25, もうひとりの七倉さん
保健室の白いカーテンは、あまり僕には馴染みがない。これでも僕は、健康と丈夫さだけがとりえみたいな体をしていたから、保健室のお世話になることはめったになかったんだ。
七倉さんは真っ白いベッドに横になっていた。
でも、寝ているわけでもないし、脳波を調べる器具が取り付けられているわけでもない。単にボールが当たった箇所がよく見えるように、向こう側をむいて、保健室の先生の診察を受けているだけだ。
付き添いの僕は、ベッドからは少し離れたところに丸椅子を持ってきて、そこに座っている。七倉さんに先生の優しい声が掛けている。頭に響かないように、わざと小さな声で言っているようだった。
「こぶにもなっていませんし、問題はなさそうですね」
「はい」
「一応、大事をとって今日はもう激しい運動はしないようにしてください」
「でも、球技大会に出ないといけません」
「球技大会は諦めてください。大丈夫でしょうけれど、もしもういちど頭への衝撃が加わると、大事になることがありますから」
「分かりました、私がいなくても戦力的には問題ないでしょうから、諦めもつきます」
「それから、学校へは自転車通学ですか?」
「いえ、徒歩か車です」
「そうですか。徒歩でも良いですが、できれば車を出してもらうように、親御さんに頼めますか?」
「はい。そのようにします」
「今日は日差しもきついですし、もうすぐ球技大会も終わりますから、保健室で休んでいっていいですよ」
「ありがとうございます。先生」
七倉さんが起き上がると、先生は安心したように席を外した。七倉さんは髪や制服を整えてから、僕に小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけいたしました。ちょっと転んでしまっただけだったのに、大騒ぎになってしまいましたね」
「でも良かったよ、単に転んだだけだったんだ」
「はい、ボールに当たったといっても、びっくりしただけで痛みはほとんどなかったんです。それよりも、あまりにも無警戒に歩いていたせいで、腰がくだけてしまいました。なんだかとっても恥ずかしいですね」
高く上がったボールの直撃を受けた七倉さんだけど、当たったボールはバレーボールだったから、頭に当たったところで怪我をするなんてことはなかった。
もっとも、ボールが突然頭の上に振ってきたことに驚いた七倉さんが転んでしまって、大ごとになってしまった。もちろん、七倉さんはすぐに起き上がって、自力で歩くこともできたのだけど、念のため保健室で休むことになった。
「おかげで球技大会は参加できなくなってしまいました。残念です。司くんは、どうぞ校庭に戻ってください。私はもう少し休んだら教室に戻ります」
「いいよ。僕の出番はもうないし、それに保健室って涼しいからここに居たいくらいだよ」
「いけませんよ。そんな理由で休むなんて不純ですっ」
七倉さんは言葉だけ怒っているみたいだけれど、顔は笑っていた。もっとも、保健室の先生が戻ってきたら、七倉さんはともかく僕は追い出されそうだ。それまでの間、僕はもうしばらく七倉さんの付き添いで涼むことにした。
コンコン。
僕たちがくつろいでいると、扉がノックされた。保健室の先生が出てしまったので、僕はどう返事していいのか分からなかった。
「誰だろう」
「おそらく私です。今日は車で下校ですね」
それはどういうことなのか僕は尋ねたかったけれど、そうするよりも早く扉が開いた。
空いた扉の向こうに立っていたのは、スーツ姿の若い女のひとだった。
6月の暑い盛りだというのに、真っ黒なスーツを上下に着込んで、それが全く崩れていない。都心で見るお堅い仕事の社会人でも、これほど堅苦しくスーツを着る人はいないと思う。来客用のスリッパがひどく不釣り合いだった。
歳は僕の大学生の従姉よりも少し上くらいだろうか。少し冷たい印象を与えるタイプの女性だった。髪は短めだけれど、前は真ん中で分けて、後ろでは束ねている。目つきは猛禽類を思わせるようにきつい。けれども、七倉さんを見る目はどことなく優しくて、見た目ほどには怖いとは思えなかった。
「お嬢様! お怪我は」
うわっ、七倉さんがお嬢様なんて言われるのを聞いてしまった!
ちなみに七倉さんの家が、この辺りでいちばんの名家・七倉家で、そのお嬢様だということは案外有名な話だ。けれども、七倉さんが堂々とお嬢様扱いされるのを僕は初めて目の当たりにした。やっぱり七倉家って名家なんだ。
七倉さんは当たり前のことのように自然と頷いた。
「京香さん、大丈夫です。わざわざ心配するほどのものではありませんでしたから」
京香さんと呼ばれた女のひとは、ほうと一息ついた。
「心配いたしました。頭をお打ちになられたのかと思いましたので」
「恥ずかしいです。実際、そう見えたので、クラスのみんなも心配したみたいです。状況を正確に把握していたのは、近くにいた司くんくらいです。ほら、こちらにいらっしゃいます」
七倉さんが僕のほうに視線を向けると、それと同時に京香さんも体を動かした。僕を見る目は、まるで僕のことを監視するかのようなとても厳しい視線だった。
「はっ、はじめまして。司といいます。七倉さんのクラスメートですっ」
僕は声が上擦るのを自覚しながら、どうにか自己紹介した。とても緊張する。
でも、京香さんは僕が名前を名乗ると、ほんの少しだけ眉の角度を緩めてくれたように見えた。実際にはぜんぜん変わっていないのかもしれないけれど、心持ち優しげになったような気がする。
「そうでしたか。司様――司聡太様でいらっしゃいますね。存じ申し上げております」
「あ、どうも。いや、僕も頭を打ったと思ったんだけど……」
いきなり様付けにされて、僕はまた動揺した。なんだかさっきから狼狽えてばかりだけど、京香さんには不思議な威圧感があったんだ。動き方も機敏を通り越して軍隊みたいだし。
その京香さんが45度に頭を下げるので、僕はまた何事かと身構えてしまった。
「七倉京香と申します。七倉グループの七倉特別警備に勤め、菜摘お嬢様の警護を担当させて頂いております」
「け、警護担当……」
とりあえず僕は開いたままになりそうな口を閉じた。整理しないといけないことがある。
まず、菜摘お嬢様というのは七倉さんのことだ。僕の隣で、ベッドに腰掛けてニコニコしているのが七倉菜摘嬢。僕のクラスメートで、美人で、聡明で、ちょっと不思議な能力をもつ女の子だ。
次に、七倉グループというのは、七倉さんの実家・七倉家が経営している企業グループのことだ。僕は前に七倉さんの実家のことが気になって、少しだけ調べたことがある。それによると、七倉さんの家が経営している会社の名前には「七倉」と名がつくものもあるし、つかないものもある。
七倉特別警備は字面のとおり七倉家の主要企業のひとつだ。ガードマンを派遣するような目につきやすい警備会社ではない。貴重品の保管や輸送を得意とする、裏方だけどとても大切な警備会社だ。
僕がその会社の名前を知っていたのは、七倉特別警備の仕事が、鍵にかかわってくるからだった。つまり、七倉さんは触れただけで鍵を開けてしまえる能力を持っている。それは、裏を返せば、七倉さん以外の誰も開けることができないような、最強の鍵や金庫を使用できるということを意味した。
そういえば、七倉特別警備は絶対安全を掲げる、絶大な信用のある会社らしいし。
「お嬢様は我が社にとって最重要人物ですから」
京香さんは力強く言った。たぶん、七倉さんの能力があるから成り立っている会社なんだろうなと僕は邪推した。
もっとも、僕はそれよりももうひとつのことのほうが気になった。
「でも、七倉ってことは……」
七倉さんが笑顔で頷いた。
「はい、京香さんは私の親戚なんです。京香さんは私の曾祖父の兄弟筋にあたります」
「へええ……!」
僕は感嘆の声をあげた。京香さんと七倉さんはちっとも似ていないけれど、ふたりはわりと近い親戚らしい。ふたりの血縁関係は一般的には遠縁といわれるのかもしれないけど、七倉家の大きさを考えたらむしろ近いほうだ。
でも、京香さんは少しも自慢げでなかった。
「恐れ多いことです」
それから、七倉さんは僕の耳元に顔を寄せた。
「京香さんのお父様は特別警備の取締役社長です。とても立派な方ですよ」
「要するに社長令嬢じゃないか!」
僕はまた驚いた。まるで七倉さんの部下みたいだけれど、つまりは京香さんもれっきとした社長の娘だ。危なかった。七倉さんにつられて馴れ馴れしい態度をとるところだった。
でも、僕が社長令嬢だと言った瞬間、京香さんは眉間にしわを寄せた。
「社長令嬢などと……。七倉家でそのような立場にあるのはただひとり。菜摘お嬢様以外にはおりません。私ごときがおこがましいことです」
それから、京香さんは僕のほうに向かって、噛んで含めるように言った。
「お嬢様のお祖父様は七倉グループ本社会長、お父様はグループ本社社長です。また、大叔父様は県内の地銀の前頭取でいらっしゃいますし、叔父様のおひとりは県会議員。お嬢様の父方の近親だけでもこれだけの方がいらっしゃいます。私の父は、会長のお力で特別警備の社長に指名された身、私などはそのつてで働かせて頂いているだけです」
今さらだけど、僕はとんでもないひとの隣で、暢気な顔をして座っていたんじゃないだろうか。七倉家が何百年ものあいだ栄えていることは、前に図書室で郷土史を紐解いて知っていたけれど、こんなふうにリアルな肩書きを並べられると、僕の想像力の欠如が明らかになってしまう。
でも、七倉さんは少し迷惑そうな口調でこう言った。
「京香さん、やめてください。社会的地位が人の価値を決めるのではないと、お祖父様もおっしゃっていました」
なんだかとても七倉さんらしい。京香さんは反論のひとつくらいするのかと思いきや、七倉さんに向けて深く一礼した。
「申し訳ありません。私の考えが足りませんでした」
「こんなふうに言われていますけれど、京香さんはとても腕が立ちますし、とても優秀なひとなんですよ。私もいつもお世話になっているんです」
「いえ……」
京香さんは言葉に詰まったようだった。あれ、ひょっとして照れてる?
それから、京香さんは気を取り直すように小さく咳をした。
「今日は私の車で屋敷へお戻りください。お祖父様へは私から報告いたしますので」
「報告などしなくていいですよ。ほら、怪我なんてどこにもありませんから」
「そうもいきません。お嬢様にもしものことがあれば、お祖父様やお父様は当然、七倉家の皆が心配いたします。もちろん、私もです」
「でも、そんな報告をしたら、京香さんが怒られてしまうでしょう?」
「私のことはどうでもいいです。本来ならば毎日お送りしても足りないほどです」
「それはやめてくださいと入学前に言ったでしょう?」
七倉さんは魅力的に笑って、僕の顔色を覗うみたいにこっちを見た。京香さんには都合の悪いことに、春先に七倉さんは夕方まで学校に居残っていた。僕はその理由を知っているし、3割くらいは僕にも責任があるような気もするのだけど、僕はどう言っていいのか分からないのでとりあえず黙っておいた。
京香さんは懐から携帯電話を取り出すと、一瞥しただけで元に戻した。たぶんメール。
「本日はこれで下校して構わないそうです。早退扱いではありませんからご安心ください」
「いえ、早退扱いでないとしても、せめて表彰式が終わるまではいなければいけません」
「ダメです。今日くらいは私の仕事をさせていただきます。既にお嬢様の鞄は積み込んでありますので、どうぞお車へ」
「んんっ、そんな勝手なことをしてひどいです!」
七倉さんは怒っていたけれど、京香さんはどんなに抗議しても頑として聞かなかった。あれこれ言い訳をして「高校生として授業を最後まで受けるのは当然です!」とか「みんなが頑張っているのに私だけ下校するなんていけません!」とか言っていたけれど、京香さんは首を横に振るだけだった。結局、
「今日は帰って頂かないと、これから先も車で送り迎えしなければなりません」
というほとんど脅迫みたいな一言で、七倉さんは観念した。
もっとも、それほど学校にいたいと言い張る七倉さんも奇特だとは思うけれど。
「司くん! そういうことですっ。また明日お会いいたしましょう!」
「それでは失礼いたします、司様。またお目にかかるのを楽しみにしております」
保健室を名残惜しそうにあとにする七倉さんと、相変わらず無愛想だけれど頼りになりそうな京香さんは、初めに感じたよりもずっと親しげで安心した。
ところで、七倉さんがいなくなったということは、冷房の効いた保健室から出て、またあの暑いグラウンドに戻らないといけないということだ。僕はそれでげんなりして、七倉さんの後を追うように保健室を出た。外は蒸し暑い6月の空気。
グラウンドに戻ると相坂さんと出くわした。ちょうど試合が終わったところで、相坂さんはますます愚痴がひどくなっていた。
「聡太ぁ。負けたのです。腹立たしいと言わざるをえないのです。あのネットは高すぎます。ハンデをつけなければならないのです……」
「しょうがないよ。バレーボールは団体競技だから、相坂さんみたいに背が低いひとだけじゃなくて、高いひとも活躍できるようにしてあるんだよ!」
「聡太、それはきっと逆に違いないのです」
まずい。このままじゃ、決勝戦が始まる前に学年中の男子が競技種目の変更を訴え出す危険がある。
それから僕は、相坂さんをなだめたりおだてたりして、大変な目に遭った。