40, 志野原さんとの電話
僕と僕の家族が暮らす町は久良川町という小さな町だ。もっとも、町といっても独立した町だったのは昭和の大合併の頃までで、いまは大都市の郊外に位置する新しい住宅地と、古くからある田園地帯が合わさったベッドタウンに変わっている。
町のなかでも古い地域が久良川本町。大昔は、この久良川本町を中心として栄えていたのが久良川という土地だったんだけれど、昔のままの農地と民家が残された影響で、今はふつうのひとにとっての中心街ではなくなってしまった。
でも、今でも久良川本町にはたくさんの不思議な能力をもった人たちが暮らしている。僕のクラスメートで、手で触れただけで「鍵を開ける」という能力をもつ七倉さんも、この久良川本町に暮らしている名門の一族だ。そんな異能持ちの一族こそ、この町をひそかに見守り続けてきた末裔だったし、隠然たる実力を持った町の守り手だった。
だから、一見すると人家が少なくて開発が止まっている久良川本町こそ、実はこの町の本当の中心街なんだ。ちなみに、これは驚くべきことなんだけれど、七倉さんの家は今でも久良川本町「七倉」という住所にある。
そんな久良川本町の外側には、久良川の新しい住宅街が広がっていて、1丁目、2丁目……というふうに番号が付けられている。この地域には、久良川で生まれ育ったひとたちも暮らしているけれど、新しくこの町に移り住んだひともいる。僕が住んでいるのもこの地域だ。
本町の外周部分にあたる久良川町は新しい市街で、通り沿いにはコンビニ、スーパーマーケット、各種の専門店がたくさん建ち並んでいる。都心には遠いけれどとても便利なんだ。
僕はこの町がとても好きだ。
それは、僕の父方の祖先がみんな久良川の村で暮らしてきたからかもしれない。僕の祖父・聡一郎の家も、久良川本町の外れに位置する小さな集落にある。僕がいま通学する久良川高校も、本町からほど近い高台の上にあった。
つまり、この町に住んでいるだけで、僕にとって身近なものは全てそろってしまう。とても居心地のいい場所だったんだ。
だから、僕はこの町を好きになった。
ここで「なった」と言ったのは、僕が生まれてからこの町に引っ越してくるまでは、ずっと久良川町から離れた遠い場所で暮らしてきたからだ。
中学時代の半ばまで、僕は司家とは何の縁もゆかりもない場所に暮らしていた。そこでは、もちろん友達もいたのだけれど、転勤を繰り返す僕にとっては、そうでないひとに比べて仲の良い親友っていうのは縁の遠い存在だったんだ。
最後の転校から数えて3度目の夏を迎えて、高校生になった僕にとって久良川以外のことはだんだんと遠い話になってきていた。昔の友達には、今年の冬には年賀状も送らないだろうし、暑中見舞いはもともと出さない。部屋の中には卒業アルバムもなかったし、まるで遠い昔話みたいだ。
けれども、期末テストを終えた週のこと、風呂をあがって自分の部屋に戻った僕は、携帯電話に一本の電話を受けた。ケータイはあまり使わないから、素っ気ない電子音にびっくりする。
震える電話を手に取ると、それは知らない番号だった。ただ、フリーダイヤルではないことだけを確認して僕は電話を取った。聞こえてきたのは、とても通りのいい女の子の声だった。
「もしもし――こんばんは。司君、久しぶり」
「うん? もしもし」
僕は戸惑ったような相づちを返してしまった。
なにせ僕はこのとき必死に考えていたんだ。
誰なんだろう、この女の子。
たぶん、年は同じくらいだと思う。電話越しだけれど、年下とも年上だとも思えない声だった。僕の名前を呼んでいるから間違い電話ではない。ということはほぼ確実に同級生の女の子だ。
「司君、変わってないねー。中学生の頃とおんなじだ」
「ええと、ごめん。誰?」
僕はとても申し訳なくて、言いにくそうに伝えたつもりだったけれど、相手の女の子も僕の返事を予想していたみたいだった。小さく「ん?」と聞こえたけれど、すぐに笑い声が聞こえてきた。
「あ、ごめん。志野原です。志野原美涼」
「あっ」
それで僕はようやく思い出した。
そのとき僕の記憶にあったのは文化祭のことだった。
転勤を繰り返した僕だけれど、最後の転勤は中学2年の夏休みのことだった。その中学では文化祭が1学期にあって、それが僕にとってその中学での最後の思い出になった。その文化祭でいちばん目立っていた女の子といえば、いま僕と通話している志野原美涼さんだった。男子の僕は志野原さんと呼んでいたけれど、クラスの女子たちは美涼と呼んでいた、いつもクラスの中心にいる女の子だった。
僕がまだ中学2年生の頃、僕の所属するクラスのメンバーは決してまとまりのいい中学生とはいえなかった。高校生になった今から思うとなんだか恥ずかしくなるくらい、教師に反発したり、生徒同士でもグループを作ってクラス内で派閥争いみたいなことをしていたり……。
でも、志野原さんはそんな子供じみた行動とはまるで無縁だった。
彼女は誰とでも公平に接することができる、とても人当たりの良い性格と、人気と実力を持ったひとだった。僕からすれば高嶺の花という表現がぴったりな女の子で、それでいて同性の女の子からも人気があったんだ。
ちなみに僕は――彼女と一緒にクラスの中心にいるなんてことはなくて、単に隅っこのほうで静かにしていた。卒業アルバムの集合写真で言えば、女子の列の真ん中にいて友達と顔寄せ合って大笑いしているのが志野原さんで、男子の隅っこから何番目かに所在なさげに立っているのが僕だった。
「志野原さん、久しぶりだね。2年ぶりくらいかな?」
「変わってないねー」
声を聞くと、たしかにあの頃を思い出してきた。志野原さんは、男子の中ではあまり目立たないほうだった僕とも、話をしてくれる不思議な女の子でもあった。
「あれ? 志野原さん、どうして僕の電話番号を知っているの?」
「ちょっとね。苦労したんだよ、転校するときみんなに教えなかったでしょ、連絡先」
「うん、まあね」
僕は決まり悪く言った。志野原さんみたいに交友関係の広い女の子なら、転校先の連絡先を教えるのは当然だったのかもしれないけれど、僕にとってそんな友人はほとんどいなかった。それに、本当に遠い場所への転校だったから、教えたところでまず無駄になるだろうと思っていたんだ。
実際、今日、志野原さんが連絡を寄越してくるまで誰とも連絡をとったことがなかった。結局、中学だって僕は久良川南中を出たんだし、結果的に前の中学の友達との接点なんて何も無かったんだ。
「それにしてもどうかしたの? わざわざ電話をくれるなんて同窓会でもやるの?」
「まさか! まだ卒業して3か月だよ」
あ、そうか。2年ぶりなのは僕だけだった。
志野原さんは笑いながら言った。
「わざわざ用事がなくちゃ電話しちゃいけませんか?」
「いやそんなことは言わないけどさ」
「ちょっと思い出して電話しちゃった。そういえば2年も経つけど、司君どうしているのかなーと思って」
僕はこれまでの2年間であったこと――というよりもほとんど高校に入学してからのことを考えて言った。
「うーん……、いろいろあった、かな」
「あっ、もしかして聞いたらいけなかった?」
志野原さんは、まるで深刻な過去を持つひとに質問したかのような声を作った。僕はそんな深刻な回想をしたわけじゃないのに。
「逆だよ、逆。むしろいいことがいろいろあった」
そのとき、僕はふと気がついた。僕の声は思わず弾んでいたんだ。
たった3か月の高校生活を、僕は楽しいと思っていたこと。そのことを全く知らない志野原さんに話をしていると、ものすごく実感する。
その変化は、志野原さんにはすぐに分かったみたいだった。
「どんなことがあったのかな?」
「ええと……」
僕は口を開けたまま動作を止めた。
困った。
今まで、僕は能力者のことについて毎日わりと自由に話をすることができた。それは、僕の暮らしている久良川町が世に不思議な能力者たちのメッカだったからだ。僕の祖母だって異能の力を持っているから、父や母にも話をすることはできた。もっとも、僕の母はもうひとつピンとこないみたいなんだけど。
でも、志野原さんには話をすることは憚られた。久しぶりに話をする相手に、空想なのか妄想なのか分からないような話をするのは……。いや、たとえ相手が親友だとしてもそれはまずい。僕のアタマとココロの心配をされてしまう。
「うーん、そうだなぁ……あんまり他人に話すようなことじゃないのかも」
「えーっ、なによぅ」
志野原さんはちょっとだけ困ったような声になった。僕だって困っているんだけど。
でも、志野原さんは僕がちょっとまずいようなことを言ったところで、きちんとフォローができるひとだった。
「でもいいや、司君がぜんぜん変わってないってことだもんね」
「え? どういうこと?」
「そういう慎重なところ。中学のころも、僕は石橋を叩くのも怖いよって言っていたもん」
「いや、それは言っていないと思うけど」
「言ったよ、言った。私覚えてるもん」
僕は中学時代に行った数々の発言を思い出した。ときには思い出したくもないようなことを言ったような気もするし、志野原さんが覚えているような台詞はいかにも僕が言いそうなことではあるのだけど、思い出せなかった。
「そっちはどう? 久良川だっけ、どんなところ?」
志野原さんは百万人を超える都市名じゃなくて、ほんの小さな町の名前を言った。
「いいところだよ。都会じゃないけど、なんだか新しいものと古くから残っているものが合わさって、変な化学反応が起こったような町」
僕は志野原さんの成績が良かったことを思い出して、ちょっとだけ気の利いたような言い方をしてみた。いろんなひとが集まっているけれども、それが澱みのように溜まったようでも、お互いに分離してしまったようでもない町は、この町が初めてだった。
「なんですかそれは。新物質でもできちゃったの?」
「うーん……僕にとってはそんな感じ」
「へええ、いい町なんだね。行ってみたいなぁ」
僕は笑った。
「遠いよ。車で10時間くらいかかるくらいなんだから」
「遠いよねえ」
「そっちはどうなの?」
「うーん、ふつうかなあ。田舎だし。司君が羨ましいんだよ、遊ぶところいっぱいあるもん」
志野原さんはとても期待したような声だった。でも、久良川町はたしかに大都市の一部ではあるけれど、郊外だから高校生が遊ぶところなんてそう多くなかった。むしろ、前に住んでいた地方都市のほうが、中心街には近かった。
「高校生になったけど、お金がないから行けるところが増えたわけでもないし、平日は遅くまで学校で勉強だもん」
「僕だって同じだよ、あんまりお金がかかるところに遊びに行くわけじゃないし、繁華街までは遠いから気軽になんて行けないよ。ふだんは学校と家にしかいないし、部活にも入ってないし」
「えーっ、部活に入ってないで何してるの?」
僕はちょっとだけ言葉に詰まった。
「い、いろいろ」
いろいろと言った瞬間に、誰にでも話してしまいたくなるような事件の数々が頭の中をよぎった。そして、そのいろいろを取り去ってしまえば、僕が志野原さんに話せるような話題なんて残っていなかった。
「なにそれ、気になるよ。家に帰ってインターネットじゃないんでしょ?」
「大したことないよ、それに、インターネットはいつもするし」
「え――」
電話の向こうで唇を尖らせたのが分かった。自分で言ったことだけれど、何か隠し事をしているのは丸わかりだよなあ。
でも、バラしたところで、それはそれでマズいことになるのは分かっていたから、話す気にはなれなかった。たぶん、僕以外のひともこうして秘密を守る気分になるんだろうな、なんて思いながら。
「じゃあ、女の子と遊んだりしているんでしょ?」
僕は吹き出した。
「からかわないでよ。中学の頃だって彼女がいなかったこと知って言ってるでしょ?」
「そうかなぁ。高校生になって彼女作ったって話も聞くよ?」
「いないよ。それに、僕が彼女を作ったかどうかなんて知っても意味ないじゃん」
「気になるもーん」
電話の向こうで、志野原さんはどんどんからかうような口調になってきている。でも、こうして話しているととても懐かしい。志野原さんは昔もこういう話し方をしていた。僕は嬉しさ半分、困惑すること半分といったことばかりだったんだ。
僕たちはそれからも少しだけ話をした。もっとも、遠く離れた僕たちにとって、話をできることはそれほど多くはなかった。僕はそれなりに志野原さんの状況は分かるけど、志野原さんは僕がどんな町に住んでいるかも分からないんだ。
でも、お互いの高校の話をするのは楽しかった。志野原さんは志望校に合格して、向こうでいちばんの進学校に通っていた。不合格になる受験生も多くて、みんなが嫉妬するくらいにいい学校だ。
けれど、僕はものすごく素直に祝福することができた。志野原さんは僕のお決まりの「おめでとう」を、僕が思っていたよりも歓迎して受け止めてくれた。
「でももう2年なんだね。早いね――」
「それはそうだよ。僕が転校したのは2年生の1学期だし、2学期以降のことも、3年生のこともまるで分からないんだよ。今日だって、志野原さんが電話してくるなんて思わなかった」
「1年生のときも同じクラスだった誼だよ。むしろ連絡してほしかったくらいなのに」
さすがに、それは言い過ぎだろうと思ったけれど流しておく。こんなふうに楽しく話をできるのなら、僕も連絡を取ったほうが良かったのかもしれないと思った。もっとも、その相手として志野原さんを選ぼうとは夢にも思わなかったけど。
時計を見ると、もう電話をするには遅い時間になっていた。親しい友達ならいまどき時間も関係なく気軽に電話できるのだろうけれど、相手が志野原さんなら気遣わないといけない。
でも、僕がそろそろ会話を打ち切ろうとすると、志野原さんはこんなことを提案した。
「ねえ、また電話したいんだけど、今度は顔を写さない? こういうのってテレビ電話っていうのかな。ビデオ通話っていうのかも。やってみようよ」
「僕たちの顔を写して電話しようってこと?」
「そうそう。パソコンもあるしカメラもマイクもあるからできるよ。司君もパソコンを持っているんだったらできるよ」
僕はもちろんインターネット回線を利用した電話のことは知っていた。
「司君の顔が見たいなぁ。変わったのかなって」
「僕の顔なんて見てもしょうがないよ」
「そんなことないよ。安いヘッドセットならどこでも売ってし、やってみようよ」
志野原さんはとても積極的だった。でも、僕も全然興味がないわけでもなかった。高校生になった志野原さんがどんなふうになっているんだろう……という期待もちょっとだけあったんだし。
「それじゃあ、買ってきたら電話する」
「うん、待ってるね。それじゃあ、おやすみなさい――」
僕は通話を切って、手近な机の上に携帯を置いた。
数十分の会話で、いろいろなことを思い出した。でもそれはさておき――
「なんだこれ……ものすごく疲れた」
僕はベッドに腰掛けて、うんと伸びをした。話しているだけで、肩が凝ったような気がする。この町の秘密のこと、話をしたい気持ちはあるんだけれど、手で触れただけで自転車の鍵を開けられる女の子の話なんて、どう説明しても支離滅裂になってしまう。
「この町の中じゃないと通用しない常識なんだよなぁ……」
ひとり呟きながら、僕は電気を消して、その日はそれで床に就いた。