同士であっても、東使の最後の生き残りは、もう関わり合いを持ちたくはないと思っている。
七倉さんもそれを悟って、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。東使さんのおっしゃるとおりです。お祖父様の経験した苦労を考えれば当然です」
「ごめんね。私もできることなら手伝いたいんだけど……」
御子神さんはお母さんの血を引いているから能力を使えるけれど、七倉さんと比べるとできることには限界があった。東使さんはもちろんそれを分かっていて、控えめな笑顔を作った。
「気にしないで。私の先祖はみんなこうして暮らしてきたの」
それから、僕に対してはちょっと困ったような表情を向けた。
「でも、あなたにはもう少し自信を持ってもらわないと困ります。あなたを試すためにこんなことをしなくても良かったのに」
「ご、ごめん」
「あなたのお祖父さんは今年の春までご存命だったから、もう少し早ければ私たちのことも知らせられたかもしれません。それだけは残念です。私の祖父も、あなたの祖父のことを覚えていました」
「そうか……」
それは僕も残念だと思った。僕が能力者のことを知ったのは祖父の死後だったから、どうすることもできなかった。それはきっと東使さんも同じで、僕のことを聞いたのはこの高校に入学してきたからに違いないんだ。
「でも……、司くんだから繋がったんです。私はそう思います」
七倉さんは何か思うところがあるような、とても真剣な様子でそう言った。
「そうだよねっ。なんて言っても私のテキトーな証言から東使さんまでたどり着けたんだし!」
僕は御子神さんにつられて苦笑した。御子神さんのこの性格は、本当に能力者だからなんだろうかと僕は心配になってしまう。そのことは、東使さんも顔に出ないだけで苦笑していたのかもしれない。
最後に、僕は東使さんとひとつだけ約束を交わした。
「お祖父さまにどうかよろしくお伝えください。祖父も感謝していると」
「うん――。必ず」
僕は手に持っていた手帳をそっと閉じた。