01, 祖父の箱(タイトルロゴ.イラスト/よしの)
父が運転する車で、10時間もかかる大移動だった。
僕の家族は各地を転々と移動しながら過ごしている転勤族で、故郷はどこかと聞かれてもすぐには答えられないような暮らしを送ってきた。
小学校では四度の転校を経験したし、中学もこうして移らなければならなくなった。こんなになんども学校を転々としていると慣れるのかとも聞かれるけれど、荷物の片づけや新しい生活への準備はいつも慣れなかった。
けれども、今回の転勤はそれまでとは違っていて、父の故郷へと帰る移動だった。
それまで僕は知らなかったのだけど、父の故郷というのは、司家……つまり僕・司聡太と同じの名字をもつ人間の生まれ故郷だったみたいだ。
父はこの転勤で父親――僕から見ると祖父にあたる、司聡一郎に親孝行をしようと思っていたらしい。中学も3年生になって、少しは分別のつくようになってきていた僕には、その転勤に反対する理由なんてなかった。
たどり着いた町は、とある大都市の郊外だった。もっとも、僕たちが暮らすマンションは町の中心部で、祖父が暮らす集落は郊外の更に奥地にある。それでも、車なら15分もかからない距離だから随分と近くなった。
祖父は高齢で祖母と一緒に暮らしていた。父が里帰りすることを祖父母は随分と喜んでいて、引っ越しを終えるとすぐに会いにくるように電話してきた。
数日後、挨拶がてら会いに行ったとき、祖父はまだまだ元気だった。高校受験を控えていた僕の肩を叩くと、参考書を買うようにとお小遣いをくれた。
それから僕たち家族は、ときおり郊外の高台にひっそりとたたずむ祖父の家に遊びに行った。
ただ、祖父はほとんど病気らしい病気もなかったけれど、残念なことにそれからほどなくして亡くなった。ちょうど高校受験を終えたころだった。
僕はもちろん悲しかったけれど、祖父は既に高齢でとても長生きしていた。だから、祖父を見送る家族や親戚はどこか明るくて、すぐに乗り越えることができた。
祖父の葬儀が終わってしばらくすると、遺品の整理が始まって、90年近く生きた足跡の多さに驚かされることになった。
もちろん、司家はごくふつうの家で、祖父の遺産は土地と家を除けばたぶんそれほど多くはない。もっとも、僕は遺産のことなんてほとんど何も知らないけれど。
けれども、祖父の部屋にはたくさんの本が残されていた。古いハードカバーの小説や歴史書、それから、この町の歴史を調べていたみたいで、本棚には郷土史の本が何冊も並んでいた。
もっとも、祖母はその本を処分するようなことはしなかった。祖母はまだ元気だったから、そういった祖父の思い出を消してしまうことは望まなかったのだろう。もちろん、僕の父や叔伯父たちも残しておくことに賛成した。
ただ、そんな中でも、祖母が持て余した品のいくつかは形見分けすることになって、更に、家族の中で引き取り手が見つかりそうもないものは処分してしまうことになった。
それで、僕たち家族は居間の机に遺品を並べて、それぞれの品の思い出話をしながら、ひとつひとつそれらを分けていった。
けれども、並べられた遺品の中で、ひとつだけ、他とは違っているものがあった。
それは小さな古い金属製の箱だった。
僕はそれを見たとき、一瞬だけオルゴールと見間違えた。なんとなくヨーロッパ風の拵えで、金属の側板に瀟洒な彫り込みがなされている。金属なので、ところどころサビがついていたけれど、それが時代の流れを感じさせていて、僕たち家族は祖父の雰囲気を思い出して懐かしい気分になった。
その箱には、小さな鍵穴が開いていた。いったんはオルゴールだと見間違えたけれど、すぐに宝箱なのだと分かったのはそのおかげだ。
それなのに、その宝箱の鍵は家の中をどんなに捜しても見つからず、誰にも開けることができなかった。金具を使ってこじ開けようともしたけれど、意外にもその箱は頑丈にできていて、箱が傷つかないうちに諦めた。
僕たちは誰ともなく箱を手にして振ってみた。そうするとわずかに感触がある。
どうやら紙片のようなものが入っているようだった。箱を取り合って確かめると、家族は口々に、何が入っているのだろう、大切な物じゃないだろうかと言い出した。
まさかこんな箱に遺言書が入っているわけはないだろうけれど、祖父が遺した家族たちは、この箱がとても大切なもののように思えてきた。もちろん祖母にもこの箱のことは聞いてみたのだけれど、小さく首を振るだけだった。
けれども、祖父がその箱をずっと昔から持っていることはたしかなことみたいで、父や伯父も小さい頃に見た覚えがあると言った。それなら、子供のために買ったものなのかと思いきや、どうやら祖母が嫁いだときには既に持っていたらしい。ひょっとしたら曾祖父から譲られた舶来の珍品かもしれない、なんて憶測まで飛び交った。
実際、その箱はアンティークとして売りに出せそうな不思議な魅力があって、ひょっとしたら鑑定すると高い値段がつくんじゃないだろうかとも思えた。
もっとも、事情の知らない遠縁のおばが少し出しゃばって、
「どうせたいした物は入っていないでしょ。それよりも、古いものだし鍵だけは開けてもらって、売ってお金にしちゃいなさいよ」
と言ったのだけれど、このとき僕の叔伯父たちは目を剥いて怒り出して、
「鍵屋なんかに預けて強引にこじ開けられでもしたらどうするんだ! これは親父の遺した大切な物なんだから、売り飛ばすなんてもってのほかだ!」
と怒鳴り返したときには僕も驚いた。
あまりの剣幕に、遠縁のおばはすぐに謝って引き下がったのだけれど、普段はとても温厚な伯父が、こんなにも真剣に怒り出すのを僕は初めて見た。
なぜか伯父自身ですら驚いたみたいで、後ですぐにおばに謝っていた。伯父自身も、どうして自分がそんなに怒り出したのか分からないらしかった。
とにかく、鍵の見つからないその箱は、父や伯叔父たちが厳重に管理して手放そうとはしなかった。それは、伯父が怒り出したくらいに大切にしていたこともあったのだけれど、それから父たちが、なぜか子供の頃に祖父がとても大切にしていた覚えがある、そういえばたまに取り出して磨いていた、なんていうふうに、水が溢れるようにその箱にまつわるエピソードを思い出したからだ。
遺言の話が出たのは、そのすぐ後のことだった。
実は、祖父は遺言を遺していなかった。
もっとも、そもそも司家には、遺言書を遺すほどたいそうな遺産はなかったから、遺言を残さないこと自体は問題ではなかった。唯一の遺産といえる宅地は祖母が暮らし続けることで話がまとまっていたし、祖父の子供同士で争いに発展しそうな気配もなかったからだ。
遺言といえば、祖父は日記や日常の何気ないメモの中に、家族への言葉を遺していたから、それが遺言みたいなものだった。
けれども、そんないくつかの遺品の中に、あの箱について書かれている箇所が見つかった。
祖父はその箱がとても大切なものだと前置きした上で、周囲の文字よりも力を込めたような筆跡で、こう書き残していた。
「もし私が亡くなったら、百か日までに司家から跡継ぎを立て、箱の鍵を開けよ」
これを読んだ叔父が慌てて兄弟たちに連絡して、また大騒ぎになった。
百か日ってあと何日だ、跡継ぎってなんだ、司家ということは兄弟のうちの誰が継がなきゃならないのか……などなど。
司家には家業なんてなかった。曾祖父は農家だったはずだし、それも祖父の代までだった。その祖父だって今では農地を持っていない。まさか家の敷地にある家庭菜園の跡継ぎなんか頼むわけがないだろう。
まだ百か日までには三か月も時間があった。けれども、百日の猶予があるということは、跡継ぎの資格を得るためには、きっとそれなりの準備が必要になるはずだ。
そんな跡継ぎを必要とすることが司家にあるのだろうか?
あるとすれば、祖父はいったい何をやっていたのだろうか?
祖父の遺言は謎だらけだった。
けれども、その謎が明らかになるまでにまた時間がかかった。父や叔伯父たちは、会社の仕事に戻らなければならなかったし、それだけでなく、今はまだ祖父名義になっている口座の変更や、相続や法事の作業もやらなくてはならなくて、跡継ぎのことまで労力を割く余裕はないみたいだった。
母は父に比べれば手が空いているみたいだったが、それでも充分に忙しかったし、なにより祖父が言った司家の跡継ぎという話が理解できないようだった。
それは僕やイトコたちも同じだ。
僕たちは、司家が祖父の言うような何かしらの伝統を代々受け継いでいるとは思っていなかった。
自分の生まれた家は単なるサラリーマン家庭だ。祖父が住んでいる田舎の家も、屋敷というほど大きなものではなかったし、贅沢ができるわけでもない。ごく普通の家だ。
だから、跡継ぎの話はすぐに記憶から薄れていったし、たとえ何か明らかになったとしても、伯父あたりが何かしらの跡を継ぐものだろうと思っていた。まさか高校生になる僕が、祖父の遺言に関わってくるとも思えなかった。
けれども、ある日、僕は父親に呼び出された。
夕飯を終えた僕は、ダイニングテーブルに父と向かい合いに座らされて、とても大切な話だと前置きされてこんな話を聞かされた。
「聡太、お前の名前がお祖父ちゃんから一字をもらっていることは知っているだろう。実は、お祖父ちゃんの遺言の話だが、どうやら司家の歴史を調べると、跡継ぎの資格はその一字の名前にあるらしいんだ。つまり、司家の跡継ぎはお前らしい」
僕は驚いた。父は祖父の子供の中で二番目の子供だった。それに、孫世代にも僕より年上の従兄がいた。時代錯誤かもしれないけれど、ふつう跡継ぎといえば年齢が上の子供から順番じゃないだろうか。
だから僕は驚いたのだけど、父はそんな僕の表情を見て緊張を和らげるように笑ってこう続けた。
「いや、司家の跡継ぎといっても、何か特別な家業があるわけじゃないんだ。先祖代々から受け継いだ大切な宝があるというわけでもない。ただ、お祖父ちゃんは自分が知っていることを聡太に教えてやってほしい、とだけノートに書いてあった」
父はそう言うと、祖父のノートを鞄から取り出した。そのノートは色褪せてはいたけれど、今でも店頭で見かける市販の物だった。ただ、学習用に使うような安いノートではなくて、耐久性が高いノートなので、長く残すことを考えられたものだということはすぐに分かった。
「それを読んでおきなさい。お父さんにはよく分からないが、跡継ぎのお前なら理解できるのかもしれないからな」
父はそう言って僕にノートを手渡した。
それだけでそのノートはもう僕の物になってしまった。僕が持っていていいのか叔伯父に聞いても、お前が持つべきものだとか言われてしまう。どうやら、司家の中ではもう僕が後を継ぐことで決まってしまっていたみたいだ。
そのうえ、週末には、僕は祖母に呼び出された。祖母は祖父が亡くなった後も祖父の家でひとりで暮らしている。僕が自転車を飛ばして家を訪ねると、祖母は祖父によく似た笑顔で迎えてくれた。
祖母がひとりで暮らしているせいか、家のなかは少しだけ肌寒かった。僕が炬燵にすべりこむと、祖母はかいがいしくお菓子の入った箱を持ってきてくれたので、僕はその中から煎餅をひと袋開けてかじりついた。
それから僕はノートを開けて、傍らに座った祖母に尋ねた。
「僕が跡継ぎだって言われてノートを渡されたんだけど、どうすればいいのかな」
「お祖父ちゃんが決めたのだから、聡太が継いでくれると嬉しいねえ。そのノートをようっく読んで勉強して、百か日までにあの箱を開けてほしいよ」
「お祖母ちゃんはあの箱に何が入っているか知らないの?」
「さあ、どうだったかねえ。なにせ70年も前のことだからねえ」
僕は気が遠くなった。
70年前はまだ戦時中だ。歴史の授業の世界だ。
市街地から離れたこの家の周りは今と同じ田園風景だったけれど、ここから見える山や丘の上の住宅地は単なる山だった。その向こう側も単なる農村で、そこから更に海側に下って、ようやく市街地だった。ちなみにそこは、今では高層ビルが立ち並んでいる。
そんな大昔から残っている遺産を調べて、跡を継がなければならないなんて。
「なにせ、わたしが倉橋にいたころの話だよ。その頃まで、司のことなんてまるで知らなかったのさ。でも、お祖父ちゃんはずっと覚えていたんだねぇ」
祖母はそういうと細い目をますます細めた。
僕には倉橋という場所に聞き覚えがなかった。祖母はいったい何の話をしているのだろう。
とにかく、遠い昔の話だということは確かだった。
「このノートに書いてあることは本当なのかな。まだ途中までしか読んでいないんだけど、とても信じられないよ」
「お祖父ちゃんは嘘をつくような人じゃないよ」
祖母はのんびりと断言した。そういうふうに言われると、僕も頷かざるをえない。僕は一度として祖父に嘘をつかれた覚えはなかった。もちろん祖母にもだ。
「聡太も大変だろうけど、がんばりなさい」
帰り際、祖母は僕に一万円札を握りしめさせながら言った。僕はびっくりして断ろうとした。正月のお年玉や誕生日のお祝いを除けば、祖母はいつでもお金をくれるようなひとではなかった。
それなのに、僕が跡継ぎに指定されてからというものの、祖父から預かっていたんだよ、なんて言いながら僕の喜びそうな物をくれるようになって、いつしか僕は跡継ぎの話を完全に断れなくなってしまった。
結局、僕は100日以内に――しかももう80日ほどしかない――跡継ぎとして祖父の箱を開けなければならない。
それなのに、どうすればその箱を開けられるのかは何も分かっていない。
分かったのは、祖父のノートに書いてあったことだけだ。
このノートにはこんなことが書いてある。
――この町には、不思議な能力をもつ一族が、今もまだ生き残っている。
まるで魔法のような異能力をもつ人間は、昔から連綿とその力を保ちながら暮らしている。今では多くのひとはその事実を忘れてしまったが、かつては皆がそうした特殊な人間がいることを知っていて、畏れ崇めることもあった。
だが、近年はそうした能力をもつ一族も、都市化によって、かつて暮らしていた地域から散らばってしまい、少なくなる一方だ。
もちろん、都会にもそうした能力を持っている人間はいて、その力を様々な形で役に立てているのだが、人間の数が多すぎてまず見つからない。能力者の一族が離散するにつれて、能力の継承も行われなくなってきている。
けれども、この地域にはそうした能力者たちがまだ残っている――。
祖父・司聡一郎は、こうした事実を記憶している数少ない生き残りの一人だった。もっとも、司家は能力を持っているわけでもないし、能力に関して特別な家業があるわけでもない。
ただ、司家はたまたま能力に関する言い伝えを代々きちんと伝えてきた一族だった。
――自分もこの記憶を息子たちに伝えたが、多くのひとと同じように、きっと信じられずに忘れているだろう。
だが、こうした事実を思い出した息子か、あるいは孫がこの事実を受け継いでくれれば、司家の末裔としてこれほど嬉しいことはない――。
ノートにはそう綴られていた。
ちなみに、僕の名前もそうした能力をもつ占い師のひとに付けてもらったらしい。
本当かどうか知らないし、信じられないけれど、そのせいで僕は跡継ぎに指名されてしまったわけだ。
でも、これから入学する高校では、もしかしたらそうした能力者に出会えるのかもしれない。
というよりも出会えなければお手上げだ。僕は平日の昼間は学校に行かなければならない。たとえ、休日に出歩いて手がかりを捜したところで、謎の能力者がそこらへんの公園で超能力バトルを繰り広げているとも思えない。
だから、せめてこれから入学する高校で、不思議な能力にかかわるひとと出会えなければ、百か日までに祖父の遺言を叶えることはできないだろう。
なにより、祖父の箱の鍵を開けられる能力者に出会えるのだろうか……。
そんなふうに、僕は多くの不安を抱えながら、それでも、ほかの新入生と同じように新学期を迎えた。