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34, 氷上さんの弱点

 僕の働き次第ではあるとは思うけど、優子さんは4月に僕が所属するクラスの教室で、鍵を開けて侵入した事件について、僕を疑っている先生に何がしらかのフォローを入れてくれるはずだった。

 だから、僕はかなり真剣になって窓を磨いた。もし手を抜いたら、セロハンテープの跡が残った窓を見るだけですぐにバレてしまう。そうなれば、優子さんがどんな行動に出るか分からない。もっとも、テープの糊がこびりついた窓ガラスは、力を入れてこすってもなかなか綺麗にならなかった。


 けれども、僕はまだいいほうだったんだ。もっと悪いのは、会長の妹である桃子さんだった。

 桃子さんは、仕事ができないというぼんやりとした理由で、僕と同じように力が必要な仕事をしなければならなかった。たしかに、見ていると桃子さんは要領は良いとはいえないと思う。でも、会長が言うほどには悪いようにも見えなかった。


 桃子さんは僕よりも少し背が低いから、窓の高いところは僕が担当した。僕がそれほど手際が良くないという理由もあるけれど、ふたりの窓を拭くスピードは同じくらいだった。だから、毛先が少しだけ丸まった、桃子さんのとてもきれいな髪はいつも僕の隣にあって、大きな胸を揺らしながら、一生懸命に腕を動かしているのがよく見えた。

 桃子さんは喋るよりも黙々と作業をするほうが好きなようだった。時々、お互いの作業を確認しあって、目が合うとにっこり笑ってくれる。だから、作業の時間が長いとはあまり感じなかった。

 ただ、それでも作業量そのものが多かった。


「1日で終わらないね、これ。剥がす仕事よりも窓を拭く仕事みたいだ」

「うん、生徒会はあんまり遅くまで残っちゃいけないから、切りのいいところで帰らなきゃ」


 僕は少しだけ心配になって聞いた。


「でも、早く作業しないとお姉さんがあまり良く思わないんじゃないかな」

「うん……、でも、生徒会はほかの部活とは違って顧問の先生がいつもいるわけじゃないから。だから、あまり遅くまで残っちゃいけないの」


 桃子さんが困ったように俯くのを見て、僕は、桃子さんが優子さんに怒られることを嫌がっているのだと気づいた。もちろん、昨日だって泣き出しそうになっていたけれど、今日はお姉さんの話題をしていても決して暗くはなかった。でも、仕事の進捗が悪いことが心に負担になるんだな、と理解した。


「とにかく、明日も頑張ろう」


 次の日も、同じような作業の繰り返しになった。部室棟のポスターの掃除が終わらない限りは、僕たち1年生の教室にまでたどり着けない。それに、部室や教室だけではなくて、昇降口の周辺や体育館などにも、部活動に関する掲示物は貼られていた。

 それらは、生徒の目に付く場所と各部の活動場所の付近に分散していたけれど、バケツと雑巾を手にしていたせいで手分けすることもできなかった。

 それでも、2日目の夕暮れにはどうにか部室周辺を片づけることができた。


「この調子で、明日は1年生の教室に行きましょう」

「でも、このペースだとどうやっても来週の半ばまでかかるよ。それに、何枚か届け出のない場所にあったから、あちこち見回らないといけないね」

「うん、やっぱり、見落としがあると怒られるかなぁ……」


 桃子さんはまた落ち込んでいた。昨日も今日も、優子さんは別の仕事があるみたいで、生徒会室で顔を合わせることはなかった。その代わりに、桃子さんはいつも生徒会室の机の上に、報告用のメモを残していった。


「こういうことはよくあるの?」

「最近は、私の指示がなくても仕事ができるようにしろって」


 僕はだんだんと優子さんが冷たいひととしか思えなくなっていた。


「お姉さんとは一緒に帰ったりしなくていいの?」


 桃子さんは寂しそうに頷いた。今週はもう終わりだというのに、僕たちの仕事はまだ半分も終わっていなかった。

 やっぱり、2人では人手が少なすぎるような気がした。


 そう思ったのは僕だけではないみたいで、週明けの月曜日、僕と桃子さんがいつもと同じように道具を片手に生徒会室を出ると、廊下で倉橋先輩が立っていた。

 倉橋先輩は廊下の人通りを確かめてから、僕たちに向けて手を挙げた。


「やあ、助っ人に来たよ」


 桃子さんが目を丸くして、何度も繰り返し頭を下げた。


「く、倉橋副会長。す、すみません。ありがとうございますっ」

「先輩、どうしたんですか?」

「ふたりではあまりに大変だと聞いてね。まあ、生徒会室に入室したら承知しないと会長は言っていたが、人員が足りないなら手伝うくらいはいいだろう」

「相談しただけだったのに、本当に、ごめんなさいっ」


 桃子さんが必死でお礼を言っていたけれど、それに笑顔で応えながら、先輩は意味ありげな視線を僕に送ってくれた。単純に、桃子さんが大変そうだからという理由じゃないみたいだ。どうやら僕にも気を遣ってくれたみたいなので、僕も頭を下げた。


「先輩、ありがとうございます」

「うん、まあ3人で頑張ろう」


 でも、この日は更にもうひとり手伝ってくれるひとがいたんだ。

 僕たちが1年生の教室に移動すると、4階に上がったところでむこうから僕のよく見知ったひとが歩いてくるのが見えたんだ。遠くからでもすぐに分かる。七倉さんはとても姿勢良く歩いてくるところだった。


「七倉さん、どうしたの?」


 僕の質問に、七倉さんは少し怒ったように言った。


「司くんのお手伝いをするためですっ」


 それから、七倉さんは桃子さんに向き直って、いつものとおりとても人当たりのいい笑顔で言った。


「こんにちは、氷上桃子さんですね。私、七倉菜摘と申します。司くんのクラスメートです。今日は、お手伝いをしたいと思っておりました」


 僕は七倉さんに近づいて小声で囁いた。


「どういうことなの?」

「大変な作業をしているのに人数が足らないのでしたら、私にもおっしゃってください!」


 七倉さんは頬を膨らませてから、僕の耳元に顔を寄せた。七倉さんのとても良い香りが漂ってきて、僕はとても緊張した。


「倉橋さんから連絡を頂いたんです。もっとも、多少の作業でしたら、司くんのご厚意に甘えようかとも思いました。でも、おふたりは人手も足りないまま、何日もかけて美化作業をしているとお聞きしました。そんな大変な作業でしたら、傍観しているなんてできません」

「ダメだよ。ひょっとすると七倉さんだって疑われることになるかもしれない」

「もともと私の責任です。疑われたところで何も困りません」


 七倉さんは僕から離れて、今度はいつもと同じように笑顔になった。


「2人なら大変な作業でも4人ならすぐに終わります。がんばりましょう」


 七倉さんの言うとおり、作業のスピードは一気に上がった。

 もっとも、それでも掲示物を剥がした窓を磨くのは大変だった。単純にセロハンテープがこびりついているだけでもなくて、届け出のない掲示物もあったし、思いもしない廊下の片隅にもポスターが貼られていて、びっくりさせられた。


「司くん、ちょっと見ていただけますか?」


 七倉さんがそう言ったのは、1年生の教室が並ぶ廊下の窓ガラスに貼られた、吹奏楽部の掲示物を外したときだった。僕は七倉さんの指さす場所を覗き込んだ。


「うわ、マジックが移ってる」


 七倉さんが指さした窓には、黒インクがこびりついていた。


「この窓を下敷きにして何か書いたみたいです」


 倉橋先輩が言った。


「生徒会室に溶剤があったはずだから、それで消そうか」

「わっ、わたし取ってきます」


 駆け出したのは桃子さんで、なぜか少しだけ迷ったみたいだけれど小走りで生徒会室に向かった。それで僕たちはしばらく手を止めることにした。冷房もない校内の作業はきつかった。


「あれ?」


 この瞬間、七倉さんは隣で声をあげて首を傾げていた。


「どうかしたの?」

「いえ……、たぶん気のせいです」


 桃子さんはすぐに戻ってきた。手には透明な瓶を抱えている。


「じゃあやろうか。氷上さん、それ貸して」

「い、いいえっ、私がやります!」


 桃子さんが生徒会室まで歩いたのだから、今度は僕が作業をするつもりだった。なのに、桃子さんは手から瓶を離そうとはしなかった。

 瓶の中身はアルコールの溶剤だった。

 桃子さんはそれを布につけて窓を拭いた。窓をこすると、時間の経ったインクが少しずつだけれど消え始めた。

 でも、窓をこすっているうちに、氷上さんの手の動きはゆっくりになってきた。僕はどうしたのか気になって、桃子さんの傍に近づいた。

 すると、桃子さんの手が窓ガラスから離れて、急に体が僕のほうに倒れてきた。


「氷上さん、どうしたの!」


 叫んで、倒れ込んできた体をどうにか支えた。

 桃子さんの目は閉じていた。体にはまるで力が入っていない。


「先輩、七倉さん、桃子さんがおかしいよ!」


 少し間違えれば桃子さんのいちばん柔らかな部分に触れてしまいそうになる。それをどうにか防いで、僕はどうにか桃子さんの下半身を床に降ろすことができた。桃子さんは決して大柄ではないのに、支えている体はとても重く感じた。


「と、とりあえず保健室に連れて行かないと」


 僕は桃子さんの体を抱えながら叫んだ。桃子さんの体は柔らかくて、そのうえ全身の力が抜けているから、今にも手からこぼれ落ちてしまいそうになっていたんだ。

 もっと遠慮なく密着して、全身で支えてあげられれば簡単なんだけど、それができないからどうしても腕だけになってしまう。いつまでも支えられない。


「七倉さんも、手伝って」

「えっ……、あれ……? あ、はい!」


 いつもてきぱきとしているはずの七倉さんは、なぜか茫然自失としていて、僕の叫び声でやっと手を貸してくれた。七倉さんは体ごと桃子さんを抱えて、桃子さんのお尻を床に着けてくれて、やっと僕は一息つけた。


「まさか急病かい?」


 倉橋先輩が傍に近寄って、桃子さんの様子を観察した。桃子さんはわずかに肌に浮くような汗をかいていたけれど、ふっくらとした胸は規則的に上下していたし、長い睫や赤い唇が震えることもなかった。


「苦しくはなさそうだけど……」

「汗は単に暑いだけだよね?」


 先輩もどう判断していいのか迷っていた。


「呼吸もきちんとしていますし、なんと言ったらいいか分かりませんが、あまり緊張した様子が感じられないのですが……」


 病人を間近で見る機会なんてほとんどないけれど、急に倒れるような急患なら、どこか苦しさを覚えれば、体の一部分でも使ってもがいたりするんじゃないだろうかと思った。

 けれども、桃子さんの様子を見ていると、どこも悪いようには見えなかった。

 倉橋先輩は眼鏡を手で押さえながら、桃子さんの姿をじっくりと見てから言った。


「桃子さん、ひょっとして寝てるんじゃない?」

「そんなまさか」


 もっとも、そう言った僕だけれど、言われてみると単に眠っているようにしか見えなかった。心なしか桃子さんの表情は気持ちよさそうにも見えた。


「これ……やっぱり寝てるね。それでも、とりあえずは保健室に連れて行こうか。眠たいのなら寝かせてあげればいいじゃないか。先生に言って担架を借りてこよう。大げさかもしれないけれど、事情を話せば貸してくれるよ」


 僕たちは倉橋先輩にお願いして、保健室から担架を持ってきた。急患じゃないと前置きしたのに、担架を借りることができたのは、先輩の顔が広かったからだ。

 借りた担架に桃子さんを乗せて、先輩と七倉さんがより危険な頭のほうを、僕が足のほうを持った。人通りの少ない放課後で良かった。

 結論から言えば、やっぱり桃子さんは眠っているだけだった。保健室の先生が、呆れたように「まあ、急病じゃなくていいことなんだけどね」と言ったのには、申し訳ない気持ちになってしまった。

 桃子さんが眠っていたのは10分ほどのほんの短い時間で、桃子さんはすぐに目を覚ました。


「あれ……私……?」

「いやぁ、よく眠っていたねえ。可愛らしく寝息を立てて結構なものだった」


 あっはっは。倉橋先輩は景気よく笑っていた。

 実際それは笑い事で、要するに桃子さんはアルコール溶剤の匂いだけで酔っ払ってしまったんだ。起こった出来事を整理すると、慌てて担架を持ち出した僕たちが滑稽に思えてきた。


「でも、大ごとでなくて幸いでした」


 七倉さんも笑顔だった。状況が分かってしまえば笑ってしまうようなことだ。


「もっとも、司くんが気づいていなかったら、頭から倒れていたかもしれないからね」


 桃子さんはそれを聞いて、僕に向かって「あっ、ありがとうございました」といった。


「アルコールに弱いのなら言ってくれれば良かったのに。まさか今まで一度もなかったわけじゃないよね。あの程度のアルコールで眠ってしまうなんて、信じられないほど弱いんだねえ」

「すっ、すみません。なるべく吸わないようにしていたんですが、その」

「いいよ。でもアルコールの有機溶剤で酔っ払うなんて初めて聞いたなあ!」


 倉橋先輩は笑い飛ばして、それから興味津々といった様子で桃子さんに聞いた。


「ひょっとして会長もなのかい?」

「ぜっ、絶対に内緒にしておいてください!」

「するとも。しかしあの会長にそんな弱点があったとは驚きだね」

「アルコールに弱いのは姉妹で一緒なんだ」


 桃子さんは恥ずかしそうに顔を伏せた。


「あの、私、お姉ちゃんとぜんぜん似ていないけど、そういう体質は同じで」

「まあ、兄弟姉妹なんてそんなものさ」

「もっ、もう気分も良くなりました。作業に戻りましょう。せっかく手伝ってもらっているのに、遅れるとお姉ちゃんに怒られちゃいます」


 桃子さんはそう言ってベッドから降りようとしたけれど、倉橋先輩がそれを拒んだ。


「アルコールが抜けたといっても、倒れてすぐに働くなんて良くないよ。今日の作業はここまでにしておこう。人手が増えたから、そう急ぐことはないさ」


 倉橋先輩は優しく言った。

 すると、背後で保健室の扉が開いて、その向こうから慌てたような声が聞こえた。


「桃子!」

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