MINA登場
朝、会社のプリンターだけが元気だった。
紙を吐く。吐いた紙が整列する。整列した紙が誰かの手に取られて、赤ペンで殺される。
紙は文句を言わない。言わないから元気でいられる。
相沢悠は、席に座って、モニターを点けた。
白が眩しい。眩しいのに眠くない。
眠くない日が、もう何日も続いている。
身体は限界を通り過ぎて、限界の向こう側にある平坦な場所を歩いている。倒れるでもなく、回復するでもなく、ただ動ける最低速度で前に進んでいる。
鬼塚のチャットが点滅していた。
開く。
開いた時点で負けだと知っている。でも開かないと別の罪が積まれる。
「昨日の差し戻し、見た。念のため、追加。ここの文言、もう一段"固く"。先方の顔が立つように」
念のため。追加。固く。
三つの単語で、夜が遠のく。
「了解しました」
文字を打つ。送る。
送るたびに、自分の中の何かが一枚ずつ剥がれていく。最初は「嫌です」が剥がれた。次に「疲れました」が剥がれた。今は何が剥がれているのかすら分からない。
分からないまま、指は動く。動けるから、動く。
昼前、社食に行く気力がなくて、自販機の前に立った。
ブラックコーヒーのボタンを押す。缶が落ちる。冷たい。冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。
社内のニュースフィードが通知を出した。
「NEOSPHERE ONLINE 臨時メンテナンス実施中/追加措置のお知らせ」
指が止まった。
コーヒーの缶を握ったまま、数秒だけ画面を見た。
追加措置。
眠る場所に、また手が入る。
(壊さないでくれ)
誰に言っているのか分からない。運営に対してか、鬼塚に対してか、世界全部に対してか。
壊さないでくれ。あの草原だけは壊さないでくれ。あそこがなくなったら、沈める場所がなくなる。
缶コーヒーを一口飲んだ。なんだか、味がしない。
味がしないものを飲める。それが今の自分の精度だ。
午後、鬼塚の「念のため」をひとつ処理して、終電二本前に会社を出た。
コンビニに寄った記憶はあるが、またもや何を買ったか覚えていない。袋が手にある。それだけ。
帰宅。
靴を脱ぐ。部屋へあがる。電気を点けない。
暗い部屋の中で、VRギアの輪郭だけが窓の外の光で浮かんでいる。
手が伸びた。
今日はいつもより早い。
身体が覚えている。ここから先は沈める。ここから先だけが、「了解しました」を言わなくていい場所だ。
ギアを被る。目を閉じる。
落ちる。
---
視界が暗転して、次に開けた時——空は一瞬だけ白くなった。
運営の文字。現実のフォント。冷たい温度。
```
NEOSPHERE ONLINE
Emergency Maintenance Completed.
Additional observation measures have been implemented.
Please follow official instructions in designated areas.
```
読んだ。読めたけれど、半分は意味を拒んだ。
公式の指示。従え。やれ。報告しろ。——ここでも。
白が溶けて、草原に切り替わった。
風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。
今朝も、昨日と同じ顔をしていた。
YUは身体を起こした。
草に頬の跡がついている気がして、手で触った。データに跡なんかない。ないのに、触る。
——眠れた。
それだけが確かだった。
確かなものが一つあるだけで、立ち上がれる。
草原の外側を見る。
OBSERVERが増えていた。
灰色のローブが四体。草原を四方から囲んでいる。
足元の青い円が、四つ同時に回っている。
記録中。記録中。記録中。記録中。
見せるための監視。隠す気のない監視。
数が増えたことで、「見ている」ではなく「囲んでいる」に変わった。
(……包囲だ)
その言葉が浮かんで、胃が冷えた。
インベントリを開く。
増えている。
金属片。宝石。紋章。黒い布。`???`。
一日も休まず増え続ける。一つも説明がつかない。
(落とし物だろ)
もう自分でも信じていない。
信じていないのに、他の説明を持つ体力がない。信じないけれど、否定もしない。そういう場所に立っている。
通知が出た。
```
System Notice:
Sleep record saved.
```
```
System Notice:
Sleep record integrity check failed.
Data partially corrupted.
```
縦に並ぶ。希望と否定。もう驚かない。
パッチは入った。措置は増えた。OBSERVERは倍になった。
それでも結果は同じだ。
「変えようとした」の行だけが増えて、夜は変わらない。
---
初期村に入ると、空気が昨日よりさらに硬くなっていた。
金属フレームの公式掲示板が、もう一枚増えている。門の右にあったものが、左にも複製された。
同じ文面。同じフォント。同じ温度。
村の入口が、左右から「罰則」で挟まれている。
```
Official Notice:
Grassland area is under enhanced observation.
Unauthorized gathering near the designated zone is prohibited.
Violation may result in account penalties.
```
村の中を歩くと、プレイヤーの密度が減っていた。
罰則が効いている。好奇心は無料だが、アカウント停止は有料だ。見たいけれど、失いたくない。その天秤が傾いた。
露店はない。旗もない。祭りの痕跡は完全に消えた。
ORACLEは、いつもの位置にいた。
白ローブ。腕章。背筋が正しい。
でも今日は、ORACLEの周囲の腕章が少ない。昨日より数人減っている。
罰則の文字に冷やされて、信仰の端が削れた。
残っている者は、削れなかった者だ。
削れなかった者の目は、削れた者の目より静かで、深い。
RAMPARTは門の内側。盾の角度が前に傾いている。
言葉はない。頷くだけ。
YUが広場を横切ろうとした時——背中に、視線が刺さった。
OBSERVERの焦点とは違う。あれは記録の目だ。
これは、探す目。何かを確かめようとしている目。生きた人間の目。
振り返る前に、声がした。
「ちょっと」
女の声。
落ち着いている。怒っていないのに、無視できない圧がある。
立ち止まれ、とは言っていないのに、足が止まる声。
振り返った。
黒い外套。深いフード。顔は半分影に沈んでいる。
——見たことがある。
宿屋の前で。草原の端で。REGALIAの列の端で、一瞬だけ振り返った影。
断片が繋がった。あの黒い外套は、ずっとここにいた。
女は、YUの頭上の名前表示を見た。
見て、口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのではない。確認した。
「二文字。ほんとに二文字なんだ」
声に含まれているのは軽さではない。
「やっぱりそうか」という、長い観察の末の確認の音だった。
YUは一歩退いた。
逃げたい。会話は消耗する。消耗するものは全部避けたい。
でも逃げると目立つ。目立つのが一番疲れる。
「……すみません、何か——」
「すみませんじゃなくて」
柔らかく、でも正確に遮られた。
「聞きたいことがある」
女が一歩寄った。距離が近い。近すぎる。
ゲーム内の距離感ではなく、現実の距離感で近い。
「あなた、現実で——」
言いかけて止めた。
フードの下で唇が一度引き結ばれる。「言うべきか」と「言っていいのか」が衝突した動きだった。
その一瞬の沈黙を、周囲が読んだ。
ORACLEの目がこちらを向いた。
腕章の列が微かにざわついた。
RAMPARTの重心が低くなった。盾の角度が一度だけ変わった。
守るべき対象に、誰かが近づいている——その反応だ。
女は短く息を吐いた。
面倒だ、ではない。「ここでは話せない」という判断の息。
「……人が多い。来て」
「え」
返事を待たなかった。振り返って、歩き出した。
広場の端。掲示板の死角。倉庫の裏手。
視線が届きにくい場所を、迷わず選んでいく足取り。
この村の構造を知っている人間の歩き方だった。初心者ではない。
付いていくしかなかった。
付いていかないと、広場の真ん中で話が始まる。ORACLEの前で、腕章の前で、OBSERVERの前で。
それだけは嫌だった。
倉庫の裏は日当たりが悪かった。
石壁が影を作って、空気が少しだけ冷たい。
女は壁に背を預けて、フードを少しだけ上げた。
目が見えた。
冷たい目ではない。計算する目でもない。
怒っているのに、心配している目。心配しているのに、怒っている目。
その二つが同時に存在する目を、YUは知らなかった。
鬼塚の目は計算だけだ。同期の目は同情だけだ。
この目は、どちらでもない。
女が口を開いた。
「——相沢」
小さな声。
でもはっきりしていた。壁に吸われない、名指しの声。
YUの身体が勝手に一歩退いた。
心臓が止まった感覚が一瞬あって、次の拍動で現実に引き戻された。
名字。現実の名字。
ゲームの中で、現実の名前を呼ばれた。
「草原で寝ているYU」と「会社で了解しましたを打つ相沢悠」が、一瞬だけ同じ場所に立った。
石壁とモニターの白が重なって、どちらが現実か分からなくなる。
重なるのは一秒。
一秒で剥がれた。剥がれたけれど、痕が残った。
(なんで——名字を知ってる)
女はYUの反応を見て、目の奥の配分を変えた。
怒りが少し引いて、心配が前に出る。
「……ごめん。いきなりは、きつかったよね」
謝り方が雑じゃない。
こちらの痛みの形を見てから謝る人間の謝り方だった。
女は呼び直した。
「YU。ねえ、あなた、草原で寝てるでしょ」
声のトーンが変わった。
「相沢」は現実の声。「YU」はゲームの声。
この人は、両方を持っている。
「……寝てるだけです」
何十回言ったか分からない台詞が出た。
女は目を閉じて、開いて、言った。
「それが一番おかしいって。分からない?」
「分からないです」
反射だった。分からない振りじゃない。本当に分からない。
分からないことが多すぎて、「分からない」がデフォルトになっている。
女——MINAは、一語ずつ並べた。
「運営が動いてる。OBSERVERが増えた。公式が罰則を出した。トップギルドが視察に来て、全員黙って帰った。——その全部の中心が、あなたの寝床」
並べられると重い。
一つ一つは知っていた。でも並べられると、重さが掛け算になる。
「あなたは寝てるだけ。でも、寝てる間に世界が壊れてる。——分かるでしょ」
分かる。
分かるけど、認めると壊れる。
認めたら、「寝てるだけ」が「寝てるだけ」じゃなくなる。なくなったら——ここにいる理由がなくなる。
YUは口を開きかけて、閉じた。
MINAは一瞬目を伏せた。
伏せた目が痛みを含んでいた。
「……顔、死んでた」
呼吸が止まった。
「会社で。——ずっと。エレベーターで会った時から」
会社。エレベーター。
現実の単語が、ゲームの石壁に反射している。
(この人は、僕を見ていた)
ゲームの中ではない。現実で。
見ていて、言えなかった。言えなかったから、ここに来た。
MINAは短く言った。
「名前だけ。私はMINA。ゲーム内の名前。現実の名前は、今はいい」
今はいい。
「言わない」ではなく「今は」。いつか言う前提の留保。
「……ここでは、MINAで呼んで」
YUは頷いた。頷くしかなかった。
MINAは姿勢を正して言った。
「あなたが“何もしてない”なら、証明するのは私がやる。証明できたら、運営もギルドも手を引く。あなたは安心して寝られる」
理路整然としていた。
でも会社の理路ではなかった。誰かを潰すためじゃない。
「逆に、もし何かしてるなら——止める。あなたが壊れる前に。運営が壊れる前に」
「止めるって……」
「止める」
断言だった。上から目線じゃない。決めた人間の声だ。
YUの指が、自分の掌を握っていた。爪が食い込んで、痛みで気づいた。
「……僕は、寝たいだけなんです」
声が震えた。震えているのに止められなかった。
「知ってる」
即答だった。
疑いが一滴も混ざっていない言葉。
その言葉で、目の裏側が急に熱くなった。
泣ける余裕はない。でも、熱い。
MINAが続けた。
「寝たいだけなのに、寝る場所が世界の中心になってる。——それが最悪」
最悪。
その単語が胸の真ん中に落ちた。
最悪なのは現実の方だと思っていた。
でもここにも最悪がある。
最悪が二つある、という事実が、逃げ場のなさを形にした。
MINAが聞いた。
「今夜、草原に行く?」
答えを知っている目だった。
「行きます」
「やめてって言っても行くタイプ?」
「行かないと、眠れないので」
MINAの眉がほんの少し寄った。怒りではなく痛み。
「……そっか」
短い。諦めと覚悟が両方入っていた。
MINAは言い切った。
「じゃあ私も行く。近づかない。干渉しない。でも——見届ける」
「見に来ないでください」
反射で言った。これ以上目を増やさないでくれ、と同じ意味。
MINAは笑わずに返した。
「それが一番危ない。ひとりで沈むな」
沈むな。
禁止じゃない。頼みだ。
沈むために来ているのに、沈むなと言われる。
そのズレが怖くて、少しだけ温かかった。
---
夕暮れ。
草原へ向かう道は静かだった。
罰則で野次馬が消えた。残っているのは本気の目だけ。
線の外側にOBSERVERが四体。灰色のローブ。青い円。
四方から囲む配置。朝と同じ。
線の内側にRAMPART。盾を突き立てている。
少し離れてORACLE。膝をついている。
さらに遠くに、白銀の影がちらりと見えた。《REGALIA》の残り香。
部下の一人か二人が、離れた木の下に立っている。
そしてYUの斜め後ろに、黒い外套。MINA。
いつの間にか隣にいた。足音がしない。上位プレイヤーの歩き方だ。
「行くよ」
短い。拒否する隙がない。
草原のいつもの場所に、YUは座った。
草の冷たさ。硬さ。
この感触だけが変わらない。
MINAが三歩離れた場所にしゃがんだ。
近すぎず遠すぎない。「いる」と分かるけれど「邪魔しない」距離。
ORACLEが一度だけMINAを見て、判断を保留したまま視線を戻した。
RAMPARTは、立つか迷って、立たなかった。
立たないという判断が、MINAを排除しないという意思になる。
YUは目を閉じかけて止めた。
「最後にひとつ」
MINAの声。
「……何ですか」
「現実で、眠れてる?」
静かな声だった。すぐ隣で囁かれたみたいに近い。
答えられなかった。
ここでは沈める。でも現実では沈めない。
MINAは待たなかった。待たないことが、答えを受け取る方法だった。
「じゃあ、ここで寝て」
短い。
「——私が見張る」
「見張らなくていいです」
「いいから」
その「いいから」は、従わせるためじゃない。守るための命令だった。
違いが分かってしまうと、断れない。
目を閉じた。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
Y。
横になる。草が冷たい。
頬から首へ。首から肩へ。肩から、ゆるむ。
```
Resting...
```
意識が沈む。
鬼塚の「念のため」が遠くなる。
罰則の文字が遠くなる。
OBSERVERの青い円が遠くなる。
沈む直前——
「……相沢」
名前を呼ばれた。現実の名字。
「お願いだから、明日もここにいて」
声が震えていた。
怒りでも心配でもない。祈りに近い震え方だった。
反射で目を開けそうになって、堪えた。
開けたら応えなければならない。応えたら期待される。
応える体力が残っていない。
だから、開けないまま沈んだ。
---
闇。
音が消える。風が止まる。草が黙る。
YUの意識はもうここにはない。
草原の上には、眠る一人と、眠らない一人が残った。
MINAは目を閉じなかった。
OBSERVERの青い円が回っている。四つの目が四方から中心を見ている。
MINAはその青を見ていた。
掲示板や配信の切り抜きで、何度も見た光だ。だから分かる。来る。
空が暗転した。
闇が降りた瞬間、空気の質が変わった。
軽かったものが重くなる。重さというより密度。
何かが満ちている。
闇の中心に、変化が起きた。
形はない。形がないのに密度がある。
色もない。色がないのに周囲より深い。
闇の中に、さらに深い闇がある。
MINAの背筋が凍った。
ゲームの中で初めて「怖い」と思った。
戦闘の怖さではない。理解の限界に触れた時の怖さ。
青い円がひとつ、ふっと消えた。
音はない。倒れる音もない。
ただ「回っていたもの」が止まり、そこから“監視”の色が抜け落ちた。
二つ目も同じように消えた。
三つ目も。
MINAは叫びそうになって、堪えた。
叫んでも意味がない。ここは“言葉が届く場所”じゃない。
四つ目の青が、最後まで粘るみたいに点滅して——消えた。
青が全部消えた。
闇が“見たい”を剥がしていく。
その直後、どこかで金属が鳴った。
盾が何かを弾いた音。
RAMPARTが構え直した音だ。守っている。何をかは分からないまま。
闇の中心の深さが、一段増した。
MINAは見ていた。見ていたけれど、見えなかった。
見えないものを目撃している。理解できないものを見ている。
そして——静寂が降りた。
降りた、というより許可された。
「もう静かにしていい」と言われた気がした。
闇の中に、`Resting...` の文字だけが残った。
その一行だけが、何があっても消えない。
---
朝。
草原は何事もなかった顔をしていた。
朝露。鳥の声。草を撫でる風。
YUが身体を起こした。
——眠れた。
目を開けて最初に見えたのは、黒い外套だった。
MINAが三歩先に座っていた。
座っている、というより、夜を越えた姿勢のまま固まっている。
目が赤い。泣いた赤ではない。一晩中開いていた赤。
手が震えていた。膝の上で拳を握っているのに、震えが止まらない。
「……起きた」
声が掠れているのに、安堵が滲んでいた。
「あなた、ほんとに寝てた」
「はい」
「ほんとに——寝てただけだった」
自分に言い聞かせているみたいに、二回目を言った。
MINAは掠れた声で続けた。
「……じゃあ、夜のあれは——何?」
YUは答えられなかった。
何も見ていない。何も知らない。沈んでいただけだ。
でもMINAの目には「何か」が映っている。
映った「何か」が、手を震わせている。
答えたら、MINAをもっと深く巻き込む。
答えなくても、MINAはもう見てしまった。
草原の端を見た。
灰色のローブがいない。四体いたはずの目が、全部消えていた。
消えている。
昨夜、消えたのだ。
ORACLEが少し離れた場所から立ち上がった。
ローブの膝が草の色に染まっている。夜の間、膝をついていた痕。
ORACLEの目がMINAを見る。
信者でも敵でもない——夜を見た者を見る目だった。
RAMPARTは立っていた。
盾に、昨日より深い傷が増えている。横だけじゃない。斜めに、もう一本。新しい。
MINAは立ち上がった。
膝が一度だけ笑った。夜を越えた人間の膝だ。
「いい。答えなくていい」
答えないことを受け入れた上で言う。
「運営が今日、また増やしてくる。目を。手を。パッチを。——私はそれを見てる。見て、必要なら止める」
「止めるって——」
「あなたの寝床に、これ以上手を入れさせない」
言い切った。怒りではない。決意だ。
闇を見て、震えて、それでも残った決意。
MINAはYUに向き直った。
「今日から、私があなたの味方」
一拍。
「——嫌でも」
嫌でも。
その二文字を聞いた時、YUの握っていた拳が少しだけ開いた。
開いたことに気づいて、慌てて閉じようとして——閉じきれなかった。
指の隙間から、草原の朝の冷たい空気が入ってきた。
冷たいのに、少しだけ楽だった。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 40
`401:`
黒外套の女、YUに接触してた。倉庫裏に連れてった
`403:`
え、何その展開。ラブコメ?
`405:`
ラブコメだったらこんな空気にならんだろ。あの広場の温度見たか
`409:`
名前MINA。ギルド所属なし。ソロ。知ってるやついる?
`412:`
知らん。でもRAMPARTが通したってことは、少なくとも排除対象じゃないんだろ
`415:`
ORACLEは微妙な顔してたぞ。信者認定するかどうか迷ってる感じ
`418:`
OBSERVER四体になってんだが。朝見たら四方に配置されてた。包囲だろもう
`423:`
罰則出てるのにまだ残ってるやつら全員ガチ勢だよな
`427:`
で、今朝OBSERVER何体残ってた?
`429:`
ゼロ
`430:`
は?
`431:`
ゼロ。四体全部消えてた。朝ログインしたら一体もいない。昼前にまた二体配置されたけど
`440:`
黒外套の女、朝までいたらしいぞ。寝てるYUの横でずっと起きてたって
`443:`
つまりあの女は「夜」を見た?
`445:`
見たんだろうな。今朝の顔、ヤバかったらしい。目が赤くて手が震えてたって
`448:`
見て、それでもYUの横にいるのか。根性あるな
`451:`
根性じゃなくて何か事情があるんだろ
`453:`
寝てる初心者vs運営vsトップギルドvs信者集団vs黒外套の女。カオスすぎて意味が分からん
`458:`
今夜も何か起きるんだろうな
`459:`
起きるだろ。運営がOBSERVER再配置してるし。懲りてないっていうか、引けないんだろうな
`462:`
寝てるだけの初心者が一番安眠してて、周り全員が不眠。何のゲーム?
`464:`
分からん。でも目が離せない
---
夜が来る。
今夜も運営は目を置く。
今夜もMINAは目を逸らさない。
今夜もORACLEは膝をつく。
今夜もRAMPARTは盾を構える。
そしてYUは——沈む。
沈むことしかできない。
でも今日は、沈む前に聞いた声がある。
「嫌でも」。
その言葉が、草原の冷たさの中に、ほんの少しだけ混ざっている。
冷たいのに——温かい、小さな異物。
それが救いなのか火種なのか、まだ分からない。
分からないまま、夜が来る。




