43, 僕と相坂さんの休日
大都市の駅前はいつだって人がひしめきあっている。転勤を繰り返してきた僕だけれど、この街ほど大きなターミナル駅の近くに住んだことはなかったから、いつも道路の向こう側が見えないような人の多さは、いつ見てもびっくりする。
僕がこの街で知っている場所は、駅前の大きなデパートや、ビルひとつを占拠している大きな書店くらいしかなかった。僕はそれをちょっと恥ずかしく思いながら自己申告した。ほんとうはデートスポットのひとつやふたつくらい調べたかったんだけど、下調べなんてするような余裕もなかったし、インターネットで調べた情報がどれくらいアテになるのかも分からなかった。使えるお金だって限りがあるし。
「聡太の行きたいところにいけばいいです」
相坂さんは駅を歩いているうちにそう言ってくれた。
「仕事の関係であちこち連れて行かなければならないのです。だから、今日は聡太の行きたいところに行きたいです」
「いろんなところに撮影に行くものなの?」
「街中は当然ですが、景色のいいところ、有名な場所、お金がかかりそうなところもそうです。だから、そんなところに無理をして行かなくてもいいのです」
僕はそれでも不安だったけれど、相坂さんは僕のことを心配させないように笑ってくれた。
「本屋がいいです」
アーケード街はとても人が多くて、相坂さんの背だと周りの人影にすぐに隠れてしまいそうになっていた。隣り合って歩いていても、そこに向こうから人がやって来て、まっすぐに歩けなくなる。
「聡太、聡太」
相坂さんの声が聞こえたので立ち止まると、もう僕は相坂さんの小さなからだを見失いかけていた。僕の背は低いわけではないけれど、僕と同じくらいの高さのひとは大勢いたし、僕よりも背の高い人もいくらでもいた。
相坂さんは僕に追いつくと、人混みのせいでちょっとだけ火照ったような顔で、僕を見上げた。そして、おもむろに手を差し出したから、僕は自然とその手をとったんだ。
僕たちは少しの間だけど、手を繋いでアーケードを歩いた。
でも、僕は相坂さんと初めて出会ったときも、こうして相坂さんと手を繋いだことを思い出した。小さいけれど、いつも大切に手入れしていることがわかる、とても綺麗な手。だからこそ、僕はとても自然に手を繋いでしまえたんだ。
振り返ると、あのときとは比べものにならないような可愛い笑顔の相坂さんがいる。あのときは半ば敵みたいな雰囲気だったけれど、相坂さんの能力のことが分かった今だと、あのときのことが夢のように思える。
僕と相坂さんは大きな書店に入った。
しばらくの間、僕たちは好きな本や興味のある本の話をして、ふたりで新刊や流行本のコーナーを見ていたけれど、それから買いたい本のコーナーに移動した。僕は文庫本のコーナーを歩いて、紐の掛かっていて読みやすい本や、少し分厚くて小難しい本、最近とてもよく売れているシリーズ本の続きを手に取っていった。
それから、相坂さんが読みそうな本を捜していると、いつの間にか相坂さんはある棚の前で足を止めていた。僕は立ち読みしていた本を置いて、相坂さんの棚に近づいた。
「良さそうな本があったの?」
相坂さんは顔を真っ赤に染めて、その本を差し出した。
「恋愛小説?」
僕はその本のことは知らなかったけれど、その本の著者のことは知っていた。女性作家で、たくさんの本を書き下ろしている人気作家だけれど、その中でも得意としているのは恋愛小説だった。
相坂さんは本で顔を隠して言った。
「好きだと言わざるをえないのです」
「へえ……! そういえば、相坂さんっていつも本を読んでいるもんね」
これは入学した頃から変わらないことなんだけど、相坂さんはいつも教室にいるときは本を読んでいる。それは相坂さんが文学少女だからというわけじゃなくて、周りの人を寄せつけないためなんだけれど、相坂さんが本好きなのは確かだった。
だから、相坂さんが恋愛小説を読むことは決して想像できないわけじゃなかった。
でも、相坂さんは恋愛小説が好きなことを恥ずかしいと思っているみたいだ。
「誰にも言ってはならないのです」
「言わないよ、絶対に」
僕はもちろん頷く。でも、相坂さんは恋愛小説好きだと知られても、誰もヘンだと思うひとはいないと思う。むしろチャームポイントだと思うんだけれど。
でも、相坂さんはじっと僕の顔を見つめて言った。
「七倉菜摘にも、です。絶対に約束を守らなければならないのです」
「七倉さんにも? でも、七倉さんは能力者だし別に話してもいいことじゃ……」
相坂さんは重ねて言った。
「聡太だけに、です」
「うん、分かったよ」
相坂さんは恋愛関係の本を3冊くらい買った。恋愛以外の本も買った。そのなかには僕に知らない作家の本も何冊かあって、何人か聞いた相坂さんの作家評は、いくらでも続きそうなくらいだった。
それから、僕たちはちょっとだけしゃれたパスタが出てくるお店に入った。それは特別おいしいお店ではなかったけれど、ふだん入るファストフード店とは全然違う、相坂さんとの昼食は楽しかった。
駅の近くには中華街があって、そこで行われているパフォーマンスを遠巻きに冷やかしたり、ちょっとした料理を安く売っている屋台を見つけて、食べたりもした。それは、この街で暮らしている相坂さんにしてみれば特別でも何でもないことだったけれど、僕にとっては初めての体験だった。
「聡太はこの街の生まれではないのですか?」
「ううん、お父さんはこの街で……久良川町で生まれ育ったし、僕も生まれたときは久良川町にいたんだ。でも、すぐに引っ越して物心ついたときには遠い街で暮らしてた」
「そうなのですか。では、この街のことを知るにはまだまだいろいろな所を歩かなければならないです」
そうなんだ。僕がこの街にいたのはこの2年だけで、僕には分からないことがたくさんあった。最近は久良川周辺のことなら分かるようになってきたけれど、まだまだだった。
「分からないことはこれから勉強すればいいです」
「うん、頑張るよ」
「わたしも付き合わなければならないのです」
僕は悪いよ、と言って断ろうとしたけれど、街中の様子に詳しそうな相坂さんは、その案内をしているのがとても楽しいみたいだった。僕もそれでとても助かったから、水を差すようなことはやめておいた。それに、相坂さんと並んで歩いていると、みんなが相坂さんのことを見ていて、可愛い女の子と並んで歩いていることの、不思議な優越感に浸ってしまったんだ。
やがて日が傾き始めた頃に、僕たちは久良川方面に向かう地下鉄に乗り込んだ。まだ明るかったけれど、夕方になると電車は混雑する。それに、相坂さんと久良川を歩くのも、決してつまらないことじゃないと思ったんだ。久良川町だって田舎じゃないから、見るべきところはたくさんあった。
今さらだけれど僕は、服を買いに行けばよかったとか、女の子が好みそうなお店を捜せばよかったとか後悔し始めた。きょう僕がやったことといえば、駅前で待ち合わせをして、いつもどおり書店をぶらついて、安い食べ物をつまんでいっただけだった。
これで良かったのかな……。
「聡太、こんどは喫茶店に行きましょう」
いつの間にか、相坂さんは僕の傍らから僕のことを見上げていた。
「喫茶店?」
僕は駅前と駅ナカの大手コーヒーチェーン店を見比べて、相坂さんの好みがどちらなのかと考えた。暑い土曜日の夕方で、どちらのお店もとてもよく繁盛していた。外から見える席はあらかた埋まっていて、僕はそこで相坂さんと静かに話ができるのかなと心配になった。
でも、相坂さんは僕の服の袖を引っ張って、僕が見ているのとは全然違うほうへ引っ張った。
「聡太、それは違うのです。あっちに行かなければならないのです」
相坂さんが指さしたのは、住宅街の方角だった。そちら側に何があるのかを、僕はあまりよく知らない。たぶん、この街に長いこと暮らすひとだって、ただ家が建ち並ぶ区画のことを、とてもよく知っているひとは少ないだろう。この駅はできてからの歴史が浅くて、駅を中心として発展した街もまだ新しかったからなんだ。
「そこの路地です」
僕は相坂さんに導かれるまま、住宅街の合間を縫うように路地を歩いて行った。路地と言っても、このあたりは比較的新しい町並みで、歩きやすくて並木道が伸びている。けれども、広い並木道を一本折れると、こんどは幅の狭い並木道に変わって、それだけで見知らぬ土地に迷い込んだ気分になった。
やがて、僕たちの行く道沿いに、小さな喫茶店が姿を現した。一軒家の合間に、なぜかそれはひっそりと建っていた。
「こんなところに喫茶店なんてあったんだ」
「あるのです」
相坂さんは暗い色をした木の扉を引いた。
ちりりん。
入り口の扉に付いていた小さな鈴が、不思議と雰囲気に似合う小さな音を立てた。
喫茶店の中は明るいとはいえなかった。窓や扉から漏れてくる光の色が分かるくらいに――といっても、夏場だから太陽の光を存分に取り入れているわけではなかったけれど、夕焼けの時間には木目の内装が、ノスタルジックな雰囲気を醸し出すんだろうなと、すぐに想像できる。
雑誌の片隅に、目立たないように「通好みの隠れ家」みたいな紹介がされていそうな、とても静かな雰囲気の店だった。耳をすませると小さな洋楽が聞こえてくる。でも、音楽の音はとても小さい。僕にはその静けさが、街中やふだん訪れる色々のチェーン店に比べて、ずっと心地よいものに感じられたんだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、銀縁の眼鏡を掛けたマスターが立ち上がった。商売人の気風を感じさせない、人を和ませる声。老人と言うにはまだ早い、けれども壮年を過ぎつつある男性が、細い目で僕たちを見つめた。
「お久しぶりと言わざるをえないのです」
相坂さんが小さく頭を下げる。ほんのわずかな動作だったけれど、僕にはその仕草だけで、相坂さんがこのマスターと親しいのだということが分かった。
けれども、次に僕がマスターを見たときには、マスターはその人の良さそうな相好を崩さないまま、僕のことを観察しているようだった。
「お客様は、ご資格がないようにも見受けられますが」
マスターが言った。ようく見てみると、入り口のすぐ脇に、こんな掲示があった。
『当店はご紹介のある方のみ入店できます』
あっ、と思って、僕は首をすくめた。
でも、僕がどう答えたらいいものか考えているうちに、
「聡太はわたしの能力を破ったのです」
えっ。
僕は自分の声が漏れるのを抑えることができなかった。でも、それはカウンターの向こうにいるマスターも同じだったんだ。
「ほう……!」
当然だけれど、僕は驚いた。それは秘密にしなきゃいけないはずのことだった。
けれども、マスターの反応を見た僕は、この喫茶店の主人のおじさんもまた、相坂さんと同じような異能の力を知っているひとなんだと知ることができたんだ。
マスターは丁重に僕に詫びた。
「失礼いたしました。どうぞお席へ。考えてもみればこれは愚問でしたね」
僕は相坂さんが選んだ、店の奥の二人掛けの席に座った。こういうのはカウンターに座るのかと思ったし、店内には僕たちのほかにお客さんはいなかったから、こんなに隅の席に座る必要もないと思ったんだ。
けれども、僕たちにお絞りを持ってきたマスターはそのことは何も言わずに、ただ相坂さんにこう告げただけだった。
「普段どおりでよろしいですか」
相坂さんは頷いた。
「知り合いなの?」
マスターがカウンターに戻ると、僕はすぐに相坂さんに尋ねた。聞きたいことはたくさんあった。
「母の知人です。他にも色々と」
「この喫茶店はどういうお店なの?」
相坂さんはにっこり笑ってから言った。
「聡太は能力者がいつも自分の能力を隠しながら生活していることを考えると、息苦しいとは思いませんか?」
僕はこの前、能力者のことを隠しながら話をすることに、随分と窮屈な思いをしたことを思い出しながら言った。
「うん、ウズウズして話をしたくなることだってあるはずだよね」
「そもそも能力者の存在は秘密にされます。でも、能力者が必要に応じて話をする場所が必要になることがありますし、何の必要がなくても能力者同士で話をすることがあります。ふつうと同じでは困る。この喫茶店はそうした能力者を相手としたお店なのです」
「へええ。でも、それで経営は成り立つの?」
「ほかにも色々と、です」
僕は納得した。相坂さんも、単なる高校生というわけじゃなくて、いろんな顔を持っている女の子だった。
「わたしの能力が破りにくいものだということは、マスターがよく知っているのです。聡太の入店資格は、それで充分だと言わざるをえないのです」
カウンターのほうからいい香りが漂ってきた。コーヒーのことは全然よく分からないけれど、僕はこの喫茶店の雰囲気がとても好きになった。能力者だけが入れる店。能力者だけが話をできる店。
「こんな所に連れてきてくれて、相坂さん、ありがとう」
僕は心から喜んで相坂さんにお礼を言った。
「本当は今日は僕がこういうところに連れて行かなきゃいけなかったのに」
相坂さんは、彼女らしく素直に僕のお礼を受け止めてはくれなかった。
「そ、聡太はいずれお祖父様の跡を継がれるのですから、これくらいは当然なのです……」
こんなふうに目を逸らすのもいつものことだ。相坂さんは誰にでも肯定的な感情をストレートに見せるようなことはしなかった。
「失礼。お祖父様も能力のことをご存じでしたか」
マスターはすまなさそうな顔をして、僕たちにコーヒーカップを差し出しながら口を挟んだ。
「先ほどは能力を破ったともお聞きしましたが」
けれども、僕はちっとも気分を損ねることなしに答えた。喫茶店の主人だって、こんなに不思議な能力者のことを、誰かと話したいことがあると思ったからだ。
「はい。というよりも、僕もこの春に祖父が亡くなるまで、能力者のことは知らなかったんです」
「聡太は並みの能力者などよりも余程鋭いひとです」
「いや、そんなわけじゃないですけど……」