手
暗めのお話ですので、苦手な方は注意。
大好きな人の手は冷たかった..
(それじゃ、行ってきます。)
ガチャ…
「オイ、お前。」
『……。』
暗い部屋のボロボロの扉を一人の男が開け放つ。薄暗がりの部屋に眩しい光が入り、部屋の隅に横たわる女性は長い髪で悪あがき程度に光に抵抗する。
部屋の中はベッドと窓とカーテン、ペンキが剥げたテーブルに置かれた手紙と錘みたいに置かれた果物ナイフ。男はそれを見るや否や机を蹴り飛ばした。女性は肩を跳ね上がらせ更に体が縮こまる。カランカランと煩く存在感を主張したナイフを男は手に取り、器用に人差し指で回す。女性はただ骨が浮き出るほど痩せこけた腕で頭を被うのみ。足首には刃物で切られた痕が痛々しく青白い膚を彩る。
カツ、カツ、
男は女性に向かって歩む度女性の心臓はベートーベンの【運命】のように早まる。男はそんな女性を冷めた目で見下ろし、頭上の壁をガンッ!と踏み付ける。
男はドスのきいた低い声を女性に落とす。冷酷に静かな口調が男から次々に漏れ出す。
「俺らから逃げて散々アイツに連れ回されて、それが成れの果てだ。だから言っただろ。『アイツは気にくわねぇ』って。」
『そんな事、お前が言える資格は無い。それに私は逃げてはいない。お前と意見が食い違い続けて、疲れたのだ。』
ドガァン!
「前に教えただろ?今は俺が長だ。長の言葉は“絶対”。
お前は組織から逃げた異端者だ。長の判決が下る。」
『好きにしろ。錆び付く程の縁があるお前に殺されるのは癪だが、あの方を待つのも疲れた。』
太股に下げた重々しい銃を天井に向けて発砲したが女性は今度は何も反応しなかった。男は銃を再び太股に差し戻して片手で果物を弄ぶ。女性も仰向けに横たわり男を見上げる。男はしかめっつらを続け、だが女性から一度も目線を外さない。女性も覚悟を決めたのか恐怖心は何処かに失った。
クルクルと二人の間で錆びれたナイフが回される。部屋の外は光が溢れ何やら騒がしい。だが、この部屋は静寂に包まれ、外とは真反対の世界だ。窓から覗く判断が難しい形の月は女性の膚より美しく妖麗に辺りを伺う。そして求める者に平等に月光を分け与えている。
男はナイフを鼻先まで下ろした。的確に、直線に、眼光と同じ鋭さで、誰かの血が固まったナイフを、女性に。男も女性もピクリとも動かず、先に男が動いた。
「お前が待ってる野郎は今逃亡中の凶悪犯だ。この場所に戻る確率はほぼ無に等しい。」
『それが何だと言う。貴様は遠回しに私を馬鹿にしたいのか。』
「まあな。それと、“今”のお前への最期の挨拶代わり。感謝してもらいたいもんだ。
じゃ、目ぇ閉じろ。」
『最期くらい指図を聞き入れてやろう。』
スゥ..
そっと女性は自身の視界を暗くさせる。この世に未練は残っておらぬようだ。
男は女性の行動に一瞬眉をしかめたが、ナイフを持つ手に力を加えた。片方の革手袋を無造作に後ろポケットに入れ、むんずと女性の長すぎる髪を掴んだ。女性は抵抗しない。
シュンッ!
男の一降りで、ハラハラと髪が女性に降り懸かる。女性は目をキツク瞑ると、乾いた唇が切れてしまうくらい大声で叫んだ。男の手から残った髪が床に山を作る。
『私を殺せ!もう誰かを思うのは嫌なんだ!私は待ちすぎた!無駄な時間を、私以外の他人に……もう使い切ったから。』
「……。」
男はただ黙って女性の傍らに立ち尽くす。女性は肩を微かに震わせ大粒を瞳からこぼれ落とした。シャックリをあげ、両手で男から顔を隠した。
男は胸元のポケットからタバコを取り出し、トントンと一本をくわえライターで赤色を燈した。線香花火程度の小さな火と独特の煙が部屋の空気を悪くさせる。男は月夜に煙を吐き出した。
(…オイ、)
ある一室の扉の前。男は後ろ手にバラの花束を。ノックをするが、居るはずの人物から返事は無い。男は約束の時間に少し遅れてしまった。しかし、そんな事はしょっちゅうあった為男は気にしていなかった。
何時まで経っても開かない扉にあるざわめきが襲い、男は目の前の扉を乱暴に開けた。これは直感だった。長まで上りつめた男の野生の感。
男が入った狭い部屋を見渡すが…人がいない。
愛する者の存在の香りが充満する部屋に、重要なその人物がいなかった。綺麗に整えられた部屋に最初から誰も住んでいなかったようなよそよそしい雰囲気。テーブルの上のメモに手を伸ばし、目で文章を追う。
[私はお前がわからなくなった。引き出しに退職届けが入っている。私は今日から脱退する。あの方について行く。
じゃあな。]
バサッ。
男の手から、花束とメッセージカードが床に落とされた。
男は短くなったタバコを床に踏み潰す。そうこうしている内に結構な時間が経っていた。女性はまだ泣き止まない。
片手のナイフを部屋の壁に投げ、男は手袋をしていない手で女性の腕を引っ張った。力で敵うはずないが女性は僅かに抵抗する。男はため息を零した。何に対してか、それは男にもわからない。
「ほら、行くぞ。」
『離せ…私は此処で死ぬ。』
「バァーカ。お前が死んでもアイツは微塵も悲しまねぇよ。
オラ、まだ俺は退職届け受け取ってねぇんだ。無断欠勤でお前の処分は一ヶ月間の入院とその後の書類整理だ。お前がいねぇから溜まってんだよ。」
『…そんなもん知るか。お前は常日頃順々に片付けないから後に困るんだ。自業自得だ。』
「はいはい、小言は聞き飽きたぜ。」
女性を肩に担いで男は部屋を後にする。体は小学生並に軽かった。担がれた女性は特に何もせず男の背中の服をギュッと握る。ふくらはぎを持つ男の体温が、女性には酷く憎らしかった。
私を置いて行った大好きだった人の手は冷たくて、
私をあの方から攫った大嫌いな奴の手は 温かかった。
この短編は初めは活動報告に書く予定の物でした。ですが、案外長くなりそうなのと『たまには短編投稿しようかな』という作者の案により出来上がった作品です。最後の二文にもちょっと手を加えました。
あの日、バラの花束を渡して言いたかった言葉……貴方も誰かに伝えられなくて後悔しないよう、伝えれる時に言う事をオススメします。
ありがとうございました。