127, 姉上は、このような道があることをご存じであろうか
「どなたでございますか」
「名前の分からない方です」
「どこかの金持ちでございますか」
「いいえ、お金はわたくしの家のほうが沢山あります」
「では、身なりの立派な貴族のかたですか」
「いいえ、畑と田んぼで働いている人です」
さすがの弟も身を乗り出しました。とても尋常なことではありません。
「見目のよいかたでございますか」
「わたくしの目にはどのかたよりも美しく見えました」
「では、姉上と同じ異能力をおもちですか」
「そのかたは、何ももたぬかたです」
弟は目をまるくしました。
昔、なつひめさまがまだ苦労知らずの姫君であった頃に、なつひめさまと同じような力を持った人を、好きになったことがありました。なつひめさまは、自分と同じ力を持つひとでないと気にいらないのです。だから、弟はなつひめさまと同じような力をもつ男を探しては、なつひめさまにお見合いしてもらおうと考えていました。
でも、なつひめさまのように頭がよく、不思議な力を使いこなすひとなんて、そうはいません。なにせ、鬼どもの能力を封じて戦に大勝したひとです。以前、弟は必死になって探したことがありましたが、なつひめさまとつりあうような人はとても見つかりませんでした。
それどころか、なつひめさまはいつの間にか、どこの国で探しても見つからないだろうというほどの、美しい女性になっていました。せめて、京に上れば相応しい相手もおりますでしょうが、この七倉の田舎ではどうしようもありません。なつひめさまは、好きなひともおらず、結婚もしないまま、何年もすぎてしまいました。
それなのに、なつひめさまは突然、ごくふつうの男の人を、好きになってしまったようなのです。だから、弟はとてもびっくりしてしまったのです。
でも、おとうとはとても嬉しい気持ちになりました。なつひめさまに好きなひとができたことは、おとうとにとっても幸せなことだったのです。
「もういちど、あのかたにお会いしたい」
なつひめさまは、ぽうっと頬を赤くして言いました。ふだん、勇敢ななつひめさまが見せるとは思えないような、可愛らしい顔でした。
けれども、なつひめさまは、家の仕事をしたり、大勢のひとと会わなければなりません。弟は代わりたいと思っていましたが、まだ、なつひめさまのようにうまくやっていく自信はありませんでした。
「わたくしが捜します」
弟は言いました。
「まず近くの村を捜します。村にいなければ、山に暮らすひとを捜します。それで見つからなければ町に出ます。話を聞き、そこでも見つからなければ、舟に乗って海を捜します」
弟は七倉家の有力な跡継ぎ候補でしたが、それよりも前になつひめさまの家来でもありました。だから、なつひめさまのために働きたいと思っておりました。なつひめさまは、姉として心配ではありましたが、気を取り直して見送ることにしました。
すぐに旅の支度をして、子供のように年若い供だけを連れて近くの村や町を廻りました。
青々とした田んぼが広がる夏の暮れのことです。弟も供の者も、気楽な旅でした。七倉村のあたりは気候もよいので、真冬でもなければ旅の苦労は少ないものでした。まだ久良川の宿場町ができる前のことで、影も形もありませんでしたが、金を払って農家に宿泊することもできました。それに、弟は野宿の経験もありました。むしろ、年若い供のほうがたいへんな目に遭っていました。
なつひめさまや弟が幼い頃は、このあたりでも何度か激しい戦がありましが、最近では戦が起こることはなくなっていました。人びとの行き来が活発になりはじめて、安全に旅ができる時代になりつつありました。弟は「随分とよい土地になったものだなあ。これも姉上様の徳であろうか」などと考えながら、村々を捜しました。
昔はひとの数が少ないとはいえ、このあたりには多くの人びとが暮らしていました。そのため、なかなか手がかりは見つかりませんでした。とはいえ、単なる農夫が遠くまで旅行にゆくことは稀でしたから、弟は粘り強く聞き込みを続けました。
これは弟にとっては意外なことでしたが、足取りが掴めたのは、山向こうの町のことでした。
「あの山のうらがわの、小さな村にくらすおとこではないか」
この町というのは、海沿いの漁村と、山側の農村の中間にあるような町で、人の往来の激しい街道沿いにありました。弟はこの町で、旅に必要な資金を調達していたところです。
「入り会いの山か。あの山に人など住んでいるのか」
「谷を這い上がったところに村がある。商人すら立ちよらぬ貧しい村だ。先の戦で敗れた者が、落ち延びているそうな」
「ふうむ」
おとうとは、まだ自分が子どもの頃を思い出しました。
昔、このあたりの村に鬼が攻めこんできたことがありました。そのとき、なつひめさまは、弟の手をひいて鬼たちから逃げました。それから、まだ無事な村に身を寄せると、大勢の男をひきつれて鬼たちを打ち破ったのです。いま、弟が生きているのは、なつひめさまのおかげでした。
けれども、なつひめさまが勝つまでに、鬼たちに敗れた人びとが、大勢いるはずでした。山の裏側にある小さな村は、その生き残りの人びとがつくった村かもしれません。
「これも何かの縁であろう。はたして姉上の捜す男がいるか分からぬが、訪ねる価値はあろう」
弟と供の者は町でひと晩やすみ、次の日の朝早くに目ざめると、山の奥へと分けいりました。山に詳しい老人の話を聞き、迷わないように気をつけながら山を登っていきます。ただ、慎重に歩いていると、山のなかにも小さな道があることに気がつきました。
「姉上は、このような道があることをご存じであろうか」
ひょっとしたら、なつひめさまは歩いたことがあるのかもしれません。もしかしたら、弟自身も鬼どもから逃げているうちに、通った道かもしれません。
弟は、鬼たちと戦ったときのことをあまりよく覚えていません。まだ幼く、戦える歳ではなかったからです。なつひめさまが甲冑をまとい、弓、矢、刀を手に取り出陣したときも、弟は親戚の倉橋家にかくまわれていました。
弟は、戦というものを知りません。
それに、弟にはなつひめさまが持っているような異能力を持っていません。実のきょうだいであるにもかかわらず、このふたりが似ているのは、せいぜい目鼻立ちくらいのものでした。だから、この弟にとって姉は、目標とするにはあまりにも大きすぎる存在でした。
しかし、その姉が恋いする男を、見極めてみたいと考えていました。
道のりは険しいものの、どうにか大過なく乗り切ることができました。峠を越え、沢を横目にますます細くなる道を分け入ると、やがて沢が川に変わり、谷に入ったことが分かりました。
「平らなる地、人を集め、木を切り倒せばよい田畑ができるであろうなあ」
弟はそんなことを思いましたが、供は「しかし、よい道がございませぬ」と言っておりました。実際、谷に出たといっても、道は山の縁をなぞるように続いていました。きっと、始めにこの地を訪れた者が、森の深さに迷ったのでしょう。
ようやく小さな村を見つけたのは、その日の夕刻になってからのことでした。