47, 密室と1枚のメモ
「聡太くんが見たとおり、私はこの部屋の鍵を持っているの。理由は簡単。私が鍵の扱いに慣れているからだよね」
「あれ? ひょっとして占い研究会って、能力者がほかにもいるの?」
御子神さんが唇に指を当てた。背の高い御子神さんがそういう動作をすると、なんだかとっても意外で格好いい。
「そこは内緒なんだけどね。実はいるんだよ!」
誰なんだろう、僕はなんとなく水晶玉を持っている会長さん(要するに部長のことだ)のことが怪しいと思ったけれど、御子神さんはそれには触れずに話を続けた。
「私が鍵を掛けた次の日のこと、私はその日もこの部屋に来たの。その日もいつもと同じように暑い日で……あっ、雨が降った日だったね」
「ああ、その日なら覚えているよ。梅雨明け前の、雷が鳴っていた日だよね」
「しのつく雨がざあざあと音を立てていたよ。空気は肌にへばりつくみたいに気持ちの悪い日。雨の音は、まるで私を近づかせないための演出みたいに私の耳についた。私はちょっとだけ怖いなと思いながら、鍵を開けて部屋の中に入ったの。冷たい風が私の頬を撫でつけた。まるで水に濡れた女の手が、私のからだの上を這い回っているみたいだったよ。そのとき、わたしは気がついた。私の机の上に、小さな紙の切れ端が置かれていることに。そこにはこんなメモがあったんだ」
御子神さんはスカートのポケットから、折りたたむ必要すらないほどの小さな紙片を取り出した。それが置いてあった紙の切れ端なんだろう。
僕は息をのんだ。
『開かないはずの鍵が開いた』
目を見開いてしまったと思う。僕は役者としては二流半ってところだろう。ちょっとだけ感情を押し殺したようなことはできるけれど、それも役に立たないときは多い。
でも、僕はまたか、とも思ったんだ。
4月にあった、七倉さんの能力が引き起こしたちょっとした事件。どうしてあの事件がこんなにも後を引くんだろう。僕は少し前に、その件でこの高校の生徒会長さんとの間でちょっとした事件を起こしている。
その生徒会長――氷上優子さんは調べていた。あの事件で疑われていた容疑者である僕と、その背後に垣間見える七倉さんの影。もちろん、僕と七倉さんがあの時で会っていたことは、そんなに有名なことじゃない。
でも、僕と七倉さんが、そのあと急に話をするようになったという状況の変化のほうが、ちょっとした事件が起きたことを如実に表していたんだ。
「聡太くん、この意味が分かる? ううん、答えなくても分かっちゃった。これを見て私思ったんだ。聡太くんって七倉さんと仲がいいんだよね。私、4月に聡太くんのクラスで扉が開けられた事件のこと、知ってるよ」
「それは本当のことだよ。七倉さんが間違って教室の鍵を開けてしまったこと。七倉さんが開けなければ全ての理屈がついてしまうこと。ただ、その理屈の正体は僕には分からなかったんだから――」
「でも、七倉さんはそれで全部納得したんでしょう?」
御子神さんはそのきらきらした瞳で僕を見つめた。いつも笑顔でいるような、好奇心に満ちた目が、僕の言い訳を封じ込めてしまう。御子神さんを前にしていると、深刻なことが全部吹き飛んでしまうみたいだった。
「私だっておんなじだよ! 聡太くんは何から何まで推理をしなきゃいけない、なんて思っていないよ。ただ、能力者って、自分の異能の力に頼っている部分があるから、それが破られるととても困っちゃうものなの。七倉さんは自分の鍵開けの能力が、面倒な事件を引き起こしちゃって、本当にびっくりしたんだと思うの。私だって同じ! 鍵掛けの能力はね、ふつうでは破られるはずがないって思っているんだから。七倉さんは別だけどね」
それでわざとらしく、御子神さんはその大きな胸を張った。
「だからね、私、聡太くんの力を貸してほしいなっ」
当然だけれど、こんなにも頼られた僕が断れるわけがなかった。
「さっきの話だけれど『開かないはずの鍵が開いた』なんてメモを書いたのは私じゃないよ。前の日、私や占い研究会のみんながこの教室をあとにしてから、事件の日に私がこの教室に入るまで、ほかに入ったひとはいない。施錠は私の担当。それなのに、不思議なメモが私の机に置いてあったというわけなの」
「その話、ものすごく脚色が豊富だったけれど、要するに窓が開いていたってことなの?」
「窓?」
「冷たい風が――とか、水に濡れた女の手が――とか、そのあたりのこと」
「ええと、教室の中の窓は開いてなかったよ。あとは私の単なる趣味!」
御子神さんは悪びれずに笑い飛ばした。要するに教室の窓が開いていて、開けた瞬間に部屋から風が吹き出した、なんてことはないみたいだった。
僕は御子神さんの話をいったん忘れて、教室の内部を見渡した。
この特別教室は、僕たちがふだんの座学に利用している教室よりも、ずっと出入りできる場所が限られている。
まず、足下からは出入りできる場所はなくて、天井付近もほぼ出入りできない。というのも、こういう特別教室でわざわざ廊下側の天井に近い窓を開けることがまずないからだった。椅子や机を足場にしても、そう長い時間滞在するわけじゃない。これは御子神さんにも確認してもらった。
「開けないと思うよ。だって、この部屋には冷房が効くんだもん」
「え、嘘」
「ホントだって、ほら、ここ。実は特別教室にはあるんだよ。コンピュータ教室にもあるでしょ?」
御子神さんが指さした場所には、たしかにエアコンが据え付けてあった。羨ましい。
「きっとね、この部屋が暑すぎるからだと思うんだ」
「それは僕たちの教室も同じだけどね」
窓側はほとんど変わらないけれど、上階だから日を遮るものが何もない。中庭がよく見下ろせるのは、木々ですら足元よりも低い場所にあるからだった。
「窓の鍵は開いていたの?」
「そこまでは分からないけど、閉まっていたんじゃないかなぁ」
これは保留にしておこう。一応、上の階から侵入できる可能性はあるけれど、ベランダもないし、足を掛けられるような凹凸もほとんどなかった。庇もない。
「隣の部屋からも無理だよね」
「手をうんと伸ばしてもぜんぜん届かないよ。それに、そんなことをしていたら教室にいる生徒や職員室の先生が、びっくりして飛んでくるよ」
まず窓側の可能性は排除しても良さそうだった。
つまり、僕はまたこの状況に突き当たってしまったんだ。
「密室……なのかなぁ」
「おおっ、密室!」
御子神さんが喜んだ。目をくりくりさせて、はしゃいでいる。
「それっぽいよ、聡太くん。密室破りのトリックを推理するんだっ!」
「そんな、名探偵じゃないんだから無理だよ」
「でも、七倉さんのときには推理しちゃったんでしょう? 私にだけ推理してくれないなんてずるいよっ」
御子神さんが鍵を掛けた部屋の机に、あるはずのない手紙が置かれていた。それを密室事件と言ってしまった僕も軽率だったけれど、それを本気で取ってしまう御子神さんもおっちょこちょいだ。僕は慌てて訂正した。
「密室っていうのはそういう厳密な意味じゃないよ! どうせ推理するなら密室って言ったほうが面白そうじゃないかと思っただけで、本当にこれが密室だなんて言ったら、世界は密室事件で溢れちゃうよ」
「でも、簡単には崩れないんだよね?」
僕は頷いていいものか迷ったけれど、実際のところ、この部屋の密室性っていうのは見た目よりも数段しっかりしていたんだ。
「うん、たとえば僕がその日の……ええと、しつこいくらいに湿気の強い、雨の日の夕刻までに、この部屋に侵入しろと言われたらとても無理だよ。窓側から入り込む勇気はないし、廊下側からは扉はまず無理、可能性があるとしたら天井際の窓だけど、たとえ開けられても僕が入り込むにはかなり狭い。頭から落ちるくらいの覚悟じゃないと入れないよ」
「やっぱり私の能力で『かけた』鍵を開けるのは難しいのかなぁ……」
眉尻を下げて、御子神さんは一生懸命に考えていた。御子神さんの鍵をあっさり開けてしまえるような方法があれば、もちろん僕にだって中に侵入して、紙片を置くことができる。
でも、その御子神さんの鍵を開けるということがとてつもなく難しいはずだ。というよりも、そもそも鍵の掛かっている部屋の扉を開けることが難しい。
「当然だけど、ほかの合い鍵が使われたなんていう可能性はないんだよね?」
「もちろん! 私物がたくさん置いてある部屋に入られちゃったら困るもん」
「あ。そういえば、僕って御子神さんの鍵掛けの能力を見たことがないんだよね。お祖母ちゃんの能力は見たことがあるんだけど、それにしたって70年も前の能力だし、現物を目にしたわけじゃないんだった」
それを言うのなら、倉橋の「かける」能力を持っているはずの本家本元、生徒会の倉橋春高先輩も、能力はさっぱり使えないと言っていた。
ちなみに倉橋先輩は、僕のお祖母ちゃんの兄の曾孫にあたるんだけど、僕の親戚で能力が使えるといえるのは、僕の祖母と倉橋先輩の叔父さん(僕のハトコなんだけど、もちろん歳は親子くらい違う)くらいのものらしい。なんだかとっても情けない話だ。
「じゃあ、試しにやってみよっか。聡太くんのために入り口の扉を思いっきり鍵掛けちゃうねっ」
「わっ、待って。いつもどおりでいいからね!」
でも、どうやって鍵掛けの能力を使うのかと思ったら、御子神さんは僕の背中に回り込むと、背中を押して教室の外に押し出した。御子神さんは汗っかきだって言っていたけど、御子神さんのからだからはとてもいい匂いがした。
それから、御子神さんは僕たちがするのと同じように、扉に鍵を掛けた。それは特にコツがあるようには見えない自然な動作で、僕にはとても開けることができないようには見えなかった。
「聡太くん、開けてみて」
当然だけれど、針金ひとつでピッキングできるようなスキルなんて持っていない僕には、扉を開けることができないと思った。でも、御子神さんの柔らかい手が僕の手に握らせたのは、たったいま使ったばかりの鍵だったんだ。
「鍵でこの扉を開けるの?」
御子神さんは得意満面の笑顔で頷いた。
「やってみて!」
とりあえず取っ手を触ってみると、やっと僕にも分かった。扉が固定されたように感じるんだ。なんだか、釘で打ちつけたか、どこかで引っ掛けたみたいに、びくともしない状態になっているんだけど……。
そのままじゃどうやっても開かないから、鍵穴に鍵を差した。
「どう?」
動かない!
きっと周りから僕のことを見ていると、鍵穴に鍵を差したまま何をやっているのか分からないと思うけれど、僕はちゃんと手首を捻ろうとしているんだ。でも、鍵は全然動こうとはしなくて、まるで僕は鍵を差したまま突っ立っているだけに見えてしまう。
「なにこれ、開かないよ!」
なにしろ、なんにも手応えがないんだ。鍵を回している方向を間違えたのかと思って、逆向きに回そうとしたらこっちも動かない。これだけ力を掛けているんだからちょっとくらい動いて当然なのに。僕は諦めて鍵を抜いた。
その様子を見ていた御子神さんは、弾んだ声で僕に言った。
「じゃあ、こんどは中からね!」
「中から?」
僕はその意味が分からなかった。ただ、御子神さんが手を差し出して鍵を渡すように頼んできたから、御子神さんの指の長い手に鍵を落とした。それから、御子神さんが力を込めることもせずに、あっさりと鍵を開けるのを、僕は唖然として見るだけだった。
「聡太くんは中ね!」
御子神さんはまた僕の背中を押して、こんどは僕だけを教室の中へ押し込んだ。
それから、御子神さんは僕を部屋の中に取り残したまま、扉を閉めてしまった。すぐに鍵が掛かる音が聞こえた。
「開けてみて!」
どういうことだろう?
「御子神さん、僕が部屋の内側に居たら意味がないと思うんだけど……」
「いいからいいから!」
扉に据え付けられた小窓の向こう側で、御子神さんの半月型になった目が僕を見ていた。
当然だけれど、鍵っていうのは内側から開けられるようになっている。だから僕は鍵なんて持っていなくても、鍵の内側のつまみを回せば扉を開けられるんだ。それは現代に生きるひとにとっては常識と言っていい「鍵」という道具の仕組みなんだけれど、御子神さんはそんな常識に真っ向から立ち向かうような、わけの分からないことをしていた。
「じゃあ開けるね」
言いながら、僕はさっさとつまみを回していた。こんなことは、いちいち考えるほどの行動ですらなかったんだ。そのはずだったんだけれど……
「御子神さん、そっちで扉を押さえたりしていないよね?」
「離れてるよー」
御子神さんは扉の向こうで手をひらひらと振ってみせた。こんなことで見栄を張るわけもないけれど、僕は不思議だった。開かない!
「あの、御子神さん。これ、内側から鍵を開けようとしても開かないんだけど!」
「うーんと強く回してみて!」
「体重かけてるけど、これ、つまみのほうが折れかねないよ!」
僕はなんとなく感じていたけれど、僕がいま開けようとしている鍵はちっとも反応がないわけじゃない。動かないのは確かなんだけれど、なにかに引っかかっているような感触はあるんだ。
たとえば、立て付けの悪い戸を開けるときに、力を掛ける方向がある。逆に閉めにくい扉を閉めるときも同じ。僕がしていることは、固まってしまった瓶の蓋を開けようとする試みみたいなものだった。
これは、コツが分からないと開けられないようになっている!
そして僕はこうとも思った。
七倉さんはこんなものを触っただけで開けるのか。