28, 七倉さんとおとぎ話
僕たちの乗った車は町の中心街にまで来ていた。それで僕はようやく図書館に来ているのだということが分かった。
「でも、京香さんはどうしてあんなにも七倉さんのことに必死なんですか。その、たしかに七倉さんは名家の本家の長女で、お祖父さんは大企業の会長だし、お父さんは社長、京香さんのお義父さんは関連会社の社長で、同じ社長令嬢でも京香さんよりも七倉さんのほうがずっと立場が上だっていうのは分かります。社会人になったら、そういう上下関係がたくさんあるんだろうな、ということも僕だって分からないわけじゃありません。でも、京香さんの七倉さんに対する態度はいくらなんでも行き過ぎだと思います」
「……ふふっ」
そのとき、京香さんは初めて笑った。もちろん、京香さんは今までも全くの無表情というわけではなかったけれども、ミラー越しに見えた表情はとても柔らかだった。
「それも含めて、こちらにお連れしたかったのです」
車は図書館の駐車場に入っていく。でも、周りの車からしたらこんな車が入ってくるのはものすごく場違いだと思う。僕なら近寄りたくない。
外は暑かった。僕たちは多くの人が出入りする閲覧室ではなくて、郷土資料室へと進んでいった。僕は京香さんに尋ねた。
「これまで、僕は京香さんと会ったことはなかったはずですよね。それなのに、どうして急にこんなふうに姿を現したんですか」
「当然、司様がご祖父の跡をお継ぎになることが決まったからです。今日、ご覧になって頂きたい文書は、司様が跡を継がれなければお見せすることはありませんでした。お見せする文書は七倉家文書と申します。そのなかで、天正年間のものを見て頂きます」
「七倉家文書……」
「文字どおり七倉家に伝わる古文書のことです。七倉家に伝わる一部の古文書については、正本を七倉本家に、副本を公共図書館に置いています。ただし、閲覧には七倉家の許可を要しております。言うまでもなく、司様のように能力者を知る者のみが見ることができます。もっとも、何も知らない人間が読んだところで、現実にあることとは思われないでしょうが」
郷土資料室に入ると、僕たちはまっすぐにレファレンスカウンターに向かった。京香さんは司書の女性にひと言だけ告げると、その女性は書庫へと入っていった。きっと前もって連絡していたのだろう。
「司様の祖父・聡一郎様は、生前よくこちらを訪れ、文書を閲覧されておられました。私もお目にかかったことがあります。惜しい方を亡くされました」
しばらく待つと、司書の女性は大判サイズの本を持ってきた。もっとも、本といってもその文書はふつうの書籍とは違う。1枚の長い紙が、折りたたまれて厚い表紙に挟まれたものだった。
「もっとも、当時の文書をそのまま読むことはできないでしょう。中に現代語訳を付しておりますから、どうぞそちらを合わせてお読みください」
僕はテーブルについてから、京香さんに言われるままに文書を開いた。そこには、僕がふだん目にする漢字や仮名文字とは似ても似つかない崩し字が、一面に綴られていた。けれども、全てが読めないわけではなくて、よく見るとなんとなく漢字の形が見えてくる。
僕は現代語訳を照らし合わせて読み始めた。
『七倉なつの事について。
天正八年、七倉城は落城した。城主・七倉備中守、七倉主水、七倉左衛門佐をはじめ一族の多くが討たれ、滅亡した。
七倉備中守の一女に「なつ」がいた。落城の際、「なつ」は弟・新左衛門を連れて城を抜け出し、山中に隠されていた宝物の鍵を開け、倉より金・銀・銭を出し、姉弟ともに逃げ延びた。兵を雇い、生き残った一族を集め、みなを励ました。「なつ」は自ら一族を率いて父の仇を討った。
天正十五年、久良川(現・久良川本町七倉)に居所を移した。「なつ」は新左衛門とともに倉を建て、東は武蔵・伊豆国、西は長門に至るまで、大名小名を問わず七倉の力を用いて商いをした。名主、足軽、百姓に至るまで、人々はみな七倉の倉に列をなし、財物が山のようになった。』
「なつ様は永禄八年にお生まれになりました。西暦ですと1565年です。七倉の城が落ちたのは1580年。今の菜摘お嬢様と同い年の頃です」
僕は知っていた。七倉家の長い歴史の中に、ときおり女性の当主がいたことを。不思議なほどの幸運を起こし、家を生き長らえさせてきたことを。
「まだ数多くの資料が置かれております。司様が祖父・聡一郎様の跡を継がれましたら閲覧を許可いたします。本日は、お嬢様とご親交のあることを考慮して、今後のご挨拶としてこちらをお見せいたしました」
京香さんが立ち上がるので、つられて僕も席を立った。
僕たちは車に戻った。車を出して、しばらくすると、京香さんのほうから話しかけてきた。
「私が、菜摘お嬢様が既に当主であると申し上げた理由が分かりましたでしょうか」
「分かりません」
僕は間髪を入れずに撥ねつけた。
嘘だった。僕はもう半ば理解していた。京香さんはそれを知っているのに、わざわざ丁寧に説明してくれた。
「たとえば、先代様はお嬢様の曾祖父の妹でいらっしゃいました。そのため、80年前、お兄様であるお嬢様の曾祖父が一族の長となられました。兄として一族を支え、能力者である妹の負担を減らしたのです。しかし、菜摘お嬢様は80年前の先代様とは異なります」
京香さんはそこで言葉を句切って、少しだけ声を大きくした。
「菜摘お嬢様は本家直系の長女です。年長の兄姉はおられません。いるのは弟がおひとりだけです。450年前の当主・なつ様と全く同じです」
僕は手をぎゅうっと握りしめた。
「それだけで、七倉さんが当主だなんていい加減すぎるでしょう」
「七倉の能力者はすべて女性です。しかし、女性であればかならずしも強い能力を持って生まれるわけではありません。本家に生まれ、強い鍵開けの能力を持ち、なおかつその能力者が年長の兄姉をもたない長女であるのは、なつ様以来、実に450年ぶりのことなのです。この450年の間に生まれた使い手には、すべて兄や姉がいました」
「でも、今は戦国時代とは違うじゃないですか。七倉さんにはお父さんも、お祖父さんもいます。七倉家は大企業を経営していて、もちろん大変なこともあるかもしれないですけれど、なつさんとは置かれている状況とはまるで違うじゃないですか」
京香さんは小さく頷いた。
「そのとおりです。社会的に置かれている状況だけならば、先代様のほうがよほど厳しかったでしょう。先代様の時代には大きな戦争が続き、七倉家にとっても非常に苦しい時代でした。しかし、そのような時代は苦しくはありますが、七倉家にとっては乗り越えられないわけではなかったのです。当時の七倉家には多くの若者がおり、能力者も多くいたからです。それから70年が経ち、今では皆様高齢になられ、数も少なくなりました。しかし、女性は男性より長命です。その頃を覚えておられる世代の能力者は、まだ何人もご存命です」
僕はなんとなく夢を見ているような気持ちだった。前に七倉さんが言っていたことを思い出す。七倉さんの親戚である能力者はたくさんいると言ったこと。けれども、七倉さんよりもずっと年上で、考えるべきことも違うと言ったこと。
京香さんはミラー越しに僕の顔を見た。
「ですが、今の時代こそ本当に苦しい時代なのです。司様もご存じだと思いますが、七倉家には能力者がほとんど生まれなくなっているのです。菜摘お嬢様に最も年齢の近い能力者は10歳上の遠縁・楓様。もっとも、楓様はお嬢様に劣らぬ能力者ですが、一昔前ならば決して顧みられることがなかったような遠い血縁です。しかし、今の七倉家にとっては20代でただひとりの能力者なのです。つまり、10代の能力者は菜摘お嬢様おひとりだけ、20代の能力者は……今この地には、ひとりもおられません」
「楓さんよりも上の年齢の能力者も、分家を合わせてもひとりもいないんですか?」
「いえ……楓様に近い年上の能力者は何人かおられますが、能力の強さが足りません。菜摘お嬢様や楓様が特別すぎるのです。おふたりは本当に何気なく能力を使えてしまいますが、あのような使い方ができるのは、七倉一族でもそうはないことなのです」
それで、僕は勘違いをしていたことが分かった。僕はいつも七倉さんを基準に物事を考えていたんだ。能力者は能力を自在に使いこなせて当然だと。
でも、そんな特別な能力を持たない僕には分からなかった。本当は、当たり前のように使われる能力でも、それを使うには様々な条件があることを。
「まるで能力者が絶えてしまうかのような状態は、七倉家の長い歴史においても、滅多にないことなのです。七倉の城が落とされ、七倉家が散り散りになった450年前にあったきり……だから、皆が期待しているのです。菜摘お嬢様こそ、このかつてなく苦しい時代を支える、最高の能力者になるのではないかと」
僕はもう何も反論することができなかった。
「そういえば、私がお嬢様に対する態度が過剰すぎる、という質問に答えておりませんでしたね。私も、初めてお嬢様にお会いしたときには、単に可愛らしい小学生の子供だと思っておりました。本家の長女とはいえ、私のほうがいくつも年上です。……しかし、七倉家にとって本家とは、最も多くの能力者が生まれ、一族のみなが大切とするものを全て守ってきた家なのです。それを理解してから、私の考えは変わりました」
京香さんは思いついたように僕のほうを見た。
「司様は、七倉の倉に入っているものは何かと思われていますか」
「それは、収穫物とか財産とか……」
「たしかにそれは正解です。しかし、答えの半分でしかありません」
半分という答えに、僕は更に考える。けれども、僕の家には倉なんてないから、その中に入れる物の想像なんてつくはずもなかった。
「七倉家にある多すぎるほどの倉には、七倉分家の品を保管しているのです。七倉の姓をもつものは、みなあの倉に入ると驚きます。とうの昔になくしたと思っていたものが残っているからです。父や母から頂いた大切な宝物。遠い昔の思い出の品。絶対に失いたくない絆の証……。どのようなものでも、七倉本家の能力を用いれば、いつまでも保管することができます。そして、それこそが人にとってかけがえのない支えになるものなのです」
京香さんは続けた。もう少しで高校だ。
「七倉一族のご老人などは、涙を流しながらお嬢様を拝まれるほどです。それを目にしたとき、私は気がついたのです。菜摘お嬢様は、とても大切な能力をお持ちになられ、使いこなすだけの心の強さをお持ちだと。そして、私はこのお嬢様を守れるだけの能力を持っているのだと」
ミラーの向こうで、京香さんの目は迷いなく前を向いていた。
「私がお嬢様を尊敬しているのは、そういうことです」
***
僕たちが高校に戻った時間は、6時前のことだった。夏至が近いおかげで外はまだまだ明るくて、吹いてくる風も生ぬるかった。僕が正門の前で車を降ろしてもらうと、ちょうど七倉さんが生徒用昇降口を出てきて、こちらに向かって歩いてくるところだった。
そうか、京香さんの能力を使えば、七倉さんのことが遠くからでも見えているはずなんだ。つまり、僕と京香さんが図書館へ行ったことは、うまく時間調整された上での出来事だったんだ。
でも、京香さんは僕とずっと話をしていたし、運転もしていた。そのうえで能力を使っているということは、京香さんも決して弱い能力しか持っていないわけではないということが分かった。
「あれ? 司くん、それに京香さん!」
「七倉さん、文芸部はもう終わったの?」
「はい。それよりも京香さん、私は車を使わないと言ったでしょう。あっ! ひょっとして、司くんにご迷惑をおかけしたんですね。能力を使ったんでしょう!」
「なつ様のお話をお聞かせいたしました。聡一郎様もよくなつ様のことを調べておいででしたから」
「もうっ、勝手なことをしてはいけません! 司くんは京香さんが思っているよりもずっと鋭いひとなんですからっ」
七倉さんはまた怒り出してしまった。せっかく放課後になっていつもどおりの調子に戻ってきたと思ったら、また朝みたいに逆戻りだ。怒り顔も綺麗なんだけど。
僕が見とれていたら、七倉さんは急に僕のほうを向いた。
「司くん、今日は私と一緒に下校してくださいませんか? 今日だけでいいですから」
僕は慌てて3回くらい首を縦に振った。七倉さんの誘いを断る男子なんてどこにいるのかと思う。七倉さんは僕にお礼を言ってから、京香さんに向き直って宣言した。
「そういうことですから、護衛は必要ありませんっ。今日はもう京香さんは家に帰って、ゆっくりしてください!」
「承知いたしました。お気遣いくださりありがとうございます」
京香さんはそれを聞くと、えらくあっさりと引き下がって、車の運転席に乗り込むと、僕と七倉さんに頭を下げてすぐに車を出した。
それを見届けると、七倉さんは僕に謝ってから歩き出した。もちろん僕も隣を歩く。なんだか最後の最後にものすごく得をした気分だった。七倉さんはいくつか僕が京香さんと何をしていたのか聞いてきたけれど、もうあまり怒ってはいないみたいだった。
僕からは何を話そうか悩んだけれど、結局、何も思いつかない僕は、いちばん気になっている話をしようと思った。
「ねえ、七倉さん」
「はい、なんでしょうか」
「なつ様がその後どうされたか、七倉さんは知っているの?」
「図書館でお読みになったんですね。もちろん知っています。お聞きしますか?」
僕は頷いた。明確な理由があったわけではないのだけど、僕はその続きを聞きたいと思った。七倉さんと同じだという、ずっと昔の能力者の話を。
「ええと、司くんはどこまで知っているのでしょう?」
「なつ様がお父さんの仇を討って、この町に移って商売をするところまで」
「分かりました。では、久良川が平和になったところからお話しします」
そう前置きして、七倉さんはとても聞き心地のよい声で、遠い昔のお伽噺を始めた。
『……なつ様が成長するにつれ、久良川に争いごとはなくなり、平和になってゆきました。まだ他国では争いがありましたが、それも徐々になくなってゆきました。
美しい女性になったなつ様には、好きな方がおられました。久良川の村に暮らす、とても賢く、働き者の青年です。その賢い男はひと目でなつ様の不思議な能力を見抜き、なつ様はそんな男のことを好きになったのです。ふたりはお互いに結婚を約束しました。
しかし、なつ様の結婚を、家中の者はみな反対しました。家柄が違いすぎる。もっと良い男性がいる。けれども本当は、家中の者はなつ様がいなくなることで、豊かな暮らしができなくなることを嫌がったのです。
あるとき、なつ様は言いました。
「私の結婚を認めてくれないのなら、もう倉を開けません」
それでも、家中の者は結婚を認めませんでした。
なつ様は悲しさのあまり家に閉じこもり、一日中、泣いて暮らすようになりました。
家中の能力者はどうにかして倉を開けようとしました。しかし、なつ様でしか開けられない倉を前にして、誰も倉の鍵を開けることはできません。
やがて、倉が開かないことに腹を立てたひとが押しかけるようになりました。
ある商人は言いました。
「倉の中に預けた銭がなければ、商売ができないではないか」
裁判を起こしている者が言いました。
「あの証文がなければ、私は嘘をついていることになってしまう」
家中の者も言いました。
「あの倉にたくさんの金や銀を置いてあるのだ。これでは、倉が朽ち果てる前に我々が飢えてしまう」
家中の者はどうにかしてなつ様に鍵を開けさせようとしましたが、それもうまくいきません。なつ様の心が弱ってしまっていて、なつ様の手を触れさせても扉は開かなくなってしまったのです。
困り果てた家中の者は、もうなつ様の結婚を反対しませんでした。
ただひとりの弟・新左衛門は、なつ様に謝り、頼みました。
「姉上様、家はこの新左衛門が継ぎます。姉上様はその賢く働き者の男と結婚してください。しかし、姉上様がいなければ七倉の家は潰れてしまいます。どうか結婚なされても、時には七倉の家に戻り、その力で私たちをお助けください」
なつ様は頷き、倉の扉を開けました。
家中のみなは安堵しました。それから、倉の中にあった金や銀を使い、なつ様と男の結婚式を挙げました。それはとても盛大なもので、遠い国からもお祝いの使者が来るほどでした。
それから、なつ様は新左衛門との約束どおり、七倉の家にときおり帰り、その力を使って七倉の家をますます豊かにしました。
なつ様は末永く幸せに暮らしました』
僕はとても複雑な気持ちになった。それは、僕が考えているよりもずっと良い結末だったからだ。なつ様は色々な苦難を乗り越えて、結果として好きなひとと結ばれた。それは、僕にとっては何の関係もない話のはずなのに、なぜか僕の心を捉えて放さなかった。
「素敵な話でしょう?」
七倉さんは首を傾げた。今日いちばんの笑顔だった。
「うん、いい話だった」
七倉さんはいったいどこまで知っているのだろう。自分がまるでなつ様のように扱われていること。七倉家を支えてほしいという期待と重圧。全てを知っていて、こんなふうにきらきらとした笑顔を僕に見せてくれるのだろうか。
僕にはまだ全ては分からない。僕はまだ祖父の跡も継いでいない。いや、このときまでは、そもそも祖父の跡を継ぎたいとすら、明確に思っていたわけじゃなかったんだ。
でも、僕はこのときはっきりと祖父の跡を継ぎたいと思った。そのために必要なことは、初盆が過ぎる頃までに、きっと明らかになる。
初盆まではまだ時間はある。まだ、夏は始まったばかりなんだから。