45, 相坂しとらの物語
たしかに――僕はちょっとだけ惚れっぽいところはあったんだけれど、どうだったんだろう。
「志野原さんは中学時代からなんでもできた。インターネットを使って情報を収集するくらいわけない。それに、友達づきあいもうまかった。志野原さんは、僕たちが覚えていないようなことを不思議と記憶していて、それで相手の真意を突くようなことを言うんだ。それから、僕たちの思い出になりそうな場面では必ず泣いていた。あんなにしっかりした女の子だけど、クラスの女の子の何人かは絶対にそういう子がいるんだよね。
それから、僕が転校すると知ったときも悲しんでくれた。そんな態度をとってくれるのは、女子のなかでは志野原さんだけだった。だから僕は嬉しかったけれど、いま思うとそれも能力の一部だったのかもしれない。今になって思うと、志野原さんは僕たち自身が忘れているようなことをよく覚えていたんだ。他人とうまくやれたのはそれが大きいからだと思う。だから、ひょっとしたら……僕が忘れていることに答えがあったのかもしれない」
でも、その結論はとても結論とは言えないくらい出来が悪いものだった。だって、肝心の答えが何も分からないんだから。ただ、本当はこれくらいが僕の限界なんだ。僕には何の能力だってないわけだし。
相坂さんも戸惑ったような反応だった。
「聡太が忘れてしまったこと……それでは、答えは分からないと言わざるをえないのです」
「でも、距離も時間も遠すぎるからこそ、志野原さんが何らかの能力を使ったことは分かったわけだから良かったよ。もっとも、相坂さんが志野原さんの能力のことに気がついたおかげだけどね」
僕は肩の荷が下りたような気分になった。僕と能力者にはこんなにも差がある。それは、志野原さんが2年も前から能力を使っていたというのに、僕は今日までちっとも気づかなかったことではっきりしたことだ。
能力者は色々なところに暮らしていて、とてもふつうに見えるように行動している。けれども、僕はそれに気がつけないんだ。
志野原さんに謝りたい。でも、志野原さんも能力のことを秘密にしているだろうから、謝ることができるのはまだ先のことかもしれない。けれども、こうやって志野原さんの能力に気がついたことは、きっと喜んでくれるだろう。
僕はその結果にさっぱりして、少し口が滑らかになったみたいだった。能力者って、やっぱり凄いんだとまた実感したんだ。
「僕さ、中学の頃くらいまでは、この世界に魔法があったらどうなるんだろう、なんて想像をしてたんだ。そうだったら、きっと楽しいと思うよ。ひとを一瞬で治すことができる回復呪文や、敵を一撃で葬り去る必殺呪文みたいなのが使えたら――。もっとも、僕は自分に二つ名や真名を持っている、なんて設定は作らなかったけどね」
僕は笑いながら言った。ちょっとだけ恥ずかしい告白で、僕の顔は夏の暑さとは別に熱くなった。
「僕なら剣も魔法も使える魔法戦士がいいな、なんて」
「誰だってファンタジー世界の主役に憧れることはあるに違いないです」
僕はおかしかった。僕が急にこんな話をしたのは、相坂さんのことを褒めていたつもりだったからだ。
「要するに相坂さんが羨ましいんだよ。相坂さんなら自分が思ったとおりの空間を作り出すことができるでしょ? もちろん、それには色々な制約があるし、その能力が気軽に使えるものじゃないことはよく分かっているよ。それは当たり前のことなんだけど、それでも羨ましく思うのは変わらない」
相坂さんが僕を見上げた。
「わたしは聡太の気持ちをばかにするつもりはないのです」
「それでも、相坂さんには分からないかもしれない。相坂さんはそうは思わなかったかもしれないけれど、僕にとっては今回の志野原さんのことは驚きで、ものすごい事件だと思うんだ。僕がこうしてとてもふつうに暮らしている。けれども、僕が知らないだけで、僕が生きている世界の裏側には、相坂さんのような能力者もふつうに暮らしていて、そのひとたちは当然だけど仲間同士でグループを作っている。それで、僕たちが何かの行動を起こすと、僕たちが使っているのと同じような文明の利器を使って、想像のつかないような情報ネットワークを駆使して情報をやりとりする。それはきっと僕たちが度肝を抜くこと必至な、魔法みたいなことなんだ――!」
僕は一気にまくし立てた。僕が感じた驚きを、どうやれば相坂さんに伝えられるのだろうか。どちらかといえばいつも落ち着いているほうに分類される僕だけど、このときはちょっとだけ興奮していた。
でも、僕のことをじっと見つめていた相坂さんは、なぜか唇を噛んだ。
僕はそれが不思議でならなかった。それは初めて見る相坂さんの悔しそうな顔だったんだ。
「聡太……、わたしには聡太の感動の全てを理解することができないと言わなければならないです。わたしは、聡太の言うことを理解しようとしているのに、どうしても聡太の言うことが理解できないのです。聡太はわたしのことを、聡太とは別の人種だとでも言っているみたいです。でも、わたしは聡太と一緒のはずなのです。だって、わたしは……」
その後はなぜか続きがなくて、相坂さんは黙りこくってしまった。
「どうしたの?」
僕は尋ねたけれど、返事の代わりに出てきたのは、今日買った恋愛小説だった。
「聡太は本が好きなのですよね」
「うん、その本を読んだことはないけれど、その作者の本を読んだことはあるよ」
相坂さんはなぜか顔が赤くなっていた。どうしてだろう。それは僕には分からなかったけれど、どうやら僕がさっき、中学時代にファンタジックな妄想をしていたのと同じだということがすぐに分かった。
「国語では現代文でも古文でもたくさんの恋の話が出てきます。わたしはそんな話を読むのが好き――、と言わざるをえないのです。恋愛のことを想像するのも好きなのです。聡太が、自分のことを剣士や勇者だと想像するのと一緒に違いないのですっ」
「でも、相坂さんって可愛いから、今までにたくさん告白されたことがあるんでしょ?」
僕の目の前に突き出された本が引っ込んで、代わりに潤んだ相坂さんの瞳が目の前に迫った。
「わたしは今までつきあったことはないのです!」
相坂さんは怒っていた。でも、頬を染めて怒る相坂さんはとても可愛かった。僕がそんな悠長な感想を抱いたのは、相坂さんの怒り方が、僕が異能の力の影響下にいるときの、やり場のない感情をどうすればいいのか困っているときのそれだと分かったからだった。
「はっきりと言わなければならないのですっ! 志野原美涼は聡太に思い出してほしかったのです。志野原美涼は能力者で、中学時代のクラスメートである聡太には自分のことを分かってもらえると知って、聡太に連絡をしたに違いないのですっ。わたしには想像がつきました。志野原美涼の能力は『思い出』の能力です」
「思い出の能力? それは一体どういう能力なの?」
「知りませんっ。いまわたしが名づけました。でも、そう名づけざるをえないのです!」
思い出の能力。それがどんな能力を指しているのかは、はっきりとは分からなかった。
けれども、そうして言葉にしてみると、志野原さんの行動はいつだって思い出に関係するような事だった。
「どこまでできるのかは知りません。でも、聡太の携帯電話番号を知っていたのは、きっと思い出の中にいるひとの……聡太の今を『見た』のに違いないのですっ。じゃないと、こんなタイミングで電話を掛けてきた説明がつきません」
「僕の今を見たって?」
「聡太の携帯電話の番号を手に入れるのはとても難しいのです。信じられません! 河原崎信二くらいしか知っているひとがいなくて、その河原崎信二に聞くために、わたしがどんな思いをしたか、聡太は知らなければならないくらいですっ」
「ご、ごめん……」
僕はわけがわからなくなりながらとにかく謝った。
でも、それは正しい反応じゃなかったのかもしれない。相坂さんは小さく首を振ったんだ。
「けれど、可哀想なことは、聡太は昔のことを全て過去としか捉えていなかったことです。志野原美涼にとってみれば、司聡太は思い出の中の人だったに違いないのです。けれど、聡太は過去のひとだと思っていたのです」
でも、と僕は思った。志野原さんと僕が別れたのはもう2年も前のことだ。たしかに、志野原さんとはとてもいいクラスメートだったと思うけど、でも、遠い街に引っ越した同級生のことを、そう何年も覚えているものなのかな――?
「でもさ、志野原さんは本当にそんなことを――」
そのとき、僕ははっとしたんだ。相坂さんは実はちっとも怒ってなんかいなかった。
相坂さんはじっと僕を見つめた。髪の短い、けれども、その顔は、男子なら誰だって美人だと思うように形作られている。はっきりとした鼻梁。長い睫。わずかにつり上がった力の強い目つき。
そして、その唇が開くと、うっとりするような綺麗な声が聞こえるんだ。
「わたしは、何年経っても聡太に忘れてほしくないです」
忘れないよ、と僕は言ったつもりだった。とりあえずそう答えないといけないと思ったからだった。でも、僕の口からはそんな言葉は聞こえてこなかった。
だって、それは僕にとっては答えられない質問だったんだ。だって、高校生の僕がこの先どうなるかなんて、誰にだって分からないはずなんだから。
でも、そのとき僕は思い出したんだ。たしか、志野原さんにも同じようなことを、とても遠回しに言われたような――
「聡太には、わたしのことをいつまでも覚えていてほしいです」
相坂さんは繰り返した。それで僕はまた気がついた。
――相坂さんは、命令形を使わなかった。
僕には分かった。本当は、そのとき、相坂さんはこう言わなければなかったんだ。
「聡太は、わたしのことをいつまでも覚えていなければならないです」
その言い方を避けて、相坂さんはただ不安の色を瞳に潜めたまま、僕を見つめ続けていた。それは相坂さんと僕の間でした約束――今後、僕に対して能力を使わないという約束を、しっかりと守るということだったんだ。
僕は相坂さんのことを忘れないと思う。僕はこんなに可愛い女の子を今まで見たことがなかった。相手を殺せるくらいに美人で、男子を魅了して命令を下してしまう。僕だって、いちどはその能力の虜になったんだ。
でも、僕はその能力を破ってしまった。
ああそうか、だから僕は、相坂さんのことを忘れてしまえるんだ……
僕は相坂さんの不安を少しだけ理解した。相坂さんはきっと忘れられることがなかったんだ。だって、相坂さんは絶対的に可愛いんだ。
この問題だけは、僕にはとても解けるとは思えなかった。僕には未来を知る能力も、命令する能力も、思い出を司る能力も無かった。
思考がぐるぐると回っている。僕が困り果てていると、相坂さんがベンチから立ち上がった。それだけでも絵になる。夕焼けを背にした相坂さんは、とても大人っぽく微笑した。
「聡太、わたしの能力はこういうことなのです」
流し目――。
それは蠱惑的な目つきだった。僕はその目を見たとき、相坂しとらという女の子が、一瞬だけど絶世の美女に見えたんだ。とても不思議な、女の子の目つき……。
胸に手を当て、目を閉じる。
そのときの相坂さんの姿を、僕は忘れられない、と思った。
相坂さんは歌い始めた。
それは少し、もの悲しい調べにのった、女性たちの歌だった。
「遠い遠い昔のこと。遠い遠い国のこと。醜き争いが起こりました。男たちは槍を持ち、剣を差し、弓を背負い、ひと揃いの鎧具足を身に纏い、兜をかぶり、隊・軍団を作りあって干戈を交えました。畑の作物は買い上げられ、街からは物が消えました。
好きなひとがおりました。それは逞しき美男子で、街の女性は競って籠絡しようとするほどでした。けれども、浅ましい女性には決して靡かぬ、賢いひとでもありました。
戦火が激しくなると、彼は兵士になりました。城には高い給金を支払って雇った兵がいましたが、それはすでにいなくなっていました。盗賊や囚人も使って、それでも兵が足りなくなるほど激しい戦いだったのです。
兵士になった男たちが戻ってくることはありませんでした。
ある日、わたしが井戸に水を汲みに行くと、通りの向こうに暮らす兵士の妻がこう言っていました。
『あの人には帰ってきてほしい』
そう言った妻のもとには、しばらくして大きな棺桶が届きました。
野菜を扱う店の看板娘が、毎日膝に土をつけて祈りました。
『愛しい彼が戻ってきますように』
神様がその願いを聞くことはありませんでした。
街には黒い旗が掲げられ、葬儀の列は途切れることはありませんでした。戦況は悪く、日々のパンの質は急速に悪くなっていきました。でも、そんなことよりも、わたしの胸の中は彼が物言わぬ骸になることへの恐れでいっぱいでした。
そして、彼が旅立つ日がやってきました。
彼を見送る人々の列には、身内を亡くしたひとが多くいました。それに、夫や恋人、息子や兄弟が、まだ生きているかどうか分からないひともいました。人々は口々に彼を心配しましたが、わたしの目には死神が彼を連れて行こうと呪詛の言葉を告げているように見えました。
わたしは履き物が脱げるのもかかわらず、彼にすがりつき、涙を流しながら言いました。
『絶対に死んではなりません』
また別のわたしが言いました。わたしはとても栄えた都にいて、彼は遠い山の向こうの街へ旅立たねばならないところでした。都の外には物の怪が暮らし、人の住む地ではないと言われます。
わたしは彼に抱かれながら言いました。
『必ず生きて戻ってこなければなりません、必ず無事に、わたしのところへ』
またあるときの私は、落日の王国の姫君でした。わたしが生まれたときには、既にこの国は傾いておりました。わたしの城は敵国に攻められて、あっけなく陥落しました。あの人は、援軍の要請に向かったまま戻ってくることはありませんでした。
敵に捕まる前に、どうするかを決めなければなりませんでした。わたしは迷いましたが、それでも生きる道を選びました。脚が痛み、足の裏から血が出ても、わたしはひたすらに夜陰に紛れて走りました。
息が切れ、何度も走るのをやめたくなります。けれども、わたしは呪文のように同じ言葉を呟きながら、生き延びようと走り続けました。
『わたしは死ぬわけには参りません。敵の手に落ちてもなりません。あのひとが戻ってくるまでは』
そして、あの時のわたしは泣いていました。長い時を経て、ついにわたしの願いは叶ったのです。そのときわたしは言いました。
『わたしたちは幸せにならなければなりません。だって、わたしたちはこんなにも辛い現実を乗り越えたのですから』
わたしは彼に命じ、自分に命じ、そしていつの間にか、運命にすら命令をするようになりました。それは正に「運」に対する「命」でした。わたしは都合の悪いものには命を下し、世界すら作り出すようになりました」
相坂さんの歌は、僕たちの周囲を別世界に変えたかのようだった。夏の蝉の声も、いまはほとんど聞こえなくて、まるで相坂さんの綺麗な声に聞き入っているかのようだった。
とても寂しげな歌だった。でも、それは決して悲しい歌ではなかった。
それは相坂さんが持つとても不思議な能力をうたったもので、相坂さんの秘密のひとつに違いなかった。
「――わたしの遠いお母さんたちの記憶です。もちろん、わたしに前世の記憶があるというわけではありません。これは、お母さんから教えてもらった昔話です。そう、わたしの能力は、わたしのからだの中に流れている血の記憶なのです。そのなかでわたしは、どこにでもいるふつうの町娘だったこともあります。一国のお姫様だったこともあります。とても貧しく、着るものにすら困る奴隷階級の少女だったこともあります。辺境の貴族だったこともあります。でも、わたしの能力は、決して特別なことに使われてきたわけではないのです」
ほんの今まで、まるで僕は今いる世界とは別の世界にいるかのようだった。何千年も昔の、土でできた家が並ぶ、砂漠の王国にいたかのような……
それは僕がほんのわずかな時間だけ見た陽炎のようなもので、今の僕はまた久良川の街角にいた。駅前を通る車の走行音がわずかに聞こえる。近くの家からは、テレビの野球中継が聞こえてきた。
相坂さんは言った。
「わたしは聡太には使えない力を持っています。でも、聡太と別の人間ではないのです。かつては別世界に暮らしていたとしても、今はこうして聡太と同じ高校生としているのです。だから、もっとわたしのことを対等に見てほしいのです」
沈みかけの太陽を、相坂さんは見た。僕には相坂さんがどんな表情をしているのかは分からなかった。
「帰りましょう、聡太。今日はいい一日だったのです」
僕たちは駅前まで戻って、そこで別れた。
***
夜になって、僕は約束どおり志野原さんから電話をもらった。パソコンのディスプレイには、2年前には毎日のように目にしていた志野原さんの顔と、志野原さんの部屋が映っていた。
「あ、もしもし司君?」
「志野原さん、こんばんは」
受話器の向こうで志野原さんの弾んだ声が聞こえた。
「今日も暑かったね。外出するのはきつかったんじゃない?」
「なるべく涼しいところに行くようにしたから大丈夫だよ。こっちは都会だから」
「いいなあ。ここはそっちよりも涼しいみたいだけど、暮らしてたら分からないです。暑いものは暑いよ」
そういえば、僕も向こうに住んでいたときも暑いって言っていたなあ。
「でも、夏休みはのんびりできそうです。やっと合格したから予備校なんかゴメンだもんね」
「そっか、そっちももうすぐ夏休みなんだね」
「そっちよりも短いけどね。あーあ、こっちも8月末まで休みがあればいいのに」
志野原さんは愚痴っていた。その口ぶりは、まるで僕に中学時代のことを思い出させようとしているかのようだった。
それで僕は、たった今すべてを思い出したかのような口調を作った。
「そういえば思い出したんだけど、志野原さんって中学時代から僕たちが忘れているようなことでもよく覚えていたよね」
「そうかなあ。単にみんな忘れちゃっているだけだと思うけど」
「そうだよ。みんな志野原さんは凄いって言っていたんだから」
志野原さんの控えめな笑い声が聞こえる。
「でも、なんとなく志野原さんの言っていたことも分かるような気がする」
「私が言ったこと?」
「文化祭の時だったかな。志野原さんってみんなが心配するくらい泣いていたよね」
「そうだね、恥ずかしいなあ」
「恥ずかしくはないよ。それに、今思うと志野原さんが泣くのも当然だなって思う。転校して2年も経つと、前の中学のことが遠い昔の事みたいになって、思い出せなくなってきたんだ。でも、それって仕方の無いことだけれど、大切な過去のことは思い出せたら……って思うよね」
志野原さんが一瞬だけ黙りこくってから、優しい声で尋ねてきた。
「誰かから教えてもらったの?」
僕はそれにどう答えるべきか迷ったけれど、結局ごまかすようなことはしなかった。
「ううん、今日一緒に出かけた女の子に教えてもらったんだ」
「その子はどんな子なの?」
志野原さんの聞かれた瞬間、僕は相坂さんの立ち姿を思い出した。
それはとても綺麗な、いくつもの時代を超えたかのような、不思議な女の子の歌う姿を。
「可愛い子だよ。それに、ものすごく不思議な子」
「そっかあ……」
志野原さんの小さな息づかいが聞こえた。
「ひとと別れて時間が経つと、誰もがみんな『思い出の中の人』になっちゃう。司君もそうだよ。でも、そんな『思い出の中の人』でも、時には思い出せたら……って思うよね」
「うん」
僕は志野原さんの言うとおりだと思った。僕だって、ときにはずっと前に別れた小学生の頃の友達を思い出すことはあった。きっと、これから同じように中学生の頃や中学生の頃のことを想うこともあるかもしれない。
志野原さんとはそれ以上のことを話さなかった。お互いが何を知っているか、それはなんとなく分かりあっていたけれど、志野原さんはそれ以上のことを聞こうとはしなかった。
それは、やっぱり僕と志野原さんの間に、何百キロもの距離があったからだと思う。だから、僕たちはもう少しだけ話して通話を終えたんだ。
「また電話してもいい?」
「うん、また」
不思議なことに、僕にはなんとなくそれで志野原さんの能力が効果を持たなくなったように思えた。逆に言えば、志野原さんの能力は2年間、誰もが気づかないままずっと効果を保っていたんだ。
きっと志野原さんの中での僕は『思い出の中の人』としてだけど、僕が感じていたよりもずっと身近な存在だったんだと思う。
僕は志野原さんの思い出をひとつひとつ考えながら、相坂さんに言われたことについても考えていた。対等に見てほしいと言われたこと。でも、今日ふたりで出かけたことはとても楽しかった。週明けにはお礼を言おう。
「聡太!」
考え事をする僕に、母親の声が聞こえた。
「聡太、電話。ほら、あの七倉のお嬢様から。やっぱり丁寧な子ねえ」
時計を見ると、前に電話してきた時と全く同じ時間だった。僕は七倉さんらしいなあと思いながら、受話器を取った。
「こんばんは、遅くに電話を差し上げまして申し訳ありません。あ、あのっ……」
七倉さんはとても言いにくそうに声を詰まらせた。
僕は志野原さんのことは解決したよ、と言わないといけないと思っていたけれど、七倉さんの口から出た言葉は、それとは全然関係のないことだった。
「つ、司くん、も、もしよろしければ、司くんの電話番号を教えていただけませんでしょうかっ」
「えっ……?」
「ぜっ、絶対に司くんの秘密を覗くようなことはいたしません。私みたいにインターネット回線を貫いて鍵を開けてしまえるような能力者のことは、信用できないかもしれません。で、でも私、どうしても知りたくて……」
「ひょっとして、昨日電話してきたのもその話だったの?」
「は、はい! 私、どうしてもお聞きしたかったんです!」
「じゃあ、僕が能力にかかってることは……」
きっと、七倉さんは首を傾げたはずだ。
「司くんが、ですか? いえ、何かお困りでしたらお聞きしますが……」
「ううん、それはもういいんだ。それよりも携帯電話のことはいいよ、教えるよ!」
受話器の向こうで七倉さんが何度もお礼を言っている。七倉さんはふだん携帯電話を使わない。けれども、こんなふうに携帯電話番号を交換できるなんて、僕も嬉しかった。
でも、七倉さんは能力のことに気づいていなかった。気づいていたのは相坂さんだけだったんだ……。
月曜日には、相坂さんにお礼を言わないといけない。どんなお礼をすれば喜んでくれるだろう。
僕は相坂さんが去り際に言ったことを思い出す。僕の記憶に焼きついた言葉を。
『もっとわたしのことを対等に見てほしいのです』
せめて、もう少し相坂さんと対等にいられるようにならないと――僕は改めてそう思った。