29, 雨の日の氷上さん
僕たちの制服が夏服に変わってからしばらくすると、例年と同じように雨の日が多くなった。自転車で通学する僕には冬よりも厳しい季節がやってきた。
空には毎日のように灰色の雲がかかっていて、いつも雨が降っても不思議でない天気だった。自転車通学の僕にとっては、足が奪われるのはとても不便だった。県立久良川高校は丘陵に建てられた高校だったから、坂が多くて傘を差しながらの運転はものすごく危ない。雨で濡れた路面を片手で運転するのは、ほとんど自殺行為みたいなことだったから、もちろん僕もやるつもりはなかったんだ。
だから、僕はこの時期が来ると徒歩かレインコートの準備をするつもりだったのだけれど、ある日、そのつもりで外に出ると家の前に赤くて小さくて燃費の良い車が停まっていた。
僕はその車を見たことはなかったのだけれど、心当たりはあった。
どうしよう。
ちなみに、その車の持ち主として心当たりがあるひとを、七倉京香さんという。
京香さんは、僕のクラスメートであり、名族・七倉家の長女である七倉さんを心の底から敬服している、七倉さんのボディガードみたいなひとだ。血縁上のつながりはないけれど、七倉家に養子入りしたので七倉さんの親戚でもある。
本家の長女である七倉さんのことを七倉家の当主として扱っていて、七倉さんのことに関しては誰よりも真剣なひとだ。無表情だけれど、七倉さんの家臣みたいに忠誠を誓っている。
……こうやって考えると、ものすごく堅いひとのようにしか思えないけれど、よくよく思い出すと、七倉さんとケンカをしていたんだよね。それを思い出すと、いま目にしてしまった現実も、納得がいくかもしれない。
京香さんの車には、なぜかぬいぐるみが大量に積載されていた。
大量と言っても運転の邪魔になるようには置かれていない。運転席の脇とか、座席の周りとか、後部座席とか。僕でも知っているようなアニメのキャラクターや、脱力系の動物や、とにかくかわいいもの全般といった様子。だから僕は七倉さんの言葉を思い出したんだ。
「赤くて小さくて燃費の良い車がいいです」
……見なかったことにしよう。
でも、僕が歩き出そうとすると、赤くて小さくて燃費の良い車が動き出して、すぐに僕に追いつくとウインドウを開けた。
運転席から、とても冷めたふうな女のひとの顔が覗いた。京香さんだった。
京香さんはとても美人の女性なのだけど、とても目つきが悪くもあった。だから、見た目はなんだかとても機嫌が悪そうなのだけど、べつに怒っているわけではなかった。むしろ、僕には上機嫌のように見えるくらいだ。
「司様。目が合いましたのに挨拶もしないのは感心いたしません」
僕はわざわざ足を止めて頭を下げた。傘は傾かないように気をつける。
「おはようございます」
「おはようございます。今日はたいへん良い天気です。このような天気の日は車で参りませんか」
「……遠慮して、歩いて行きます」
「遠慮は無用です。雨の中での登校は大変でしょう。私も高校のそばまで向かいますからどうぞ」
「……どうしてうちの住所を知っているんですか、京香さん」
「七倉家にとって、この町は庭のようなものです」
「じゃあ七倉さんの護衛はいいんですか」
「お嬢様は久良川神社の近くをのんびりと登校中です。こんな雨の日に危険が迫るほど、久良川町は危険ではありませんので問題ありません。もちろん、私も見ております」
京香さんは平然と能力を使っていた。京香さんは七倉さんのことを目に写さなくても見ることができる能力者だ……。
「司様はどうしてそんなにも嫌な表情をされるのでしょう」
「なぜか僕の中での京香さんのイメージが『七倉さんにちょっかいを出して意地悪する親戚のお姉さん』になったからです。初めて会ったときはもっとお堅いイメージでしたし、ついさっきまで同じような雰囲気だったのに。僕自身でも不思議なんですけれど」
京香さんは全く表情を変えずに言った。
「それは理解に苦しみます。私が異能の力をもち、お嬢様の護衛としてお仕えしていることは、司様もご存じではありませんか」
それもそのとおりなんだけれど。
「……なんとなく思うんですけれど、京香さんって表情が乏しいだけで、七倉さんのことをものすごく好きですよね」
「恐れ多いことです」
「いえ、七倉さんに敬意を持っていることは否定しないです。それに、七倉さんのためなら命を賭けるくらいなんでもないっていうのも、なんとなく伝わってきます。大昔ならともかく、今どき『お嬢様』なんて言って、ひょっとすると自分のことよりも大切に思っているなんて、今まで僕が見たことがないような関係です。でも、京香さんと七倉さんって、ふつうに仲良しですよね」
京香さんは目を逸らした。
「そのようなことは。お嬢様は本家の長女、私などは分家の小娘に過ぎません。その立場には天と地ほどの差があります」
「でも、いつも一緒にいるんですよね、七倉さんが小学生の頃から」
京香さんが黙った。どうやら急所を突いたような気がする。
もっとも、京香さんは少し考えた後で、僕にこんなことを聞き返した。
「でも、お嬢様は可愛いでしょう」
今度は僕が黙る番だった。京香さんは無表情で繰り返した。
「可愛いでしょう」
「……綺麗です」
念を押されたので、可愛いという語だけは避けた。
京香さんはそれで満足したのか、扉のロックを外して僕に乗るように促した。
「実は、今日伺ったのは、お嬢様が心配されて司様の迎えをするようにおっしゃったからなのです」
僕は京香さんの顔を見た。
「嘘です」
京香さんは僕に見えないように顔を伏せた。肩が小刻みに震えていて、手で口元を抑えている。僕はものすごく不愉快な気分になった。
この人、七倉さんに関してだけ堅物で、それ以外の部分はフツーのひとだ。
でも雨の中をわざわざ迎えに来てもらったこと自体はありがたいので、僕は憤然として車に乗り込んだ。不満は山ほどもあるけれど、免許も取れない僕からすれば、雨の日を車で送ってもらえるととても楽になる。車を使えば高校までは10分程度だ。僕は京香さんを無視するつもりだったけれど、さすがにそれはあまりにも態度がなっていないと思ったので、ひとつだけ話をした。
「そういえば、前に、僕が京香さんの話をいちども聞いたことがないと言いましたよね」
「又従姉妹よりも遠い親戚の話など、する必要もないでしょう」
たしかに、僕はこの先の一生で一度として、曾祖父の兄弟の子孫の話はしないと思うけれど。
「七倉さんは京香さんのことを親戚とだけいいました。曾祖父の兄弟筋だと。血の繋がりのことも省略して言いませんでした。鷹見の能力のことも何も言いませんでした。たぶん全部わざとです。京香さんのことを血の繋がった親戚だと思わせるためだと思います」
僕は七倉さんに出会った頃のことを思い出した。
「入学してからしばらくの頃、七倉さんは自分が七倉家のお嬢様だということを、なるべく僕に分からせないようにしていた気がします。僕はこの町の外で育ったから、七倉家がどれくらいの名家なのか知りませんでした。だから、七倉さんの家のことはいずれ分かるとしても、できる限りそれを遅らせたかったんじゃないかと思います」
僕のクラスメートの多数派はこのあたりに住んでいて、入学当初から七倉さんのことを知っていた人も多い。僕とよく話をする河原崎くんもそのひとりだ。
そして、七倉さんは自分の家をはなに掛けるようなひとじゃない。だから、僕みたいによそから来たひとには何もないように接していたんだ。
「本家や分家くらいなら田舎では耳にする言葉です。でも、京香さんのことを僕に言ったら、確実に七倉さんの実家がふつうの家ではないと分かります。京香さんは養子ですし、ふつうの家庭からすれば遠縁です。もちろん自分の護衛だなんて言えません。だから、敢えて京香さんのことを言わないでおいただけで、京香さんのことを紹介しなくてもいいとは思っていなかったんじゃないでしょうか」
「……そうですか」
京香さんは運転をしながら短く言った。
「そうですか」
***
誰かに見られている気がする。
そんな気がしたのは、京香さんに車を降ろしてもらってすぐのことだった。でも、誰かの視線に気がつくなんて、そう簡単なことではないと思う。僕が確信を持ってそれに気がついたのは、僕が車を降りてすぐに、正門の門扉の影のほうから小さなくしゃみが聞こえてきたからだったんだ。
「へくちっ」
6月の半ば過ぎだというのに、半袖の夏服では肌寒いことに気がついたのはそれでだった。
くしゃみをした女の子は、赤い傘を差してしゃがみ込み、正門の影に潜んで周囲を覗っていた。
でも、僕はその女の子が校門の門扉の影で何をやっているのかなんて、聞くような度胸はあまり持ち合わせていない。さっきは京香さんとやり合った僕だけれど、あれは七倉さんがよく見知ったひとだからできたことだった。
僕はこっそりその子の顔を覗き見ようと思ったら、その子も僕のことを見た。おかげで、僕はその子の顔を目にすることができたんだ。
目元はとろんとしていて眠そうな雰囲気の子だった。もっとも、そのわりには、顔の形作りはとても繊細で童顔とは言えないと思う。それに、胸元がとてもふっくらしているので、僕は努めてそっちを見ないようにするのに大変だった。
頬が赤くなっているので、感情がとても顔に出やすいみたいだった。大人っぽいとも思えない。髪はストレートだけれど少しだけ毛先が丸まっている。アクセントのヘアピンが目に入った。女の子は飛び上がるみたいに驚いて、それからあわあわと口を動かしたんだ。
「わっ、わたっ……氷上ですっ」
「氷上さん?」
僕が聞き返すと、氷上さんは体の前で手を振って、それから傘を僕に向けた。氷上さんの真っ赤な顔の代わりに、真っ赤な傘に差し出された。雨が強いせいで、氷上さんの体には次々に大粒の雨が落ちた。
「やっぱりなんでもありません。きっ、気にしないでくださいっ」
「何をしていたの?」
「な、なんでもありません。人待ちですっ」
僕は人を待つならもう少し往来の真ん中で待ったほうがいいんじゃないかと思ったけれど、わざわざそれを指摘するとまた話がややこしくなりそうなのでやめておいた。放っておくと、氷上さんはずぶ濡れになってもそのままでいそうだったんだ。
「それならいいけど」
「はい……」
氷上さんは傘の向こうでますます体を縮こまらせていた。早く僕が立ち去らないと、氷上さんが困ったことになりそうだった。
だから僕はその場を立ち去った。なるべく後ろを振り返らないようにして、昇降口に入ったところで振り返った。そのとき、氷上さんはようやく傘を頭の上に持ち上げたところだった。
「なんだったんだろう」
***
教室に入ると、七倉さんが既に教室にいた。
七倉さんは僕よりもずっと学校に近い場所に住んでいる。だから、七倉さんがのんびりと歩いて登校したとしても、車に乗った僕よりも早くたどり着いてしまう。もっとも、それは京香さんが安全運転をしているせいでもあるんだけど。
ふだんは自転車で通学している僕が、いつもより20分以上も早く登校したことは、当然だけど七倉さんに疑念を抱かせたみたいだった。
「今日は日直でしたっけ?」なんてことを言いながら、そのきらきらした瞳で僕の目を覗き込みながら質問攻めにした。だから、僕はあっさりと今朝の出来事を白状してしまったんだ。
「京香さんがまた司くんにご迷惑をおかけしたんですか!」
七倉さんは声をあげた。まだ早い時間でクラスメートが少なくて助かった。
「いや、今日は迷惑じゃなかったよ。たぶん、その、助かった部分もあるわけだし」
「でも、朝早くから司くんの家に押しかけて待ち伏せしているなんて、とても失礼です」
「失礼と言うよりも、あれは京香さんの趣味というか、単なるイタズラだったような気がするけれど……」
僕は朝の会話を思い出した。まずいことを言ったような気がする。しまった、京香さんに釘を刺しておくことを忘れておいた。七倉さんと京香さんが本当に仲良しだとしたら、七倉さんの耳に入る。
僕は京香さんを陥れることに決めた。
「……うん、やっぱり悪質な悪戯だよ。あのままにしておいたらいけないや。京香さんの事情を聞くまでもなく、厳しく懲らしめてください」
「司くん?」
七倉さんが首を傾げているけれど関係ない。僕は復讐の炎を燃え上がらせた。
「僕とのやりとりだとか、僕が悪戯に引っかかってどんな反応をしたとか、聞かないでくれると嬉しいな。七倉さんも気分がいいものじゃないだろうし。うん、やっぱりそうだ」
僕の思いが通じたんだろう。七倉さんは手を打って、俄然やる気を出したみたいだ。
「そうですね、京香さんには厳しく行って、もう二度と司くんの家に参らないように言っておきますから!」
僕の復讐の炎は鎮火した。
「あ、待って。やっぱり雨なのに車に乗せていってくれたお礼を言っておいて。それだけでいいから。七倉さんお願い」
僕は翻意した。雨の日の通学がどれほど大変なのかを思い出したからだった。これから毎日とまではいかなくても、雨天の2日に1日、いや3日に1日でも京香さんがこうして送ってくれればどんなに楽だろう。
でも、七倉さんは首を横に振った。しまった。
「そうも行きません。前々から私も思っていたんです。京香さんは頼まれてもいないのに余計なことをしすぎます。今度の今度こそは許しません。前だってあんな……。あっ」
「七倉さん、どうしたの?」
「い、いえ、なんでもありません……」
七倉さんは口元を抑えて、小さな声で何か言っていた。
いったい七倉さんが何をされたのかは気になったけれど、とりあえず京香さんへの追及は止められそうだ。もっとも、京香さんの悪行が止まらないということでもあるんだけど。
僕は気を取り直して七倉さんに尋ねた。
「そういえば七倉さんは氷上さんって知ってる?」
「氷上さん……ですか? いえ……」
七倉さんはしばらく考えてから、手を合わせた。
「ひょっとして、生徒会の氷上さんではないでしょうか」
「生徒会?」
僕には全く思いあたりがなかったけれど、七倉さんはおもむろに鞄からクリアフォルダを取り出した。そこから1枚のプリントを取り出して、僕に差し出した。
「5月に頂いた生徒会役員の一覧表です」
七倉さんは、僕が完全に忘れていたことを説明してくれた。プリントは5月の末に生徒会が配布したもの。特に生徒会長の名前は、本来ならば入学の時期に周知したいのだけど、新1年生から生徒会に入る生徒がいるから、それを待って発表するらしい。
それを見ると、僕はすぐに氷上さんを見つけることができた。
「生徒会長?」
生徒会役員一覧
会長 氷上優子(3年)
副会長 倉橋春高(2年)
僕は副会長が倉橋家の出身だということを見つけて、なぜか満足げになった。でも、3年生の生徒会長があの女の子? まさか。
「なんとなく大人っぽいところもあったけれど、3年生ではないと思うよ」
「たしか、氷上さんはもうひとりいらっしゃったと思います」
僕は視線を左に滑らせて、何人か挟んだいちばん最後にもうひとりの氷上さんがいることを見つけた。
庶務 氷上桃子(1年)