上位勢の視察
朝、会社の自動ドアは今日も同じ速度で開いた。
人間が壊れても、ドアは壊れない。壊れないものだけが正しく動く。壊れるものは、壊れていても動ける限り「動ける扱い」になる。動けなくなった瞬間に初めて「壊れた」と認定される。それまでは「頑張っている」か「甘えている」の二択しかない。
相沢悠は、席に座って、モニターを見た。見た瞬間に目が乾く。乾いた目で、今日のタスクを確認する。
右下が点滅した。鬼塚。
「昨日の件、確認した。念のため、最後に体裁整えて提出」
念のため。まだ回っている。永久機関は止まらない。この人の「念のため」には燃料がいらない。太陽光発電みたいなものだ。朝が来れば「念のため」が生まれる。朝が来る限り、永遠に回り続ける。
「了解しました」
返事だけは得意だ。返事をすれば今日が進む。進めば夜が近づく。夜が近づけば、眠れる。
昼休み、同期が缶を置いていった。
今日はブラックだった。
いつもはカフェオレなのに。間違えたのか。それとも、甘いものばかり飲んでいる悠を見かねたのか。
一口飲んだ。苦い。苦くて、目が覚める。目が覚めるのが、ありがたいのか迷惑なのか分からない。目が覚めると、現実が鮮明になる。鮮明な現実は、ぼやけた現実より痛い。
「今日はブラック?」
声をかけようとして、同期はもういなかった。席に戻っている。背中が見える。優しさは、置いて去っていく。追いかけてこない。追いかけてこないから楽で、追いかけてこないから寂しい。
ブラックを半分飲んで、残りはデスクに置いた。
夜まで。夜になれば、眠れる。
---
視界が暗転して、次に開けた時、草原は朝だった。
ネオスフィアの朝だ。世界が静かだ。現実の朝が殴ってくるのに対して、こっちの朝は撫でてくる。殴られ慣れた身体には、撫でられることがかえって沁みる。
YUは身体を起こした。
——眠れた。
最近は毎日ここで沈んで、ここで浮かぶ。それだけのことが人生を支えている。支えの細さを考えると怖くなるから、考えない。
風が草を撫でている。朝露が光っている。
草原は、昨日より——賑わっていた。
正確には、遠い賑わいだ。丘の陰。森の端。草の波の向こう。人影が増えている。集団の数が、昨日より多い。輪が広がっている。距離は保っているが、密度が上がっている。
(……増えてる)
怖いもの見たさは、噂を餌にして増殖する。PKが消えた。徴収ギルドが剥がされた。その噂が人を呼び、人が人を呼ぶ。
YUは立ち上がって草を払った。
インベントリを開く。開きたくないのに開いてしまう。開かないと不安だから開く。不安を確認するために不安の元を見る。ホラー映画で目を覆いながら指の隙間から覗く行為を、毎朝やっている。
増えていた。
金属片。宝石。紋章。黒い布の切れ端。名前のないアイテム `???` も、まだ残っている。捨てられない。触れても何も起きない。ただ、在る。
(落とし物だろ)
「落とし物だろ」。もう朝の挨拶みたいなものだ。
画面の端に、いつもの通知。
```
System Notice:
Resting record could not be retrieved.
Data partially corrupted.
```
もう驚かない。驚く余裕は、会社の蛍光灯の下に置いてきた。
---
初期村の門をくぐった瞬間、空気が違った。
昨日までの「緊張」でも「恐怖」でもない。もっと俗っぽい、軽い、浮ついた熱。
祭りの空気だ。
広場に露店が増えていた。看板が立っている。
「草原聖地マップ(手書き・500G)」
「暗転対策ガイド:生還者の知恵!」
「"記録がありません"旗(非公式・限定品)」
最後の旗には、布に墨で「記録がありません」と書かれていた。ゲーム世界の書体で。ファンタジーの世界で、システムメッセージの文言を旗にする。狂気に見えるが、商売としては正しいのかもしれない。
(……笑っていいのかな、これ)
笑えない。笑えないのに、口角が少しだけ動いた。現実では何日も笑っていない。ゲームの中の非公式グッズで口角が動くのは、喜劇なのか悲劇なのか分からない。
人が、道を開けた。開けるのがもう手慣れている。慣れていることが怖い。昨日までは「緊急避難」みたいな開き方だったのが、今日は「正式な通路」みたいな開き方になっている。制度化されている。
ORACLEが、いつもの位置にいた。白ローブ。穏やかな顔。腕章の人たちが整列している。もう完全に「組織」だ。「集団」が「組織」に変わる境界線を、悠は会社で何度も見てきた。誰かが腕章を作った瞬間に空気が変わる。空気が制度になる。制度が空気を縛る。
RAMPARTが、広場の入り口に立っていた。盾を背負って、腕を組んでいる。鎧に小さな傷がまた増えている。でも表情は変わらない。
YUが通ると、RAMPARTは小さく頷いた。何も言わない。それがありがたい。
そのとき。
広場の空気が、一段だけ固くなった。
人の熱が、一瞬で引いた。祭りが、急に式典になる。露店の声が小さくなる。旗を売っていた手が止まる。
門の外から、重い足音が来た。
重い、というのは音量のことではない。密度のことだ。少ない足音なのに、広場の空気を押している。
——上位勢だ、とYUでも分かった。
装備が違う。派手だからじゃない。静かだからだ。無駄がない。見せる必要がない余裕がある。鎧が光っているのに、光を誇示していない。光ることが「当然」の装備。
先頭に立つ男は、白銀の鎧に淡い金の外套を羽織っていた。背が高い。姿勢が良い。姿勢が良いことが自然な人間——つまり、姿勢が良くない状態を知らない人間の立ち方だった。
その周囲に、同じ紋章のプレイヤーが数人。
紋章は、王冠を象ったデザイン。
頭上の表示が見えた。
```
ASTER
Guild: REGALIA
```
《REGALIA》。
最初の夜に「小隊が蒸発した」と掲示板に書かれていたギルド。このゲームのトップギルド。YUはゲームに詳しくないが、掲示板の文脈から「一番強い」ということだけは理解していた。
一番強い連中が、来た。
ASTERと名乗った男は、広場をゆっくり見渡した。露店を見た。旗を見た。腕章の組織を見た。ORACLEを見た。RAMPARTを見た。
それから——YUを見た。
目が合った瞬間、ASTERの表情がわずかに——ほんのわずかに——揺れた。
困惑だ。
明らかに「想像と違った」という顔。強敵を見に来たのに、初心者が立っていた。ドラゴンの巣に踏み込んだら子猫がいた、みたいな困惑。
「……君が、YUか」
声は落ち着いていた。低くて、よく通る。会社の社長がスピーチするときの声に似ている。自分の声が届くことを疑っていない声。
返事をする前に、ORACLEが膝をついた。
「おはようございます、YU様」
(様はやめてって——もういいか)
ASTERは、ORACLEを一瞥して、それからYUに視線を戻した。
「我々は《REGALIA》だ。草原で起きている件について、確認に来た」
確認。
その言葉は、昨日の黒服の「確認」とは温度が違った。黒服の確認は「値踏み」だった。ASTERの確認は——「査定」だ。
値踏みは金の目。査定は格の目。
「君に聞きたい。昨夜、草原で起きたことを知っているか」
(知らない)
毎晩同じだ。寝て、起きて、知らないものが増えている。知らないことだけが増えていく。
沈黙した。
沈黙は肯定に見える。でも「知らない」と言えば変換される。何を言っても教義にされる。何も言わなくても意味を乗せられる。逃げ道がない。
「……僕、寝てただけなんで」
いつもの台詞。もう何回目か数えていない。
ASTERの部下の一人が、小さく息を吐いた。
「……噂と違う」
別の部下が、目を細めた。
「いや、"違いすぎる"。昼のこれが、夜のあれと同一人物? ありえない」
「レベルを確認するぞ」
部下がYUに近づき、淡い光の輪を展開した。スキャンのような魔法。ステータス確認だろう。
YUは反射で肩をすくめた。人に近づかれるだけで身体が固まる。健康診断で医者に触れられるときと同じだ。触れられる前から緊張する。
光がYUをなぞった。
部下の表情が——曇った。
「……低い」
「低いって、どのくらい」
「初心者帯。上位どころか、中位にも届いていない」
沈黙が落ちた。
《REGALIA》の全員が、YUを見ていた。見ているのに、理解が追いついていない顔。高い山の頂上に登ったら、何もなかった——そういう顔。
ASTERだけが、表情を変えなかった。変えなかったが——目の奥に、何かが動いた。
プライドだ。
「トップギルドの小隊を蒸発させた存在」が、初心者帯のレベルで草原に寝ているだけ。その事実が、ASTERのプライドの何かに触れている。理解できないものを前にしたとき、強い人間は怒るか、興味を持つか、どちらかだ。
ASTERは、後者だった。
「……面白い」
声が、静かだった。
「今夜、我々も草原に入る。君は——今夜も眠るのか」
(眠るしかない)
草原で眠れなかったら、現実で眠れない。現実で眠れないなら、明日の朝が来るのが怖い。朝が来ることが怖い人間にとって、眠りは逃避ではなく、生存だ。
「……はい」
答えた瞬間、周囲がざわっとした。ざわっ、というより、呼吸が止まる気配が広場に満ちた。
ASTERの部下が眉を上げた。
「止めろって言っても止めないタイプか」
(止められるなら止めたいよ。でも止められない。止めたら壊れる)
ASTERが言った。
「なら、我々は正々堂々、確認させてもらう。——君に危害は加えない」
正々堂々。その言葉が、彼の口から出ると嘘に聞こえなかった。本気で正々堂々を信じている人間の声だった。
危害は加えない。
その言葉が遅れて怖くなった。「危害を加えるかどうか」が議題になる時点で、普通の状況ではない。
---
《REGALIA》が去った後、YUは宿屋へ向かった。
視線が刺さる。露店の声が戻り始めている。祭りの空気が、式典から祭りに戻る。
宿屋の扉に手をかけた瞬間——視界の端に、黒い外套が映った。
《REGALIA》の集団の、端のほうに。
少し離れた場所に立っている人影。黒い外套。フードを被っている。《REGALIA》の白銀とは明らかに違う色。
顔は見えない。
でも——その人影が、こちらを見ていた。
見ている、というのは感覚だ。証拠はない。フードで顔が隠れていて、目線は分からない。でも、視線の圧だけが分かる。見られている。それも——初めて見る視線ではない圧。
(……知ってる?)
そんなはずはない。ゲームの中だ。顔はデフォルト。名前は二文字。知っている人間などいない。
人影は、すぐに《REGALIA》の列に混ざって、門の外へ消えた。
胸に、小さな引っかかりだけが残った。
あの視線。
何かを確認するような。何かを心配するような。
——気のせいだ。
気のせいだと思うことにして、YUは宿屋の扉を開けた。
---
夕方、草原へ向かう道が渋滞していた。
野次馬の輪。腕章の輪。露店の旗。そしてその内側に——《REGALIA》の少数精鋭が、静かに陣取っていた。
彼らは騒がない。騒ぐ必要がない。存在しているだけで、周囲の音量が下がる。
配信の窓がいくつか浮かんでいたが、《REGALIA》の部下が近づくと、窓が閉じられた。自主的に。命令ではない。空気で閉じさせている。
RAMPARTは、いつもの場所に立っていた。盾を地面に突き立てて、何も言わない。《REGALIA》の連中と目が合っても、動じない。鎧の格は向こうが上だ。でも、立ち方の重心は負けていない。
ORACLEは膝をついていた。メモ帳を開いている。もう書いている。
YUは輪の中心へ歩いた。歩きたくないのに、足が勝手にそこへ向かう。
ここで寝ないと、明日の自分が壊れる。壊れるから、寝る。寝るしかない。
いつもの場所に座る。草の冷たさ。硬さ。ここだけが要求しない。ここだけが何も聞いてこない。「念のため」も「様」も「協力金」も「確認」も、草は言わない。草はただ揺れる。それだけでいい。
ASTERが、少し離れた場所に立っていた。外套が風に揺れている。部下が周囲に散開している。検知魔法の準備をしている。記録端末を起動している。
「……正々堂々、見届ける」
ASTERの声が、風に乗って聞こえた。
(正々堂々。いい言葉だ。自分には縁がないけど)
YUは目を閉じた。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
迷わない。
横になる。草が冷たい。背中に地面の硬さ。
```
Resting...
```
意識が沈む。
鬼塚の「念のため」が遠くなる。ORACLEの「摂理」が遠くなる。ASTERの「正々堂々」も遠くなる。ブラックコーヒーの苦さだけが少し残って——それも、沈む。
全部、沈む。
意識の底に、静寂がある。ここには誰もいない。上司もいない。信者もいない。上位勢もいない。
ただ暗くて、静かで、何も要求されない場所。
——ここでいい。
ここだけでいい。
YUのアバターが、草原の上で静かに動きを止めた。
風が止んだ。
草のざわめきが消えた。
空が——暗転した。
---
最初に異変に気づいたのは、《REGALIA》の検知担当だった。
「反応が——消えた」
魔法の光が、途切れた。消えたのではない。光が「届かなくなった」。暗闇が光を飲んでいる。水面に落ちた光が沈むように、魔法の光が闇の底へ沈んでいく。
「視界強化、起動——」
別の部下が目に魔法をかけた。暗視だろう。VRMMOの闇は、本来なら暗視で見える。ゲームの闇はプログラムで作られた闇だから、プログラムで破れるはずだ。
——見えなかった。
「なんだこれ。暗視が通らない」
声が削れて届く。言葉の端が欠ける。音が少しずつ薄くなるのに、恐怖だけが濃くなる。
ASTERは動かなかった。白銀の鎧が闇の中でかすかに光っている。自分の装備の光だけが、最後に残った灯りだった。
ASTERは口を動かした。だが声が届かない。代わりに、視界の端に短いテキストが表示された。
《REGALIA PT》
「全員、距離を取れ。深入りするな」
音が削れても、PTチャットは残る。
それが、いまは救いに見えた。
部下たちが後退する。足音が揃っている。訓練された撤退。
——その途中で、一人が“見えなくなった”。
足音が消えたのではない。闇の密度が上がって、視界と距離感だけが歪む。すぐ隣にいたはずの部下の輪郭が、ひとつだけ消える。
《REGALIA PT》
「クリス?」
返事が来ない。
返事が返せないのか、返事が届かないのか、判別できない。
代わりに——空気が変わった。
重くなった。呼吸するのに力がいる空気。肺が縮む。身体が重い。これは魔法の効果ではない。もっと根本的な何か。空間そのものが、「ここにいるな」と言っている。
ASTERの部下の一人が——膝をついた。
強い人間が、強いまま膝をつく気配。
「……っ」
声にならない声が漏れた。恐怖ではない。もっと深いところにある何か。
理解の崩壊。
自分が強いと知っている。自分の装備が一流だと知っている。自分のギルドがこのゲームの頂点だと知っている。——それなのに、今、膝をついている。
敵が見えない。攻撃が見えない。魔法が見えない。何もかもが見えないのに、膝が折れている。
「なんだこれは」
もう一人が崩れた。声は途中で欠けた。
「なんなんだこれは——」
闇の中で、ASTERだけが立っていた。
白銀の鎧が、闇の中で小さく光っている。彼の周囲だけ、まだ空気が保たれている。
彼は剣を抜いた。
抜いた剣を構えた。正眼。教科書通りの構え。美しい構え。一分の隙もない構え。
そのまま——三秒。
闇の中で、何かが動いた。
ASTERの前を——「何か」が通り過ぎた。
風ではない。風より重い。風より冷たい。
剣が——弾かれた。
弾かれた、のではない。剣が、「意味を失った」。構えていたはずの剣が、構えている理由を失ったように、手から力が抜けた。
ASTERは剣を落とさなかった。落とさなかったが——構えを解いた。
自分で解いた。
「……」
沈黙が、剣より重かった。
ASTER——このゲームのトップギルドの総帥が、構えを解いた。それは敗北ではない。降伏でもない。
もっと手前にある何か。
「格が違う」と自分が言う側だった人間が、初めて——自分に向かってその言葉が飛んでくる体験をしている。
闇が、少しだけ薄くなった。
殺していない。
誰も死んでいない。装備も失っていない。
ただ——折られている。
折られたのは身体でも装備でもなく、確信だ。
自分が最強であるという確信。自分がこの世界を理解しているという確信。自分の剣が届かないものはないという確信。
その全部が、三秒で折られた。
闇の底で、ASTERの唇が動いた。
「……あれは、勝利ではない」
誰にも聞こえない声だった。
「無効化だ」
---
朝、草原は何事もなかった顔をしていた。
朝露が光っている。空が白い。鳥が鳴いている。風が草を撫でている。
完璧な平和。いつもの朝。
YUは身体を起こした。
——眠れた。
安堵が先に来て、それから遅れて、怖さが来た。
草原の端に、《REGALIA》の数人が立っていた。装備はある。命もある。でも立ち方が昨日と違う。
重心が崩れている。目が遠い。
ASTERは、少し離れた場所に立っていた。剣は鞘に収まっている。外套に汚れはない。傷もない。
でも——表情が違った。
昨日の「面白い」はもうなかった。代わりにあるのは、深い水の底を覗いた後の顔。底が見えなかった時の顔。
YUと目が合った。
ASTERは何も言わなかった。しばらく沈黙のまま。
それから、静かに言った。
「……君は、本当に寝ていただけなのか」
(寝てただけだよ)
言いたい。心から言いたい。でも、もうその台詞を信じてもらえないことは分かっていた。信じてもらえないのに、事実だから言うしかない。
「……はい。寝てただけです」
ASTERは、ほんの一瞬だけ、何かを言いかけた。
言いかけて——飲み込んだ。
飲み込んだものが何だったのか、YUには分からなかった。
《REGALIA》の列が、門へ向かって動き始めた。静かな撤退。昨日来た時と同じ密度の足音。でも、音の質が違う。昨日は「確認しに来た」足音。今日は「持ち帰る」足音。
列の端に——黒い外套の人影が見えた。
昨日、宿屋の前で見た人影。フードを被っている。《REGALIA》の白銀とは違う色。
列に混じりながら、門へ向かっている。
その人影が——振り返った。
一瞬だけ。
フードの下から、こちらを見た。
顔は見えない。遠すぎる。でも——視線だけが、距離を無視して届いた。
あの視線。
昨日と同じ。何かを確認するような。何かを心配するような。
(……誰だ)
問いかける前に、人影は門の向こうへ消えた。
胸に引っかかりが残った。昨日より少しだけ大きい引っかかり。
でも——考えない。考えると壊れる。
棚に上げる。社畜の生存戦略だ。
---
初期村に戻ると、広場の空気が変わっていた。
露店の声は小さい。「聖地マップ」を売る手が止まっている。「記録がありません」の旗を畳んでいる店もある。
祭りが、戒厳に変わりかけている。
《REGALIA》の視察の結果が、もう広まっているのだろう。トップギルドが「確認」に来て、トップギルドが「持ち帰った」。その事実だけで、空気は変わる。
ORACLEが、静かに立っていた。メモ帳を閉じている。
YUが近づくと、深く頭を下げた。
「おはようございます」
今日は「YU様」とは言わなかった。いつもより声が低い。
「《REGALIA》は——運営に報告する意向のようです」
運営。
その単語が出た瞬間、ORACLEの目が、かすかに細まった。
「公式が動きます」
公式が動く。
その言葉の重さが、遅れて来た。
今まで来たのは、プレイヤーだった。PK。徴収ギルド。トップギルド。全部、プレイヤー同士の話だった。
でも「運営」は違う。運営は、ゲームそのものだ。世界を作った側だ。
世界を作った側が、自分を「見る」。
(……僕、何かした?)
何もしていない。寝ているだけだ。
寝ているだけなのに——世界を作った側が、動く。
RAMPARTが、広場の端に立っていた。盾を背負って、腕を組んでいる。
目が合った。小さく頷いた。何も言わなかった。
今日も、その「何も言わない」が、いちばんありがたかった。
---
> 【速報】《REGALIA》が草原に入った結果
>
> 1:名無しの旅人
> 昨夜、《REGALIA》が草原に入った。ASTER本人も来てた。ガチ。
>
> 7:名無しの盾
> で、結果は?
>
> 10:名無しの旅人
> 帰ってきた。全員。
>
> 13:名無しの槍
> 全員帰ってきたの? 今までと違うじゃん
>
> 16:名無しの旅人
> 帰ってきたけど、顔が死んでる。見たことないぞ、ASTERがあんな顔してるの。
>
> 22:名無しの弓
> 戦闘ログは?
>
> 24:名無しの旅人
> 「記録がありません」
>
> 27:名無しの僧
> 知ってた。
>
> 31:名無しの魔
> でも今回は殺されてないんだよな? 装備も残ってる?
>
> 34:名無しの旅人
> 残ってる。何も失ってない。でも、何かが"折れた"って感じの顔してた。
>
> 41:名無しの弓
> ASTERが剣を構えた、って証言がある。構えて——戻した。自分で戻した。「無効化された」って呟いてたらしい。
>
> 51:名無しの槍
> PKは消えた。徴収は剥がされた。《REGALIA》は折られた。全部パターンが違う。相手に合わせてるのか?
>
> 55:名無しの旅人
> それがいちばん怖い。
>
> 59:名無しの盾
> で、昼のYUは?
>
> 62:名無しの旅人
> 普通。いつも通り。「寝てただけです」って言ってた。
>
> 74:名無しの旅人
> 運営にログ調査を要請するらしい。公式が動くぞ。
>
> 83:名無しの魔
> 草原の王は?
>
> 85:名無しの槍
> 明日も寝てるよ。
眠りたいだけなのに、世界が勝手に形を変えていく。
PKが来た。消えた。
金の連中が来た。剥がされた。
トップギルドが来た。折られた。
次は——公式が来る。
YUは何もしていない。寝ているだけだ。
それでも、草原の「夜」だけが、来る者の格に合わせて、静かに、正確に、世界を書き換えていく。
そして今日も、眠れる場所は草原しかない。




