30, 生徒会の氷上さん
「ええと、ヒカミユウコとヒカミモモコ?」
「そうかもしれませんけれど、トウコではないでしょうか。ふたり合わせれば優等です」
「あ、その可能性もありそう。子で統一されているし、規則性を大切にするご両親なのかもしれないね」
そういえば、ひとの名前に関しては女の子のほうが詳しいようなイメージがある。七倉さんの直感のほうが頼りになるかもしれない。
「その氷上さんがどうかされたのですか?」
「はっきりしないんだけれど、さっき声を掛けられたような気がするんだ」
「声を掛けられたような気がする……ですか、それはとてもはっきりしないです」
「誰かを待っているような様子だったし、実際、僕に話しかけたような気がするんだけどね。でも、その後すぐになんでもないって言われたし、これ以上のことは分からなかったんだ」
七倉さんは少しだけ考えてから言った。
「待ち伏せしていたわりには、随分と時間が早いような気がします。司くんはふだんこんなに早くは学校に登校しません」
「そうだよね。気のせいかもしれない」
「個人的な用件でなければ、生徒会関連のことでしょうか?」
もうそれくらいしか考えられない。ひょっとしたら氷上さんが僕に何か伝えたいことがあったという可能性もあるのだけど、雨が降っている日に朝早くから正門で待ち伏せている理由が思いつかない。急ぎの用件でもなければ、せめて晴れている日を選ぶだろうから。
氷上さんが再び現れたのは放課後のことだった。
放課後も相変わらず雨は降り続けていて、僕はこの雨の中を歩いて帰るのが憂鬱になってきたところだった。朝は京香さんに送ってもらえたけれど、放課後はいないだろうなあ。朝に降りたとき、放課後のことも聞いておけば良かったかもしれない。でもそれは図々しいか。
「七倉さんは、京香さんに送ってもらうの?」
恥も外聞もなく、僕は七倉さんに尋ねた。
七倉さんは外の景色を5秒くらい眺めて考えてから首を横に振った。
「なんとなく癪です」
たしかに。僕は頷いた。
「それに、私は雨の日がそれほど嫌いではありません。歩いて15分もすれば着きますからそこまで大変ではないですから。でも、司くんは家が遠いでしょうから、よろしかったら京香さんを呼びましょうか。今日の雨は激しいので、たまには楽をしてしまうのもいいかもしれません」
七倉さんが天使のように見えてきた。いつも七倉さんにはお世話になってばかりだけれど、薄く霧がかかるほどの外の雨模様を見れば、僕は喜んで七倉さんの申し出を受けたかった。でも、今日の事件はこれだけでは終わらなかったんだ。
僕たちは、教室の入り口で顔を真っ赤にしながら僕の名前を叫ぶ女の子に気づいていなかった。
「つっ、司聡太さんはいらっしゃいますか!」
ひと目見ただけで分かった。朝、登校してきたときに出会った女の子だった。
その子は、声だけでも一生懸命さが痛いくらいに伝わってくるくらい、何度も何度も僕の名前を繰り返していた。もっとも、その声は僕の名前が聞こえなかったり、語尾が聞こえなかったりしていて、注意して聞いていないのと何を言っているのかが分かりにくい。
そのせいで余計にクラスのみんなの視線を集めていて、それがまたその子の羞恥心を煽るみたいだった。体の前で組んで、俯き加減になった顔が、ますます赤くなっていた。
でも、教室にいた男子の何人かは、その子が誰なのかを聞き合っている。扉の近くにいた男子は、その子に話しかけようとしている。それくらい、その子は可愛かったんだ。
どこも手を入れていないみたいなのに、頬も唇も艶があった。夏服のブラウスは、豊かなふたつの胸が押し上げている。ちょっと眠そうだけど、とても優しそうな目つき。こんな女の子に呼び出されるだけでも、つい嬉しくなってしまうと思う。
「生徒会庶務、ひっ、氷上桃子です。生徒会室に、来てください……」
トウコが正解だった。さすが七倉さん。
「生徒会庶務を名乗っていらっしゃいますから、生徒会の用事みたいですね。行かれたほうがいいです」
「そうだね。じゃあ七倉さん、また明日」
僕は七倉さんに手を振ってから、僕は外の天気が回復することを祈りながら氷上さんに近づいた。
「氷上さん……だよね。朝にも会ったの」
「は、はい。いえ、朝は……ごめんなさい」
氷上さんは泣き出しそうな目で僕を見つめた。僕はそれで思わず目を逸らしてしまった。無意識にやっているんだろうけれど、とても困る。こんなときにものを頼まれると、ものすごく断りづらいんだ。
「生徒会に顔を出さなきゃいけないのは、朝から決まっていたことなの?」
「あ、いえ……おとといの放課後からです……」
「おととい!」
僕が驚いて聞き返すと、氷上さんは体を小さくして俯いてしまった。
「すっ、すみません。何度も言おうと思ったのに、その……」
「すぐ行かなきゃいけないんだよね」
「は、はい。その、お姉ちゃんからすぐに連れてくるようにって言われて、司聡太さんには申し訳なくて」
「下の名前まで呼ばなくていいよ。分かったから。氷上さんのお姉さんが生徒会長なんだよね?」
「う、うん。じゃなくて、そうです。お姉ちゃんは生徒会長で、わ、私みたいな妹がいるって変なんですけど、ちゃんと連れてきなさい、急ぎの用件なのに遅れるのは司さんに悪いって怒られて……」
氷上さんはこの間も何度も繰り返し頭を下げた。たぶん、ひとによっては要領を得ないと思われるかもしれないけれど、僕にとっては氷上さんの言いたいことがある程度整理できた。
要するに、氷上さんは何度も僕を呼び出そうとしたのにできなくて、2日が経ってしまったらしい。それで、お姉さんである生徒会長から怒られた――そういうことみたいだ。僕がこんなふうに理解できるのも、僕だって誰が相手でも気軽に話せる性格ではないからだと思う。こんなときは僕自身の性格に感謝したくなる。
「それで、司さんにもしも用事があっ、あったら、わ、私、ほんとうにもうしわけないんです、けど……」
「大丈夫だから行こう! でも、生徒会室がどこなのか分からないから、氷上さんが案内して!」
「ご、ごめんなさい。も、もし遅れちゃったら、わたし、どう謝っていいのか」
「お姉さんが怒っても、僕を呼びに行かせたってことはまだ手遅れじゃないはずだよ」
「は、はい。すみません……」
氷上さんとやりとりしていると、なんだか僕がものすごくしっかりした男みたいに思えてきた。実際には、氷上さんがあまりにも動揺しているせいで、僕が慌てないと話が進まなかっただけなんだけれど。
なにしろ、さっきから氷上さんの表情を見ようと思っても、ヘアピンをつけた髪しか見えなくなっている。俯いてしまって、声がどんどん下向きになっていたんだ。もっとも、それなのに甘い香りが漂ってくるから不思議だった。
廊下に出てから、僕は氷上さんに尋ねた。
「でも、生徒会室に呼び出される用事って何だろう?」
「そっ、それは……」
氷上さんはやっと顔を上げて、何かを言おうとしたはずだ。はずだ、というのは肝心の内容を言おうとしたはずなのに言葉に詰まって、少し逡巡したかと思ったらまた立ち止まって落ち込んでしまったんだ。
「すみません、忘れてしまいました……」
「ああ、別に分からなくてもいいから! これから行けば分かることだから。さあ、行こう!」
僕は励ましながら、こんな子が生徒会にいて大丈夫なのかなと思った。生徒会に在籍しているのはお姉さん――生徒会長・氷上優子さんの勧めなんだろうか? 僕は足取りが重そうな氷上さんの後を歩きながら、ふとそんなことを思った。
まさか生徒会室の場所を忘れることはないだろうとは思っていたけれど、氷上さんの足取りは危なっかしかった。何度も通りがかった生徒にぶつかりそうになりながら、僕たちは生徒会室のある棟に向かった。
もっとも、僕は生徒会室がどこにあるのかを覚えていなかった。生徒会が具体的にどんな活動をしているのかも知らない。
ただ、前に校内放送で部活動予算割り当てが生徒会名義で招集されていたから、部活動の予算を握っているのは覚えていた。それと、生徒会活動費もほんのわずかな額だけど払っているはずだ。あとは文化祭みたいな行事には関与していると思う。
でも、それは要するに、久良川高校の生徒会がとても普通の生徒会だということを意味している。高校全体を支配する権力なんて持っていないし、予算も公立高校並みでしかない。もちろん、生徒全員の個人情報を収集しているなんてこともない。
だから僕は不思議だったんだ。
僕は生徒会に知り合いがいない。そもそも生徒会の役員はほとんどが3年生だ。
全学年で合計しても15人にも届かない。生徒会長、生徒副会長、書記の三役、3年生から選出された学園祭実行委員、風紀委員などがいることはさっきのプリントで見た。その中では、副会長と書記に2年生がいて、残りの庶務に1年生がいたけれど、僕の知り合いはいなかった。それなのに、どうして呼び出されたんだろう?
「こ、ここですっ」
氷上さんが立ち止まった教室は、僕たちの教室からは離れた棟の、廊下の奥まったところに位置する部屋だった。
「どうして僕は呼び出されたのかな?」
「お姉ちゃんは、なにか聞きたいことがあるって言ってました。じっ、事情聴取とか」
「事情聴取?」
突然、氷上さんには似合わない言葉が出てきて僕は身構えた。
「お姉ちゃん、司さんを連れてきました……」
「桃子! 同級生をひとり生徒会室に呼び出すためだけに、何十分も正門で待っていてどうするんだ!」
僕たちが生徒会室に入るなり、氷上さんは小さく悲鳴をあげて立ちすくんでしまった。でも、氷上さんのほうが背が低いおかげで、背後からでも中の様子はよく見えた。
生徒会室の中には、何人かの生徒会メンバーが詰めていて、それぞれの人が仕事をしていた。職員室で教師が使うほどの大きな机が、人数ぶん、左右に向かい合わせにしてに置かれている。
いちばん奥だけは窓を背にして入り口に向けられていて、「会長」と書かれた三角錐が置かれていた。その左側が副会長で、ひとの良さそうな雰囲気の眼鏡を掛けた2年生が座っている。右側のホワイトボードの前にあるのが書記の机で、今は留守だった。
生徒会長は来客者が入ってくるとすぐに向き合うようになっている。きっと、生徒会室の中でいつも油断せずに座っているんだろうなと僕は思った。
その生徒会長・氷上優子さんは立ち上がって、腕組みして桃子さんを見据えている。生徒会長席に座っていなくても雰囲気だけでそれと分かるひとがそこにいた。
髪は七倉さんと同じくらい長くて、桃子さんと似たような髪留めを使っている。桃子さんとは違って、目にとても力があった。桃子さんは眠たそうな目つきだけれど、それをきちんと開かせたらこんなふうになるのだろうか。桃子さんが3年生になって自信を持ったら、こんなふうに変わるのかもしれない。
優子さんは、桃子さんと同じように頬も唇も滑らかだった。顔つきは桃子さんよりも鋭さがあるけれど、整った目鼻立ちや雰囲気はどこか似ていた。それに、体型の出ているところはかなりしっかりと出ていて、姉妹だということはすぐに分かった。
生徒会長、氷上優子先輩だ。生徒会での地位は桃子さんの反応だけでも分かる。
「ひっ……お、お姉ちゃん、ごめんなさい……」
「話は倉橋から聞いた。今朝、慌てて家を出て行ったと思ったら、校門が開く時間に間に合わせて登校したそうだな。そのうえ、雨の中で30分以上も正門で登校する生徒を待ち続け、結局、目当ての生徒には伝えずじまい。何をやっているんだっ」
「ごめんなさい、あ、あんなに早く登校すると思わなかったから動揺して……」
「相手が早く登校しても問題がないように行動しているのに、早く登校したことを言い訳にするなっ」
怒鳴っているわりには耳に障らない声のひとだった。
けれども、性格はかなり違うみたいで、優子さんはとても厳格なひとだ。桃子さんとは違ってひとつの隙も許さないようなひとみたいだ。
「できないのならできないと言え。急を要する用件を1日以上も遅らせたうえに、今ですら充分に対応できたとはいえない。放課後に呼び出すのは遅すぎると教えたつもりだ。相手が下校すればその日はもう捕まらない。2日も遅れれば大抵の急用はもう手遅れだ。取り返しのつかないことになるのなら、仕事をさせる気はなかった」
優子さんはこれみよがしに溜息をつき、桃子さんをますます萎縮させた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。反省していますから」
「こんなことなら私がやると言ったのに。もういいから、桃子は座れ」
優子さん――生徒会長は桃子さんを斬って捨ててから、思い出したように机の上に出してあった書類を手に取った。
「1年、司聡太だな」
優子さんは僕を射殺すような目つきで睨みつけた。
「はい」
「今日ここに呼び出されたことに心当たりはあるだろうな」
「いいえ、ありません。どうして呼ばれたんですか?」
「こんな重大事件を忘れているとは、きみは随分と都合のいい記憶力の持ち主みたいだな」
突然罵倒されて、当然だけど僕はむっとした。わけがわからない。もちろん僕は生徒会長の優子さんとは初対面だった。入学式に顔くらいは見たかもしれないけれど。それなのに、いまどうして僕は怒られているのだろう。
でも、相手は先輩で生徒会長だ。きっと何かの行き違いが生じているんだろう。
「すみません、僕は本当にどうしてここに連れてこられたのか分からないんです。さっきも、氷上さんに聞いたんですけど、分からないと言われたので」
優子さんは桃子さんを一瞥して、桃子さんは自分の席で下を向いた。
「まあいい、説明しよう」
そして優子さんはさっきまで机に置いてあった用紙を片手に、僕に宣戦布告を伝えるように言った。
「2か月ほど前の4月下旬、きみの所属するクラスにおいて、教室の鍵が施錠されたはずの時間帯に開けられるという事件が発生した。午後4時半頃、その日に施錠を担当した教師が鍵を掛けたにもかかわらず、5時5分頃、きみは自分の鞄を取るためと称して当該教室に侵入することができた。つまり、きみが第一発見者だと聞いているが、何か間違っているか」
僕の怒りがすうっと収まって、代わりに体の奥が小さく震えた。それは入学してしばらくして、自転車の鍵をなくした僕が、七倉さんの能力で自転車の鍵を開けてもらったことがあった。
「5時10分過ぎ、きみは職員室に向かい教室の施錠に不備があることを教師に報告し、その後、再施錠がなされた。翌日朝のホームルームで、きみのクラスの担任教師は、この件を生徒に公表した」
「そのとおりです」
僕は震えそうになる声を抑えて、なるべく平然を装って言った。どうして今さらとも思ったけれど、この件が蒸し返されると僕にとってはとてもまずいことだった。この事件は未解決のままうやむやになってしまったんだ。
もちろん、僕にはやましいところはひとつもない。いくら追及されても僕の責任「では」ない。でも、僕はいつまでも嘘をつき続けられる自信がなかったんだ。
それと、もうひとつだけ問題があった。
いや、問題があるからこそこの事件がうやむやになって安心していたんだ。
僕は、この事件で僕自身の無実を証明できない。