17, 僕の平凡な日常(扉絵.イラスト/よしの)
僕にとって、祖父の箱を開けられる能力者捜しは、はからずもお嬢様でもある七倉さんと会うきっかけをもたらしてくれたし、相坂さんというとても可愛い女の子と話をする機会をもたらしてくれた。
祖父・聡一郎が遺した古い箱のおかげで、僕が高校に入学してから2か月あまりの日々はとても楽しいものになったし、七倉さんには少し勘違いされているけれど、とても頼りにしてくれていること自体は、僕も男として悪い気分にはならなかった。
肝心の祖父の箱はまだ開かないままだ。けれども、百か日までに箱を開けよという祖父の願いは、できれば叶えられたらいいけれども、絶対に開けなければならないというわけでもない。
むしろ、この町きっての名家・七倉家の長女であり、鍵開けの能力者でもある七倉さんの信頼を得たことで、祖父の遺言はほとんど叶えられたんじゃないかと思う。
あの箱が開かない理由はいまだに分からないままだけれど、七倉さんの能力があれば開けられることも分かっている。それなら、祖父の箱が開くのは時間の問題だけで、それほど急ぐ必要もなくなった。
司家はもともとごくふつうの家だ。
たしかに、祖父・聡一郎が、この町に生き残っている異能の家系のことを覚えていたことが普通ではないともいえるのだけれど、それを除けば家業と言えるものもないし、財産なんかありもしない。
祖父は跡を継ぐものを立てよと言ったけれど、それは多分、自分の知識を無かったことにしないでほしいという意味だったんじゃないかと思う。
そう考えれば、僕が七倉さんや相坂さん、楓さんの存在を知った今、向こう何十年かは祖父の記憶は絶やさずに済むわけだ。
ある週末に、僕は祖父の遺言についての進捗を、父や叔伯父、それに祖母に報告した。父や叔伯父たちは、僕の報告には半信半疑とはいえ耳を傾けてくれた。
鍵に手を触れただけで開けてしまえる女の子の話なんて、作り話としか思われないだろうけれど、それでも、祖父の遺言という現実を前にしては信じざるをえなかいみたいだった。
「お父さんにはとても信じられない話だな。だが、親父の遺言を信じるのなら、七倉さんはそういう能力を持つ特殊な家系だったのか……」
「父さんは七倉さんのことを知っているの?」
「もちろんだ。七倉家が大きなお屋敷に住んでいることも知っている。ここらでは一番の名家だろう。だけど、鍵を開けられる力なんて聞いたこともなかった」
これは父が無知というわけではなくて、単に父が若い頃には七倉本家に能力者がいなかったせいだと思う。
僕の祖父母が若い頃には、七倉家には七倉さんの大叔母様がいて、その能力を発揮していた。だから、ひょっとしたら噂めいた話で、七倉の娘には不思議な能力があると伝え聞くことがあったかもしれない。
でも、父が若い頃には大叔母様は他家に嫁いでいて、七倉本家に能力者はいなかった。それだと、七倉家の伝説は息づいていたとしても、本物の能力者はどこを捜しても見つからない。
この町で生まれ育った父が七倉家の能力について何も知らないのは、その理由が大きいのだと思う。
実際、祖母は目を細めて思い出したようにこう言った。
「そうだねえ。七倉さんのことなら不思議な話を聞いたことがあったけれど、すっかり忘れていたよ」
僕の報告を聞いた祖母は、どうやら七倉さんの家については色々な話を聞いていたみたいだった。もしかしたら祖父から聞いていたのかもしれない。
「七倉のお嬢様には、あの箱は開けられそうなのかい?」
「能力的には開けられるみたいなんだけど、普通の鍵ではないみたいで開けられないんだ。鍵の掛かっている理由が分かれば開けられるって」
「そうだねえ。70年も開いていない鍵をたったの何か月かで開けようってのが無理な話だからねえ。でも、聡太が七倉のお嬢様に認められて、お祖父ちゃんもきっと喜んでいるよ」
祖母はそう言って、箪笥の抽斗から一万円札を取りだしてきて僕にくれた。
僕がこんなふうに祖母や父に報告したのも、七倉さんの捜し物が見つかってからというものの、七倉さんと会う機会が減ってしまったからだ。
入学してから2か月の間、七倉さんは遠縁のお姉さん――楓さんからの10年越しの手紙を捜すために、毎日、放課後にはかならず学校に残って校内を探し歩いていた。
けれども、七倉さんには楓さんの手紙がいくら捜しても見つけられなかった。それは七倉さんがもつ能力――触れただけで鍵を開けてしまえるという能力のせいで、うかつに電子機器に触れなかったせいだ。
でも、それは僕がたまたま七倉さんの能力の弱点に気がついて、見つけることができた。
七倉さんはとても喜んでくれた。それから、七倉さんは10年ぶりに楓さんと会って、ずいぶん長いこと話をしたみたいだ。
10年ぶりに会った楓さんは、七倉さんが言うには昔よりも更に素敵な女性になっていたらしく、目をキラキラさせて楓さんのようになりたいと言っていた。もっとも、七倉さんは今のままでも充分に大人びた所作ができているのだけど。
ともかく、七倉さんは放課後に居残る必要がなくなった。
必然的に、僕との接点は減ってしまった。
でも、それは喜ぶべきことなんだ。
僕の目からすれば手の届かないと思うくらいに見目麗しい七倉さんが、日が長くなってきたとはいっても夕方遅くまで居残って、日が沈みかける頃に家路を急ぐというのは、なんとなく危ないような気がしたんだ。
それからというものの、休み時間や放課後に出歩く必要のなくなった七倉さんは、以前にも増して教室の男子の目を引くようになったし、女子と一緒に話していることも多くなった。
そして、今度はあちこちの部活から引き抜きの声が掛かったらしい。それは七倉さんが楓さんの手紙を捜すために、学校中の部活を見学してまわっていたからで、それが一段落した様子を察したのか、七倉さんに入部してほしいというクラスメートや同学年の生徒や先輩たちが代わる代わる勧誘にやってきた。
七倉さんは最初のうちは丁寧に断っていたけれど、何度も繰り返し頼まれるにつれて、だんだんと断りづらくなってきたみたいだった。
それで、七倉さんはときどき放課後に出て行っていろいろな部活に参加するようになった。もともと、七倉さんは何をやってもそつなくこなせるひとだから、何の部活にも参加していないなんておかしいと思う。
僕との接点はますますなくなった。
七倉さんと僕はほとんど話をすることがなくなった。ただ、その代わり、今度は七倉さんが時々僕のことを気に掛けるような視線を向けるようになった。
どうしてだろうと思ったけれど、それはきっと、僕の祖父が遺した箱を開けるという約束をしたからなのだと思い至った。
あるときには、七倉さんが忙しい合間を縫うように話しかけてきてくれた。そのときの表情はとても不安げで、僕のことを心から心配してくれているみたいだった。
「あの、司くん、最近あまりお話しする機会がなくて……」
「ううん、別に七倉さんが謝る必要なんてないよ。それに、もともと祖父の箱は開けられなくても良かったんだ。たしかに、祖父の箱が開けられないよりは開けられるほうがいいけれど、もともと何十年も開けられなかった箱だよ」
「でも、それでは聡一郎さんの跡継ぎになれません。司くんは困りませんか?」
「大丈夫だよ。お祖母ちゃんもそれでいいって言ってくれたし、跡継ぎといっても祖父は何かの称号や肩書きを持っていたわけでもないし」
「それはそうですが……」
七倉さんはなおも僕に何かを言おうとしたけれど、諦めたみたいにそれで話を打ち切った。相変わらず不安げな表情だけれど、僕はそれに笑顔で返せる。祖父の箱のことは本当に心配は不要なんだ。こんなふうに自然な対応が取れる自分が誇らしい。
それまでは、放課後に遭遇する機会のあった七倉さんだけれど、近頃は放課後に会うことはなくなった。
もっとも、そのおかげか、梅雨の時期を迎えた僕にはとても静かな日常が戻ってきた。そもそも、祖父の遺言がなければ、僕は七倉さんに迷惑をかけながらあれこれ調べ回ることもなかったから、これが本来僕が送るべき日常だったのだと思う。
5月の終わりには中間試験があったけれど、僕は自分なりに勉強をして平均点を上回ることができた。河原崎くんは相変わらずコンピュータ研究会で、何をやっているのか分からないけれど活動に励んでいた。ときには、僕も少しだけインターネットで遊ばせてもらっている。
能力者ではない、ごくふつうの友人も増えた。彼らが僕に話しかけてきたのは、僕が入学してからしばらくの間、七倉さんと仲良くしていたからだと思う。僕がとても地味な外見をしているのに、クラスの中でも目を引く女の子と親しくしているというのが、彼らの興味を引いたみたいだ。話してみると、意外と気があって僕も楽しかった。
とても平凡な、ありふれた日常。
でも、そんな僕の日常にも、依然として不思議な能力をもつひとが関わっている。
「司聡太、お祖父様の百か日はもうそう遠くないでしょう。急がなければならないのではないですか」
昼休み、相坂さんは僕の席に近づいてきて、ほかの男子には絶対にしないような話しかけやすい様子で僕に話しかけてきてくれた。
相坂さんはクラスメートのとても可愛い女の子だ。
彼女はとても人当たりが悪いのだけれど、以前、僕は相坂さんの能力の正体を見破ってからというものの、相坂さんは僕のことをどこか認めてくれたようで、時々こうして話をすることもあった。
「もうすぐだけど、法事があるわけでもないし、親戚に怒られるわけでもないから大丈夫だよ」
「どうせ暇だったら私と能力者を捜すのはどうですか」
「必要ないとは思うけれど――それに、相坂さんも放課後は忙しいんじゃない? 僕の用事はわざわざ急ぐわけでもないから、つきあってくれることはないよ」
相坂さんは一瞬、言い返すようにも見えて僕は身構えたのだけれど、意外にも相坂さんは少し考えるような様子で黙り込んだ。何を考えていたんだろう。
「司聡太、私には借りがあるのです。私はそれを返さなければならないのです」
相坂さんは命令形でそう言った。彼女の命令口調とその端正な顔立ちには、僕みたいに相坂さんのことが可愛いと思う男子に暗示をかける能力がある。
けれども、相坂さんはその能力を僕には使わないと言ったので、今では彼女の能力は僕には通じない。
でも、そんな相坂さんが命令するということは、相坂さんは本当に僕に対して借りがあると思っているということだ。だとすると、僕があまり強く断るのは相坂さんに失礼に当たるかもしれない。
「うん――そうかもしれないね。それじゃあ、お願いします、相坂さん」
借りがあるとは言うけれど、相坂さんは、僕のような凡人ではとても使えないような、とても強力で不思議な能力の持ち主だ。僕はそれにはきちんと敬意を払わないといけないと思った。
でも、そんな僕の態度は相坂さんには予想外だったみたいだ。
「わっ、わざわざ頭を下げる必要は無いのです……」
相坂さんは顔を真っ赤にして否定するけれど、彼女が持っている能力を知れば、誰だって相坂さんのことを一目置いてしかるべきだと思う。それは祖父のノートにも書かれていたことだ。七倉さんや相坂さんは、彼女たちの能力を知っているのなら尊敬されるべき存在だった。
もっとも、相坂さんはその容姿そのものが能力みたいなものだから、自然と男子たちに尊敬されているといえる。
けれども、七倉さんの能力は他人にはほとんど分からない手のものだ。だから、七倉さんは能力のことで他人から尊敬されることはない。それなら、せめて七倉さんの能力のことを知っている僕は、もっと七倉さんに敬意を払うべきだ。もちろん、これは相坂さんについても同じだ。
そんな当然のことに、僕は最近急に気がついて、七倉さんや相坂さんの好意に甘えすぎないように心がけている。
七倉さんはとても優しいひとだから、僕の祖父の箱を開けてくれると言ってくれるのだけれど、それは相坂さんと同じように七倉さんが僕に貸しがあると思っているからだ。
でも、実際はそうじゃない。七倉さんに協力してもらっていたのはむしろ僕のほうで、僕は少し七倉さんに頼りすぎていたように思う。
それと同じことを、相坂さんにもさせる気にはならなかったけれど、相坂さんが僕の祖父の箱に関わる能力者――箱の鍵を掛けた一族を見つけ出してくれると言うのなら、その親切を無にするのも良くないかもしれない。
「ところで、相坂さんは誰か能力を持っているひとを知っているの?」
「知っているのです。むしろ聡太のほうがよく知っているに違いないのです」
僕は能力持ちらしき人物を思い起こしてみる。七倉一族の七倉さん、楓さん、相坂さん、それと、能力者かどうか確証は持てないけれど河原崎くんとそのお兄さん――思い起こしてみると僕の周りは能力者だらけだ。
「それともうひとり、聡太が最近知り合った御子神叶なのです。御子神叶は異能持ちに違いないのです」
「御子神さん? 能力者の家系なの?」
「それは知らないと言わざるをえないのですが……、でも、御子神叶が能力者なのは違いないのですっ!」
「そうなのかな、僕にはあんまり分からないんだけど」
「そうなのですっ。きちんと思い出してみれば、すぐに分かることです。聡太は御子神叶の行動を思い出さなければならないのです」
僕はふと相坂さんと初めて話したときのことを思い出した。
あのときも強引な話し方をするように感じたけれど、今日の相坂さんの様子も、そのときに戻ったように命令形がとても多い。ひょっとしたら、何か相坂さんを怒らせるようなことをしてしまったんだろうか? そんなことはしていないはずだけれど……。
相坂さんに責め立てられている僕は、クラスの中で注目を集めていた。もっとも、相坂さんと話をしているだけでこうなってしまうのだけど。七倉さんも友達と話しながら僕のことを気にしている。僕には事態が飲み込めない。
「ど、どうして相坂さんはそんなに怒っているの?」
「別に怒ってはいません! とにかく、思い出すのです」
授業の予鈴が鳴った。相坂さんはそれで自分の席に戻ってゆく。荒っぽく席に着くと、頰づえをついて仏頂面になった。相坂さんはわりと不機嫌そうな顔を見ることが多いけれど、今日はますます機嫌が悪いような気がする。
よく見ると、七倉さんも困ったような顔を僕に向けていた。でも、僕がそれに気がつくとすぐに視線を逸らした。
「何か悪いことをしたかな……」
僕は心当たりを考えるけれど思いつかない。
たぶん、七倉さんや相坂さんの力を借りすぎたせいなんだろうけれど……
なんてことを考えていたら、側頭部に軽い衝撃を感じた。それから床に何かが落ちたような微かな音が聞こえたので、拾い上げてみると折りたたまれた紙片だった。
開いてみると、丸みを帯びた字体でこんなことが書いてある。
『別に悪いことはしていません。早く思い出すのです!』
全然似合わないけれど相坂さんだった。
思い出せと言われても、御子神さんとの間には、特に大事件があったわけでもない。だから、それほど重大なことはないような気がするのだけど……。