20, 相坂さんの作戦
御子神さんのクラスは僕たちのクラスの隣だから、週に何度かは体育の合同授業で出会うことがある。もっとも、隣のクラスの、しかも異性の御子神さんと、これまで授業で鉢合わせになることはそう多くなかった。
「聡太くーん!」
ただ、知り合いになったからといって、その長い手足で存在をアピールしながら、全力で手を振って僕のことを呼んでくるなんて思ってもみなかった。まあ、女の子がたまたま僕の名前を呼んでいるだけなので、注目を浴びるなんてことはないと思う。たぶん。
ただ、御子神さんの体操着姿は制服姿よりも更に体のラインが強調されていて、僕は視線をどこにやればいいのか困ってしまうほどだった。
脚が長いことは普段から分かっていたことだけれど、いつも制服の上から見ていたよりも大きな胸が服をしっかりと押し上げている。髪を後ろでまとめているけれど、腰元まで伸びる髪はどう考えても速く走るのには邪魔だから、あまり陸上部らしいとは思えない。それは七倉さんと見比べてもそう思う。
七倉さんはそこまで運動が得意というわけではない。御子神さんよりも背は低いけれど、体つきは御子神さんに見劣りしない。普段の露出が少なめだから特にそう感じるんだと思う。七倉さんにしてみれば、単に校則を守っていてそうなっているだけなんだろうけれど。
でも、御子神さんも七倉さんと同じように鍛えていないように見えた。陸上部もよくサボっているみたいだし。
それなのに、体育の授業が始まって陸上競技が始まると、御子神さんはたしかに陸上部らしい快足でトラックを走り抜けていった。
要するに、御子神さんもとても不思議な女の子だった。
だから、僕は日陰で体育座りをして涼んでいる相坂さんを見つけて、御子神さんのことを尋ねることにした。梅雨入り前の暑さだというのに、相坂さんだけは見ているだけでも涼しげだった。
「御子神さん、速いよね」
「速いと言わざるをえないのです。あれは普通ではないのです」
「普通じゃないって、まさかあれも能力だっていうの?」
「そうに違いない――と言いたいのですが、そこまで自信は持てないです。でも、能力に関係しているとは思うのです」
僕は意外に思った。相坂さんの言うことが正しいとすれば、今度は足が速くなる能力を使ったことになる。僕に影響を与えるだけじゃなくて、御子神さん自身も能力の影響を受けるってどういうことなんだろう。
「でも、相坂さんも僕に能力を使ったときにいろんな応用をしていたよね。異空間を作り出したりさ」
「あれは必然性があったからできたことなのです。そうしなければならなかったから、そうなっただけなのです。それに、私自身の運動機能が向上したわけではない。わたしの能力からすれば、御子神叶の能力はあまりにも幅が広すぎると言わざるをえないのです」
相坂さんは御子神さんを睨めつけて、ひとつ溜息をついた。
「つまり、御子神さんが相坂さんよりも強い能力を持っているってこと?」
「違うのです。法則性があるはずなのに、見つけられていないから強大に感じるだけなのです。何にでも応用が利く能力というのはありえません」
僕は七倉さんが言った矛盾のない不完全な能力という言葉を思い出した。
その七倉さんは走っていた。御子神さんの背中を追うように走っているけれども、七倉さんの息はかなり苦しそうだった。七倉さんの足は女子の中では速いほうだけれど、御子神さんにはとても追いつかない。
「七倉菜摘は無理しすぎです。でも、気持ちは分からなくもないのです」
「どうして?」
「聡太は、あれ以来また七倉菜摘と話していないのです」
「それはそうだけど、それは御子神さんの能力のせいだとは限らないよ」
「でも、御子神叶と一緒に走っていれば、聡太は七倉菜摘のことにも気がつくに違いないのです。厄介な能力と言わざるをえないのです」
そういえば、御子神さんのことを調べていると、七倉さんも目に入ってくる。
「暗示系の能力は強力なのです。こうして直に目にすると初めて分かるのです。七倉菜摘がわたしに干渉した理由が、やっと分かってきたのです。その代わりに、わたしも作戦のひとつくらいは立てたのですが」
「作戦?」
相坂さんが手をあげたのは、走り終えた七倉さんが僕たちのほうに歩いてきたからだった。七倉さんは息を整えようとしていたけれど、顔は赤くて汗も流れ落ちていて、無理をして走っていたことが分かった。
それでも、七倉さんはいつものように笑顔で僕に話しかけてくれる。
「司くん、どうですか。御子神さんの能力について何か分かりましたか?」
「ううん。まだ能力の正体は分かりそうもないよ」
「そうですか。でも、司くんならいつもみたいにきっとすぐに解いてくれるはずですから」
そう言って七倉さんはふわりと笑った。
でも、七倉さんは本気になって走っていたみたいで、僕と話している間も心臓の鼓動を抑えるように胸元を手で押さえている。ただ、辛そうな姿だというのに、なぜか僕はその姿に釘付けになってしまった。
どうしてだろう。僕はまだ御子神さんの能力の影響下にあるはずなのに、僕は七倉さんを避けるどころか目が離せなくなっている。それに、なぜか七倉さんはいつもよりも色っぽいように見える……
「作戦なのです」
相坂さんは平坦な声で言った。作戦ってなんだろう。
僕はなんとなく気がつき始めていた。七倉さんは走っただけとは思えないくらいに顔が赤いし、胸元に置いたままの手をどかそうとはしなくて、いやに体を窮屈そうにしている。おかしい。
「あの、相坂さん、そろそろいいでしょうか」
相坂さんのほうはといえば、体育座りのまま七倉さんを胡乱な目で見上げて、なぜか七倉さんの体をスキャンするように見つめた。
「七倉菜摘がそれでいいのなら、止める義務はないのです」
「そうですか! じゃ、じゃあ、私はこれで失礼しますね。司くん、私は信じていますからっ!」
七倉さんは途中で転びそうになるくらいに慌てて女子の列に戻っていく。それを見届けてから、相坂さんは小さく呟いた。
「どうせわたしは小さいのです」
そして、相坂さんは立ち上がって、体についた砂埃を払う。そのとき、僕は七倉さんがどうして窮屈そうにしていたのか分かった。
それはひと目で分かることだった。僕たちの運動服には、胸元に刺繍で名前が入っているのだけど、相坂さんの運動服には七倉さんの名前が入っていたからだ。さらに、相坂さんの運動服は明らかに体のサイズよりも大きめだった。
それなら、七倉さんは誰の服を着ていたのだろう。それはすぐに分かる。
ただ、七倉さんは名前を隠すために胸元を隠していたんじゃなかったのだと思う。きっと、小さめの運動服で強調された体つきを気にしていたのだと思う。
「でも、すぐに大きくなるに違いないのです」
これも、推理なんかしなくても何を言っているのかすぐに分かった。
相坂さんの体操服は、相坂さんの体よりも色々な箇所が若干大きめのサイズなんだ。
***
そういえば、体育の授業の終わりに、僕は御子神さんに呼び出された。御子神さんは既に髪留めを解いていて、腰に手を当てたポージングで僕の前に現れた。
「どうだった? 私の走り、思ったよりも速くてびっくりしたでしょ!」
僕が驚いたのは確かで、少なくとも合同授業に参加した女子の中では御子神さんがいちばん速かった。どうやら、御子神さんは陸上部の新入生の中でも一、二を争う速さみたいだった。
「ひょっとして、それって御子神さんの能力なの? 相坂さんはそう言っていたけど」
御子神さんはすんなり頷いた。
「実はそうなんだ! でも、聡太君に能力を使っているわけでも、みんなの足を遅くしているなんて卑怯なことをしているわけでもないの。私の能力なんだからっ」
胸を張りながら御子神さんは笑っているし、まるで能力だと指摘されたことが嬉しいみたいだった。御子神さんは本当に能力を見破られたいと思っているんだろうか?
「御子神さんの能力って、速く走る能力だけじゃないんだよね」
「もちろん! それに、私の能力を見破るにはまだまだヒントが足りないでしょ? 聡太君にはもっと私の能力を見てもらうからねっ。聡太君、今日の放課後も図書室に来てくれる?」
「うん、行くよ。待っていればいいの?」
「6時間目の授業が終わったらできるだけ早く行くから、そんなに待たずに済むと思うよ。絶対待っていてね」
もちろん、僕はその約束を断ることはしなかった。
僕は6時間目が終わるなり図書室へと足を運んで、御子神さんを待った。
御子神さんは宣言したとおり、放課後になってから15分も経たないうちに現れて、図書室で本を読んでいた僕を廊下に連れ出した。
廊下に出ると、御子神さんは鞄から包みを取り出した。包みを解くと、ラップのかかったお皿が出てきて、そこにはバターと蜂蜜の掛かったホットケーキが載っていた。
まだ作りたてみたいだ。ケーキからは甘い香りが漂ってきて、僕の嗅覚を刺激した。
昼食から時間が経っていて、3時も過ぎたこの時間には、ボリュームのあるお菓子には抗えない魅力があった。
「実は私のクラス、6時間目に調理実習だったの。それで私はホットケーキを作ったわけ。結構自信があるから、聡太君に食べてほしいと思って持ってきちゃった!」
「僕のために? 食べていいの?」
「いいよっ。そのために作ったんだもん」
御子神さんはフォークも持参して来ていて、僕に手渡してくれた。
勧められるままに頬張ると、そのケーキは驚くほど美味しかった。焼き加減も蜂蜜の分量も絶妙で、どこか懐かしさを覚えるくらいに僕の味覚に馴染んでいる。まるで僕の好みを知り尽くしているみたいだ。
「どうかな?」
はじめに料理には自信があると言っていたし、体育の陸上のときにもそうだったけれど、御子神さんは自分の能力をとても信頼しているみたいだった。
それでも、御子神さんは僕の感想がとても気になるみたいで、伏し目がちに、けれども上目遣いに僕の様子を覗ってくる。僕は一口ケーキを放り込むたびに何か言おうか考えていたけれども、結局、たいらげてから感想を伝えることにした。
「おいしい。こんなにおいしいケーキは今まで食べたことがないくらいだよ」
それはお世辞でなく、思ったとおりのことだった。
「まさかこれも能力だなんて言わないよね。でも、本当に魔法か何かでもかかっているんじゃないかと思うくらいの美味しさだったよ」
御子神さんは空になった皿を受け取りながらくすくす笑った。
「残念だけど、これも私の能力なの! びっくりするくらい上手くできたと思うよ。聡太君に食べてもらうために、みんなの前でこっそり能力を使ったんだからっ」
「まさか秘密の調味料なんて持っているわけじゃないんでしょ?」
「違うよ! ちゃんと七倉さんや相坂さんと同じような能力だもん」
「それじゃあ、ひとつだけ質問してもいいかな?」
「なに? あ、答えを教えるのはナシだからねっ」
当然だけど、僕は御子神さんに答えを直接聞くつもりはないし、ヒントもほとんどもらうつもりはなかった。
御子神さんは僕に能力を暴いてほしいと言っていたけれど、それは御子神さんを納得させるような形でという条件付きだ。そうでないと僕にかけられた能力は解けない。
ただ、それでもこれだけは念を押しておこうと思ったんだ。
「僕と七倉さんとの間には、御子神さんの能力は働いていないんだよね?」
御子神さんは虚を突かれたようにキョトンとしていたけれど、すぐにその質問を理解して、少し困ったような表情に変わった。
「それは、たぶん私が何を言っても聡太君は信じられないと思う。でも、それでも私に言わせてくれるのなら――、私、七倉さんとの関係には特別なにか呪いのようなものを使ったわけじゃないよ」
「じゃあ、御子神さんの能力は、相坂さんの能力のように相手に強制するような能力ではないと考えてもいいのかな?」
「ううん。そこまでは保証できないの。ひょっとしたら聡太君と七倉さんとの間に影響が出るかもしれない。でも、私の能力は人を操ったり命令したりするものではないの。これは聡太君も薄々気がついていると思うけど」
御子神さんの言葉に、僕はすぐに頷いた。
でもこれはとても簡単な理由だ。だって、周りよりも速く走ったり、ホットケーキをうまく作れる能力と、相坂さんのように他人に暗示を掛けて自分の支配下に置いてしまう能力は、かなり方向性が違うはずだから。
「私から言えるのはそれくらい。ちょっとだけヒントになっちゃったけれど、仕方ないかな。聡太君に誤解されるよりはずっといいもの」
御子神さんはそう言うけれど、僕はまだ御子神さんの能力の全貌が分かったわけじゃない。でも、御子神さんは僕が答えを見つけるのを心の底から楽しみにしているみたいだった。
「聡太君、今日はおいしいって言ってくれてありがとう。また明日ね!」