雲に恋、弓道衣に射
高校の駐輪場に自転車を止め、エナメルバッグと矢筒を担ぎなおす。
走ってるうちに緩んでしまった弓巻を軽く整え、弓道場へと向かう。
午前七時過ぎの学校は心が安らぐ。
あのうるさい野球部の声すらまだ聞こえない。
倉庫の脇でこじんまりと咲くあじさいは夏の始まりを告げ、
先輩は昨日の大会で部活に別れを告げた。
予選敗退。
先輩みんなが悔し涙を流していて、同輩の一部もつられて、あるいは空気を読んで泣いていた。
僕は先輩よりも多く射あてていた。
僕は泣いていいのか泣いちゃいけないのか、よくわからなかった。
僕が泣いたって先輩たちが予選通過できるわけではないのだ。
塗装がはげ落ちた壁板の弓道場に入る。
中は毎日手入れしてるから、年季の入った深みが出ている。
人の気配はない。
射場と矢道を隔てる戸を開けると、朝日が射場に入り込み、
足踏みをしている部分だけが白くかすんで際立った。
鳥の鳴き声と、そばの国道を駆けるトラックの音だけが聞こえる。
孤独の場所だった。
床を掃き、的を付けてからニキビだらけの額についた汗を拭う。
矢道から見える雲がきれいだった。
汗臭い更衣室でジャージに着替え、軽くストレッチする。
腿の辺りがてかってしまっているが、もう気にとめないことにしている。
「相変わらず早いね」
一手射終えたところでようやく彼女がやってきた。
ブラウスをきちりと着こなしているが、巻き上げたスカートの帯が歪んでいるのに気が付いていない。
「早くないよ、新部長さん」
それだけで会話を終わらせた。
なんて切り返せばいいのかわからなかった。
「そう呼ばないでって言ったのに」
そう新部長は言う。
頬が膨らんでいるのはぶりっこのふりして惑わそうなどという狡猾な理由ではなく、
頬骨がそういう形である、ただそれだけの単純な理由なのだ。
的前に立ち、弓を煙のように打ち起こす。
的の中心を睨み、ぜんまい人形みたいに引き分ける。
きりきりと弓がしなる。
会の状態になっても、妻手は引き続け、弓手は押し続ける。
長い長い拮抗の後で、ぷつりと糸が切れるように矢を放つ。
弦音がして間もなく、弱々しい紙的を貫通する音が申し訳ばかりに聞こえた。
実にやる気のない音だ。
的を張った一年生らしい音だ。
それでも矢はほぼど真ん中を貫いている。
「よおし」
新部長が声高々にうたう。
僕は構わず次の矢を射る準備に取り掛かる。
それもまたあたった。
これで四射皆中だ。
すごいね、と新部長は言ったが、別段すごいわけでもない。
何も考えずに放てばあたる。
いつも同じように動けばいい。
そういうものなのだ、弓道とは。
新部長も的前に立ち、弓を引く。
射形こそいいものの、離れる瞬間弦が緩み、力のない矢勢になってしまった。
的場にすら届かず、途中から矢道を滑走した。
彼女は真剣な顔をしていた。
真剣な顔をしているように見せかけて、
投げ出したい気持ちを抑えているのかもしれない。
僕はスランプという言葉は嫌いだ。
スランプってのはその手のプロフェッショナルが
プロフェッショナルとしてのパフォーマンスをすることができなくなってしまったときに使うものだ。
アマチュア見習いみたいな僕らが使っていいようなもんじゃない。
だから彼女は単に不調なのだ。
かれこれ二ヶ月になろう絶不調のただ中にいるのだ。
直す箇所はただ一瞬の一点のみ。
矢を射る寸前、弓懸けが弦に引っかからないようにすればいい。
理屈じゃ新部長もわかっている。
でも、どうしてもそれを正せない。
そういうものなのだ、弓道とは。
「今日の英語、小テストだよね?」
彼女は気にしない素振りをして、射る直前の僕にとんでもないことを尋ねてきた。
矢が的一個分上に突き刺さる。
そんなの、聞いてない。
§
僕は雲に恋をしていた。
あの空に浮かぶ、大きな雲が好きだった。
言葉も出ないため息を漏らす。
こうするしか自分の感情を表現できないのだ。
遠くに浮かぶ大きな積雲の白い曲線美なんて、瑞々しい柔肌のようだ。
まるでその肌に吸い取られてしまうような感覚に陥る。
でも僕の体は決して浮くことはなかったし、雲がこちらへ近付いてくれるわけでもなかった。
雲は無関心なのだ。
無関心だからこそ、僕は雲に憧れみたいなものを抱いているのかもしれない。
でも、すべてを知り尽くしてやろうという欲求はなかった。
高度一万メートルを超す雄大積雲発生のメカニズムだとか、
基本形、種、変種、副変種の違いを見分ける術だとか、
そういった科学的探究心はちっとも芽生えたりしない。
この雲は大きいなあとつぶやいたり、
この影の濃淡に感嘆を漏らしてしまったり、
とにかくその程度で収まっている。
いつからか人と話すのが苦手になっていた。
特に同年代の女子とは話せない。
話題を振られるとすっかり言葉を忘却してしまう。
部活内の女子と話すのですら、表面の薄皮みたいな会話しかできない。
小学生のころは誰とも分け隔てなくコミュニケイトできていたと思う。
中学のころはよく覚えていない。
でもサッカー部の部長をやってたくらいだから、
それなりに意思疎通はこなせたんだと思う。
高校になって、しばらくたって気付いたら人と話すのが怖くなっていた。
仲のいい奴らはいるけど、それでもやはりどこかで彼らを疑ってしまっているのだ。
なのに僕は部長候補に選ばれてしまった。
どうも礼儀正しい後輩に見られていたようだ。
弓道の動きが僕の体に合っていたらしく、
入部して間もなく射法八節は型通りにできるようになった。
的前で引くようになって、弓のくせと離れの要領を
わきまえるようになったらあたるようになった。
評価点なんてものがあるのか知らないけど、
あるとしたら僕は先輩からかなり高い評価を得ていたんだと思う。
別にナルシストなわけではない。
対応からしてわかるのだ。
僕だけを特別扱いしている。
先輩から指導を受けるとき、なぜか申し訳なさそうな顔をされる。
まるで「そのままでも充分、というか完璧なんだけどぉ」という
序詞を頭につけなければ指摘できない決まりがあるように思えてならなかった。
でも、評価が高くなればなるほど、僕は焦りだした。
僕は目立ちたくない性分なのだ。
そのくせ弓道はそれなりに好きだから手を抜かずに練習を重ねる。
練習だといわれたものはゴミ拾いでもバラック造りでも何でもやったから評価は上昇する。
僕は焦る。
その繰り返しだった。
評価が上がると部長になってしまう。
それがいやだから生徒会の役員になった。
会長候補が行動力のある人だったから、
部活のトップに立つよりかは生徒会の雑用として働いたほうが荷が軽いと判断したのだ。
もちろん来期まで続ける気はこれっぽっちもない。
生徒会が忙しいから弓道部の部長にはなれません。
僕は逃げたのだ。
その結果おとなしいあの新部長が部長に抜擢された。
理由は彼女が弓道にひたむきだからだ。
朝練は毎日出るし、掃除は道場の外や校門前だって丁寧にこなす。
彼女の張った的は紙でもいい音がする。
高くて澄んでて鋭い音だ。
どんなに不調が続いても矢数は減らさないし、向上心がある。
その上勉強もできるしコミュニケイション能力も高い。
赤倉が冗談を言ってもうまいこと言い返す。
僕なんかよりも人としてずっと素晴らしいのだ。
生徒会が忙しいから弓道部の副部長にもなれません。
そう真顔で言って、僕は平部員になった。
二たび僕は逃げたのだ。
副部長は岩垣になった。
同じクラスで、常識から卓越した変態で、新部長とは別次元の人間だったが、
話し合いではよく意見を言うし、根はまじめな奴だから
うまく新部長をサポートしてくれるだろうと思っている。
きっと僕なんかよりずっと適役なんだ。
§
「ここで『僕』はどんな気分に浸っているか、それは地の文にあると通り、
『億劫だ、実に億劫だった』という気持ちになっている」
現代文の先生の声が響く。
先生は弓道部の顧問だ。
先生の言葉をすべて信じて、言われたことを素直に従えば弓は上達する。
しかし時代に対応しきれていないせいなのか、
ここの生徒のニーズと合わないせいなのか、彼は嫌われていた。
先生は教室内をぶらぶら散歩しながらぼさぼさの白髪を掻きむしり、分厚い眼鏡をくいくい上げる。
「そのくらい誰だってわかる。嬢ちゃんもわかるだろう?」
間近にいた女子に問いかける。
彼女は無言で何度も何度も頷いて同情の念をアピールする。
「でも俺が問いたいのはそういうことじゃあない。
作者がなぜ、『億劫』というワードを繰り返し用いたのか」
先生は再び歩き出した。
クラスメイトはみんな机を眺め、先生と顔を合わせようとする者はいなかった。
だからまるでハンカチ落としのゲームをやってるみたいだった。
「こりゃ、誰か指されるぞ」
「おいおい、無理ゲーだろ」
先生が背中を見せているうちに岩垣と耳打ちする。
「作者がこの場面で『億劫だ、実に億劫だった』と表現した旨をこの場で考え口頭で述べよ」。
無理ゲーだ。
無理ゲーに決まっている。
そんなもの、作者が気分で書いたからに決まっているじゃないか。
リズムとか語感とか、そういうものだと思う。
「なあ新部長さん、わかるかい?」
とんとんと彼女の机を教科書でたたく。
ハンカチを落とされたのは新部長だった。
岩垣は諦めの念を込めて顔に手を当てた。
僕は教科書を再び眺める。
億劫だ、実に億劫だった。
それは雲の無関心さとはまたちょっと違ったニュアンスを持っているような気がする。
「ちゃかさないでくださいよ、先生」
声こそ小さいものの、至って冷静な声質だった。
「えと……作者も、『僕』と共感したところがあったんじゃないでしょうか。
似たような境遇があって、書いてるうちにそのことを思い出して、
深く共鳴? 共鳴って言葉で言い表していいものなのかはわかりませんけど、
そんな状態になったのかもしれないです。
……あ、もしかしたら最初の『億劫』は『僕』の気持ちで、
次の『億劫』は作者の気持ち、だったら面白そう」
彼女はしばしの沈黙のあと、そう答えた。
最後の一言は彼女自身の願望のように思えた。
「まず言っておこう。この問題に正解はない。
が、彼女の意見は実に面白いな。
作者の手記に主人公と似たような経験を記した部分がある。
その部分をプリントにしたから、授業の最後で渡そう」
そう、彼女は頭がいいのだ。
冴えてるといってもいい。
国語数学科学社会に外国語、どれもうまい具合に冴えた見方ができるのだ。
僕みたいに興味の湧かない教科ってものがなくて、国語も数学も真面目に受けるんだ。
「だが語弊がないよう言っておくが、
この物語自体が作者の経験すべてに基づいているわけではないぞ。
純文学は全てノンフィクションだと思って読んじゃあつまらんしな」
先生はそれから、入試じゃさっきみたいな問いはないから安心しろ。
もちろん期末にも出さない、と付け足した。
クラスメイトが四人、眠りに落ちた。
§
放課後になって再び弓道場に向かう。
まだ誰もいない。
一年生すらいない。
岩垣と途中で会ったムードメーカーの赤倉と更衣室の扉を開ける。
相変わらず赤倉がいると静寂知らずだ。
話題に困らないといってもいい。
大抵岩垣いじりになるのだが、それでも飽きることはない。
ジャージに着替えて――袴は休日の練習や試合じゃないと着ない主義なのだ――道場に出る。
三人揃って神棚に礼をし、各々準備体操をする。
やっと一年生がちらほらやってきて、のんびりと的を安土につけていた。
最初に赤倉が引く。
矢は的の八時の方向に外れた。
首を傾げ、自省している。
彼はふざけるときはふざけるが、
真剣になるときは誰も立ち入らせない空気を醸し出すくらい真剣になる。
何に関しても全力なのだ。
全力で悪いことをするし、全力で人を傷つけることもあるが、
これほど頼れる味方はどこにもいない。
そして同時に物事に敬意をはらっている。
弓を引いてる人には絶対にちょっかいを出さない。
的前に立つ前か射終えるかのどちらかでなきゃ変なことは言わないし、
道具は毎日手入れを怠らない。
低血圧で朝練の出席率は著しく低いが、努力を惜しまない。
そういう人間なのだ。
新部長やその他の部員も集まりだす。
気付けば道場は人でいっぱいになっていた。
一年生がまだ的前に立てない時期だというのにこの人数というのは、
今後何かの対策を練らなければならないだろう。
息抜きに外に出る。
北には山が連なっていた。
山の起伏を眺めるのは随分と気持ちがいい。
一時間見てても飽きない自信がある。
でも恋に落ちるほどの衝撃はなかった。
無関心さが足りなかった。
山はじっとそこで見守っているのだ。
それでは恋い焦がれる感情を抱けない。
やはり風に流されるままの雲のほうがあらゆるものを抱きながら見つめられるのだ。
それから再び練習に戻り、先生の代わりにあれこれ指導する。
指導といっても形のおかしいところや力んでいる場所を言ってやることしかできない。
生命機能維持装置を起動させた教科書だ。
「ここが間違っている」「正しいやり方はこうだ」とは言えるが
「どうすれば直せるのか」という疑問に答えてやることはできない。
修正方法がわからないのだ。
思考錯誤した経験がないから、何も直してやれない。
部活が終わって、更衣室で着替える。
後輩は早々に帰宅するが、二年は自然と残り、胡坐を掻いて場を囲んだ。
「えー、昨日は演出のために泣いたフリをしていたわけだが」
「うえ、やっぱ赤倉あれわざとだったか」
赤倉の子分的存在である山内が苦笑いして言った。
「つーわけで、先輩がおなくなりになった今、
ここは我々が占領したも同然である。俺たちの家だ」
汗を垂れ流しながら赤倉は言った。
僕も汗を流す。
こんな暑いんなら髪をもっと短めに切っておけばよかった。
冬でも湿度七十パーセントを維持し、真夏になるとデジタル湿度計がエラーを起こす。
そんな冗談みたいなことが起きるこの部屋が、今日から僕たちの基地となる。
悪くない、と思う。
うん、悪くない。
僕たちらしい。
「これから祝杯をあげよう。これからは我々の時代だからな。
岩垣、飲み物調達――いや、お前が行くと停部になるからやめておこう」
「どういうことだい? ん?」
「だって自販機にたむろしてる女子とかいたら小一時間観察するだろ。
んな犯罪者予備軍出せるわけないじゃないか」
「何を言う。観察する必要なんてない。
おれは自販機から飲み物を取り出す瞬間に揺らめくポニーテールを
脳みそのしわに刻み込めたらそれで十分だ」
「ダメだダメだ! 想像以上にひでえ」
大ブーイングが巻き起こる。
正直僕も引いた。
副部長の変態キャラは周知だったが、日に日にマニアックになっていく。
仕方がないので僕が雑用に名乗り出た。
騒がしいノリは嫌いじゃないが、
ふとした拍子に自分の孤独を自覚する瞬間があるから、
自ら孤独になるほうがまだ心地が楽なのだ。
もうそろそろ夏至だから、まだ空は明るかった。
ちょっと前まですぐ暗くなってしまうと思ってた矢先にこうだ。
僕らは太陽系にもてあそばれているんじゃないかと思う。
カルピス、サイダー、デカビタを買う。
この三種類を買えば大抵不満は出ない。
飲み物なんて会話に比べればポケモンキッズのラムネみたいな存在なのだ。
でもまた雲と出会えた。
大きななまめかしい入道雲だ。
それだけで僕は得した気分だった。
更衣室に戻ると先輩たちが置いてきたジェンガで遊んでいた。
僕の出番を用意してくれてるほど甘い連中じゃない。
隅っこで盛り上がる彼らの背を見ながらデカビタ――
これが三種の中で一番不人気なのだ――のプルトップを開けた。
圧の抜ける高音と同時に煙みたいな水が弾ける。
むせないように息を止めて黄色い気泡水を口にする。
薬品の味がした。
悪くない。
飲み終えたあたりでゲームが終わった。
崩したのは山内だ。
もう一度行うムードが漂っている。
とてもじゃないが僕が入れる空間はどこにもなかった。
岩垣と視線が合う。
彼は首を回し、自身の肩を揉むと立ち上がった。
「じゃ、おれ先帰るわ」
「おう、おつかれぃ」
気のない返事が飛ぶ。
「先生来ないからって長居すんなよ」
そう言って岩垣は鞄を担ぎ、苔が生してもおかしくない更衣室を出た。
「僕もお先に」
「おう、おつかれぃ」
気のない返事が飛ぶ。
話題は新たに建設されたジェンガ・タワーへと移行する。
笑い声の混じった雑談を背に扉を開けた。
§
田んぼの続く道を並走する。
岩垣の言葉に耳を傾けながら、僕は夕焼けに染まる巨大な積乱雲を見ていた。
夕方の雲ほど色めかしいものはない。
幼稚園時代に描いた落書きの太陽が常に真っ赤であったように、
また日の丸が赤いように、日本人は遺伝子レベルで赤い太陽を愛している。
それゆえそれに照らされて橙色に染まった雲もまた
遺伝子レベルで愛されているといっても過言ではないだろう。
「雲ってさ、色っぽいよな」
岩垣の戯言に一区切りついたところで、雑談の種を持ち出した。
C組の吹奏楽部のあいつ、名前わからないけどかわいいよなとか、
最近のアイドルは財閥みたいで不気味だとか、
余震も減ってきたなとか、
でも昨日長野のほうで揺れたらしいとか、
もう少し的中率を上げたいとか、
そういう話題と同等のものだと僕は思っていた。
「お前、ちょっとそれは引くぞ」
だからその反応に戸惑ってしまった。
岩垣の変態が、制服とポニーテールと
ニーソックスと幼女をこよなく愛するこの男が引いた。
表情が凍りつくほど引いている。
まるで半分腐ったゾンビを見るような目で見られる。
「ごめん、変な冗談だよ」
笑ってごまかす。
今になってようやく自分の恋は禁断であることを理解した。
でも僕はその瞬間まで、
雲に情を抱くことは何も変わったことじゃないもんだと信じて――
いや信じる以前に常識であると――疑わなかったんだ。
田んぼ道から県道へ出て、橋で岩垣と別れる。
彼は橋を渡って県道をそのまま進み、
僕は川沿いの細い道を雲を眺めながら走る。
今日の雲は美しい。
大きな雲が悠々と流れている。
小さな雲にはさほど感情を揺さぶられることはない。
空の遥か高くにうすっぴらく伸びている雲なんかは、
山でいう木のような、つまり情景の一部として溶け込んでしまっていて、
まるで生きている心地が足りてない。
空低くを漂う綿雲を見ても、
愛らしいとは思うものの、恋を芽生えさせることはない。
本物のロリコンは幼女に手を出さず、むしろ遠くから見守っていく。
かつて岩垣は語った。
それとどうも似たところがあるようだ。
やはり夏や秋の、大きな積雲が一番だ。
でも、僕のこの感情は「ちょっとそれは引くぞ」なのだ。
過激なロリコンや過激なサディストやヤンデレよりずっと健全ではないか。
夢を追う少年の心をそのまま写しとったように純朴ではないか。
それなのに、「ちょっとそれは引くぞ」で一括りにされる。
ふらふらと蛇行しながら漕ぎ進める。
がりがりチェーンが悲鳴を上げる。
コンビニでジャンプを立ち読みした。
読書代として七十三円のようかんを買って外に出た。
面白かったら百五円のメロンパンなのだが、
つまらないときはようかんと決めている。
ちびちびようかんをかじりながら走る。
もう日は暮れてしまって、雲は見えなかった。
月も見えないし、星も見えない。
途中でアイスの自販機を通り過ぎる。
アイスでもよかったな、と思ってようかんを噛んだ。
寄り道しよう。
ふと心に決め、十字路を左に曲がる。
もはや通学路と言ってしまってもいい。
本来の道を近道と称したほうが正しいような気もする。
好きだった人の家に通じる道、それが寄り道のルートだった。
ストーカーと言ってしまえばそれまでだし、僕もそれを否定しない。
でもこの感覚は小学生の淡い感覚に似ていた。
好きな子をいじめてしまう小学生と似ている。
どう対処すればいいのかわからない。
ただ会いたい、
振り向かせたい、
遠回しに僕の気持ちに気づいてもらいたい。
受動的な目標のために能動的になっている。
だからこうして同じ行動を繰り返しているのだ。
僕は不器用なのだ。
それはあのときから変わらない。
§
「男子って、どうして制服着たがるの?」
中学時代、片想いしていた女の子が僕にそんな質問をした。
雲一つない冬のある日だった。
僕らの中学校は制服とジャージ、どちらでも通学することができた。
大体は楽だからジャージで登下校していたけど、
男子の二、三割が制服で通っているのだ。
「あったかいからじゃないの?」
僕はしばらく考えてそう言った。
そんなの考えたことも疑問に思ったこともなかったから確信はないけど、
間違っちゃいないと思う。
ジャージのズボンはデザインの関係から
長ジャージよりハーフパンツのほうが好まれていたから、
冬でもハーフパンツで登校する人がほとんどなのだ。
でもやっぱり半ズボンは寒いから、男子は制服を着る。
長ズボンだからジャージよりあったかい。
一方女子の制服はスカートなので、空気の入れ替わりが多い分ジャージより冷えてしまうのだ。
「でもさ、夏も制服着てたよね」
僕は答えることができなかった。
彼女はちょっと頭の回転がはやい子だった。
難しい問題も、フィーリングで何とかなってしまうような、
そんな才能を持っていた。
僕は別にそこに魅かれたわけじゃないかったけど――
そもそも今となってはいつ惚れたのかも忘れてしまったけど――
この人には敵わないな、と常に思っていた。
何でもできるのだ。
雪みたいに白い肌のくせに、球技も陸上も難なくこなす。
すぐコツを身につける天才だった。
彼女は男子が制服を着る必要性をあれこれめぐらせていた。
僕はその疑問の本当の答えを知っていたけど、あえて口にすることを拒んだ。
強く感じるからだよ。
それが答えだ。
なんとも単純で明快な理由だ。
中学生男子なんてみんな単純なんだ。
そんな単純な理由で僕も制服を着てたんだから。
偉そうに見えると誤解して胸ポケットにクリップを挟んでいた。
そんなことより袖が短いのをどうにかするべきなのに。
視野の狭い自分が恥ずかしく思えてきて、言えなかったのだ。
彼女が僕の初恋の人だった。
まだ雲に恋する前の話になる。
岩垣に言わせれば、当時の僕はまともな人間だったのだろう。
でももう戻れない。
初恋は儚く散っていくのが潔くて、美しい。
それなのに誰も来やしない住宅街を走って、
彼女の背中を探してしまう自分がいる。
彼女と出会えるわけもないし、昔に戻れるわけでもない。
数年間続けてきて一度も顔を合わせたことがないじゃないか。
癖や中毒の領域だ。
型にはまってしまってなかなか抜け出せない。
新部長が離れのとき、どうしても弦に引っかかってしまうのと同じように。
引っかかっている。
僕もまた何かを引っかけたまま、今に行き着いてしまったような感じがする。
僕は機械的にしか動けない。
インプットされた道がここだから、
何も考えずに錆びれたチェーンを回転させているのだ。
言われたように動き、言われたように答えを導く。
そうした教育の中で僕は育ったんだ。
彼女の家の前を通り過ぎることも、
彼女と偶然を装って出くわすことに思いを馳せることも、
すべてはインプットされたデータにすぎないのだ。
§
次の日は曇りだった。
こういう天気は嫌いだ。
別に雨が降りそうだとか、
雰囲気が重々しくなるからとか、
そういう上っ面な話じゃない。
雲が間近にあって、ふとした拍子に触れてしまいそうな不安を抱いてしまうのだ。
「いっ」
陳腐な弦の音と新部長の短い悲鳴が同時に聞こえる。
もう三回目になる。
離した弦が顔をはたいたのだ。
でも修正の仕方がわからない。
僕はただ射を見て、周知の原因を教えることしかできない。
それでも新部長は射続けた。
ふっくらとした頬には鞭で叩いたような線がいくつも刻まれ、
少しずつ顔が赤くなっていく。
見てられなかった。
今朝の彼女の成績は、まぐれあたりの一本きりだった。
「いっ」
本練になっても新部長は痛そうに射っていた。
「大丈夫?」と女子が声をかける。
うん、平気、と間延びした声で笑っていた。
嘘に決まっている。
昔一度だけ気を抜いて顔をはたいたことがあるが、
頬全体に静電気が奔ったような衝撃を受けた。
痛いとかそれ以上に、
次の矢を放つ寸前、不安の大波に呑まれそうになった恐怖のほうが印象に残っている。
またはたくのではないか、
このまま元の射に戻れなくなるのではないか……。
直接的な痛みより、精神的な苦しみのほうが強かったし、厄介だった。
幸い僕はその一本きりで脱したけど、
新部長の場合は何本も立て続けに当たってしまうのだ。
「平気」なわけがない。
「アドバイスでもしてあげろよ」
「やだよ、なんでわざわざ」
赤倉がにやにやと笑って茶化したので、即答で断った。
第一、僕が見るより赤倉や岩垣が見たほうが断然新部長のためになる。
彼らは努力して上達していったのだ。
その分具体的な助言をやることができる。
僕なんかとは違う。
「えー、見てあげなよぅ」
とりわけ男子と仲がいい女子が赤倉以上ににやついて言った。
怪しい。
僕の本能が社会的な危機を感じる。
この女子みたいな表情を見ると、
途端に何かいけないことでもしたのではないかと疑ってしまう。
「いや、だからなんで僕がやらないといけないのさ」
ぷさり、と誰かの矢が的中する。
ようし、と声を上げたあとで僕は道場を見渡した。
ジャージ姿に弓と矢を持った少年少女が五列に並んでいる。
いつもの光景だ。
矢道から見える雲がとても近く感じる。
それだって、梅雨なんだからいつもの光景なんだ。
§
いつもの光景じゃなかった。
部活が終わってちょっと岩垣と弓道について語っていたら、
道場にはまったく誰もいなくなってしまったのだ。
いつもなら赤倉や山内たちがサッカーを始めたり
スライディングしまくったりして童心に帰ってるはずなのに、
その姿もない。
後輩は当然のことながらもう校門の外に出ているだろう。
岩垣が活動報告に職員室へ行ってしまうと、
男子は僕だけになってしまった。
いるのは僕と、巻き藁の前で練習を続ける新部長だけだった。
全身を映す鏡で自身の姿を確認し、何度も何度も離れを確かめている。
右頬は赤く腫れていた。
個人練習の邪魔をするのも悪いだろうから、早々に帰ってしまおう。
「あの、さ」
更衣室の扉に手をかける直前、彼女に呼び止められた。
僕は振り返る。
彼女は僕を見ていた。
弓の最下部を足袋に据え置き、巻き藁には矢が水平に突き刺さっている。
彼女は決意に満ちていた。
反面、動揺というか、緊張というか、躊躇してる表情も窺えた。
「そ、相談っていうのかな? あるんだけど」
面倒なことになった、と思った。
「どうせ射についてか部活のこれからについてでしょ」
今の彼女から相談されることといえば、この二つのどちらかだ。
どちらも僕の口から妙案は出てこない。
僕は指示を待つだけの男だ。
何かしらのことについて自分の意見を述べよ、という問いが一番苦手なんだ。
「ち、違うよ、そんなのじゃない」
「じゃあなんなのさ」
雲も見られないこんな日は、すぐ帰って寝てしまおう。
お腹は減ってるけど、夕飯もいらない。
風呂も入らない。
朝シャワーで済ます。
その程度の気だるさだった。
それは……と彼女は言葉を区切る。
しばらくして口を開いた。
「話、きっと長くなっちゃうから、
どこか落ち着けるところで……
なにか食べながら……話せないかな」
口に出しながら言葉を構成してるようだった。
どうして食べに行かなくてはいけないのか。
そもそも僕は女性というものが苦手だ。
一緒に食事なんてしたら緊張で気が狂ってしまう。
正直面倒くさかった。
でも世間体的にありがちな理由で断ったほうがいいだろう。
オブラートに包まず言うほど僕は子どもじゃない。
用事がある。
何の用事だ?
そんなことを言ったらそう尋ねられるに決まっている。
そもそもありきたりで腐りきった口実を示しても
相手が納得してくれるはずがない。
嘘の理由で相手を頷かせるのは困難を極める。
でもやらなくてはならない。
僕はこの誘いを断らなければならない。
了承するという選択ははじめからなかった。
どうして?
どうしてだろう。
どこか不純なものを感じるのだろうか、
背徳的なものを心のどこかで思っているのだろうか。
違う。
僕はまだやるべきことを残しているのだ。
何を。
自問自答をか。
そうかもしれない。
断るのだ。
家族との外食。
もちろんそんな予定はないが、
これなら深入りされる心配は少ないだろう。
僕は、そううそぶいた。
極力怪しまれないよう自然を装って言った。
彼女ははっきりと残念そうな表情を示した。
「それじゃあ、木曜日は?」
一瞬言葉に詰まった。
断り続ける動機を失った。
今ここで決着をつけなければ、
僕は立ち止まって、二度と過去を振り返らなくなる。
「今ここで手短に話せないの?」
「多分、どうしても長くなっちゃうと思うし、それに誰かに聞かれちゃいそうで」
「聞かれちゃまずいの?」
「そういう話じゃないんだけど」
彼女の割には、妙に不安定だった。
天井の照明に夏の羽虫がたむろしはじめた。
「うん、なんか、忙しそうだから、やっぱいいや」
しばらく会話が途切れて、新部長は突然自分の考えを捻じ曲げた。
取ってつけたような嘘だった。
忙しく見えるはずがない。
ただ気だるさがのしかかってるだけのことだ。
「ごめんね、変な冗談言っちゃって。それじゃあ、またあした」
彼女は女子更衣室の扉を開け、そしてぱたりとドアを閉めた。
僕も改めて男子更衣室の扉に手をかけた。
§
制服に着替えて外に出ると、男子の面子が待ち構えていた。
岩垣はいなかったけど、他の同輩は皆揃っていた。
「お前って本当に男っぽくないよな」
赤倉の第一声がそれだった。
確かに僕は男としてはひ弱な人間だけど、
なぜ今そんなことを言われるのか。
わけがわからなかった。
「どうして断ったんだよ。せっかくのチャンスだったろ?」
「フツー無条件で承諾だろうが、ヘタレ」
「あーあ、綿密に計画したってのに、相手が相手じゃな。
弓道部あげての壮大なプロジェクトが一瞬でパァだよ、あんたのせいで」
「部長もよくこんな奴のこと好きになったよな、頭狂ってんぜ」
「おいおいそれは言いすぎだろ」
笑う。
ここまで貶されてやっと悟った。
僕は、いや僕らは騙されていたのだ。
つまり、女子たちに僕への想いを打ち明けた新部長のために、
うまい告白の場を提供しようとしたのだ。
副部長岩垣が僕の足止めをしている間に二人だけの空間を仕立て上げ、
そしてどこかで僕らの行動を観察していたらしい。
まるで檻の中の獣をポテトチップス片手に見物するような、
そんな感覚だったのだろう。
「お前ら、最低だな」
僕は言ってやった。
でも、本心ではそんなことちっとも思ってなかった。
言うべきことはもっと違うことだ。
それなのに、僕の口は止まらなかった。
「僕や新部長の反応を見て楽しんでたんだろ? そうだろ!」
「ああ、そうだとも」
赤倉が即答する。
「楽しんじゃ悪いのか?
あいつはそれを覚悟した上でお前に告白しようとしたんだ。
どうせ信じねえだろうが、
あいつは今日こそは決めてやるんだって俺たちに宣言したんだ。
大層な勇気じゃねえか。
その姿を楽しまずにどうするのさ。
宣言されたら見届けるのが礼儀だろ?
ああ敬服するよ、あいつの志にな。
対してお前はどうだ、マジで貧弱だよな。
笑っちまうくらいにさ、そうだろ?
聴くことすら放棄したんだ。
出せる勇気を押し込めたんだよ、お前は。
最低だなはこっちの台詞だ」
言い返せなかった。
最低だな。
その言葉が胸をえぐる。
ぐっと何かがこみ上げてきた。
言いたいことをすべて忘れ去って、僕は走り出した。
奴らは不気味なほどの沈黙で見送った。
だから余計に、浅はかな人間であることを自覚する。
最低だな、最低だな。
やまびこのように、言い放った言葉が何度も何度も僕を叩きのめす。
僕は、最低だな。
新部長は今どんな気持ちでいるのだろうか。
女子たちの前で泣いてるような気がする。
彼女はとても繊細で、傷つきやすい印象があった。
でもよくよく考えてみると、彼女が涙を見せたことは一度もなかったと思う。
それでもそんな弱々しい姿が容易に想像できる。
それはきっと、僕が泣いていたからだ。
彼女は、今一番身近にいる異性だった。
なんでもないような話を持ちかけてきて、なんでもないような会話をする。
でもたぶん、これからはできなくなってしまうのかもしれない。
その心地に覚えがあった。
自転車にまたぎながら、涙の粒を乾かすために、
下校中の人たちに気付かれないように、
あわよくば轢かれて逝けるように、
全力でペダルをこいだ。
自分のことしか考えられない子どものままだ。
僕は人に言われたことをすぐ鵜呑みにする。
だから赤倉から吐き捨てられた「最低」を噛み砕くことなく呑み込んだ。
僕は最低な奴だ。
最低なのは、今に始まったことじゃない。
§
君のこと、好きなんだよ。
高校一年生の冬の日だ。
僕はあのときそう告白した。
ずっと好きだった彼女に、
男子が制服を着る必要性について思考を巡らせていた彼女に、
想いを告げたのだ。
「……え、なんだって?」
彼女は訊き返した。
まるで日常会話のような自然な反応に、僕は後ずさりしてしまった。
「だからさ、君のことが、好きなんだ。だからさ、その、付き合って、くれないかな」
口の中が急激にぱさつきだして、
唾液は一ミリリットルも出なくなった。
一ヶ月前から考えつくされた頭の中の原稿はきれいさっぱり洗われて、
ただただ彼女の戸惑った顔を見ていたような気もするし、
彼女の後ろにあった像の滑り台を見ていたかもしれないし、
その上の雲を見ていたのかもしれない。
緊張していて、記憶どころじゃなかったんだ。
「あ、えっと……そういうこと言われるの初めてで、なんて答えればいいんだろう」
「僕も初めてだよ」
僕が答えると、彼女は何か確実的なものを求めているように目を泳がせていた。
「ちなみに、いつから?」
僕は正直に答えた。
彼女が言葉に詰まる。
あまりにも長すぎたのだ。
あまりにも遅すぎたのだ。
沈黙が続くけど、大した時間じゃない。
気まずかったからだろう、彼女は口を開いた。
「今すぐには答えられないよ」
それが彼女の返答だった。
頭の回転が早くて、堅実な彼女らしい返答だった。
必ず返事するから、必ず。
そう言って、その日は終わった。
それから一週間か二週間か、大体その程度過ぎ去ったあとで、
彼女はようやく答えを導き出した。
同じ場所で待ち合わせすることになった。
予定時間の一時間前には来ていたけど、
それだと格好悪いような気がして、
しばらく彼女が通らなそうな場所をふらついていた。
何度か確認しに行って、四度目の様子見で彼女の姿があった。
自然を装い、また僕らは出会った。
「悩んで悩んで、悩みきって、誰にも相談しないで考えたよ。
学校で友達に心配されちゃったときはどう言い訳すればいいのか困ったんだから」
そう彼女は口を開いた。
「それで、その、ごめん、やっぱり付き合えないよ……」
その答えはもう分かりきったことだった。
彼女なりに、僕を傷つけないよう努めていることくらい、
いくら鈍い僕でも推察できる。
でも彼女がいくら頑張ったって、僕は傷つくのだ。
親指の腹をカッターナイフでほじくるように。
そ、そりゃ
付き合えないって
言ったけど、
も、もちろん
あれだよ、
嫌いってこと
じゃないよ?
ただやっぱり、
付き合うって
よくわかんないし、
部活厳しいし……。
またさ、
今までどおりさ、
遊んだり
馬鹿やったり
しようじゃない。
あらゆる慰めの言葉を連ねていた。
僕の体はふわふわと浮いていて現実味がなかった。
全ては幻想の壁の向こう側で蠢いているのではないかと思うくらい、
物語を読んでいるような気分だった。
彼女が必死になって言葉を練れば練るほど、
かわいそうに思えて仕方がなかった。
そんな苦しんでいる姿を見たくなかったけど、
苦痛を与えているのは紛れもない僕だった。
「まあ、しょうがないよね、うん。ごめんね、なんか色々と」
「ごめんねは私の台詞だよ。ごめんね、本当に、ごめん」
彼女が謝る必要なんてどこにもない。
それでも彼女は疲れた笑みを浮かべて言った。
僕はなんてひどい過ちを犯してしまったのだろう。
こんなはずじゃあなかった。
告白する前までは、僕の未来は
とても明るく輝いていたはずなのに。
二人でベンチに座って空を眺めたり、
図書館で本を読みふけったり、
畦道を一時間くらいかけてゆっくり歩いたり……
そんなささやかなことしか妄想できなかったけど、
僕の前に続く道は鮮やかな灯がともっていたのだ。
今はもう何も見えない。
彼女の顔すら見えない。
でも、最後の最後は笑ってもらいたくて、
僕は別段傷ついていないそぶりを見せた。
もうチャラだから、と笑い飛ばすように。
僕の人生の半分以上かけて育んだ初恋をぶっ潰して、
粉々にして、煉って焼いて食って吐き出して踏みにじっても
何一つ不具合はないと言い放つように。
僕は空を見上げた。久しぶりの青空に、大きな雲が浮かんでいた。
§
ずいぶん懐かしいことを思い出してしまった。
あれから僕は雲を見つめ続けている。
できるだけ遠くの、大きな雲を眺めていた。
それでもまだ彼女のことを諦めきれずにいる自分がいる。
僕って奴は実に臆病な人間だ。
保守的で、どっしり動かないものにしがみつきながら、
素知らぬ顔で冒険する雲に憧憬を感じていた。
もしあの時、少しでもわがままを貫き通していたらどうなっていたのだろうかと思った。
彼女と強引に付き合うことにしたら、
僕はまだマシな人生を歩んでいたんじゃないかとも思うし、
その逆であるようにも思う。
後悔したってもう何も変わらない。
諦めの悪さが、通学路を変えさせたのだろう。
赤倉の思うつぼにはまった僕はいつものように寄り道する。
彼女の家の前を通り過ぎる道だ。
もう日は暮れている。
人気のない道に、薄ぼんやりと自転車の黄色いライトが先を照らす。
街灯のないこの通りでは、この頼りない光だけが道しるべだった。
そろそろ逃げ続けている自分を清算したかった。
告白した記憶も、好きになった軌跡も、
すべて忘れ去って、普通の友達として振舞おう。
少年漫画の鈍感主人公のように。
あれこれ考えながら蛇行運転してると、ライトが人影を映した。
慌てて舵をとり、体勢を整えてペダルを回す。
「あ」
通行人と目が合ってしまった。
目を逸らそうとしたが、見覚えのある顔だったような気がして、
再びその顔を見る。
「あ」
彼女だった。
ずっとずっと好きで、
告白して、
断られて、
傷ついて、
長いこと会ってなかった彼女だった。
いちだんと美しくなっていた。
暗闇でも映える白く細い腿に、着やせした慎ましいふくらみ。
知らないセーラー服だった。
男子が制服を着る理由を思案していた彼女が何の疑問もなくセーラー服を着ていた。
もう僕らは高校生なんだ。
自転車は滑走していく。
それでも僕らは見つめあったままでいた。
無言のうちに何かを語っていたような気もするし、
ただただあっけにとられていただけかもしれない。
彼女とすれ違って、そして、少しずつ彼女の姿が遠のいていって、
灯も月も星も照らさない闇へと溶けていった。
しばらく何も考えられずにいた。
結局、僕は「あ」としか言えない。
そういう人間なんだ。
雲に触れようとすると、霧になって視界を奪われてしまう。
そういう人間なんだ。
ペダルをこぎだした。
新部長は今、どうしてるだろうか。
そんなのんきなことが、不思議と頭によぎった。
§
雨の日の登校は憂鬱になる。
レインコートを着て走るのは何度実行しても慣れるもんじゃない。
後ろは見えなくなるし、雨なのか汗なのかで全身びしょぬれになる。
まったく変な話だ。
到着してもレインコートの手入れをしなくちゃいけない。
気力が削がれる。
でも傘差し運転やバス通学はしない。
僕の馬鹿らしいプライドが許さないんだ。
エナメルバッグを荷台に載せ、
雲の鼓動を全身に感じながら今日も朝から道場へ向かう。
七時半、いつもよりやや遅めに到着した。
昨晩は赤倉たちとのいざこざを回想していたら眠れなくなってしまったのだ。
でも結局、これからも変わらない日々が続くんだと結論づけた。
赤倉は僕を排除するためにあんなことを言ったわけではない。
じっくり考えてみた僕にはわかった。
レインコートを袋にしまい、道場に上がって礼をする。
新部長がゆったりと弓を打ち起こしていた。
かすかに曲線を描いた見事な胴造りと、
的を射抜くような横顔を無言で眺める。
頭上まで起こした弓を滑らかに大三へ移行する。
鳥差しでも水流れでもない。
矢は完全に地平線を向いていた。
そのまま息を整え、日の入りのように弓を引き分ける。
弦が伸びるにつれて肩甲骨が引き締まっていく。
矢は会の状態になっても水平に保たれたままだった。
静かだ。
ただ雨が屋根を打ちつける音が響く。
矢道と的前の間に水溜りができていて、
詰まった雨どいから水が溢れ出ていた。
彼女の会は誰よりも長いのだ。
ぴくり、と妻手が動く。
その瞬間離れをした。
矢は力を失って、濡れた矢道に突き刺さった。
「取懸け停止」
僕は声を上げて言うと、射場の彼女はびくりと振り向いた。
それから振り返ったことを後悔するように、居所のない視線を左右に揺らした。
雨に打たれながら矢を拾う。
箆に付いた水気を拭い、彼女の元に向かった。
「ありがとう」
あらゆる感情が入り乱れすぎて、かえって無感情な返事をされる。
別に何を思われたって、僕は一向に構わなかった。
「昨日はさ、ごめん。軽く混乱してた」
僕は不器用に過去を見つめなおした。
だから、もう大丈夫だ。
「昨日のことで一晩中考えちゃってさ、ほら、大切な相談ってやつ」
彼女は今すぐにでも逃げ出したいような、そんな顔をした。
ふっくらとした頬が赤いのは、弦ではたいたからなのか、それとも……。
僕は雲に恋をしていた。
白くて大きくて、手を伸ばしても届かない、
そんな艶かしい雲に好意を抱いていた。
でもその恋はきっと報われることはない。
僕の想いは伝わらない。
雲は無関心で、きっとそれがいつまでも続いていく日々なのだ。
「もう遅いかもしれないけど」
僕たちは一日一日を歩むにつれ、少しずつ変わっていく。
「木曜日の予定、全部取りやめたよ」
彼女は僕のことを凝視して、それから頬をゆるませ、やさしく微笑んだ。
雨はいつまでも静かに降りしきっている。
2011年10月4日起稿