02, 七倉さんと開いた鍵(扉絵.イラスト/よしの)
祖父の遺産話でつい忘れられそうになってしまうけれど、僕はこの春から高校生になった。
だから、祖母からお小遣いをもらった休み明けには入学式に出席したし、もちろんその日から高校生活が始まった。
新しく造成された丘の上にある久良川高校は、このあたりを宅地開発したときにできた新しい学校で、今さらだけれど僕は心配になってきた。近隣にはもっと歴史の長い高校があったから、ひょっとすると僕が捜しているような能力を持っているひとは、みんなそちらに進学しているかもしれない。
けれども、この高校は、祖父の家から最も近い高校なんだ。
祖父が急に亡くなることなんて予想もしていなかったから、僕がこの高校を受験したのは、単にこの高校が僕の学力にぴったりだったからなのだけれど、この高校のある山は、祖父が暮らしていた集落と、町とをへだてる小さな山だ。
だから、もし祖父が語る異能力者がこの近隣に生き残っているのなら、この高校に来ている可能性もある――ということで、僕はこの高校にすべてを賭けていた。
もっとも、賭けていたといっても、ほかに選択肢がなかったというだけのことで、要するにごくふつうの高校生活を送っていた。
入学からしばらくすると、僕は新しい生活にも馴染めて、ごく平凡な高校生活を送り始めていたのだけれども、家に帰ると親が高校はどうだ、箱は開けられそうか、などと頻繁に聞いてくるようになったのには閉口した。
まあその気持ちは分からなくはないのだけれど、そんなことを言ったって調べようがないから仕方ないじゃないか。
僕は探偵でもなければ、人捜しの能力があるわけでもないんだから。
「でも、あんがい相手側もお前のことを捜しているかもしれないぜ」
僕の心配をよそになんでもないように言ってくれたのは、僕といちばんに友人になってくれた河原崎くんだ。
河原崎くんは身だしなみにはあまり気を遣わないタイプの男子だった。前髪で目元が隠れてしまっていて、なんとなくステレオタイプなオタクの風貌みたいだ。
けれども、だからといって不潔にしているというわけではないので、僕はそれが河原崎くんなりの個性じゃないかと思っていた。
河原崎くんは、入学初日に僕に話しかけてくれていて、僕が祖父の遺言のことを真っ先に相談した相手でもあった。
もっとも、その話しかけてくれた理由がひどい。両親が警察官というわけでもないのに。
「挙動不審だったから職務質問のつもりでな」
そりゃあ、実際、はたから見れば、僕の行動なんて挙動不審以外の何物でもなかったのだろう。
なにせ、僕は入学初日の緊張と戦いながらも、周囲を観察してなんとか早いうちに変わったひとを捜し出そうと躍起になっていた。そう、僕は両親に文句を言える程度には、ちゃんと能力者捜しをやっていたのだ。
どうして僕がこんな無駄な労力と時間を割かなきゃいけないのか。でも、僕もそれで文句を言わないくらい祖父のことが好きだったんだと思う。
とはいえ、そのおかげで河原崎くんという友人を得ることができたのだから、それはそれで良かったのかもしれない。ただ、河原崎くんにも能力者のことは言い出せなくて、僕は河原崎くんには僕の捜し物を曖昧にしか教えていなかった。
まさか非現実的な能力者がいる、なんてことを大真面目に話せない。なにせ、僕だってそんな能力者がいることを信じるか信じられないかで言ったら、信じられない気持ちのほうが強いのだから。だって、僕は見たことも会ったこともないのだから。
だから、河原崎くんには祖父の箱の鍵を誰かに譲ってしまったと説明していた。
「しかし、箱の鍵を開けられる人捜しねえ。その鍵を持っている奴がこの高校にいるといいな」
「それに、祖父の遺言もちょっと曖昧なんだ。箱の鍵を開けろってことは、鍵を開けられるひとがこの辺りにいるんだろうけど」
「たしかにな。腕利きの開錠師でもいるのか?」
分からない。ひょっとしたら、祖父が言った能力者というのは何かの暗喩なのかもしれない。
いずれにしても、そんな能力の持ち主をどうやって捜し出すかと聞かれても、僕は何も思いつかなかった。もっとも、その機会は予想できないような形でやってくるのだけれど。
「司、次の時間体育だぜ。早く出ないと女子が着替え始める」
いつの間にか、河原崎くんはジャージを持って立ち上がっていた。
周囲を見回すと、女子が男子を追い立てている。僕も早く出ないといけない。
「あれ?」
僕はつい独り言を呟いてしまった。クラスの女子の中でも、ひとりだけ纏っている雰囲気の違うひとが、僕のことを見ていたような気がしたからだ。
それは七倉さんだった。
七倉さんというのは、僕がどこかのお嬢様じゃないかと勝手に推測している、とても清楚な女の子だ。
背は女子の中では平均的で、僕よりも10センチ低いくらい。雰囲気は落ち着いているのにぱっちりとした瞳が印象的だった。スタイルはいいし、肩にかかるくらいの長い髪は、さらさらとしていてとても綺麗だ。
何より、その所作はいつも丁寧に見える。笑うときにはかならず口元に手を当てて、それでいて嫌みじゃない。
ほかにも、休み時間に携帯電話を触っているところも見たことがなかった。ひょっとすると、携帯電話を持っていないのかもしれない。机の下や、友達と話しているときに手元を見ているなんてことがなかったから、七倉さんはいつもその笑顔を誰かに向けていた。
僕は今まで、こんな女の子を見たことがなかった。なんだか僕とは暮らす世界が違うかのような気さえしてしまう。
そんな七倉さんが、どうして僕たちのことを見ているのだろう。ひょっとしたら、河原崎くんと何らかの関係があるのかもしれない。
けれども、ふたりの関係を聞き出すことはできなかった。
この教室は体育の授業では女子の更衣室と化すから、男子は出て行かないといけない。だから僕は河原崎くんを追いかけて――
そして、僕は自転車の鍵を落としたらしい。
そのことに気がついたのは昼休みのことだった。
今年1年分の冷や汗は受験と合格発表でかいたつもりだったのに、入学から1か月も経たないうちに、もう一度あの味わいたくない感覚を味わうことになるなんて思いもしなかった。なにせ、気がついたときにはもう鍵が無かったんだから。
僕は自転車通学をしている。僕がこうして高校に来ているわけだから、駐輪場にたどり着くまではあったはずだ。当然、まだ真新しい制服の内ポケットの底が抜けているわけもない。体育の授業で着替えたときがいかにも怪しい。けれども、そんなことが分かっていても見つかるわけもなかった。なくなったものはなくなったんだから。
ブレザーはもう調べたし、鞄も中身を全部吐き出させた。
そうなると、校内のどこかで落としたとしか考えられなかった。けれども、職員室に問い合わせに行っても紛失物は届いていなかった。
だから僕は駐輪場と教室を何度も往復して、足元はもちろん、ちょっとした隙間もくまなく捜し回っている。着替えに出向いた隣の教室も調べたし、ちょっと勇気を出して心当たりも尋ねてみた。けれども、見つからない。
自転車の金具に引っかかっている可能性も考えて、また駐輪場に戻ってみたけれど、これも空振りで、ただ疲労が増しただけだった。
いまや自転車は毎日の足ではなくてただの金属のかたまりだ。今さらだけれど、窃盗から守るための鍵の副作用に気づかされてしまう。他人が持って行くことができないのはいいけれども、所有者も持って行けないようじゃ意味がないじゃないか。
そう実感すると、祖父が遺した箱もどうして鍵が掛かっているかが疑問になった。ちょっとした現実逃避なのかもしれないけれど。
あの箱も、かつては鍵があったはずなんだ。
でも、いつしか鍵がなくなって、開けられなくなった。
ただ、祖父だって開けようと思えば開けられたはずだ。強引に開けようと思えばこじ開けられないこともない。お金がかかるとしても、日本中を探せば優秀な解錠師くらいいるんじゃないだろうか。
もっとも、箱を傷つけたくなくて、その方法が本当に使えなかったのかもしれない。
けれども祖父に限ってそんなことはありえない。
だって、鍵を開けるような能力をもつひとがいることを知っていたのだから、そのひとに頼めばよかったはずなんだ。ひょっとして、それでも開けられなかったんだろうか。だとしたら、祖父はどうして開かない箱なんかを持っていたんだろう?
鍵を捜し疲れた僕がぼんやり考えたのはそんなことだった。こんなふうに、時々全然違うことを考えてしまうのは僕の悪い癖だった。でも、それが分かっていたって物を無くしたときには、ついどこかに悪態をついてしまう。
「なんでだよ。ちゃんと入れたはずなのに……」
さんざんついた溜息をもうひとつだけつくと、やっといくらか諦めがついた。
空はもう夕暮れの色合いになっていた。ここから歩いて帰るとして、家に着く頃には日が暮れているだろうか。仕方が無いので自転車の鍵は工具でこじ開けるとしても、リング状の新しい鍵を買わないといけないのかもしれない。
僕は、祖母からもらった一万円札が、こんなことで消えてしまうことを考えて憂鬱になった。けれども、背後から近づいてくる気配を感じて振り返った。
そこに立っていたのは七倉さんだった。
七倉さんは、鞄を体の前で組んだ手に提げている。制服には埃ひとつついていなくて、まるで僕が住んでいる世界とは別の世界からやってきたみたいだ。
ところで、七倉さんは自転車通学だったんだろうか。そうだとしたらきっと邪魔になっているんだろうな――そう思って一歩後ずさると、七倉さんは鞄を持った手を更に握りしめて、意外なことに僕に話しかけてきた。
「あの、昼過ぎからずっと捜し物をしていましたよね」
「いや――そうだけど、どうして?」
七倉さんは笑顔になって喜んだ。
「いえ、ただ単に気になっただけです。捜し物をしているだろうと思ったのは、鞄を持っていないからです。帰りがけの駐輪場で、鞄も持たずに長時間いるような理由はほとんどありません。他の生徒の邪魔になってしまいますし、自転車が故障したのなら傍に鞄くらいは置いてあってもいいはずですから」
たしかにそうかもしれない。
むしろ、駐輪場に長時間いれば怪しまれそうなくらいだ。
「お昼過ぎの体育の授業が終わってからです。私はあなたが急に何かを捜し始めたことに気づきました。あなたは何度も教室から出て行って、駐輪場まで往復して調べたのでしょう。鞄を教室に置いたままにしているのは、もちろん鞄を持ったまま紛失物を捜し回るのが大変だからに決まっています」
七倉さんは淀みなく、僕が昼休みから今に至るまで続けていたことを説明した。
まるで分かりきったことを話すかのように、楽しげに僕のとった行動を推理する。推理好きなのかもしれない。
「失くしたものは――、いちばん大切なのはお財布でしょうけれど、そうではないのだと思います。もしお財布を紛失したのだとしたら、もうとっくに問題化していて、今頃クラス全員で捜しているはずですから」
そう考えると、と七倉さんは口元に指をあてて考えているようだった。
けれども、きっと結論は既に出ていたんだろう。
「次に大切なものは――きっと、鍵でしょう。家か自転車の鍵。どうですか?」
僕はすんなり頷く。別に隠すようなことでもなかった。
「自転車の鍵だよ。体育の授業が終わってから失くなっているのに気づいた。それでずっと捜していたんだけど、見つからないんだ」
「落とし物の届け出はしましたか?」
「これから。ただ、どちらにしても今日は歩いて帰るか、自転車ごと僕を乗せてくれる車を捜さないといけないみたいだけどさ」
まさか鍵の掛かったままの自転車を引きずっていくわけにもいかないし。
僕の母親は免許を持っていないし、父親は仕事だ。教師に頼んだら運んでくれるかもしれないけれど、今はまだ5時前だ。仕事が終わるまではまだ時間があるだろう。
結局、僕は自転車をこのまま放置して、運悪く鍵を拾ったひとがこの自転車を盗んでしまわないことを祈るか、もう何時間か待って、この自転車を自宅まで運搬してくれる大人を捜すしかなかった。
「車ですか……、あてがないわけではないのですけれど、ちょっと遠いので……」
七倉さんなぜかとても申し訳なさそうな顔をした。僕が彼女をあてにしたわけでもないのに。
けれども、そうやって心配してくれる七倉さんにはとても強い好感が持てた。
「ちょっとだけ見せていただいていいですか?」
七倉さんはとても丁寧な口調だった。僕にはその頼みを断る理由もなくて、移動して彼女が自転車を見やすいようにする。
すると、七倉さんは自転車のサドルの下に付いているリング状の鍵を見た。
大きな瞳が鍵の差し込み口を見つめて、それから確かめるように金具の部分を親指で押した。僕が何度も繰り返した無意味な動作だった。当然だけれども、鍵が刺さっていない状態では開くわけがない。
けれど――、僕は七倉さんの指がリングの金具に沿って下向きに動くのを見た。
かしゃん。鍵を開けるときの音が響く。
七倉さんは振り返り、とても嬉しそうな顔をみせながら言った。
「開きましたよ、ほら。鍵のかかりが緩かったみたいです」
「開いたの? 本当に?」
僕は身を乗り出して確認した。たしかに鍵は外れていた。
そうしていて、僕は彼女の少し得意げな顔が間近にあるのに気がついて、慌てて体を退かした。七倉さんのいい匂いが漂ってくる。
「もしかしたら故障かもしれませんね。今日は乗って帰って、もし鍵が見つからなかったら新しい鍵を付けたほうがいいですよ」
たしかに、家に帰ればスペアのキーはあるけれども、紛失した鍵を使い続けるのはなんとなく心地が悪い。それに、高校で落とした鍵が誰かに拾われたとしたら、駐輪場に停めてある自転車のどれかの鍵だと分かってしまうから、防犯上も良くなさそうだ。
「それにしても、こんなに簡単に開くなんて思いもしなかった」
「コツがあるんじゃないでしょうか。私、開けにくいパッケージを開けるのは得意なんです」
彼女は胸を張った。とても便利そうな能力だった。
もっとも、それは半分くらいは演技だったんだろう。すぐに否定して、
「だからと言って、自転車の鍵がこんなに簡単に開けられるのはびっくりなんですけどね。あっ、でも、鞄を取ってこないといけませんね。どうしましょう。ここで待っていましょうか?」
これには僕も慌ててしまった。どれだけ親切なんだろう。
「いや、さすがにそこまでしてもらうわけには」
なおも「そうですか?」と言って首を傾げるのを丁寧に断って、僕はちょうど通りがかったクラスメートの男子に事情を話し、自転車を見ていてもらうように頼み込んだ。
彼がすんなり頷いてくれたのは、僕の隣にいる七倉さんのおかげのような気がする。立場が違えば僕だって同じことをしそうだ。なんとなくだけど、七倉さんはそういうささやかな親切心を好意的に見そうだし。
「それでは、私はこれで失礼しますね」
僕に声を掛けてくれたときと同じように、両手に鞄を持った七倉さんは、その長い髪を翻して立ち去ろうとする。
「司くん、さようなら。鍵、見つかるといいですね」
僕は七倉さんが小さくお辞儀して、校門から出て行くのを目で追ってから、もう一度だけ職員室に顔を出すことにした。
「しかし、僕も鍵を失くすなんてうっかりしすぎだろ……」
僕は幼少のみぎりからの物を落とした回数を数えようとして、あまりの多さに数えることを諦めた。
教室に戻って鞄を取りに戻ってから、僕は職員室で鍵のことを済ませてから、いつものように自転車で下校した。