126, 触れただけで、いましめのごときを解くことができるなどと
男の言葉は、とても言葉どおりの意味に受け取ることができるものではありませんでした。そもそも『鍵』という言葉は、何かをたとえたものとしか聞こえません。なつひめさまが、七倉家を立て直すために鍵のような働きを成した、というのなら分かります。
でも、なつひめさまはこのとき、体をわずかに震わせながら、男の言葉を聞いていたのです。男の言葉は、なつひめさまの勇敢さを称えるために、継ぎはぎだらけの世辞を重ねたものではありませんでした。なつひめさまにとって、男が言っていることは心の内側を言い当てていたからなのです。
「『鍵』とは……」
なつひめさまは、そう言いかけるのが精一杯でした。それくらいに驚くべきことだったのです。当時はいまよりも、迷信ぶかい時代でしたから、まじないのようものの多くは、まことしやかに信じられていました。科学が進んでいませんでしたから、まじないでもなければ起こりえないと考えられていたことも、たくさんあったのです。
それでも、多くの場合、迷信の世界は現実の世界と区別されていました。日々の暮らしを送るなかで、いちいち怨霊や魔術のことを気にしているわけではありません。そして、そのような目に見えぬものを祓うのは、世の表舞台には立たない、かくれた一族だけでした。
それを見破る男とは何者なのでしょうか。
「わたくしのざれごとゆえ、お気になされませぬよう」
男はなつひめさまに背を向けて、立ち去ろうとします。
なつひめさまは、あまりのことに放心していましたが、それでも七倉の当主、咄嗟に言い返しました。
「おまえさまはいずこの家の者ですか! くらはし、あまべ、つかい、たかおみ……」
なつひめさまは、なつひめさまと同じように、とくべつなちからを使いこなす一族の名を挙げました。これらの家の者なら、なつひめさまの秘密を知っていてもおかしくはありません。
けれども、これらの一族に出会ったときに、いま目の前にいる男の姿を見たことはありませんでした。それに、並みの使い手なら、なつひめさまの力を前にすれば、話しかけることすら恐れ多いはずです。だから、なつひめさまはいくつもの苗字を叫びながらも、心のなかでは全て違うと思っていたのです。
「あはは、いずれでもありませぬ!」
男は、先ほどまでの様子とはうってかわって、優しげな笑顔を見せました。まるで、なつひめさまに悪戯をするためだけに、会いに来たかのようです。こんなおとこなど、いままで見たことがありません。
「おまえさま!」
なつひめさまは、必死になって男を追いかけました。しかし、すぐに姿を見失ってしまいましたし、足取りも分からなくなってしまいました。相手が不思議な能力を使うものならなつひめさまには分かるはずなのに、何の手がかりもつかめません。
「ただのおとこであるはずがありません。乱波ごときでもありませぬ。噂話で七倉の力を信じる愚か者でも。あれは確信を持って、私のことを考えてくださった眼です」
けれども、男の姿はついぞ見つからず、なつひめさまは疲れ果てて、ふもとの社に戻りました。
「きっといずこかの神子に、あの山に入れて貰うように頼んだに違いありません。あのおとこは、何の力も持っておられませぬ。もしあの方がわたくしを遥かに上回る力の持ち主だとしても、感じ取ることくらいはできるはず……。なれば、やはりあの方は……」
なつひめさまが社に戻られたとき、古株の重臣がなにやら話しかけてきましたが、なつひめさまは相手にしません。その重臣も心得たもので、まつりの夜くらいはと引き下がりました。
ただ、弟の新左だけが、姉の様子がどことなくおかしいことに気づいておりました。
七倉の家には、ときおり『鍵』をもつ女が生まれます。いつそうなったのかは、もはやなつひめさまですら分かりません。ただ、とくに能力者が生まれやすい家系ほど、一族に繁栄をもたらし、崇められることは確かでした。一族の者はそのような家系を本家と呼び、連枝衆はみな本家に臣従して能力者を守りました。
なつひめさまは、本家から生まれた十代目の『鍵』の使い手です。九代目がどのような女性であったのかは分かりません。たしか、なつひめさまの祖父が、病弱でありながら神のように崇められた女性がいたことを覚えていました。いまの七倉家当主であるなつひめさまよりも五代も前の、遠い昔の話です。
ですから、なつひめさまは誰から『鍵』の使い方を教わったわけでもありません。ただ、なつひめさまの『鍵』の力は特別に強く、鬼どもの幻など、簡単に打ち払うことができるほどでした。七倉の城の人びとが鬼どもの術にかけられたときも、なつひめさまだけは正気でいられたのです。
けれども、なつひめさまは、自分がもつふしぎなちからのことを、家族や、同じようなちからをもつ人のほかに、話したことなどありませんでした。それに、話したところでそう簡単に信じられるものではありません。
「触れただけで、いましめのごときを解くことができるなどと」
なつひめさまは、朝も夜も、あの祭りの夜に会った男のことばかりを考えてしまいます。男がなつひめさまのことを、美しき『鍵』と言ったことが、嬉しくてたまらないのでした。
ある日、たまらなくなったなつひめさまは、あの夜のことをひとに相談することに決めました。なつひめさまには、既に両親はおりませんでしたが、たったひとり、大切な弟がおりました。この弟は、なつひめさまのように勇敢ではありませんでしたが、頭がよく、なつひめさまのことをいつも助けてくれました。
なつひめさまは、お付きの女に弟を呼ばせました。
このとき、弟の新左は元服をすませ、外では七倉新左衛門守秋、家の中では守鍵と名乗っておりました。どちらも、姉のなつひめさまをはばかり、なつひめさまを守るという意味の名前です。そのように名のるほどでしたから、なつひめさまと弟は、とても仲の良いきょうだいでした。
この弟は惰弱というわけではありませんでしたが、優しい面構えをしていて、乱世での武者ぶりという面ではあまり見栄えしませんでした。しかし、幼い頃から姉とともに苦労したせいか、家中の災いごとや、難事を処理することにはとても長けておりました。それに、姉を前にして卑屈にならず、堂々とした居ずまいであるなど、家臣からの評判は上々でした。
「姉上様、いかがいたしましたか。歌などうたわれて」
「あら」
なつひめさまは気苦労が多かったので、呑気に歌うことは好きではありません。それなのに、このときは無意識に歌っていたことに気づかされて、なつひめさまは少し慌てて座り直しました。さすがに、これでは弟でなくても何かあることは気づきます。
「お話があります」
とはいえ、弟はくだけた様子もなく、真剣な顔で訊ねました。
「何ごとでございますか」
「ひとを好いてしまいました」
なつひめさまは、わざとらしすぎるほどに素っ気なく言いました。弟は、心の中ではとてもびっくりしてしまいましたが、いつものように何事もなかったような顔をします。そもそも、このときのなつひめさまは、ひとを好きになったり結婚をするには遅すぎるほどの年齢でした。