26, 七倉さんと京香さん
翌日、僕がいつものように自転車で長い坂を駆け上がって登校すると、正門の前に人だかりができていた。野次馬みたいに久良川高校の生徒が集まってきている。久良川町は都心から離れた郊外にあるから、こんなふうに人だかりを見るのは珍しいことだった。
僕は人混みを避けるように、大回りをして正門に回り込もうとした。
いったい何なんだろう……。巻き込まれたくはなかったけれども興味はあった僕は、横目でその人混みの中心をのぞき見した。
車が停まっている。ただの車じゃなくて、黒塗りで朝日を反射してつやつやしている。この辺りでは見たことがないし、といって都心の道路でもあんな車はめったに見られない。
なんだろう、あの高級車。なにせ光沢が違う。交差点が曲がりにくそうな胴長の自動車でなくても、塗装が全然違うので値段が桁違いだと分かる。車にぜんぜん詳しくない僕でも気づくくらい、装飾が凝っているような気がするし。
そして、その車の前には七倉さんと京香さんがいた。
僕は顔を伏せて、その場を早く通過することに決めた。あれは関わっちゃいけない。
「あっ、司くん。おはようございます。聞いてください、京香さんったらひどいんですよ!」
あっさりと、僕が逃げるよりも前に七倉さんに見つかってしまった。群衆が一斉に僕を見る。やめて七倉さん!
でも、このまま逃げ出しても仕方がないので、僕は自転車の前輪の向きを変えて、人混みのど真ん中に突入した。まだふたりは来たばかりみたいだけれど、登校のラッシュ時間帯だから、生徒が次々に足を止めている。このままだと校舎から生徒が出てくるのも時間の問題じゃないのかな。
でも、京香さんはそんなことを全く意に介さない様子で、姿勢良く一礼した。今日も昨日と同じように冷たい視線だった。いや、単に目つきが鋭いだけなんだけれど。
「おはようございます。司様」
「あ、お、おはようございます」
僕がおずおずと挨拶するなり、七倉さんが僕と京香さんの間に体を滑り込ませて、大げさなジェスチャーで黒塗りの車を指さした。
「見てくださいこの車」
僕は車を見た。ちなみに野次馬のみんなも車を見た。
「悪趣味です。こんな車で高校の前に着けちゃったんです。ひどいです。非常識です」
「会長のご命令ですので」
会長というのは七倉さんのお祖父さんだ。昨日、球技大会を早引けした七倉さんだけれど、京香さんはそのことを七倉さんのお祖父さんに報告すると言っていた。その結果がこれというわけか。
七倉さんは憤慨していた。
「お祖父様が今日だけはどうしてもと言われるので、今朝は乗ってきました。帰りは車ではありません。それはいいです。でも、そもそも高校生が車で送り迎えをしてもらうなんておかしいです。高校に入学してから3か月ほどが経ちますが、見たことがありません」
京香さんは冷静に反論した。
「ご家族の都合が良ければ高校生でも送迎される親御さまもおりますし、遠方から通学している場合には車を使われる方もいらっしゃいます。お嬢様がお車をお使いになられても、高校生らしくないとは思いませんが」
「私はおかしいと思うんですっ。百歩譲って車を使うとしても、こんなに良い車を使わなくてもいいじゃないですか。それなら、京香さんの乗られている車が良かったです。あの可愛らしい車のほうが私は好みです。赤くて小っちゃくて燃費がいい車がいいです」
僕は京香さんの顔を見た。赤くて小っちゃくて燃費がいい車。そういえば色とりどりの軽自動車が、おしゃれな街中をすいすい走っているCMを見たことがあった。京香さんがそんな車を……似合わない。
「あのような軽自動車は周囲の車に気づかれにくく、乗り心地も良くありません。まして、事故に巻き込まれることを想定すれば、あのような車を使うわけには参りません」
京香さんは、自動車メーカーの関係者が聞いたら怒り出しそうなことを、無表情で言ってのけた。まあでも、七倉さんが乗ってきた、ゼロが7つくらい付きそうな値段の車と比べるのは、あまりにも無茶だと思うけれど。
「京香さんは運転が上手なんですから、そんな心配は必要ないでしょう? とにかく、今日の車はあまりにも分不相応です。お祖父様やお父様、取締役会の方が乗る車みたいです。私が乗るような車ではありません!」
「ちょ、ちょっと待った!」
話のスケールがだんだんと大きくなってきて、僕は慌てて話を止めた。前のめりになっていた七倉さんが引き下がって、京香さんの眉が跳ねた。
「とりあえず、場所を変えようよ」
七倉さんが周りを見回して、何人かの生徒と顔を合わせた。
「あっ」
京香さんはといえば、何の感動も見せずに後部ドアを開けた。ドアを開けるために布を使うなんて初めて見た。
「ではお車へ。少しそのあたりを回って公園にでも着けます」
その口ぶりだと僕も乗れと言われているような気がするけど。
「僕は自転車を置いてこないと」
「そのあたりに置いていて問題ありません」
僕は逃げ出したくなる衝動を堪えて、正門の門扉にチェーンの鍵をくくりつけて、自転車の車輪と結んでおいた。
僕は七倉さんの隣に座った。革張りのシートの座り心地は最高だったけれど、七倉さんの隣に座っているせいで僕はちっともリラックスできなかった。もっとも、そんなこととは関係なく七倉さんはぷりぷり怒っていた。
「シートベルトをご確認ください」
僕はシートベルトを引っ張った。七倉さんは無視した。
「私はただの高校生です。ただの高校生がこんなに立派な車にひとりで乗っていたら、誰だっておかしいと思うに決まっています。……今は司くんとふたりで乗っていますけれど」
「ではよろしいではありませんか」
京香さんはハザードランプを切りながら言った。
「よくありません! 司くんにご迷惑です。自転車だってちゃんと駐輪場に入れないと怒られてしまいます。あ、京香さん次は左のほうが良いです」
京香さんは左にハンドルを切った。スピードは遅めだ。車も、なるべく裏道を行こうとしているみたいだ。このあたりは都心に向かう幹線道路が何本か通っているので、そこにぶつかるとゆっくりとは走りづらくなる。
「もはやお嬢様は七倉家の当主なのです。会長や社長と同じ待遇どころか、それでも不足だ……と思っている者も大勢おります。これでも抑えているくらいです」
僕は思わず声をあげた。当主なんて今どき使わない言葉だけれど、その意味はすぐに分かった。要するに七倉家と七倉グループで最も権威と権力がある人ということだ。
「な、七倉さんって、七倉家の当主だったの?」
「ほら、司くんが誤解しちゃったじゃないですか!」
「いえ、誤解ではありません。事実そう考えている者が多いのです」
どういうことだろう。僕は京香さんに尋ねたかったけれど、七倉さんはそれを望まないような気がして黙っておいた。でも、バックミラー越しに京香さんと目があったような気がした。
「もしそうだとしても、家から高校までは車を使うほどの距離でもありません。わざわざ車を使わなくても徒歩で充分です」
「会長も心配しておられるのです。春先などは夕刻をおひとりで帰られたと知って、毎日のように私たちに事情を聞いておられました」
僕は首を傾げた。
「それは楓さんの手紙を捜すためだったと説明しました」
「それでもです。このあたりは治安が良いとはいえ、くれぐれも気をつけられませんと」
僕たちの乗った車は高校の近所を走ったあと、高校近くの公園の前に停まった。
「お嬢様のお許しがあれば、高校の行き帰りはもちろんさせて頂きますし、行きたい場所がございましたらどこへでも私がお連れいたします。私のことなど手足のように使って頂いて良いのですから」
「不要です。私ももう高校生です。京香さんにこれ以上のお手間はかけさせたくありません」
七倉さんはそう言い切って、シートベルトを外して、車の外に出ようとした。
「お嬢様っ!」
僕は驚いた。それまでずっと感情の読めないような無表情を貫いていた京香さんが、血相を変えて僕らのほうに振り返ったからだ。七倉さんはドアにかけた手を止めた。
「他の者がどうしているかは存じません。しかし、私が運転する際には、車のドアにだけは決して手を触れぬこと、それだけは何があってもお守りください」
七倉さんは京香さんのほうをちらりと見て、小さく溜息をついた。
「もちろん分かっています。ごめんなさい」
そのとき僕は気がついた。京香さんは本当に七倉さんのことを心配しているのだと。七倉さんを心配して、とても真剣に七倉さんの護衛をしているのだと分かった。
京香さんは外に出て、七倉さんが座っているほうの扉を開けた。七倉さんが颯爽と車を降りた後で、今度は僕のほうの扉を開けた。僕はぎこちなく車を降りた。
「司様も、できれば気をつけて差し上げてください。お嬢様の能力を知る者はみな、心から注意していることなのです」
僕は七倉さんには聞こえないように京香さんに言った。
「シートベルトが役に立つとは限らないから……ですか」
京香さんは感心したように、小さく「ほう」と言った。
「さっき、京香さんがわざわざシートベルトを確認するように言ったとき、七倉さんは無視したように見えました。怒っているのかとも思ったけど、違うんです。そもそも、七倉さんはシートベルトに触ったり、引っ張ったりしてはいけないはずですから」
「そのとおりです。お嬢様が咄嗟にシートベルトに触れた場合、そのロックが外れてしまう可能性があります。ですから、この車ではシートベルトのロックを運転席から確認できるようになっています。それでも、お嬢様を乗せた自動車では、どのようなことがあっても事故だけは起こしてはならないのです」
けれども、僕はシートベルトのロックにまで、七倉さんの能力が適用されるとは思っていなかった。ただ、七倉さんが当然のように京香さんのことを無視したのが、明らかに不自然だったから気がついたんだ。
京香さんは車に乗り込む寸前、僕にこんなことを言い残した。
「司様はお話に聞いていたとおりの方です。それでは」
七倉さんの長い髪をなびかせて、車が走り去る。僕はそれを見送りながら、京香さんにはたくさんの聞かなければならないことがあることを確信した。
「京香さんは大げさすぎます。私はあんな車で学校に来たくはありません」
七倉さんは相変わらずむくれていた。そんな様子は学校では見られないので貴重なワンシーンだった。
「でも、京香さんは本当に七倉さんのことを心配してあんなふうに言っているんだよ」
「分かっています。それでも、毎日あんな車で通学するなんて、ちっとも高校生らしくありません。本当は私だって、司くんみたいに自転車で通学したいくらいなんですから」
僕たちは学校へ向けて歩き出した。公園から高校までは何分もかからない距離だ。僕は七倉さんの機嫌を直してもらうためにも、少しだけ話題を変えることにした。
「京香さんはずっと七倉さんの護衛担当なの?」
「特別警備に入社されてからはそうです。京香さんと初めてお会いしたのは、私が小学生で京香さんが高校生のときでした。その頃からあんなふうに堅苦しい感じだったような気がします。高校を出て、大学には行かずにすぐに就職されました。でも、頭も良い方で、お父様は大学にも行かせるつもりだったとお聞きしました。表情にはほとんど出さないのですが、本当はとても優しいひとなんですよ」
それは僕もそう感じたので頷いた。七倉さんも怒っているとはいえ、京香さんの気遣いは決してイヤではないみたいだ。
「京香さんは楓さんと会ったことはあるの?」
「いいえ、その頃にお会いしたことはないです。この前、10年ぶりに楓さんにお会いしたときが初めてでしたから」
案の定、僕たちはすぐに校門にたどり着いてしまった。あまり余計なことを言わないうちに話が区切れたので良かったのかもしれないけれど。
そこにはもう人だかりはできていなくて、ちらほらと遅めに登校してきた生徒がいた。そして、正門の門扉には僕の自転車が繋いであって、その隣にはどういうわけか僕たちのクラスの担任が腕組みして立っていた。
「司くん! 自転車をこんなところに放置してはいけません!」
僕は詐欺に遭ったような気分になった。理不尽だ。
もっとも、隣にいる七倉さんが申し訳なさそうな顔をしているから、どうやら朝の一件はこれで落ち着きそうだ。京香さんがここまで見通していたとしたら、ちょっと抗議したくなるけれど。
ついでに、担任教師に軽く怒られた後で、教室で河原崎くんにも皮肉られた。
「よう、七倉と重役出勤したらしいな」
僕は遅刻なんてしていないって。