16, 十年の時の流れ
七倉さんは泣いていた。大きな目から雫がぽろぽろとこぼれ落ちてくる。その涙は悲しさではなくて、きっと、10年前に楓さんが考えていたことが分かったことへの達成感だと思う。それを見て、僕は声を掛けるよりも、そっとしておくほうがいいと思った。
僕は想像する。七倉さんはその能力のために、鍵の掛かっているものは不用意に触らない。それは楓さんも同じで、いつしかふたりは自分の能力に縛られるようになっていく。
今、たまたま七倉さんと一緒にいる僕が、七倉さんの助けになれたかどうかは分からない。
けれども、七倉さんがこうして喜んでくれているのを見て、僕は悪い気はしなかったし、少しばかりの達成感も覚えていた。
僕は七倉さんから目を離して、僕たちのことを見ていた河原崎くんに聞いた。
「河原崎くんは先輩からこのことを受け継いでいたんじゃなくて、楓さんと知り合いだということも知っていたんだね」
「6つ上の兄貴だよ。いまは大学の4年生で法律だか経済だかをやってる。情報科じゃ物足りないから応用が利く勉強がしたかったんだとよ」
僕は楓さんが河原崎くんのお兄さんのことを能力者だと書いていたことを考えた。
「それってひょっとして、河原崎くんのお兄さんって、コンピュータに強すぎて大学レベルでも満足できないってことなの?」
「周りと合わせると眠くて仕方ないんだとさ。それに大学は研究機関だぜ。コンピュータを使いこなせるからといって好き勝手できるわけじゃないし、新発見ができるとは限らないだろ。だから、兄貴はむしろ現実社会に応用して、遊んで暮らせるようになりたいんだとよ」
「それは不純な動機だね……」
「たしかにな。ま、そんな奴だからこそ七倉の姉さんの目にとまったんだろうが。会社経営のまねごとまでするような奴だからな」
僕は納得した。たしかに能力者かもしれない。
「河原崎くんのお兄さんと楓さんの関係って小学校の先輩後輩だけど、5歳くらい離れているよね。いったいどうして協力したの?」
「七倉の姉さんは兄貴の憧れだったみたいだ。引っ越すときには随分と悲しかったそうだ。まあそれはさておき、兄貴は七倉の姉さんにひとつ頼まれごとをした。高校のパソコンの1台に、10年後にも秘密にしておける鍵を掛けることだった。兄貴はもちろん承諾したが、10年後の技術なんていくら兄貴でも想像できるわけがない。コンピュータは日進月歩の世界だぜ。セキュリティなんて破られるためのものだ……と言いたいところだが、なにも重要機密を保管しておくわけじゃない。勝手に削除されないように、10年間、保っておけばいいということに落ち着いた」
河原崎くんは意地悪く笑った。
「兄貴は張り切って文書保管用のサーバーを用意した。あとは高校のコンピュータから接続できるようにするだけだが、どうやら兄貴と七倉の姉さんが高校のパソコンから繋げるか確認したようだな。もっとも、七倉の姉さんがいる頃はまだテストみたいなもので、実際にここのパソコンから兄貴のサーバーに接続できるようにしたのは、兄貴がこの高校に進学してからだ」
「前にうちのコンピュータ研究会に関わりがあったって言ったのは、お兄さんがここのOBだからってこと?」
「そういうことだ。今の3年生は兄貴の卒業後に入学してきた世代だが、それでも何度も兄貴と会ってる。だから俺も好き勝手できるわけだ」
僕は学年を計算した。その時点で楓さんがこの町を去ってから4年以上が経っているはずだ。
ひょっとしたら、河原崎くんのお兄さんは楓さんのことが好きだったんじゃないだろうかと僕は思った。河原崎くんも同じことを考えているのかもしれないけれど。
「兄貴は10年間、手紙を保管していた。なぜか張り切って年々鍵は複雑になっていったがな。もっとも、兄貴にすればそんなのたいした手間じゃない。やがて兄貴はこの高校を卒業することになったが、コンピュータ研究会を通じてここのシステムへの影響力は保ち続けた。今年、俺が入学したが俺自身は何もやっちゃいない。だから、七倉がネットワークに入り込めば、いつでも七倉の姉さんからの手紙を読むことはできた。ただ、七倉はそんなことをしなかったがな」
僕は少し慌てて聞いた。
「河原崎くんは七倉さんの能力のことを知っているの?」
「ああ、俺自身も七倉の姉さんと会ったことがある。まあ俺は会ったといっても、当時のことはほとんど覚えていないけどな。それでも、なんでも鍵を開けてしまう能力のことは聞いていたし、七倉家のことも知っていた」
僕は自転車の鍵をなくした日のことを思い出した。たしか、七倉さんのことは河原崎くんに聞いたはずだ。
「それで、七倉さんのことを聞いたときにもすぐに答えられたんだ」
「ああ、都合良くな。聞かれれば七倉の持っている鍵開けの力のことも答えられたし、七倉の姉さんのことも答えられた。お前と七倉がつるんで何か捜しているのも知っていたし、それを知って何も言わなかった。それが七倉の姉さんとの約束でもあったからな。余計なことをしたら俺が兄貴に何を言われるか分からん」
河原崎くんは苦笑した。河原崎くんにとってお兄さんは厄介な相手みたいだったし、河原崎くん自身も楓さんの約束を違えたくはなかったみたいだ。
だから、僕は河原崎くんが七倉さんの悩みについて何も言わなかったことを責める気にはならなかった。それに、この手紙は楓さんが出した、10年越しの七倉さんへの宿題だったんだから。
「司も、よく気がついたよな」
「ううん、簡単だよ。10年間、文書を保管するための道具なんてそう多くはないんだ。本や雑誌、重要書類くらいなら10年は残るかも知れないけど、手紙程度だと大切に保管していないとすぐに処分されてしまう。コンピュータは長期保存にはいちばん向いているよ」
「ま、経年劣化しないことがとりえみたいなものだからな」
それに、楓さんが箱の中に手紙を隠しているというヒントだけで、もう学校の中に隠せる箱はパソコンくらいしか残っていなかった。それこそ、地面の下に埋めておけば10年後も残っているだろうけれど、そんなことをしてしまえば見つけられなくなってしまう。
だとしたら、七倉さんの捜し方にどこかの問題があるはずだった。
七倉さんは一生懸命に楓さんの手紙を捜していたけれど、どうしてもその能力から生まれる弱点からは逃れられない。本物の手紙が見つからない理由はそのせいのはずで、楓さんもそこを突いてくるはずだった。
「ただ、河原崎くんのお兄さんが関わっているとまでは思わなかったけどね」
「俺もそんなに詳しいわけじゃない」
「でも、楓さんの手紙には河原崎くんのことも書いてあったよね」
「そんな大昔のことなんざ覚えてもいないさ」
河原崎くんはさも自分が無関係だったように言うけれど、僕にはそれは納得できなかった。
「ねえ、河原崎くんは七倉さんや相坂さんと同じような能力者なの?」
これは思い切った質問だったけれど、河原崎くんはくだらない質問だと言わんばかりに口元だけで冷笑してから、いつもと同じように僕の質問に答えてくれた。
「さあてな。俺が本物の能力者だろうとそうでなかろうと、司にはそこまで重要な話じゃないだろ」
「そうかな?」
「お前にとっては七倉こそが『本物』なんだろうしな。俺もそう思うぜ。コンピュータを使いこなせる能力なんてものがあればそれなりに便利だとは思うが、せいぜいシステムエンジニアになりやすくなるくらいのものさ。それに比べたら、七倉の鍵を開ける能力なんて非常識以外の何物でも無いだろ」
「それでも、僕にとっては普通の人よりもずっとすごい能力だと思うけど」
「なに言ってんだ。パソコンをうまく使いこなせる人間なんて、この高校内で捜したって何人もいるだろうさ。だいたい、お前以外の人間にとってみりゃ、七倉に信頼されているお前のほうがよっぽど特殊な人間だろ」
僕が特殊な人間だなんてとてもそうは思えないけれど、とにかく河原崎くんは自分はフツーの人間だと言い張った。そんなふうに言われると、僕には河原崎くんが能力者かどうかを完璧に見分けることはできないんだけど。
「まあいいじゃねえか。七倉の姉さんは兄貴のことを能力者だと今でも思っていて、七倉はお前のことを能力者だと思っている。それで不都合が無いのならさ」
「河原崎くんのお兄さんはそれでいいとしても、僕は不都合なんだけどね……」
僕は七倉さんの誤解をますます深めてしまうと思うと青息吐息だ。僕が解いたのは本当に簡単な問題だけで、七倉さんが想像するような名探偵の能力からはかけ離れているんだから。
「でも、今でも能力者だと思っているって……、楓さんは今でもお兄さんとつきあいがあるの?」
「まあな。兄貴の会社の相談役みたいなもんだ。鍵に関しちゃ七倉の姉さんに聞くのがいちばんだからな。もっともそれだけでもないみたいだが」
河原崎くんは意味深に笑うと、目線で僕の背後を指した。
「司くん」
「七倉さん、もう大丈夫?」
「はい、あまりに嬉しかったので。お見苦しいところをお見せしました」
七倉さんはいつものように微笑した。僕は七倉さんの泣いたところが見苦しいだなんてこれっぽっちも思わなかったけれど、やっぱり七倉さんは笑顔でいるほうがずっと綺麗だと思った。
「全て司くんのおかげです。司くんがいなければ、私はきっと卒業するまで楓さんの手紙を見つけることはできなかったと思います。本当に、ありがとうございました」
「そんなことないよ。僕は誰でも気がつくことを七倉さんに伝えただけで」
「いえ――、鍵の掛かった箱の中に、たしかにありました。でも、私の知っていたものよりもずっと深い場所です。司くんの推理がなければ、捜そうともしなかった場所。私、楓さんが言っていたことが痛いほどに分かりました。七倉の力を使いこなすには、司くんの力が必要だったんです」
なぜか、七倉さんはそれで黙りこくってしまう。
僕はそれにどう答えようか困ってしまったけれど、代わりに楓さんの連絡先が分かったことを伝えると、七倉さんはまた涙ぐんで僕は再び慌てることになってしまった。
それから、七倉さんは楓さんと10年ぶりに連絡をとったらしい。
河原崎くんに教えてもらった住所と電話番号は遠い町のものだった。七倉さんは連絡先を教えてもらうなり、すぐに楓さんに連絡したらしい。
ふたりが電話越しにどんな話をしたのかは、逐一、七倉さんが話をしてくれた。楓さんは昔と変わらず物静かなひとで、七倉さんのもつ10年前の記憶とすぐに繋がったみたいだ。
そして、来週、七倉さんは楓さんと会う約束をしたらしい。
ふたりがどんな話をするのかは僕には分からない。それは、きっと七倉の力をもつふたりしか分からないとても不思議な物語で、たとえ同席したとしても、僕にはほとんど理解できないに違いない。
ふたりは、10年の間に考えたことを話し合い、10年前には共有できなかった思いを共有するだろう。10年で、七倉さんは楓さんに勝るとも劣らない能力者になったはずだ。今なら、楓さんと同じように、もしかしたら楓さんよりもずっと七倉の力を理解している。
もっとも、七倉さんによれば、楓さんは手紙の隠し場所を解いたひと――つまり僕のことを聞きたがっているらしい。
能力者同士の会話に僕のような凡人を登場させてほしくはないのだけれど、週末を楽しみにしている七倉さんの様子を見る限り、どうやら僕のことを話さないように頼むのは無理みたいだ。
そういえば、僕は河原崎くんから1枚の写真を見せてもらった。
その写真の中では、とても髪の長い大人の女性が、河原崎くんのお兄さんと並んで映っている。気のせいだろうけれど、そのひとはどこか七倉さんに似ていた。
僕はそれを見て、10年後の七倉さんはきっとこんなふうに美人の女性になるんだろうなと、ひそかに思った。