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36, 桃子さんへの疑惑

 真っ先に優子さんに駆け寄ったのは、僕たちに飲み物を配り歩いていた桃子さんだった。桃子さんはお盆を取り落として、優子さんの傍に駆け寄ると体を揺さぶった。優子さんからはまるで反応がなくて、桃子さんは泣きながら優子さんの名前を呼び続けた。

 次に駆け寄ったのは、会長の右手の席に座っていた倉橋先輩だった。倉橋先輩は桃子さんを避けるように、会長の傍らに近づいた。そのとき、会長が飲んだコップを蹴飛ばしてしまったけれど、そんなことに気を取られている余裕なんて僕らにはなかった。


「大事はありませんか!」


 七倉さんと僕が駆け寄ったのはほとんど同時だった。

 優子さんは、椅子から体が床に落ちていて、横向けに倒れている格好だった。


「緊急事態ゆえ失礼します。会長」


 倉橋先輩が小さく言って、優子さんの体を掴んで仰向けにした。無防備な優子さんのからだが露わになって、なんだかとても申し訳ないような気持ちになった。桃子さんよりもひとまわり大きな胸が、ゆっくりと動いている。

 この瞬間が、僕たちにとっていちばん緊張した瞬間だった。

 桃子さんのすすり泣く声が小さくなって、倉橋先輩が大きく息をついた。


「どうやら大丈夫みたいだね。眠っているだけらしい。きみも知っているだろう。これは桃子さんのときと一緒だ。アルコールを摂取したらしい」


 その判断は、桃子さんのときに見た様子と、優子さんのときの様子がよく似ていたから納得できた。優子さんはただ眠っているように見えた。頬がわずかに染まっているけれど、規則正しく呼吸を繰り返していて、苦しさも無さそうだ。

 アルコールの匂いはない。けれども、優子さんが倒れたのはコップの炭酸飲料を飲んだ直後だった。それで、おそらくは優子さんがコップの中に混入したアルコール類を飲んで、倒れてしまったのだということはすぐに分かった。


「でも、念のため保健室に連れて行こう」


 僕は倉橋先輩と目を合わせて確認しあった。


「担架は僕が借りることにしよう、では」

「待ってください!」


 七倉さんが声をあげた。いま、七倉さんは桃子さんを落ち着かせようとしていた。


「緊急事態ではありますが、慎重に判断してください。これは飲酒です。誤解を招くようなことがあれば生徒会長の飲酒疑惑に発展しかねません」

「そんなことは今――いや、たしかにその恐れはあるか。だが、自分が判断したこととはいえ、僕は会長の容態に責任は持てない」

「保健室の先生においで頂けないでしょうか。あの先生はとても優しい先生です。生徒会長さんの体調が悪くなったと言えば、きっと生徒会室までご足労頂けるのではないでしょうか」


 倉橋先輩は手を打った。


「そうか、そのほうがいいな。生徒会室から担架が出ると目立ちすぎるし、動かしにくい急患なら担架を運ぶよりも先生に来て頂いたほうが合理的だ。よし、では急ぎ僕が呼んでくるとしよう」

「よろしくお願いいたします」


 倉橋先輩は走り出した。それから七倉さんは、すぐ隣で優子さんを見つめている桃子さんに言った。


「桃子さん、手ぬぐいと冷たい水を用意できませんか。このままではお姉さんが暑いと思います。お酒には体温調整を難しくする作用があるとお聞きします」

「は、はいっ」


 それで桃子さんは我に返って、慌ただしく動き出した。抽斗をいくつか間違えて開けてしまいながら、タオルを何枚かと、プラスチックのポットを抱えて走り出した。


「冷水機まで行ってきますっ」

「私たちは優子さんを床から動かしましょう。椅子を並べれば簡易ベッドを作れます。あっ、毛布の場所を聞いておくべきでした」


 僕たちは椅子を並べて、それに抽斗の中から捜し出した布地をかぶせてベッドを作る。もちろん、いつまでも優子さんを床に寝かせておきたくはなかったから、七倉さんとふたりで協力して優子さんの体を持ち上げた。

 その最中、七倉さんが話を切り出した。


「お気づきになりましたか。わざとおふたりを追い出したことに」


 僕は正直なところ驚いて答えた。


「自然すぎるよ。気がつかなかった」

「そうですね、偶然かもしれません。でも、お話したいことがありましたので、おふたりに仕事を押しつけてしまいました。おそらく倉橋さんのほうが先に戻ってくるでしょうから、手短にお話ししましょう」


 僕は頷いた。一瞬だけ、七倉さんの目を見ると、そこにはとても大切なものに気がついたという、とても深刻な色が浮かんでいた。


「優子さんが飲んだジュースに、アルコールが混入していた。これは明らかに誰かが混入したものです。どの段階かは分かりませんが、意図的なものに決まっています」

「さっきはふたりとも騒ぎ出さなかったけれど、気づいているよね。誰かが優子さんのコップにお酒を入れたことに」


 七倉さんは椅子を置きながら、神妙な顔をして頷いた。


「何者かが、優子さんが飲むコップに、あらかじめアルコールを入れておいたということになります。優子さんの体質ですと、少量のアルコールでも倒れることが明らかになっています。つまり、これは大げさな表現ですが、ジュースに毒物を混入されたようなものです」

「毒入りのジュース……」


 口をついて出た言葉を僕は呟いた。


「誰かが、優子さんに毒を飲ませたんだね」

「本物の毒ではありませんが、私はその表現を間違いだとは思えません。先ほども言いましたが、倒れるほどのアルコールを飲んだことは、れっきとした飲酒行為です。もちろん、優子さんが飲んだ量は少量でしょうし、飲まされたのであれば責任を問うのは筋違いです。でも、曲解されれば問題化することもありえます。そして、生徒会長である氷上優子さんにとって、飲酒問題は命取りです。いえ……生徒会長だからというわけではありません。正に毒入りのジュースです」


 僕は、前に優子さんから言われた不祥事に対する罰則を思い出した。教室に不法侵入したときに科される罰は、軽ければ先生の注意や、反省文くらいで済まされる。それこそ、ものを盗めば停学よりも重い処分もあるけれど。

 それと比較すれば、校内での飲酒はどれくらい重いのだろう。

 たぶん、停学クラスだ。そして受験生である優子さんにとってそれは致命傷になる。


「優子さんだけじゃない。下手をすればうちの高校の生徒会がひっくり返る。それどころか、居合わせた僕たちだって無関係だとは言い切れないよ」


 布地を折りたたんで即席の枕を作りながら、七倉さんは首肯した。


「真相を明らかにしないといけません。私が教室の鍵を開けてしまったときよりも、更に状況が悪いです。今度は私も司くんにお任せしたくありません」


 僕と七倉さんは頷き合った。僕は何の力もないただの高校生だけれど、七倉さんはとても不思議な能力を持つ女の子だ。きっと、ふたりで力を合わせれば真相にたどりつける。


「実は、先ほど2回、能力が使われました。1度目は優子さんが右奥のコップがいいと言ったときです。2度目は、桃子さんが紙コップを手に取る寸前です」

「それは――桃子さんのときに使われた力と同じなの?」

「断言はできませんが……おそらく同じような使用をされたはずです。ただし、やはり能力はあまり強くありません。他人に暗示を『かける』ような、強力な能力ではないと思います」


 七倉さんのお墨付きは、どこか僕を安心させた。


「つまり、倉橋先輩が実は常識外れに強力な能力者で、桃子さんや優子さんを操って無理矢理にアルコールを飲ませた――なんて構図ではないんだね?」

「はい、そのような能力が使用されたとすれば決して許されませんが、そういう類いのものではありません。それは私の直感を信頼してください」


 もちろん僕は信頼する。七倉さんの能力には絶対の信用があった。

 僕たちは優子さんを即席のベッドに寝かせた。それから、七倉さんはこんな提案をした。


「私と司くんは容疑者から外したいと思います。少なくとも私は司くんが不審な行動をとるところを見ていませんから。いかがでしょうか」

「うん、僕も七倉さんが犯人だとは思っていないよ。優子さんとはいろいろやりあっていたけれど、まさか飲み物に毒を入れるほど憎んでいないよね?」


 僕のくだらない冗談に、七倉さんは頷いた。


「当然です。怒り出したくなることもありましたが、それは優子さんとある程度の距離感があるからこそできることです。私の立場は、あくまで司くんのお手伝いにすぎませんでしたから、好き勝手にものが言えただけです」


 それから七倉さんは、少しだけ声のトーンを落とした。


「これから私たちは、短いとはいえ一緒の時間を過ごしたひとを疑わなければなりません。でも、必要なことですから我慢です」


 その後、倉橋先輩が保健室から先生を連れてきてくれて、優子さんは生徒会室で念のための新札を受けることができた。それで確認できたことはこんなことだ。

 まず、優子さんは桃子さんと同じように、アルコールを口にして気を失ってしまったこと、飲んだアルコールの量は極めて少なく、平均的なひとならば酔ったうちにも入らないこと、おそらく桃子さんと同じようにほどなく目を覚ますだろうから、心配は要らないということ。


 そのうち、桃子さんもよく冷えた水を汲んできて、僕たちは生徒会室に勢揃いした。優子さんの容態に心配が要らないと知ると、桃子さんは安心して、水に濡らしたタオルで優子さんの顔を拭いた。

 僕たちは優子さんの心配をしつつも、ふと思い出したように立ち上がって、生徒会室の中を観察したり、置きっ放しになったコップを調べたりした。


「飲み物からはアルコールの匂いはしません。おそらく飲んでも分からないでしょう」

「ごく微量でも飲ませればいいんだよね。でも、無味無臭でも構わないなんてかなり危ないよね。なんの疑問もなく飲んだり食べたりしても、倒れる可能性があるのかな」

「それは少し気になります。日常生活で急に倒れることがあるように思われますけど、大丈夫なのでしょうか?」


 僕たちはひそひそ声で相談しながら、桃子さんに質問しようかとも思ったけれど、先生の隣に腰掛けて、優子さんの寝姿をじっと見つめる桃子さんを前にして、まだしばらくはやめておくことに決めた。

 それよりも、僕たちは生徒会室を出ることを倉橋先輩に頼んだ。


「倉橋さん、私と司くんは少し席を外しますが、教室の中はできる限りそのままにしていただけますか」


 倉橋先輩は特に驚く様子でもなかった。


「ああ――。そうだね、七倉さんがそう言うならば僕には止められないよ。だいいち、僕たちだってもう生徒会室の外に出ているんだ。容疑者は外に出ないように徹底すべし、なんて言いようがないしね」

「証拠を隠滅されてしまったかもしれませんね。でも、仕方ありません。私たちは警察でも探偵でもありませんから。司くんが証拠を隠滅したとすれば、優子さんがジュースを飲んでから先ほど先生が来られるまでの時間です。もちろん、それについては私が一緒にいて不審な行動がなかったことを確認しています」

「七倉さんが司くんのことを庇う理由があるとすれば――いや、そんな可能性を指摘しても仕方ないことか。たぶん、司くんが会長にアルコールを飲ませることは無理があるだろうね。きみたちは会長との接点が生徒会室しかない」

「はい」


 それから、七倉さんは優子さんの診察を終えた先生に近づくと、ひと言ふた言交わしてから、何か耳打ちして頼み事をした。先生が頷くと七倉さんはにっこり微笑んで、僕のほうへ戻ってきた。


「実は、保健室の先生とは顔見知りなのです。お仕事中ですから積極的に何かを依頼するのは気が引けますが、倉橋さんや桃子さんに不審な行動がないか注意して頂くことくらいはできます」

「先生は生徒会室にいてくれるっていうこと?」

「はい。念のため優子さんが目を覚ますまではいてくださるそうです。今日は暑いですから、容態が急変しないかどうかだけ心配にされておられました。保健室は別の方がいらっしゃって、緊急の場合は知らせてくださいます」


 それで僕たちは教室を出られた。先生と倉橋先輩、桃子さんは優子さんの傍にいる。僕たちが教室を出られたのは、そもそも生徒会のメンバーではないからだ。僕ですら、本来は生徒会室にいる必要はなかった。

 そのことは、出掛けに倉橋先輩がこっそりと教えてくれた。


「もともと司君が生徒会で働いているのは生徒会長権限で、僕にはきみを引き留める権利がないんだよ。おそらく会長は教師にそれなりの説明をしているだろうが、だからといっても、詳細に理由を問い詰められると司君を拘束する理由に乏しいんだ。むしろ、いままでよく手伝ってくれたくらいだよ。ここは面倒な親戚づきあいだと思って勘弁してほしい」


 倉橋先輩は申し訳なさそうな表情でそう言って、僕が優子さんの傍にいないことを責めたりはしなかった。もちろん、僕だってこのまま下校するつもりはなかったけれど。

 生徒会室から出ると、気詰まりな空気から解放されたみたいでほっとする。こんなことを言ったら優子さんには申し訳ないけれど、生徒会と関わり合いになってからは面倒なことに巻き込まれてばかりだ。


「僕たちが生徒会に関わるようになってから、事件が起こりすぎていないかな?」

「そう――ですね。偶然だとは思えません」


 それは倉橋先輩も言っていたことだ。最近、生徒会長の様子がおかしいということはずっと聞いていた。それは妹の桃子さんにしても同じことで、その不安は的中してしまったことになる。


「いちばん怪しいのは妹の桃子さんです。飲み物を扱うのは庶務の仕事です。このなかでは、桃子さんが学年でも役職でも最も下ですから」

「コップにアルコールを入れる機会がいちばん多かったのは桃子さんだね」

「はい、私は桃子さんが飲み物を淹れるときに、手元をよく見ていませんでした。司くんはどうでしたか?」

「僕の席からは見えなかった。だから、何をしても分からない」


 僕たちは桃子さんの態度を思い出しながら考えた。


「桃子さんには動機がある」

「あまり考えたくはありません。でも、優子さんの桃子さんに対する態度は、いくら姉妹とはいえ度が過ぎています。桃子さんは優子さんが言われるよりもずっと仕事をこなしますし、生徒会のメンバーとして、まだまだ勉強すべきことはあるかもしれませんが、職務には熱心でした」

「桃子さんは優子さんを恨んで……」


 僕はそこまで言って、言葉を切った。


「ううん、証拠がないうちはやめておこう」

「でも、桃子さんは説明のつかない行動もとっているように見えます。特に、優子さんがジュースを飲み終わった後で『待ってください』と叫んだことです。どうしてあの瞬間に桃子さんはジュースの中にアルコールが入っていることに気づいたのでしょうか。僅かな匂いなどに気がついたとしたら、ペットボトル容器から紙コップに注いだとき、既に気がつくはずです」

「それでも偶然じゃないかな。容器を開封したときがいちばん気づきやすいと思うんだけど」

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