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35, 優子さんと毒入りジュース

 保健室に駆け込んできたのは優子さんだった。書類を片手に抱えたままで、急いで走ってきたのか肩や胸元にかかった髪を手で整えた。

 このとき、一瞬だけれど、僕からは優子さんがとても心配そうな目をしているように見えた。けれども、それは気のせいだったのかもしれない。次の瞬間には怒りに満ちた目をして、一直線にベッドの桃子さんのもとへ近づくと低い声で言った。


「何をやっているんだ」

「お、お姉ちゃん……」


 優子さんは桃子さんの手を取って、立ち上がらせようとする。それを見た倉橋先輩が慌てて止めた。保健室の先生は僕たちの会話には関与しないみたいだった。実際、桃子さんは病気ではないから、無理に立たせても体に障りがあるわけじゃない。

 それでも、倉橋先輩は慎重な姿勢で説明した。


「作業の途中で倒れまして」

「それは聞いた。だが、倉橋はここで何をやっているんだ」

「申し訳ありません。桃子さんと司君のふたりで作業をしていたところ、あまりにも人手が足りず、作業の進行に時間が掛かりすぎると判断したので、手伝っていました」

「それはきみの責任ではなく、桃子と司の責任だ。もとより、労力のかかる仕事をさせることが今回の目的だ。勝手にふたりを楽にさせるな」


 優子さんは溜息をついて答えた。桃子さんは手を握られたまま怯えていて、さっきまで懸命に働いていた様子とは全然違っている。なんだか、もう桃子さんが悪いというよりも、優子さんの前でだけふだんの力が発揮できていないだけにしか見えなかった。

 僕はさすがに桃子さんのことが可哀想になってきた。優子さんの言うことは理不尽すぎていて、とても生徒会長にふさわしいとは思わなくなってきていたんだ。

 もっとも、同じことを僕よりもずっと強く感じていたひとが、僕のすぐ隣にいた。


「でも、おふたりに与えられた仕事は、いくらなんでもふたりでできる量を大きく超えています。このような割り当ては処罰などではなく、単なる嫌がらせとしか思えません」


 七倉さんだった。3年生の先輩を前にして、七倉さんは物怖じしないで前に出た。


「ふたりが放課後のあいだずっと従事しているのに、1週間もかかってしまう仕事は重すぎます。それに、効率もとても悪い方法です。桃子さんが倒れたのも、本質的には割り当てのミスだと思います」

「1年の七倉菜摘か。まるで全て分かったような口を利くな」


 七倉さんはそれに応えずに、優子さんを睨みつけるようにして言った。


「そもそも司くんが4月に教室の鍵を開けたという証拠はありません。私たちのクラスでも、司くんを疑っている生徒はひとりもいません。先生方の中でも、司くんが犯人だと考えられている方はごく少数のはずです。それにもかかわらず、生徒会が勝手な判断でこのような重労働を行わせるのは横暴です」


 七倉さんはよほど生徒会長のことが腹に据えかねていたみたいだった。優子さんを前にして、まっすぐに自分の思っていることをぶつけていた。倉橋先輩も、保健室の先生も、七倉さんの激しい口調を前に何も言わないでいた。

 もっとも、庇われている桃子さんはとても心配そうな表情だった。


「それに、こちらで休んでいる氷上桃子さんも、生徒会長さんが言われるような、怠惰で職務の務まらない方だとは思えません。今日もたくさんの仕事をしていて、倒れたからこそ、いま保健室で休んでいるんです」

「桃子が倒れたことは関係ない。本来ならば自分の体調の変化くらいは自分で気づかなければならないことだ。自己管理がなっていないのは今日に限ったことではない。誰かに心配されるのを待っている甘えた態度では、生徒会でもうまくやっていけるわけがない」

「ご、ごめんなさい」


 桃子さんはまた謝ってしまった。桃子さんは涙ぐんで視線を床に落としているけれど、涙は流さなかった。その様子を見ていた七倉さんは、自分の胸に手を当てて宣言した。


「倉橋さんが手伝うことが悪いというのなら私が手伝います! 生徒が自主的に協力するのは別に構わないでしょう」


 優子さんは露骨に嫌な顔をした。けれども、拒むこともできなくて七倉さんが手伝うことを黙認したみたいだった。それから、倉橋先輩も小さく手を挙げて言った。


「会長、いかに氷上さんの教育という目的があるとはいえ、この件について生徒会役員1人に対して生徒会役員以外が2人も参加するのは問題があります。生徒会の職務であるにもかかわらず、外部のほうが人数が多いようでは、生徒会の仕事ぶりが疑われます。僕も手伝う許可をください」


 気詰まりな沈黙が保健室を支配した。僕は副会長が生徒会に逆らうことに、優子さんがまた嫌な顔をするかと思ったんだ。

 けれども、優子さんは意外にもすんなりと許可を下した。


「分かった。勝手にしろ。ただし、できる限りは桃子と司にさせろ」

「ありがとうございます」


 倉橋先輩が頭を下げるのと同時に、優子さんはそれで保健室を出て行ってしまった。そういえば、優子さんはここ最近どこで仕事をしているのだろう。

 優子さんがいなくなった保健室では、七倉さんが保健室の先生の前だというのに、怒りを隠さずにいた。


「あのような考えは生徒会長としてふさわしくありませんっ。私だって弟に厳しくすることはありますが、こんな厳しい接し方は過剰すぎます」


 倉橋先輩は困ったような表情をしていたけれど、反論するすべを持たないようだった。


「七倉さん、無理に手伝わせる結果となって申し訳ないとは思うが、その判断は待ってくれないか。たしかに会長は厳しいひとだが、最近の態度はいくらなんでも極端すぎる気がするんだ」

「でも、いくら妹だといっても、倒れた直後に厳しい言葉をかけるなんて信じられません。せめてひと言くらい心配してもいいはずです!」


 七倉さんの言葉はもっともだった。倉橋先輩はなんとも答えにくかったみたいだ。桃子さんの顔をあげさせて、優しく声を掛けた。


「氷上さん、こうなった以上はもうきみたち姉妹だけの問題じゃない。いったいなんでこんなに仲がこじれているんだ」

「わっ、私にも、わ、分からないんです。でも、高校に入ってから叱られることが増えました。きっと、高校生になっても、わ、私がしっかりしないからお姉ちゃんもイライラしていると……」

「ともかく、会長にはああ言ったが今日はもう作業はやめておこう。七倉さんのご厚意に甘えて、明日からも4人で作業を進めよう。今日の遅れくらいはすぐに取り戻せるよ」


 倉橋先輩は僕たちの顔を順々に見て、もちろん僕は頷いた。僕たちはそれで解散することになった。倉橋先輩は落ち込んでいる桃子さんを心配するように付き添ったので、僕は自然と七倉さんと一緒に歩くことになった。


「七倉さん、今日はありがとう。でも、本当に良かったの?」

「当然です。お気遣いは無用です」


 鞄を握りしめる手に力がこもった。七倉さんの歩く速度は遅くて、前を歩く倉橋先輩や桃子さんとは距離が開く一方だった。それで、僕は七倉さんが何かを話したがっていることに気づいた。


「司くん、よろしいですか?」


 七倉さんは僕のほうを横目で見て、小声で言った。


「どうしたの?」

「桃子さんがアルコール溶剤を使って窓を拭く前に、誰かが能力を使いました。能力はそれほど強くありませんが、桃子さんが倒れたことと関係があるはずです」

「本当に?」

「はい、桃子さんが倒れたときはそれに気を取られてしまいました」


 僕は七倉さんの綺麗な顔を見つめた。七倉さんはもう不満げな表情ではなかった。


「……まさか、倉橋先輩が桃子さんに何かしたってこと……?」


 僕は前に倉橋先輩から何の能力も持っていないと聞いている。けれども、それを証明するものはなにもない。倉橋先輩が僕に奥の手を隠していている可能性はあった。ひとの良さそうな先輩に限って、ありえないとは思うけれど……。


「でも、あのときは、桃子さんが窓に雑巾を『かけて』いたとも言えるし、まさかとは思うけど、桃子さんに暗示を『かけて』アルコールを使うように仕向けていたのかもしれない」

「いえ、分かりません。それに、能力を使った場所が分からなかったんです。ひょっとしたら、氷上優子さんかもしれない、とも思いました」


 七倉さんが予想外のことを言い出して僕は焦った。


「え、優子さんって能力者なの?」

「いえ。そうかもしれないと思っただけです。実は、使用された能力が微弱でしたので、詳しく感じ取れなかったんです。あれほどの弱さだと、たとえ優子さんが能力者だとしても、見ただけでは分からないと思います。ですから、優子さんが保健室に現れたとき、ひょっとしてと思っただけです。根拠は全くありません」

「相坂さんのときみたいにすぐに能力者と判断するわけにはいかないんだね」

「すみません。相坂さんはとても強力な力を使っているので、分かりやすいんです。今回はそうはいきません……」


 七倉さんは申し訳なさそうな目をするけれど、僕はそれで残念だとは思わない。七倉さんの能力の強さは相当なレベルなんだ。だからこそひと目で能力者だと判別できるだけで、そんなことができるひとは他では相坂さんくらいのものだった。当然、何の能力者でもない僕にはできない。


 それにしても、と僕は思う。

 生徒会長の優子さんは明らかに様子がおかしい。生徒会内部どころか、僕や七倉さんまで巻き込んで、どんどん問題を大きくしている。妹の桃子さんはじっと耐えているけれど、その理由は何も分かっていない。優子さんが言うよりも仕事はこなしている。でも、何かを考えているような気はする。優子さんに叱責されても、涙目になるだけで取り乱したりはしない。

 倉橋先輩はこの3人の中ではいちばん冷静だった。先輩はふたりの様子がおかしいと思っている。でも、優子さんをかばってもいる。先輩は何を考えているんだろう。


「いったいどうなっているんだ、この生徒会は」


 僕たちの不安が的中して、事件が起こったのは、6月最後の週のことだった。

 僕と桃子さんの2人で生徒会の仕事を引き受けるというのは、元々そういつまでも続けるわけにはいかないことではあった。だから、6月も末になって学校内の掲示物を片づけ終わる頃には、僕が生徒会の仕事に携わることにも終わりが見えてきた。

 七倉さんや倉橋先輩が手伝ってくれたおかげで、きつい仕事もどうにかやり終えることができた。もっとも、部活の勧誘ポスターを剥がし終えた僕たちには、新しい仕事として生徒会室の書類のチェックが要求されたんだけど。

 僕には出席していない1年生の庶務の席が与えられた。あくまでも他人の席なので、座り心地はあまり良くなかった。


「部活動の予算割り当て書類なんて見ていいんですか?」


 優子さんは生徒会長の席に着いて、生徒会長決済の書類を眺めている。


「ああ、決定済みの数値を見たところで何の問題も起こらない。計算を確認してくれ。桃子は生徒会費の計算だ。七倉は手伝いたければ手伝ってやればいい」


 七倉さんは別の会計の席を割り当てられていた。相変わらず、七倉さんは優子さんの姿勢が気に入らないみたいで、ときどき反論することがあった。


「司くんも桃子さんも充分に働いています。いつまでこのようにされるつもりですか」

「期末試験の準備期間までに、桃子と司の2人体制は終わりにする。それまでは約束通りに仕事を続けろ」


 期末試験はもう再来週に迫っていた。だから、僕たちが生徒会の仕事をしなければならない時間は、もう1週間もなくなっていた。

 ところで、仕事場所が生徒会室に移ってからというものの、僕は生徒会の庶務という仕事が案外と忙しいことに気がついた。生徒会長や副会長のために飲み物を用意するのは、いつも庶務である桃子さんの仕事だった。

 夏の暑い盛りのことで、生徒会室の窓や扉は開け放たれていたけれど、冷房のない部屋での作業は、決して快適とはいえなかった。桃子さんも優子さんも、さすがに我慢できなくなったのか少しきつそうなブラウスの胸元のボタンをひとつ外していた。

 もっとも、男子にしてみれば首元のいちばん上まで留めているほうが珍しかった。僕だって、いつも一番上のボタンは外している。それでも、生徒会室の暑さは厳しかった。


「桃子、冷蔵庫に飲み物が入っているから、全員分用意して冷やしておいてくれ。今日はとても暑い」

「わっ、分かりましたっ」


 不意に仕事を命じられて、大変そうに見えるお茶汲みだけど、桃子さんは決して嫌いではないみたいだった。


「清涼飲料ですか?」

「私の自腹だ。生徒会費から出たものじゃない。ひと仕事終えたら休憩にしよう」


 桃子さんは珍しく笑った。笑うと、優子さんはとても大人っぽい魅力のあるひとだった。切れ長の目が優しく細められて、そうすると端正な顔立ちが際立った。


「桃子、どうした?」


 優子さんは、冷蔵庫を開いた桃子さんの背中に尋ねた。生徒会室には冷蔵庫が備え付けられていた。小さいけれど冷凍室も備えているので、アイスクリームも保存できる。もっとも、今日まで菓子類が入っているところは見たことがない。


「ううん、なんでもないよ。お姉ちゃん、栓が開いているほうでいいんだよね?」

「ああ、ここに来る前に少し飲んだんだ」


 冷蔵庫の中にはいくつかの飲み物が入っていた。優子さんが持ってきたものもあるけれど、桃子さんや倉橋先輩が持ってきたものもある。倉橋先輩はよく自分の持ってきた飲み物を桃子さんに注がせていた。

 桃子さんは生徒会室の隅に置かれた小さなテーブルを使って、コップの中にジュースを淹れる。コップの中のいくつかは誰が使うのかが決まっていた。白くて猫の絵が描かれているのが優子さんのマグカップ、他のものよりも大きめの湯呑みが倉橋先輩、桃子さんのものは優子さんとよく似たマグカップで、姉妹でお揃いだった。

 でも、桃子さんは2つのカップを見て小さな声で優子さんに謝った。


「ごめんなさい……お姉ちゃん、コップを洗ってきます」

「汚れているのか」

「うん、洗い忘れていたのかも」


 僕は、それでまた優子さんが桃子さんを責めないか不安になった。洗い忘れていたことを叱りつけて、また七倉さんがかばうんじゃないかと思ったんだ。

 でも、このときは優子さんは怒り出すことはなかった。


「いい。そこの戸棚に余りの紙コップがある」


 桃子さんは言われたとおりに戸棚を開くと、そこから白い紙コップを4つ取った。それから、優子さんにお礼を言って、また隅の小さなテーブルを使ってジュースを淹れた。後ろ姿だけしか見えないけれど、こぼさないかどうか心配になってしまう。

 でも、桃子さんはいつもこの作業を繰り返しているから、そうそうミスはなかった。

 優子さんが不在のときには、タイトルの分からない鼻歌を歌っているときもあるけれど、今日はさすがにそれはできないみたいだった。

 桃子さんは人数分のジュースをコップに淹れると、いちど冷蔵庫に戻した。ペットボトルよりも小分けしたほうが冷えやすい。


「冷える頃には一段落するだろう」


 優子さんは満足げに言った。今日の優子さんはとても優しいなと思った。

 それから僕たちの作業は30分ほど続いて、それから小休止が入った。


「そろそろ休みにしよう。こんなに暑いのでは、生徒会室で熱中症になりかねない」


 優子さんはそう言うと、桃子さんに冷蔵庫を開けさせた。そのとき、僕にはなぜか、桃子さんがとても迷うような表情をしているように見えた。その顔はとても青ざめていて、立ち上がるのも億劫そうに見えた。


「桃子、私は右奥のがいい」


 腰をかがめて冷蔵庫を開けた桃子さんに、優子さんは上機嫌な声で言った。


「ど、どれも一緒だよ、お姉ちゃん」

「奥のほうが冷えているだろう。まあ、私の気分的な問題だ」


 なんとなく、桃子さんはどのコップを取ればいいのか悩んでいるようにも見えた。

 それでも、桃子さんはお盆にコップを載せると、優子さん、倉橋先輩、七倉さん、そして僕の順番に配った。


「最近は暑いな。だが、部活に参加している生徒はもっと暑い中を練習に励んでいる。それに比べれば、生徒会は快適な環境だよ。ありがたいと思わなくてはね」

「そのとおりです。会長」


 倉橋先輩も、今日はどこか安心したような様子だった。優子さんの機嫌が良いからかもしれない。優子さんは笑顔で倉橋先輩に応えてから、紙コップを傾けた。

 桃子さんはなぜかそれをじっと見つめていた。

 そして、それから数秒が経ってから、急に桃子さんは叫んだ。


「待ってください!」


 僕たちは手を止めた。僕たちはまだコップに口をつけていなかった。

 ――優子さんを除いて。

 優子さんは、そのジュースをもう半ば以上も飲んでいた。よほど暑かったんだろう。それは優子さんにしては良すぎると思うほどに良い飲みっぷりだった。


 けれども、異変はすぐに明らかになった。

 優子さんが手にしていたコップは空になっていた。そうだと分かったのは、その空になったコップが優子さんの手を離れて、生徒会室の床に転がったからだ。


 カラカラ……


 そして、優子さんの体もまた、急激に力をなくして椅子から崩れ落ちた。


「お姉ちゃん!」

「会長!」


 僕たちは立ち上がった。

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