11, 相坂しとらの笑顔を見たら死ぬ
相坂さんも、僕がもう一度話したがっていることには気がついていたはずだ。
放課後、僕を無視して廊下に出る相坂さんを追いかけてしばらくすると、彼女は急に振り返って、明らかに敵意のこもった視線を僕に向けてきた。
「わたしに二度と関わらないように言ったはずですよ、司聡太」
静かに、けれども、鈴の鳴るような綺麗な声。
それで僕は驚いたような顔をしたはずだ。そういえば、昨日も僕は下の名前で呼ばれていた。
「名前くらいは知らなければならないのです。私が能力を使うためには」
相坂さんは本物の能力者だ。たぶん、名前まで覚えられたのは何かしらの意味を持つのだと思う。
けれども、僕は物怖じせずに聞いた。
「ねえ、人を殺したことがあるっていうのは本当?」
「本当ですよ。それができるくらいの能力があることは、もう分かったのではないのですか?」
「うん、もう分かっているよ」
「分かっているのなら、どうしてわざわざ話しかけるのですか。放っておいていいでしょう。七倉菜摘への義理は、もう果たしました」
だからもうあなたには関係の無いことです。相坂さんはそう言い放った。
それは間違っていない。でも、相坂さんはとても鋭い視線を僕にぶつけていたけれど、それでもどこか小動物を思わせるように可憐だった。
周囲を近づけさせないような態度だけれども、その孤高さがまたどことなく魅力になっている。そんな女の子に、僕はこういう感情を抱いてしまった。
「相坂さんが人を殺したなんて信じられない」
「それはどんな根拠があって言っているのですか」
根拠がないわけじゃない。理屈からいえばおかしいことはたくさんあった。
でも、まだ僕は確たる自信が持てなかった。
それなのに、相坂さんは結論を待ってはくれない。
「だいたい、あなたはなぜわたしにつきまとうのですか。この前、恐ろしい目に遭わせたというのに。これ以上しつこくするのなら、私が言ったことを現実にしなければならないのです」
この瞬間、僕は違和感を感じた。現実感のない居心地の悪さ。それは意識しないと明らかにできなかったと思う。
「しなければならないことは、後回しにしてはならないのです。本当は」
それは、矛盾していない不完全な能力なのかもしれないけれど、とても理不尽な能力だった。
「司聡太、あなたも殺さなければならないのです」
まさか、何日も前に言った言葉が、今になってものを言ってくるなんて。
相坂しとらは、相変わらずノーモーションの魔法発動という不可思議なことをやってのけた。見えない衝撃波なのか何か分からないけれど、相坂さんの背中から、廊下の窓ガラスが次々に粉砕されてゆく。よく見ると窓サッシのフレームまで歪んでいる。リノリウムに無数の傷が入っているのを見ても、立ち止まって巻き込まれたいとは思えない。
当然だけど僕は逃げた。いかにも相坂さんに都合の良さそうな結界なんかに飛び込めるわけもない。とりあえず相坂さんが手を変えてくるまでは逃げるしかなかった。
相坂さんは小柄だ。理解不能の異能力を持ち合わせているとはいえ、体力勝負ならそうそう不利にならないはずだった。僕だってそんなに足は遅くない。
もっとも、これで空間を跳躍したり瞬間的座標移動をしてきたらどうしようもないんだれど、今までのところ彼女が移動呪文を唱えたことはなかったはずだ。
とはいえ、逃走が根本的な解決になるわけじゃない。それに、相坂さんのテリトリーのなかで逃げ回っていているだけじゃ、スタミナが切れた瞬間に詰みだ。
だから、僕は息が切れる前に走るのをやめた。
全力で逃げる僕を走って追いかけてくるかと思ったら、振り返るとそこに彼女がいる。僕がありったけの脚力で逃げても5メートルと離れていなかった。
つまりは廊下全体が無限のループ回廊と化しているらしい。
……そんなこと、少し前までは絶対に信じられなかっただろうけど。
「逃げられるわけがないのです」
相坂しとらは低い声色で言った。息はあがっていない。
でも、今度は分かりやすかった。
彼女は手を挙げて、すぐにそれを振り下ろした。それだけでさっきと同じことが繰り返される。空間ごとコピー・アンド・ペーストをしたんじゃないかと疑いたくなる光景が広がった。
廊下、窓ガラス、外は夕焼け、そしてガラスが砕け散る。
「くそっ!」
一にも二にも逃げるしかない。僕はもういちど同じことを繰り返した。
相坂さんとは逆の方向へ駆け出す。それしかない。
けれども、今度はそう長く逃げられなかった。
いや、息の続く限り逃げてもいい。本当はそうするのが普通だ。逃げ続けたところでムダなのは分かりきっているのだけれど、命の危険があるというのなら本能的にでも逃げたくなる。
でも、僕はどこか自分の置かれている状況を現実としては受け止められなかった。前に相坂さんと会ったときのことを思い出す。あのときも同じようなことを感じたと思う。
僕は今度は階段を駆け上がった。息が切れてくる。ひとつ階を上がったところで、それよりも上がる気にはならなかった。
足を止め、そして振り返る。
するとやはり無表情の相坂さんが立っていた。さっきと全く同じだ。
「逃げられるわけがないのです」
僕は相坂さんに何か言おうとしたけれど、それはできなかった。もちろん、時間がなかったということもあるけれど、僕がうかつに会話を始めたくなかったということもある。
相坂さんの能力。それをこれ以上強化するわけにはいかない。
だから、うかつなことは切り出せないはずだった。
でも、彼女は何を狙っているんだろう。
僕の体力がどんどん削られていることはわかる。階段はきつい。短距離ダッシュを繰り返しながらの上り階段が、こんなにも足に来るものだとは思わなかった。いつまでもこうしてはいられない。立ち止まると、今度は僕の背後から階段が崩れていく。
足が痙攣するように動いた。逃げないといけない。
僕はそう直感的に思って、それから背後から相坂さんの声を聞いた。
「逃げなければならないのです」
僕は後ろを向く。もう崩れ落ちていく階段などなかった。そこは夕暮れの教室前の廊下で、窓なんか割れていなかった。また同じ。どうなっているんだ!
ただ、相坂さんの表情だけが違っていて、わずかに微笑していた。
こんなときでないと笑わないのかよ!
僕が逃げ回っているところを見て笑っているわけだから、僕にとっては全然うれしくなるようなことではないのだけれど、彼女の笑顔はとても綺麗だと思った。
「楽しそうだね、相坂さん」
僕は耐えきれずに声を掛けた。息切れしたまま言ったって皮肉にもならない。
「楽しいですよ、とても。自分の能力で相手を圧倒するのはとても楽しいのです。まして相手が気に入らないものですから、なおさら」
「それは全然うれしくないな……。こんなことばかり続けられると、足がきついんだ」
僕は敢えて虚勢を張ることをしなかった。もっとも、足は走り疲れてガタガタだし息もあがっているんだから、誰が相手でもごまかすのは無理だった。
そして相坂さんはまた同じことを繰り返そうとする。
「そうですか。あなたにはまだまだ辛い思いをしてもらわなければならないのです」
けれども、僕は見逃さなかった。相坂さんが微笑するのをやめて気だるげな表情をしたことに。おかしい。僕は感覚が弱まった足で立ち上がって、怯えたような顔をして逃げだそうとしたはずだ。
いや、それがうまくいったとは思えない。僕が怯えた演技をうまくやってのけたとは思えなかった。本当は相坂さんを睨み返して、その一挙手一投足を観察しようとしたはずだ。そうして僕は頷いたと思う。
僕は作り物みたいに現実感のない廊下を走りながら考える。
相坂さんが何をしているのか。
彼女はまだまだ辛い思いをしてもらう必要があると言った。とても面倒くさそうな表情をして。それは僕が知っている、いわゆる愉快犯のイメージとは違っていた。もっとも、現実に殺人犯に出会ったことなんてないし、僕の抱くイメージに相坂さんみたいな不可思議能力者にあてはまるのかどうか分からないけれど。
僕は階段を上りかけて立ち止まり、恐怖感を抱かせるように崩落していくそこで、ありったけの声を張り上げた。
「相坂さんっ!」
一瞬、僕の目に確認したかったものが映る。だが次の瞬間には相坂さんの様子が変わっていた。それはもう見ただけでわかる。
「あなたは……、あなたは、一体なんなのですか」
「それはむしろ僕の台詞だよ」
こう言いたくなることも当然だ。
僕の周囲の時間は止まっていた。まるで写真で切り抜いたかのように。
ちぎれたスポンジみたいに粉々になったコンクリートが、僕の足下を支えている。鉄筋まで見えているんだから崩落というよりは崩壊といったほうがいいくらいだ。
こうしていても足が震えそうになる。ここで時間をふたたび動かしたら、僕はいま宙を浮いている破片にぶち当たって絶命すること必至だ。
けれども、そうはならない。僕が足を止めた瞬間、全ての動きがスローになっていって、瓦礫のひとつひとつの動きが見えるほどに遅くなった。頭の上には特大の塊がある。正直、恐怖以外の感情が無くなってしまいそうになるほどに非現実的な危機が迫っている。
けれども、僕はそこで相坂さんの名を呼んだ。それで全てが止まった。
相坂さんが現れたとき、彼女は期待したような表情をしていた。
何を期待していたんだろう――。
僕はいったん考えるのをやめて、自分の気持ちを落ち着かせる。心拍数が上がりすぎていた。もっとも、この非現実的な状況に放り込まれたらイヤでもこうなってしまうのだろうけれど。
僕は大きく息を吸った。
「相坂さんは人を殺したことがあると言ったよね」
「……あります。そうでなければわたしの力は使えるはずもないのですから」
それは間違いない。相坂さんが人を殺したと言えばそれは嘘ではないはずだ。
「じゃあ、どうしてこんなに回りくどい方法を使うの?」
「回りくどい?」
そして僕は言った。たぶん決定的なことだ。
「僕は相坂さんに怪我を負わされていない」
相坂の表情が歪んだように見えた。
「いや、全く怪我がなかったわけじゃない。けれど、僕がしていたのは擦り傷だった。切り傷じゃない。相坂さんの力で怪我をしたんじゃなくて、僕が勝手に転んだだけだった」
僕が断言すると、相坂さんのやたら綺麗な相貌が陰る。体が震えたような気がした。子供の頃、イタズラが露見したときのような姿。
「相坂さんは人を殺した経験なんかない。けれども嘘でもない。つまり、言葉どおりの意味じゃなく、人を殺したことがある」
「わたしの力は嘘をついてまで扱えるものではないのです。そうでなければならないのです。嘘をついてまで使える力があったとしたら、私自身でも持て余してしまうに違いないのです」
たしかにそうだろう。けれども、僕は相坂さんの言葉のひとつひとつに、何かの決まりを守り通そうとするような慎重な物言いを感じていた。
表情を変えずに、落ち着いた声で、相坂さんはまるで本当の顔を見せてはくれない。けれども、逆にそれが疑わしかった。だから、僕はすこし強引なくらいに彼女に反論する。
「でも、人を殺すといっても、何をもって人を殺したのかが分からないんだよ。ふつうの人ならナイフを使って人を刺したりするのかもしれない。もしかしたら、殺したい相手の周りの人に悪口を吹き込んで精神的に追い詰めるのかもしれない。けれども、相坂さんの力を使えば、もっとずっとうまくやれるはずだよね」
ひと呼吸置いてから、僕はひとつたとえ話をする。とても非現実的な話だけれど、僕は相坂さんの能力が本当に存在することを知っている。
それだけじゃない。
僕は目の前にいる女の子が、自分よりもずっと優れた能力を持っていることに、なんの疑問も抱かなかった。だって、相坂しとらはその姿形が綺麗だという能力を持っているんだから。
僕はこの感覚をずっと前から知っている。いつだって、僕の周りには僕よりも優れた能力を持っているひとがいて、平凡な僕はそういうひとと関わり合いになることで今まで過ごしてきた。だから、相坂さんみたいに可愛い女の子と喋ることは、全くイヤだとは感じなかった。
しかも、僕は今まで見たこともないような能力に、単純に興味があった。それで、僕は興味本位にこんな質問をする。相坂さんが殺人犯だという事実を打ち消すために。
「たとえば、相坂さんが僕に『二度と関わらないでほしい』と言ったとする。もしかしたら、相坂さんは単に僕が相坂さんに話しかけないように命令しただけなのかもしれない。けれども、僕が相坂さんと話をしないようにどこか遠くへ行ったとしたら、それは相坂さんが僕を殺したことになるのかな」
相坂さんは首を縦にも横にも振らなかった。ただ、いつものように不機嫌そうな顔で、僕の話を聞いているだけだ。ノーモーションでの魔法攻撃も、異空間を作り出す謎の呪文もなかった。
どうしてだろう。
僕にはそれが、なんとなく彼女の確信が弱まっているからのような気がした。七倉さんも言っていた。完全無欠の人間も能力も存在しない。
はたまた、こんなふうに考えてもいいのかもしれない。
能力は、心の強さに左右されるものだって。
「相坂さんの能力はとても強いよ。使い方によっては、命令されたひとの考え方や主義まで変えてしまうくらいに。そして、考え方が変わったせいでそのひとが命を落とすことになったら、相坂さんが人を殺したといえるのかな。それに、もしそのひとが死ぬのが1年後ならどうなんだろう。5年後、10年後なら……。きっと僕と相坂さんでは、能力の影響が消える時効みたいなものの感覚も違うと思うんだ」
「当然です。これはわたしの能力なのですから、わたし自身以外の解釈なんて全く無関係なのです。わたしが殺人だと思うことが殺人であって、倫理や、ましてや法律を基準にして考えるとしたら、それは見当違いもいいところなのです」
相坂さんは語勢を強めて言った。
それは彼女の自信を表していたのだろう。僕は頷くことを強制されているような気さえする。
「うん、相坂さんの能力なんだから、僕の解釈なんて関係ない。関係があるのは相坂さん自身の解釈だけだ。だからこそ、相坂さんが人殺しだと判断できれば、それは殺人行為なんだ。その行為の解釈にはいくらかの幅があって、僕たちが考えるような殺人とは違う。けれども、だからこそ相坂さんは僕が考えるような殺人をしているとは思えない。相坂さんが殺人を犯したというのなら、いまこうして僕が話をしているなんてことはないはずだよ。もっとずっと前に口を封じてしまえばいいだけなんだから」
更に言えば、いまこの瞬間に僕の呼吸を止めてしまう命令を下せばいいはずだ。さすがに、相坂さんを挑発するためだけにそんなことは言えなかったけれど。
「相坂さんはとても強い能力を持っているけれど、それでも、相坂さんにとってなにかきっかけが無ければ、自分が人を殺していることなんて信じられない。いくら自分の信じていることに幅があるといっても」
僕は自分が冷静だったかどうか分からない。けれども、少なくとも相坂さんよりは動揺していなかったみたいだ。
「じゃあ、そのきっかけというのはなんなのですか! そこまで言うのなら、あなたは明らかにしなければならないのですっ!」
激昂したみたいに叫んで相坂さんは命令する。その命令が能力を帯びているのかいないのかは分からない。けれども、僕は自分の意思でその命令に従った。
「相坂しとらの笑ったところを見たら、死ぬ」
相坂さんの瞳が揺らいだように見えた。
でも、僕はそれにはかかわらずに話を続ける。
「この言葉はおかしいよ、笑顔を見ただけで死ぬことなんてあるわけがない。相坂さんが笑えば人が死ぬなんてことはない。ひょっとしたら、相坂さんが人を殺すときだけに笑うのかもしれないけれど、それなら、被害者以外に相坂さんが笑ったところを見たひとなんていないはずだよ」
相坂さんは何も言い返さない。けれども、反論しようと思えば何とでも言えたはずなんだ。相坂さんなら記憶を消すことくらいやってのけるかもしれない。
でも、そうやって反論をすることで自分のルールから外れることを、相坂さんは恐れているんだろう。口をつぐんだまま僕をじっと見つめている。だからもう僕も躊躇しない。相坂さんの能力を看破するだけだ。
「相坂さんの笑顔を見たら死ぬ。僕はこの言葉をおかしいと思う。何かが多すぎるか、足りないんだ。この言葉に削る部分なんてないから、当然、なにかが足りないはずだよ。そして、その足りないものを補ったら、こんな言葉になるんだと思う」
僕は死ぬという言葉を日常的に使わない。けれども、たまに僕はその言葉を耳にする。
それはとても大げさで、あまり使おうとは思わない言葉だった。だから、僕は久しぶりにちょっと気恥ずかしいその台詞を口にする。
「相坂しとらの笑ったところを見たら――死ぬほど可愛かった」