138, ときに人が消える学園
守くんが慌てる声が聞こえたような気がした。
けれども、僕が振り返っても守くんはいない。
ただ、閉ざされた扉があるだけだ。
ちなみに、僕が目の前の扉に触ると、こんどは固定されたみたいにびくともしない。
「そもそも、この世界自体が僕がふだんいる場所とは違うはずだからなあ……」
目の前にある扉も見た目の上では「扉」という形をとっているだけで、ほとんど「壁」のようなものだと思ったほうがよさそう。七倉さんなら触れただけでこの「壁」に大穴を開けられる。でも、僕たちはこの「壁」のまわりを行き来するだけで決して気づくことがないんだ。
いまは、この世界を作り出した百鳥さんが、内側から僕を引っ張り込んだせいで、僕もこうして奇妙な異次元空間に来てしまったというわけなんだろう。
ということは、僕はあのとき、百鳥さんの作った箱庭的空間の外壁にべったり手を触れていたのかもしれない。七倉さんなら「壁」のようなものが感じ取れるのかもしれないけど、僕には何にも感じ取れないからさっぱりだ。
さて、僕はまだ手に七倉さんのノートを持ったままなので、すこしだけ百鳥さんの作り出した空間がどのようなものなのかを確認することができる。
まず、さっきから僕が「扉」のことを「壁」と呼んでいるけれど、それは廊下にある全ての扉について同じみたいだ。どの「扉」もドアノブが付いているけれど、それをひねってもまるで手応えがない。どこかに繋がっているとは思えないんだ。
僕はだいぶん前に、この手の空間を訪れたことがある。
相坂さんに初めて会ったときのことだ。あの時の相坂さんが作り出した空間は、実感がほとんど現実に近かった。しかも、あの空間は相坂さんがかなり自在にコントロールすることができた。
でも、いま僕がいる空間はまるでレプリカのようだった。
だからこそ、僕はなんとなく安心して周囲を確認することができた。
閉じ込められて一生このまま出られないなんてことはなさそうだ。
それに、この空間には確実に出口があることが既に分かっている。それも少なくともふたつはある。とりあえずは百鳥さんの部屋だ。
その部屋の扉だけは、確実に人の気配を感じることができた。それに、気のせいかも知れないけれど、なんとなく扉の質感も現実味を帯びているように思えた。
僕は扉をノックする。
扉の向こう側でぺたぺたという足音が聞こえた。
「こんにちは……!」
そこには、お下げ髪の背の低い女の子がいた。
まさか水玉模様のパジャマで出迎えられるとは思わなかった。小学生と見間違えそうなくらいに背が低くて童顔だった。でも色白で、もし僕が小学生だったら鞄持ちをしたり、当番を手伝ってあげただろうな、という気がする。
ただし、精一杯大きな声を出したみたいだけど、実際には僕の声よりも小さいくらいでしかなかった。
「ええと、百鳥さん……かな?」
僕が尋ねると、百鳥さんは首を横に振った。
「え、違う?」
ところがまた否定して、奥の部屋に帰っていった……と思ったら、メモ帳と鉛筆を持って戻ってきた。そして、
「ひゃくしま」
と、鳥の上に山を付けて「百嶌」と書いた。
「しまいっぱい」
「ああ、なるほどね」
「ひみつ」
百嶌さんは唇に指を当てた。
そういえば、守くんはこの子のことを大地主と言っていた。いまでは本邸が山の奥深くにあるんだっけ。でも、島も持っているかもしれないし、本当の名前を隠していることに意味があるのかもしれない。
百嶌さんは玄関口で立ち話をするつもりはなかったみたいで、僕を奥の部屋に通してくれた。大きな黒いピアノがある。いつも演奏しているのかな。騒音には気をつけないで良さそう。
ふかふかのカーペットの上に座らされた。
なんだか、小学生の頃に一度だけ行ったことがある、女の子の部屋みたいだ。ぬいぐるみが至る所に置いてある。僕の座っている机も、よく見るとキャラクターものだった。徹底している。
僕が言われたとおりにおとなしく座っていると、なぜかとてつもなく濃いコーヒーが出てきた。真っ黒だ。
「わたしはぶらっくがだいすきです」
「う、うん」
「おにーさんはどうしましょうか」
「たぶんかなり濃いだろうから、うんとミルクと砂糖を入れたいな」
僕はすぐに女の子の前でいつも見せがちの見栄とかプライドを投げ捨てた。七倉さんがこれを淹れてくれたら意地でも飲んだかもしれないけど、年下の中学生が淹れてくれたものなら率先して断るべきだと思った。
角砂糖を2つとミルクを溢れそうなほど淹れてから口をつけた。ミルクを大量に追加したのは正解だった。(年下だけど)魔法使いみたいな女の子を前にして、こんな冷静な判断ができるようになった僕自身を褒めてあげたい。
ちなみに、百嶌さんはコーヒーカップを傾けながら咳き込んでいた。
「無理しなくてもいいよ」
「ううん」
「百嶌さんが『不思議な能力を持っていることを理解できるひと』に会うことが滅多にないことも、だいたいは分かっているつもりだからさ」
「はい」
百嶌さんのふるさとでは、百嶌さんの能力を理解しているひともいるんだろうけど、この学園に入学して以降は初めてじゃないかな。
年上なので、話は僕から切り出した。
「七倉さんのノートを探していたのは百嶌さんだよね」
「そう」
百嶌さんは小さく頷いて、僕の目の前に一冊のノートを差し出した。それは僕がいま持っているノートによく似ていた。守くんが無くなったと言っていたのは、このノートのことなんだ。
百嶌さんはノートの最後のページを開いてくれた。そこには、七倉さんの丁寧な筆跡で、卒業を目前に控えた七倉さんの日記が書かれていた。
◆
……私もこうして卒業を間近に迎えると、ひそかに学園の伝統に則りたいという気持ちを抱くようになりました。
本当は、私も他のみなさんと同じように、この狭い学園で過ごす後輩のために何かささやかな楽しみを残していくべきところです。しかし、私は中等部でこの学園を去るのですから、出過ぎたことは遠慮したほうがいいと思いました。
ですが、私のことをよく知る方のためには、その限りでありません。
手がかりは私の別のノートに書いているとおりです。それ以上はありませんから、探しても徒労です。また、答えは七倉の家伝に着想を得ています。でも、弟の守は一切を知りません。ですから、弟に尋ねることは禁止します。
私も探しています。
私のほうが先にたどり着けるでしょうか。
◆
七倉さんの探し物というのは、春に僕と七倉さんが探し出したものだ。だから、この日記が春に繋がっているんだ。
「でも、学園の伝統っていうのはなんだろう?」
「たからさがし」
「宝探し?」
「そつぎょうせいがのこしてくれる」
「それは、ひょっとして七倉さんが教えてくれたのかな?」
百嶌さんは頷いた。どうやら、これは七倉さんの予定通りみたいだ。
そもそも、百嶌さんが学園の伝統に詳しいのはおかしい。ということは、七倉さんが百嶌さんに教えているのは当然なんだ。あとは、百嶌さんの能力で七倉さんのノートを手に入れることはできる。
でも、百嶌さんにはそこから先が難しかったんだろう。
なにせノーヒントだからなあ。
ただ、この答えはもう難しくはないと思うんだ。