21, お菓子のプレゼント
御子神さんの後ろ姿を見送りながら、僕は考える。
相坂さんも言っていたことだけれど、御子神さんの能力はとても幅広い。ただ、こういう幅の広さというか何でも応用が利きそうな能力について、僕は参考になりそうな2人の人物を既に知っている。
ひとりは当然だけど相坂さん。
ただ、相坂さんの能力は御子神さんの能力とも似ているところがあるけれど、その力の根拠は全然違うような気がする。相坂さんは容姿や命令口調に裏打ちされているけれど、御子神さんにそれはないことは確実だ。
だから、相坂さんの能力とは似て非なるものといってもいいかもしれない。
そうなると、僕が知るもうひとりの人物が参考になるかもしれない。
それは河原崎くんだ。
もっとも、河原崎くんが相坂さんや七倉さんと同じような能力者なのかどうかははっきりしない。ただ、仮にそうだとすれば、河原崎くんの能力はコンピュータを自在に扱えるという幅の広いものになる。
僕にはこれが御子神さんの能力に物凄く近いように思えた。
だって、御子神さんの能力は、要約してしまえば「足が速くて、料理がとても上手」というものになってしまう。これは七倉さんが鍵を開けてしまえたり、相坂さんが命令さえできれば相手を異空間に飛ばすことさえできるのに比べると、ずいぶん平凡に聞こえる。
でも、そんな御子神さんの能力にも、共通点や発動条件があるはずなんだ。
それを見つければ、きっと御子神さんの能力を看破することができる――
「蜂蜜の匂いがするのです」
帰りがけ、閉室になる時間まで図書室にいた僕は、いつものように帰ろうとしていた。
相坂さんが声を掛けてきたのは、僕が図書室を出て昇降口に向かう途中の廊下だった。僕が気がつかないうちに、相坂さんは僕のすぐ後ろにいたみたいだ。
「蜂蜜ですか? 私には分かりませんが……」
傍らには当然のように七倉さんがいたけれど、それはとても珍しい取り合わせだった。
記憶を探ってはみたけれど、おそらく入学して初めて見ると思う。だいいち、相坂さんが誰かと一緒にいる場面ですらほとんどないことだ。だからこそ、僕は相坂さんと一緒にいると、クラスメートからあらぬ誤解を受けてしまうほどだった。
相坂さんは僕の鼻先まで詰め寄ると、低く小さい声で言った。
「ホットケーキに違いないのです」
「どうして分かったの? そんなに匂う?」
僕は制服の袖を嗅いでみたけれど、甘い匂いはぜんぜんなかった。むしろ、相坂さんから漂う柑橘の香りのほうが、よほど強かったくらいだ。
「鼻につくというよりは直感がしただけです。相性が悪いから七倉菜摘には分からないのです」
つまり、御子神さんと出会ったことはバレているみたいだった。
相坂さんは怒ったような表情で、僕の顔をじろじろ見てから、僕を責めるようにこう言った。
「御子神叶のケーキは美味しかったですか。べつに怒ってはいないのです。単純に聡太に聞きたいだけなのです」
怒っていないというわりには妙に不機嫌だけれど。
「おいしかったよ。少しオーバーかもしれないけれど、今までに食べたどのケーキよりも美味しかったかもしれない」
それは僕の味覚が庶民的だからだとか、色々な理由と批判は付くけれども、今はそれは置いておこう。けれども、御子神さんの料理の腕は本物だったように思う。
でも、相坂さんは納得がいかないみたいにこう言った。
「材料は市販のものです。工夫の余地はほとんどないに違いないのです。それでも飛び抜けて美味しかったと言えるのですか」
「どうしてそんなことまで知ってるの?」
「今日、御子神叶のクラスで調理実習があったことは知っているのです。というよりも、調理実習が今日に行われるから、料理部もまた活動を行ったのです。6時間目に調理衣実習を行ったそのままの流れで調理室を使用できるからです」
「鍵も開いているし、調理器具の管理もそのほうがいいからかな」
「そんなところに違いないのです」
「司くんっ!」
相坂さんの話が終わったと見るや、七倉さんはふだんは絶対に出さないような大きな声で僕を呼んだ。気がつかなかったけれど、ずっと話しかける機会を覗っていたみたいだ。もっとも、七倉さんの声は大きいといっても耳障りだなんて思うひとはいないと思う。とても綺麗な声で、道ばたで呼び止められたら誰だって振り返るだろう。
僕は七倉さんのその声にもちろん反応して、七倉さんの顔を見た。
いつものように、七倉さんは校則をいっさいはみ出していない制服を着こなしていた。鞄を持った手を体の前で組んでいる。それは普段どおりの清楚な姿だったけれど、僕は体育のときに見た小さめの運動服に身を包んだ七倉さんの姿を思い出して、目を逸らして指頬を掻いた。あれは当分忘れられなさそうだ。
「七倉さんは何か分かったの?」
「はい、友達に聞いて少しだけ御子神さんのことを調べました。もちろん能力のことが聞けたわけではありませんが……」
七倉さんは小さく咳き込んでから、御子神さんについて教えてくれた。
スポーツは万能だけれど、走ることに関しては突出していること。友達が多くて性格もとても明るいこと。他人を騙すことができるような子ではないこと。
でも、僕が気になったのはこの話だ。
「御子神さんの成績は特別良いわけではありません。でも、得意科目の数学は飛び抜けています。それなのに、理数系が得意というわけでもないみたいです」
「数学に特化しているってこと?」
「はい、成績自体はあまりバランスがいいほうではないみたいです。この高校に合格できたのも数学ができたからといっても過言ではないそうです」
「変わっていると言わざるをえないのです。数学だけが得意なひとはそう多くないのです」
「ふつう、数学ができれば他の教科もそれなりにできるよね」
もちろん、数学だけに突出した才能があるひとも世の中にはたくさんいるだろうけれど、全体からすれば僅かだ。数学は得意なひとよりも苦手なひとのほうが多いし、勉強がそれほど得意でないのに数学だけができるひとは稀だ。
僕は七倉さんに尋ねた。
「先週の中間試験の数学の範囲って因数分解だよね?」
「それと二次関数です。御子神さんは両方とも95点以上でした。今回は特に調子が良かったみたいです。ちなみに他の教科は50点から70点ほどですから、数学ができるのは確かです」
95点以上なら七倉さんと相坂さんよりも上のはずだ。
どうやら、数学が得意なことも御子神さんの能力に関わっているみたいだった。またよくわからない御子神さんの能力が追加されたことになる。
でも、僕にはなんとなくだけど御子神さんの能力の共通点が分かり始めていた。
僕はもうひとつ質問をしてみる。僕の考えは当たっているだろうか。
「御子神さんって、あまり神経質な性格では無いと思うけど、実は綺麗好きだなんてことはない?」
「そうです! よく分かりましたね。掃除をするために掃除をするような掃除好きだそうです」
どうやら僕の考えは当たっているみたいだ。
それにしても、七倉さんは僕が聞くことをまるで予測していたみたいだ。それは少しだけ不自然なくらいで、僕は七倉さんがもう半ば御子神さんの能力の正体を掴んでいることが分かった。
「ひょっとしたら、七倉家と御子神家は何らかの形で繋がりがあるんじゃない?」
「惜しいです。それだけはちょっとだけ違っています」
七倉さんは口元に手をあてた。控えめに笑ったみたいだ。
「ごめんなさい、司くんも間違えることがあると知って少しだけ嬉しくなりました。もしかしたら、私が調べたことが無意味になるかもしれないと思って。でも、そうはならないみたいで良かったです」
僕はいつも七倉さんに頼ってばかりいると思っているので、七倉さんの不安はまるで意外だった。なにせ七倉さんは鍵開けの能力を持っていて、僕は正真正銘の一般人だ。
けれども、七倉さんはとても嬉しそうに話し始めた。
「御子神家は能力者の家系ではないんです。御子神叶さんの能力は、彼女が御子神家に生まれたから得たものではありません。このことは、相坂さんとよく似ているんです」
「相坂家も能力を持っているわけではないのです」
「相坂さんの能力は女系で受け継いでいるんですよ。相坂さんは相坂さんのお母様から。相坂さんのお母様はお祖母様からです」
「物心ついたときにはもう使えるようになっていたのです」
僕はそのことを初めて知った。相坂さんの能力を相坂さんの家族全員が持っているとは思わなかったけれど、相坂さんは敢えて能力のことを僕には説明しなかった。
それはある程度は僕自身が推理しなければならないことだったし、相坂さんが能力者ということはそもそも秘密ごとに近い。それなのに、七倉さんがそれを知っているということは、相坂さんと七倉さんは、いつの間にか和解していたみたいだ。
「私の能力は、もちろん名字がとても大切な意味を持っています。私の能力は七倉の名とともにあるともいえるからです。御子神さんの場合は私の反対です。名字と能力には関係はありません。御子神さんの能力は血の繋がりだけに関係があるんです」
「ということは、御子神さんのお母さんが関係しているってこと?」
「はい。御子神さんの母方が異能者の家系です。それを何度も司くんに伝えようと思いましたが、避けられて言えませんでした。それで司くんが少しおかしいことに気がついたんですけどね。実はもう能力の正体もかなり分かっています。でも、答えは私の口からは言わないほうがいいかもしれません」
七倉さんがこんな言い方をするということは、御子神さんの能力は危険なものではなかったみたいだ。僕が七倉さんのことを避けていた理由も、七倉さんにはもう分かっているらしい。
「聡太の鈍感を治すには、謎解きは聡太がしなければならないのです」
「うん、ちゃんと自力で解くよ」
珍しく、僕は男らしく強い口調で言ったつもりだったのに、相坂さんはなぜかそれで溜息をついた。何か悪いことでも言ったのかと思って相坂さんの言葉を待ったけれど、逆に目を逸らされた。
「なんでもないのですっ!」
何でもないようには見えないけれど、相坂さんの横顔には「話しかけてはならないのです!」みたいに命令するような雰囲気が漂っていたので、それ以上追及するのはやめておいた。
それに、僕は七倉さんが持っていた鞄の口を開けたときに、とてもいい香りがしたことに気がついた。それは刺繍入りの布に包まれたクッキーで、七倉さんはそれを僕に差し出していた。
「料理部で作ったんです。うまくできたかどうか分かりませんが、よかったら食べてください」
僕は七倉さんの手に触れないように、丁寧にそれを受け取った。お礼を言うことすら忘れてしまいそうになる。七倉さんの手作りのお菓子をもらえるなんて、僕が知る限りこの高校で僕ひとりだけだ。
祖父の遺言に感謝しないといけない。僕は七倉さんとはとても釣り合わないけれど、七倉さんの能力を知っているだけで、他の男子に比べて遙かにアドバンテージがあるんだから。
僕は急いで結び目を解いて、七倉さんの手作りクッキーを手に取った。
「ああっ、いま食べなくてもいいんですっ! 家に帰ってからでいいですから!」
七倉さんは慌てて止めようとしたみたいだけれど、そのクッキーは見た目も香りもとても美味しそうで、家まで待てるわけがなかった。
料理のことはほとんど分からないけれど、御子神さんが作ったケーキは、作り方の違いも腕の差もほとんどない。でも、このクッキーは七倉さんの料理の腕に左右されるはずだ。
だから僕は七倉さんの目の前で食べたかった。なぜなら、それは見た目どおりの美味しさに違いなくて、実際、僕の想像どおりの味だった。
「おいしい」
「そ、そうですか……。お口に合って良かったです」
僕は普段、女の子の顔をじっと見つめることが恥ずかしくてできないのだけれど、この瞬間、僕はまっすぐに七倉さんのことを見つめた。それは、七倉さんに謝らないといけないことがあったし、感謝しなければならないこともあったから。
「七倉さん、ごめん。御子神さんの能力の影響を弱めるためにいろんなことをしてくれたんだよね」
七倉さんは視線を逸らして答えた。
「いえっ、司くんは悪くありません。もともと能力はむやみに使ってはいけないんです。御子神さんに悪気はないと思いますけれど、司くんの考えていることに影響を与えるような能力は強すぎます。だから私はそれを伝えようと思っただけで、当然のことです」
それは能力者としての義務感なんだろうか。もしかしたら、七倉家は不思議な能力を持つひとたちのリーダー格だったりするのかもしれない。
僕は気になって相坂さんを見たのだけど、相坂さんは溜息をつくだけだった。
「七倉菜摘は律儀すぎるのです。普通はそこまでするわけがないのです」
「これでも七倉家の長女です。やるときにはやるんです!」
「それは七倉家とは無関係と言わなければならないのです」
七倉さんはそれを無視しているけれど、そんな二人の様子はとても仲が良さそうで、僕は笑い出してしまいそうになる。
「もうっ、用事は済みましたから私は帰りますっ」
からかわれた七倉さんはそう言って、ひとりで先に行ってしまう。
僕と相坂さんは顔を見合わせてから、七倉さんの後ろを歩き始めた。
「そういえば、相坂さんはどうして七倉さんと一緒にいたの?」
「七倉菜摘の付き添いで行ったのです」
「そっか、七倉さんとは仲良くなれたんだ」
「まあそんなところです」
あまりにも無愛想だけれど、どうやらそれは照れ隠しみたいだった。
相坂さんは能力の特性上、あまり他人と仲良くしたがらないし、はじめは七倉さんのことを毛嫌いしていていたけれど、僕にはふたりがうまくやっていけるように思えた。それはふたりにとってとても幸いなことに違いない。
そんなことを心の中で考えていたら、相坂さんが手を伸ばして、僕の手元に小さな袋を押しつけた。もう3回目だから、それが何なのかはすぐに分かった。
「ついでです。まずければ捨ててもいいのです」
「ありがとう。ついででも嬉しいよ」
「そうですか」
僕は相坂さんからまだ何か言われるのかと思ったけれど、相坂さんはそれきり黙り込んでしまったので、僕は袋を開いて中に入っていたスコーンを口に運んだ。
あ、やっぱりこれも美味しいんだ。
「……相坂さんって苦手なこととか弱点とかないの?」
「ないわけではないのです。ただ言わないだけです」
「そうなんだ。でも、基本的にはなんでもできるよね」
「なんでもというほど立派なものではないのです。聡太のようにほかの能力者のことを理解することだけは、どう頑張ってもできないと言わざるをえないのです」
「そんなことはないと思うけど」
実際、相坂さんは能力を抜きにしてもなんでもこなせてしまえて、颯爽と物事を片づけていく。普段はそれを誰かに褒められても、喜ぶどころか素っ気なく「当然なのです」と言うだけだ。そのギャップが面白くて僕は笑ってしまった。
それを見て、相坂さんは頬を膨らませて、ほとんど聞こえないほどに小さな声で言った。
「わたしは聡太が弱点なのですよ」