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8/21

MINA登場


朝、会社のプリンターだけが元気だった。


紙を吐く。吐いた紙が整列する。整列した紙が誰かの手に取られて、赤ペンで殺される。

紙は文句を言わない。言わないから元気でいられる。


相沢悠は、席に座って、モニターを点けた。

白が眩しい。眩しいのに眠くない。

眠くない日が、もう何日も続いている。


身体は限界を通り過ぎて、限界の向こう側にある平坦な場所を歩いている。倒れるでもなく、回復するでもなく、ただ動ける最低速度で前に進んでいる。


鬼塚のチャットが点滅していた。


開く。

開いた時点で負けだと知っている。でも開かないと別の罪が積まれる。


「昨日の差し戻し、見た。念のため、追加。ここの文言、もう一段"固く"。先方の顔が立つように」


念のため。追加。固く。

三つの単語で、夜が遠のく。


「了解しました」


文字を打つ。送る。

送るたびに、自分の中の何かが一枚ずつ剥がれていく。最初は「嫌です」が剥がれた。次に「疲れました」が剥がれた。今は何が剥がれているのかすら分からない。

分からないまま、指は動く。動けるから、動く。


昼前、社食に行く気力がなくて、自販機の前に立った。

ブラックコーヒーのボタンを押す。缶が落ちる。冷たい。冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。


社内のニュースフィードが通知を出した。


「NEOSPHERE ONLINE 臨時メンテナンス実施中/追加措置のお知らせ」


指が止まった。

コーヒーの缶を握ったまま、数秒だけ画面を見た。


追加措置。

眠る場所に、また手が入る。


(壊さないでくれ)


誰に言っているのか分からない。運営に対してか、鬼塚に対してか、世界全部に対してか。

壊さないでくれ。あの草原だけは壊さないでくれ。あそこがなくなったら、沈める場所がなくなる。


缶コーヒーを一口飲んだ。なんだか、味がしない。

味がしないものを飲める。それが今の自分の精度だ。


午後、鬼塚の「念のため」をひとつ処理して、終電二本前に会社を出た。

コンビニに寄った記憶はあるが、またもや何を買ったか覚えていない。袋が手にある。それだけ。


帰宅。

靴を脱ぐ。部屋へあがる。電気を点けない。

暗い部屋の中で、VRギアの輪郭だけが窓の外の光で浮かんでいる。


手が伸びた。


今日はいつもより早い。

身体が覚えている。ここから先は沈める。ここから先だけが、「了解しました」を言わなくていい場所だ。


ギアを被る。目を閉じる。


落ちる。


---


視界が暗転して、次に開けた時——空は一瞬だけ白くなった。


運営の文字。現実のフォント。冷たい温度。


```

NEOSPHERE ONLINE

Emergency Maintenance Completed.


Additional observation measures have been implemented.

Please follow official instructions in designated areas.

```


読んだ。読めたけれど、半分は意味を拒んだ。

公式の指示。従え。やれ。報告しろ。——ここでも。


白が溶けて、草原に切り替わった。


風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。

今朝も、昨日と同じ顔をしていた。


YUは身体を起こした。

草に頬の跡がついている気がして、手で触った。データに跡なんかない。ないのに、触る。


——眠れた。


それだけが確かだった。

確かなものが一つあるだけで、立ち上がれる。


草原の外側を見る。


OBSERVERが増えていた。


灰色のローブが四体。草原を四方から囲んでいる。

足元の青い円が、四つ同時に回っている。


記録中。記録中。記録中。記録中。


見せるための監視。隠す気のない監視。

数が増えたことで、「見ている」ではなく「囲んでいる」に変わった。


(……包囲だ)


その言葉が浮かんで、胃が冷えた。


インベントリを開く。


増えている。

金属片。宝石。紋章。黒い布。`???`。

一日も休まず増え続ける。一つも説明がつかない。


(落とし物だろ)


もう自分でも信じていない。

信じていないのに、他の説明を持つ体力がない。信じないけれど、否定もしない。そういう場所に立っている。


通知が出た。


```

System Notice:

Sleep record saved.

```


```

System Notice:

Sleep record integrity check failed.

Data partially corrupted.

```


縦に並ぶ。希望と否定。もう驚かない。


パッチは入った。措置は増えた。OBSERVERは倍になった。

それでも結果は同じだ。


「変えようとした」の行だけが増えて、夜は変わらない。


---


初期村に入ると、空気が昨日よりさらに硬くなっていた。


金属フレームの公式掲示板が、もう一枚増えている。門の右にあったものが、左にも複製された。

同じ文面。同じフォント。同じ温度。

村の入口が、左右から「罰則」で挟まれている。


```

Official Notice:

Grassland area is under enhanced observation.

Unauthorized gathering near the designated zone is prohibited.

Violation may result in account penalties.

```


村の中を歩くと、プレイヤーの密度が減っていた。

罰則が効いている。好奇心は無料だが、アカウント停止は有料だ。見たいけれど、失いたくない。その天秤が傾いた。


露店はない。旗もない。祭りの痕跡は完全に消えた。


ORACLEは、いつもの位置にいた。

白ローブ。腕章。背筋が正しい。

でも今日は、ORACLEの周囲の腕章が少ない。昨日より数人減っている。


罰則の文字に冷やされて、信仰の端が削れた。

残っている者は、削れなかった者だ。

削れなかった者の目は、削れた者の目より静かで、深い。


RAMPARTは門の内側。盾の角度が前に傾いている。

言葉はない。頷くだけ。


YUが広場を横切ろうとした時——背中に、視線が刺さった。


OBSERVERの焦点とは違う。あれは記録の目だ。

これは、探す目。何かを確かめようとしている目。生きた人間の目。


振り返る前に、声がした。


「ちょっと」


女の声。

落ち着いている。怒っていないのに、無視できない圧がある。

立ち止まれ、とは言っていないのに、足が止まる声。


振り返った。


黒い外套。深いフード。顔は半分影に沈んでいる。


——見たことがある。


宿屋の前で。草原の端で。REGALIAの列の端で、一瞬だけ振り返った影。

断片が繋がった。あの黒い外套は、ずっとここにいた。


女は、YUの頭上の名前表示を見た。

見て、口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのではない。確認した。


「二文字。ほんとに二文字なんだ」


声に含まれているのは軽さではない。

「やっぱりそうか」という、長い観察の末の確認の音だった。


YUは一歩退いた。


逃げたい。会話は消耗する。消耗するものは全部避けたい。

でも逃げると目立つ。目立つのが一番疲れる。


「……すみません、何か——」


「すみませんじゃなくて」


柔らかく、でも正確に遮られた。


「聞きたいことがある」


女が一歩寄った。距離が近い。近すぎる。

ゲーム内の距離感ではなく、現実の距離感で近い。


「あなた、現実で——」


言いかけて止めた。

フードの下で唇が一度引き結ばれる。「言うべきか」と「言っていいのか」が衝突した動きだった。


その一瞬の沈黙を、周囲が読んだ。


ORACLEの目がこちらを向いた。

腕章の列が微かにざわついた。

RAMPARTの重心が低くなった。盾の角度が一度だけ変わった。


守るべき対象に、誰かが近づいている——その反応だ。


女は短く息を吐いた。

面倒だ、ではない。「ここでは話せない」という判断の息。


「……人が多い。来て」


「え」


返事を待たなかった。振り返って、歩き出した。


広場の端。掲示板の死角。倉庫の裏手。

視線が届きにくい場所を、迷わず選んでいく足取り。

この村の構造を知っている人間の歩き方だった。初心者ではない。


付いていくしかなかった。

付いていかないと、広場の真ん中で話が始まる。ORACLEの前で、腕章の前で、OBSERVERの前で。


それだけは嫌だった。


倉庫の裏は日当たりが悪かった。

石壁が影を作って、空気が少しだけ冷たい。


女は壁に背を預けて、フードを少しだけ上げた。


目が見えた。


冷たい目ではない。計算する目でもない。

怒っているのに、心配している目。心配しているのに、怒っている目。


その二つが同時に存在する目を、YUは知らなかった。

鬼塚の目は計算だけだ。同期の目は同情だけだ。

この目は、どちらでもない。


女が口を開いた。


「——相沢」


小さな声。

でもはっきりしていた。壁に吸われない、名指しの声。


YUの身体が勝手に一歩退いた。

心臓が止まった感覚が一瞬あって、次の拍動で現実に引き戻された。


名字。現実の名字。


ゲームの中で、現実の名前を呼ばれた。


「草原で寝ているYU」と「会社で了解しましたを打つ相沢悠」が、一瞬だけ同じ場所に立った。

石壁とモニターの白が重なって、どちらが現実か分からなくなる。


重なるのは一秒。

一秒で剥がれた。剥がれたけれど、痕が残った。


(なんで——名字を知ってる)


女はYUの反応を見て、目の奥の配分を変えた。

怒りが少し引いて、心配が前に出る。


「……ごめん。いきなりは、きつかったよね」


謝り方が雑じゃない。

こちらの痛みの形を見てから謝る人間の謝り方だった。


女は呼び直した。


「YU。ねえ、あなた、草原で寝てるでしょ」


声のトーンが変わった。

「相沢」は現実の声。「YU」はゲームの声。

この人は、両方を持っている。


「……寝てるだけです」


何十回言ったか分からない台詞が出た。


女は目を閉じて、開いて、言った。


「それが一番おかしいって。分からない?」


「分からないです」


反射だった。分からない振りじゃない。本当に分からない。

分からないことが多すぎて、「分からない」がデフォルトになっている。


女——MINAは、一語ずつ並べた。


「運営が動いてる。OBSERVERが増えた。公式が罰則を出した。トップギルドが視察に来て、全員黙って帰った。——その全部の中心が、あなたの寝床」


並べられると重い。

一つ一つは知っていた。でも並べられると、重さが掛け算になる。


「あなたは寝てるだけ。でも、寝てる間に世界が壊れてる。——分かるでしょ」


分かる。

分かるけど、認めると壊れる。

認めたら、「寝てるだけ」が「寝てるだけ」じゃなくなる。なくなったら——ここにいる理由がなくなる。


YUは口を開きかけて、閉じた。


MINAは一瞬目を伏せた。

伏せた目が痛みを含んでいた。


「……顔、死んでた」


呼吸が止まった。


「会社で。——ずっと。エレベーターで会った時から」


会社。エレベーター。

現実の単語が、ゲームの石壁に反射している。


(この人は、僕を見ていた)


ゲームの中ではない。現実で。

見ていて、言えなかった。言えなかったから、ここに来た。


MINAは短く言った。


「名前だけ。私はMINA。ゲーム内の名前。現実の名前は、今はいい」


今はいい。

「言わない」ではなく「今は」。いつか言う前提の留保。


「……ここでは、MINAで呼んで」


YUは頷いた。頷くしかなかった。


MINAは姿勢を正して言った。


「あなたが“何もしてない”なら、証明するのは私がやる。証明できたら、運営もギルドも手を引く。あなたは安心して寝られる」


理路整然としていた。

でも会社の理路ではなかった。誰かを潰すためじゃない。


「逆に、もし何かしてるなら——止める。あなたが壊れる前に。運営が壊れる前に」


「止めるって……」


「止める」


断言だった。上から目線じゃない。決めた人間の声だ。


YUの指が、自分の掌を握っていた。爪が食い込んで、痛みで気づいた。


「……僕は、寝たいだけなんです」


声が震えた。震えているのに止められなかった。


「知ってる」


即答だった。

疑いが一滴も混ざっていない言葉。


その言葉で、目の裏側が急に熱くなった。

泣ける余裕はない。でも、熱い。


MINAが続けた。


「寝たいだけなのに、寝る場所が世界の中心になってる。——それが最悪」


最悪。

その単語が胸の真ん中に落ちた。


最悪なのは現実の方だと思っていた。

でもここにも最悪がある。

最悪が二つある、という事実が、逃げ場のなさを形にした。


MINAが聞いた。


「今夜、草原に行く?」


答えを知っている目だった。


「行きます」


「やめてって言っても行くタイプ?」


「行かないと、眠れないので」


MINAの眉がほんの少し寄った。怒りではなく痛み。


「……そっか」


短い。諦めと覚悟が両方入っていた。


MINAは言い切った。


「じゃあ私も行く。近づかない。干渉しない。でも——見届ける」


「見に来ないでください」


反射で言った。これ以上目を増やさないでくれ、と同じ意味。


MINAは笑わずに返した。


「それが一番危ない。ひとりで沈むな」


沈むな。

禁止じゃない。頼みだ。


沈むために来ているのに、沈むなと言われる。

そのズレが怖くて、少しだけ温かかった。


---


夕暮れ。


草原へ向かう道は静かだった。

罰則で野次馬が消えた。残っているのは本気の目だけ。


線の外側にOBSERVERが四体。灰色のローブ。青い円。

四方から囲む配置。朝と同じ。


線の内側にRAMPART。盾を突き立てている。

少し離れてORACLE。膝をついている。


さらに遠くに、白銀の影がちらりと見えた。《REGALIA》の残り香。

部下の一人か二人が、離れた木の下に立っている。


そしてYUの斜め後ろに、黒い外套。MINA。


いつの間にか隣にいた。足音がしない。上位プレイヤーの歩き方だ。


「行くよ」


短い。拒否する隙がない。


草原のいつもの場所に、YUは座った。


草の冷たさ。硬さ。

この感触だけが変わらない。


MINAが三歩離れた場所にしゃがんだ。

近すぎず遠すぎない。「いる」と分かるけれど「邪魔しない」距離。


ORACLEが一度だけMINAを見て、判断を保留したまま視線を戻した。


RAMPARTは、立つか迷って、立たなかった。

立たないという判断が、MINAを排除しないという意思になる。


YUは目を閉じかけて止めた。


「最後にひとつ」


MINAの声。


「……何ですか」


「現実で、眠れてる?」


静かな声だった。すぐ隣で囁かれたみたいに近い。


答えられなかった。

ここでは沈める。でも現実では沈めない。


MINAは待たなかった。待たないことが、答えを受け取る方法だった。


「じゃあ、ここで寝て」


短い。


「——私が見張る」


「見張らなくていいです」


「いいから」


その「いいから」は、従わせるためじゃない。守るための命令だった。

違いが分かってしまうと、断れない。


目を閉じた。


```

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


Y。


横になる。草が冷たい。

頬から首へ。首から肩へ。肩から、ゆるむ。


```

Resting...

```


意識が沈む。


鬼塚の「念のため」が遠くなる。

罰則の文字が遠くなる。

OBSERVERの青い円が遠くなる。


沈む直前——


「……相沢」


名前を呼ばれた。現実の名字。


「お願いだから、明日もここにいて」


声が震えていた。

怒りでも心配でもない。祈りに近い震え方だった。


反射で目を開けそうになって、堪えた。

開けたら応えなければならない。応えたら期待される。

応える体力が残っていない。


だから、開けないまま沈んだ。


---


闇。


音が消える。風が止まる。草が黙る。


YUの意識はもうここにはない。

草原の上には、眠る一人と、眠らない一人が残った。


MINAは目を閉じなかった。


OBSERVERの青い円が回っている。四つの目が四方から中心を見ている。

MINAはその青を見ていた。

掲示板や配信の切り抜きで、何度も見た光だ。だから分かる。来る。


空が暗転した。


闇が降りた瞬間、空気の質が変わった。

軽かったものが重くなる。重さというより密度。

何かが満ちている。


闇の中心に、変化が起きた。


形はない。形がないのに密度がある。

色もない。色がないのに周囲より深い。

闇の中に、さらに深い闇がある。


MINAの背筋が凍った。


ゲームの中で初めて「怖い」と思った。

戦闘の怖さではない。理解の限界に触れた時の怖さ。


青い円がひとつ、ふっと消えた。

音はない。倒れる音もない。

ただ「回っていたもの」が止まり、そこから“監視”の色が抜け落ちた。


二つ目も同じように消えた。

三つ目も。


MINAは叫びそうになって、堪えた。

叫んでも意味がない。ここは“言葉が届く場所”じゃない。


四つ目の青が、最後まで粘るみたいに点滅して——消えた。


青が全部消えた。

闇が“見たい”を剥がしていく。


その直後、どこかで金属が鳴った。


盾が何かを弾いた音。

RAMPARTが構え直した音だ。守っている。何をかは分からないまま。


闇の中心の深さが、一段増した。


MINAは見ていた。見ていたけれど、見えなかった。

見えないものを目撃している。理解できないものを見ている。


そして——静寂が降りた。


降りた、というより許可された。

「もう静かにしていい」と言われた気がした。


闇の中に、`Resting...` の文字だけが残った。

その一行だけが、何があっても消えない。


---


朝。


草原は何事もなかった顔をしていた。

朝露。鳥の声。草を撫でる風。


YUが身体を起こした。


——眠れた。


目を開けて最初に見えたのは、黒い外套だった。


MINAが三歩先に座っていた。

座っている、というより、夜を越えた姿勢のまま固まっている。


目が赤い。泣いた赤ではない。一晩中開いていた赤。

手が震えていた。膝の上で拳を握っているのに、震えが止まらない。


「……起きた」


声が掠れているのに、安堵が滲んでいた。


「あなた、ほんとに寝てた」


「はい」


「ほんとに——寝てただけだった」


自分に言い聞かせているみたいに、二回目を言った。


MINAは掠れた声で続けた。


「……じゃあ、夜のあれは——何?」


YUは答えられなかった。

何も見ていない。何も知らない。沈んでいただけだ。


でもMINAの目には「何か」が映っている。

映った「何か」が、手を震わせている。


答えたら、MINAをもっと深く巻き込む。

答えなくても、MINAはもう見てしまった。


草原の端を見た。

灰色のローブがいない。四体いたはずの目が、全部消えていた。


消えている。

昨夜、消えたのだ。


ORACLEが少し離れた場所から立ち上がった。

ローブの膝が草の色に染まっている。夜の間、膝をついていた痕。


ORACLEの目がMINAを見る。

信者でも敵でもない——夜を見た者を見る目だった。


RAMPARTは立っていた。

盾に、昨日より深い傷が増えている。横だけじゃない。斜めに、もう一本。新しい。


MINAは立ち上がった。

膝が一度だけ笑った。夜を越えた人間の膝だ。


「いい。答えなくていい」


答えないことを受け入れた上で言う。


「運営が今日、また増やしてくる。目を。手を。パッチを。——私はそれを見てる。見て、必要なら止める」


「止めるって——」


「あなたの寝床に、これ以上手を入れさせない」


言い切った。怒りではない。決意だ。

闇を見て、震えて、それでも残った決意。


MINAはYUに向き直った。


「今日から、私があなたの味方」


一拍。


「——嫌でも」


嫌でも。

その二文字を聞いた時、YUの握っていた拳が少しだけ開いた。


開いたことに気づいて、慌てて閉じようとして——閉じきれなかった。

指の隙間から、草原の朝の冷たい空気が入ってきた。


冷たいのに、少しだけ楽だった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 40


`401:`

黒外套の女、YUに接触してた。倉庫裏に連れてった


`403:`

え、何その展開。ラブコメ?


`405:`

ラブコメだったらこんな空気にならんだろ。あの広場の温度見たか


`409:`

名前MINA。ギルド所属なし。ソロ。知ってるやついる?


`412:`

知らん。でもRAMPARTが通したってことは、少なくとも排除対象じゃないんだろ


`415:`

ORACLEは微妙な顔してたぞ。信者認定するかどうか迷ってる感じ


`418:`

OBSERVER四体になってんだが。朝見たら四方に配置されてた。包囲だろもう


`423:`

罰則出てるのにまだ残ってるやつら全員ガチ勢だよな


`427:`

で、今朝OBSERVER何体残ってた?


`429:`

ゼロ


`430:`

は?


`431:`

ゼロ。四体全部消えてた。朝ログインしたら一体もいない。昼前にまた二体配置されたけど


`440:`

黒外套の女、朝までいたらしいぞ。寝てるYUの横でずっと起きてたって


`443:`

つまりあの女は「夜」を見た?


`445:`

見たんだろうな。今朝の顔、ヤバかったらしい。目が赤くて手が震えてたって


`448:`

見て、それでもYUの横にいるのか。根性あるな


`451:`

根性じゃなくて何か事情があるんだろ


`453:`

寝てる初心者vs運営vsトップギルドvs信者集団vs黒外套の女。カオスすぎて意味が分からん


`458:`

今夜も何か起きるんだろうな


`459:`

起きるだろ。運営がOBSERVER再配置してるし。懲りてないっていうか、引けないんだろうな


`462:`

寝てるだけの初心者が一番安眠してて、周り全員が不眠。何のゲーム?


`464:`

分からん。でも目が離せない


---


夜が来る。


今夜も運営は目を置く。

今夜もMINAは目を逸らさない。

今夜もORACLEは膝をつく。

今夜もRAMPARTは盾を構える。


そしてYUは——沈む。


沈むことしかできない。

でも今日は、沈む前に聞いた声がある。


「嫌でも」。


その言葉が、草原の冷たさの中に、ほんの少しだけ混ざっている。


冷たいのに——温かい、小さな異物。


それが救いなのか火種なのか、まだ分からない。

分からないまま、夜が来る。


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