PKが来た
昨日、鬼塚の「午前中な」は、午前中で終わらなかった。
二十三個の修正は、二十三個の「念のため」を孕んでいた。直せば直すほど別の赤が出る。赤を消すたびに、見えなかった赤が浮く。終わる気配がない。終わる気配がないのに、定時は来る。定時は来るだけで、何もしない。誰も助けない。
結局その日は夜まで粘って、日付が変わる頃に帰宅した。床に座り込んで、ギアを被って、草原で眠って——そして翌朝、何事もなかったように会社へ戻った。
人間は、こうやって壊れるんだと思う。壊れた本人だけが、壊れていることを知らない。壊れているのに朝が来て、壊れているのに電車に乗って、壊れているのに「おはようございます」と言える。その「言える」が、壊れている証拠だと気づく頃には、もう戻れない場所にいる。
朝会の十分前。鬼塚のチャットが鳴った。
「昨日のやつ、見せて」
"見せて"は、優しい言葉だ。命令形ではない。疑問形でもない。ただの依頼。断る余地がある——ように見えて、ない。優しい言葉ほど逃げ道がない。パワハラは怒鳴り声より丁寧語のほうが上手くできている。
悠は頷いて、画面を開いて、修正を説明した。鬼塚は頷いた。頷いて、一拍置いて、言った。
「念のため、ここも」
念のため。
三日連続の念のため。念のためは永久機関だ。燃料がなくても回り続ける。回り続ける限り、自分も回らなければならない。歯車として。歯車は自分では止まれない。
昼が過ぎた。夕方が過ぎた。窓の外が暗くなった。蛍光灯だけが変わらない明るさで頭上に貼りついている。
隣の席の同期が帰った。向かいの先輩が帰った。フロアが静かになる。静かになるほど、鬼塚のキーボードの音が近くなる。
「相沢」
「はい」
「これ終わったら上がっていいよ」
"上がっていいよ"は、許可の形をした命令だ。「終わったら」が条件節で、「上がっていい」が結論。条件を満たさなければ結論は発動しない。つまり「終わるまで帰るな」の丁寧語。
日本語は、どこまでも優しく人を殺せるようにできている。
終わったのは二十二時だった。鬼塚はまだいた。この人はいつ帰るのだろう。いつ寝るのだろう。寝なくても生きていけるのだろうか。もしかして、この人も壊れているのかもしれない。壊れていることに気づかないまま、部下を壊し続けているのかもしれない。
そう考えたら、一瞬だけ、鬼塚が可哀想に見えた。
一瞬だけだ。
帰宅。コンビニ。おにぎり二個。食べる気力がないから一個だけ食べて、もう一個は冷蔵庫に入れた。明日の自分への贈り物だ。明日の自分は、今日の自分より少しだけマシであってほしい。そうでなければ、おにぎりを冷蔵庫に入れる行為に意味がない。
ギアを被る。
眠りたい。
ただ、それだけだ。
---
視界が暗転して、次に開けた時、草原は朝だった。
ネオスフィアの時間は現実より早い。だから、ここではいつも「朝」から始まる。現実の自分がどれだけ擦り切れていても、ここの空だけは白くなる。ここの鳥だけは鳴く。ここの草だけは揺れる。
現実と同じ「朝」のはずなのに、全然違う。
現実の朝は、アラームが殴ってくる。ネオスフィアの朝は、風が撫でてくる。その差だけで、生きていたいかどうかが変わる。
YUは身体を起こした。
——眠れた。
三日連続。ここで眠りに落ちて、ここで目が覚める。それだけのことが、こんなに貴重だなんて、一週間前の自分には想像もつかなかっただろう。
風が冷たい。草が揺れる。
そして今日は、静かじゃなかった。
草原の端。丘の陰。森の影。人影が増えている。昨日より多い。輪が大きい。距離が近い。物見遊山の空気。昨日の"下見"が消えた噂が、また新しい人を連れてきたのだろう。
人は怖いもの見たさで集まる。それは現実でもゲームでも同じだ。交通事故の現場でスマホを構える人と、草原の端で覗き込んでいる人は、たぶん同じ種類の人間だ。
YUは立ち上がって、背中の草を払った。
インベントリは——開いた。開きたくないのに、開いてしまった。確認せずにはいられない。怖いのに見る。ホラー映画で目を覆いながら指の隙間から覗くのと同じだ。
増えていた。
金属片。宝石。見覚えのない紋章。昨日と同じ種類の、説明のつかない素材。
そして——黒い布の切れ端。
装備の一部だろうか。誰かの鎧か、コートか、マントの端。引き裂かれたような不規則な断面。
これは——
初心者サポートじゃない。
そう思った。思って、すぐに蓋をした。
(……落とし物だろ)
落とし物。フィールドに落ちていたものを自動で拾う機能があるのだろう。きっとそうだ。そうに決まっている。
でも——「引き裂かれた断面」の落とし物を、誰が喜んで拾う?
考えるな。考えるな。考えると壊れる。現実でも考えすぎて壊れかけている。これ以上、壊れる要素を増やしてどうする。
YUはインベントリを閉じた。閉じる速度が、昨日より速かった。
休息記録の通知も、もう見慣れた。
```
System Notice:
Resting record could not be retrieved.
Data partially corrupted.
```
三日連続。同じ文面。同じエラー。
ベータ版のバグ——と思い続けるには、三回は多い。でも、三回を「偶然」と呼べなくなった瞬間に何が始まるのか、悠には分からなかった。分からないことは棚に上げる。社畜の生存戦略だ。
---
初期村の門が見えたところで、別の音が混じった。
笑い声。荒い笑い声。人を値踏みする笑い声。
広場の端に、黒い装備の集団が陣取っていた。昨日の先遣とは比べものにならない人数。十五人、いや二十人近い。鎧が黒い。武器が赤い。傷の入り方が揃っていて、わざと"荒れ"を演出しているのが分かる。不良が制服を着崩すのと同じだ。見せるための乱暴さ。
PKギルド《REDJACKS》。
昨日の掲示板で名前を見た。配信で「草原に行く」と言っていた集団。下見で消えた仲間がいるのに、本隊で来た。
怒っているのか。面白がっているのか。たぶん両方だ。怒りと好奇心が混ざると、人は一番厄介になる。
誰かが、こちらを指差した。
「来た来た。二文字のやつ」
「寝てるだけの王」
(王って言うな)
白いローブ——ORACLEもいた。昨日と同じ位置。昨日と同じ穏やかさ。だが、その周囲に増えている人間の数が穏やかではなかった。腕章をつけたプレイヤーが十人以上。色が統一されている。並び方に規則がある。
組織になりかけている。
ORACLEが静かに頭を下げた。
「おはようございます、YU様」
(様はやめてって言ったのに)
言い返す前に、黒い装備の先頭が前に出た。背が高い。鎧の胸に赤い牙の紋章。ギルドの印だろう。
声が大きい。笑い方が、飲み会の上座の人と同じだ。自信があって、自分が面白いと思っているやつ。
「よぉ。お前が"寝てただけの王"か」
声が広場に響く。静かになる。全員がこちらを見る。
「昨日、下見で消えたやつがいるんだわ。三人。配信も止まった。ログも取れねぇ。で、今朝の噂だ」
一拍。間を取る。演出だ。配信者慣れしている。
「——お前がやったって」
(やってない)
言いたい。言いたいが、言えば変換される。ORACLEのメモ帳に追加される。「"やってない"——つまり、自覚なき裁定……」みたいなことを書かれる。もう学習した。何を言っても神託にされる。沈黙だけが安全だ。
でも沈黙は、肯定に見える。
会社でもそうだ。黙っていると「認めた」ことになる。否定しても「言い訳」になる。どちらを選んでも負ける。負ける二択しかない。
「……僕、寝るだけなんで」
結局、いつもの台詞が出た。四回目。もう持ち歌みたいなものだ。
笑い声が返ってくる。《REDJACKS》の全員が笑っている。示し合わせたように。
「寝るだけ、ねぇ」
先頭が顎を上げた。目が笑っていない。口だけ笑って、目で値踏みしている。
「だったら起きてる間に確認させろよ。ほんとに何もしねぇのか」
黒い装備の一人が、地面に小さな杭を打った。杭の周りに薄い線が走る。結界のような光。円形。直径は三メートルほど。
「ほら。ここから出てみろよ」
罠だ、と直感した。
ゲームの仕組みは分からない。PvPのルールも分からない。結界が何を意味するのかも分からない。でも、悪意の形だけは分かる。現実と同じだ。笑いながら追い詰めるのは、いじめの基本形式だ。
YUは一歩下がった。
「……無理です」
「無理? なんで?」
「寝に来ただけだから」
言った瞬間——背後の空気が動いた。
"見守り"のプレイヤーたちが、ざわ、と揺れた。昨日までの揺れは「神託だ」という興奮だった。今日の揺れは——怒りだ。
ORACLEが、静かに目を閉じた。
唇だけが動く。
「"寝に来ただけ"」
その言葉を、舌の上で転がしている。
「眠りに来た者が、眠ることすら許されない。——これは」
目を開けた。マグマの光が、一段強い。
「——"侵害"です」
変換された。
だが今日の変換は、今までと温度が違った。「苦役を拒め」は教義だった。「侵害」は——告発だ。
周囲の腕章たちが、一斉にPK集団のほうを向いた。
空気が張り詰める。
黒い装備の先頭が面白がるように笑った。
「ほらな。信者までいる。お前、何者だよ」
"何者"。
その言葉が、胸の奥に刺さった。深く。静かに。音もなく。
自分は何者でもない。
社畜。不眠。下っ端社員。返事だけが得意。修正を二十三個直す歯車。念のためを無限に回す装置。朝が来れば「おはようございます」と言えてしまう壊れた人間。
何者かに、なりたかったことすらない。
ただ——眠りたかっただけだ。
「……何者でもないです」
声が薄かった。限界のときの声だ。感情が抜け落ちる声。丁寧なのに冷たい声。会社で、本当に追い詰められたときに出る声。
黒い装備の一人が、剣を抜いた。
金属音が短く鳴る。鞘走りの音。わざとゆっくり抜いている。見せるための暴力。音で脅すための暴力。
「じゃあ試すわ」
剣が持ち上がった。
次の瞬間——
金属音。
盾が、前に出た。
YUとPKの間に、誰かが立っていた。
大きな盾。身体の半分を覆うほどの金属盾。整った鎧。黒い集団の傷だらけの装備とは対極の、手入れの行き届いた銀色。
盾の男は、YUに背を向けて立っていた。壁のように。
頭上の名前表示が見える。
`RAMPART`
盾の男は、短く言った。
「通さない」
声が低い。太い。でも怒鳴っていない。怒鳴る必要がない声だ。「通さない」は意思表示ではなく、物理法則の宣言に聞こえた。
空気が変わった。
広場の温度が一瞬で下がった。
黒い装備の先頭は笑っていた。笑っていたが——目が、一瞬だけ揺れた。
「おいおい。本人は寝るだけって言ってんだろ。止めんなよ」
RAMPARTは動かない。
「寝るなら、寝かせろ」
短い。それだけで十分だった。
YUは、RAMPARTの背中を見ていた。
大きい。鎧越しでも分かるほど肩幅が広い。盾を構える腕が太い。立ち方に迷いがない。重心が低くて、風が吹いても動かないような立ち方。
守られている。
その事実が——怖かった。
守られると、期待される。期待されると、応えなければならない。応えられなければ、裏切りになる。
会社でもそうだった。最初に「任せるよ」と言われた時は嬉しかった。任されるということは信頼されているということだ。でも「任せる」は「責任を渡す」の丁寧語だった。信頼ではなく、重荷の移動だった。
守ってもらうのも、きっと同じだ。
いつか「守ったのに」と言われる。「守ったのに、何もしてくれなかった」と言われる。
(守らなくていいのに)
(僕は、寝てるだけなのに)
黒い集団の先頭が舌打ちした。大きな舌打ち。聞かせるための舌打ち。
「わかったよ。じゃあ今夜だ」
腕を組み直す。
「今夜、草原で"確認"してやる。本隊、全部連れてくる。配信もする」
視線がYUを射抜く。
「逃げんなよ」
逃げる、という言葉に、身体が小さく震えた。
逃げたい。本当に逃げたい。
でも——逃げる場所がない。
ネオスフィアに来た理由は、逃げるためじゃない。眠るためだ。そして眠れる場所は、あの草原しかない。
《REDJACKS》が去っていく。足音が荒い。武器が揺れる金属音が遠ざかる。
広場が静かになった。
RAMPARTが振り返った。
「……気にするな」
低い声。今度は、さっきより少しだけ柔らかい。
YUは何と返せばいいか分からなくて、ただ頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
RAMPARTは少しだけ間を置いて言った。
「礼はいい。——今夜も、寝るんだろ」
言い方が、確認ではなかった。確信だった。
「……はい」
「なら、寝ろ。あとは気にするな」
それだけ言って、RAMPARTは背を向けた。
大きな背中。銀色の鎧。傷はないが使い込まれた光沢。
その背中を見送りながら、YUの中で二つの感情が混ざった。
安心と、恐怖。
守られる安心。守られることの恐怖。
どちらが正しいのか分からないまま、YUは宿屋へ向かった。
ORACLEが、RAMPARTの背中を見つめていた。メモ帳が開いている。ペンが動いている。
何を書いているのか、YUには分からなかった。
---
夕方、空が紫に沈み始めた頃、草原はもう人で埋まっていた。
輪が二重になっている。外側は野次馬。内側は"見守り"。そのさらに内側に、RAMPARTが立っていた。一人で。盾を地面に突き立てて、仁王立ち。
その隙間に、黒い装備が点々と混じる。《REDJACKS》本隊。数が多い。二十人以上。もしかしたら三十人。
配信の光が揺れている。空に浮かぶ小さなウィンドウ。コメントが流れる。
「草原の王」
「記録がありません」
「今夜こそ見える?」
「配信者生きて帰れよ」
文字が、現実のチャットより軽くて、現実より刺さる。
YUは輪の中心へ歩いた。歩きたくないのに、足が勝手にそこへ向かう。
ここで寝ないと、明日の自分が壊れる。壊れるから、寝る。寝るしかない。
昨日と同じ場所。草の感触。風の匂い。同じなのに、空気だけが違う。
黒い装備の先頭——《REDJACKS》のリーダーが、少し離れたところで腕を組んでいた。
「ほんとに寝るんだな」
声が笑っている。でも昼間より笑いが薄い。仲間が消えた夜を、これから繰り返すかもしれないのだ。怖くないはずがない。怖いのに来ている。プライドか、意地か、怒りか。
「起きてる間に何もしねぇなら、寝てる間に確かめるしかねぇ」
RAMPARTが、輪の内側で盾を構え直した。声は出さない。ただ、立っている。
ORACLEが膝をついた。祈るように手を組む。
「……神の夜が来る」
(来ないでほしい)
YUは横になった。
草が冷たい。背中に地面の硬さ。ここは包んでこない。だから楽だ。布団の柔らかさは眠れない夜に敵になるが、草原の硬さは味方だ。
目を閉じる。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
迷わない。
```
Resting...
```
意識が沈み始める。
遠くの声が薄れていく。鬼塚の「念のため」。ORACLEの「神託です」。《REDJACKS》の笑い声。RAMPARTの「気にするな」。
全部、沈む。
全部、遠くなる。
意識の底に、静寂がある。ここには誰もいない。上司もいない。信者もいない。PKもいない。盾の男もいない。ただ暗くて、静かで、何も要求されない場所。
——ここでいい。
ここだけでいい。
YUのアバターが、草原の上で静かに動きを止めた。
輪の外側から、ざっと息を呑む音がした。
風が止んだ。
草のざわめきが消えた。
空が——暗転した。
一瞬で、世界から音が消えた。
配信のコメントが止まった。映像が止まった。
《REDJACKS》のリーダーが、笑うのをやめた。
「……おい」
声が出ている。まだ声が出ている。
「おい。音が——」
隣の仲間に声をかけた。返事がなかった。
「おい!」
振り返った。仲間がいない。さっきまで隣にいたはずの黒い鎧がいない。
「冗談だろ……」
足元を見た。草が揺れていない。風がないのに、草が完全に静止している。
「おい! 誰か! 画面が——」
叫んだ。叫んだはずだ。でも、声が自分の耳に届かない。
暗闇の中で——何かが、動いた。
見えない。形がない。ただ、空気の密度が変わった。重くなった。呼吸するのに力がいる空気。
リーダーは剣を構えた。構える手が震えていた。
配信は止まっている。コメント欄は凍っている。視聴者は、黒い画面を見つめている。
闇の中で、最後に聞こえたのは、リーダーの声だった。
「……記録、残してくれよ」
---
朝、草原は何事もなかった顔をしていた。
朝露が光っている。空が白い。鳥が鳴いている。風が草を撫でている。
平和だ。完璧な平和。昨日と同じ朝。
YUは身体を起こした。
——眠れた。
頭が軽い。胸の焦げつきが薄い。鬼塚の声が遠い。「念のため」が、一枚膜を隔てた向こう側にある。
ここで眠りに落ちて、ここで目が覚める。
(今日も、眠れた)
その安堵がまず来て——それから、遅れて、怖さが来た。
輪がない。
あれだけいた人間が、いない。
いや——いる。草原の端に、数人だけが立っている。
顔色が悪い。立ち方が崩れている。装備がない——昨日まで鎧を着ていたはずなのに、布の下着だけになっている。装備を全部失ったのだ。
そのうちの一人が、こちらを見た瞬間——膝から崩れ落ちた。
「……生きてる」
声が掠れている。誰に言っているのか分からない。自分に言っているのか。YUに言っているのか。空に言っているのか。
YUは立ち上がった。
草を払う。いつものように。でも手が少しだけ震えていた。
インベントリを開く。
増えていた。
金属片。宝石。見覚えのない紋章。
そして——黒い布の切れ端。
昨日の朝にもあった、引き裂かれた断面の布。今日はそれが、さらに増えていた。数えるのをやめた。数えたら、何かが確定してしまう気がした。
(……落とし物)
自分に言い聞かせた。落とし物だ。フィールドに落ちていたものを自動で拾う機能。そういう仕様。
でも——引き裂かれた布を、誰が落とす?
思考が、その先に進もうとした。進もうとして——止まった。
止めた。自分で止めた。
考えたら壊れる。現実でも、考えすぎて壊れかけている。これ以上壊れる場所がない。壊れる余裕がない。
YUはインベントリを閉じた。
休息記録の通知が、画面の端に出ている。
```
System Notice:
Resting record could not be retrieved.
Data partially corrupted.
```
まただ。
もう、「バグ」とは思えなかった。
思えなかったが——じゃあ何なのかを考える力が、今の悠にはなかった。考える力は、全部会社に持っていかれている。残りカスで生きている。残りカスでゲームをして、残りカスで眠って、残りカスで朝を迎えている。
だから。
棚に上げる。
社畜の生存戦略だ。
---
初期村に戻ると、広場は昨日より静かだった。
静かなのに、人は多い。熱がない。代わりに、ひんやりした恐怖が空気に溶けている。
誰もが小声で話している。目が泳いでいる。
ORACLEが駆け寄ってきた。顔色が白い。昨日までの穏やかさが、一段深いものに変わっている。底が見えない井戸を覗き込んだ後の顔。
「……お戻りになった」
言い方が、帰宅ではなく帰還だった。日常の挨拶ではなく、生還者への言葉だった。
「昨夜、草原に入った者の多くが……戻っていません」
YUは何も言えなかった。
知らない。本当に知らない。寝ていた。寝ていただけだ。
でも「知らない」と言えば——ORACLEはきっとこう変換する。「"知らない"——つまり、無自覚の裁定」と。何を言っても教義になる。言葉が自分のものでなくなる。
だから黙った。
広場の端で、誰かが怒鳴っていた。喉が焼けた声。泣いているのか怒っているのか分からない声。
ORACLEは、その方向に耳を向けた。
しばらく聞いていた。
そして、こちらを振り返った。
「……今、"報酬"と"契約"という言葉が聞こえました」
淡々とした声だった。淡々としているのに、怖い。
「昨夜の襲撃者たちは、自発的に来たのではなかったようです。"別の力"が、背後にある」
ORACLEの目が、深くなった。
「つまり——」
来る、と思った。変換が来る。
「——"試練は、まだ続く"」
来た。
今日の変換は、飛距離が大きかった。「報酬」と「契約」から「試練は続く」まで、原文の面影がない。ORACLEの脳内で何が起きているのか、YUにはもう追えなかった。
ORACLEはメモ帳を開いた。ペンが走る。今日も一行増えた。教典が厚くなっていく。自分の知らないところで、自分を素材にした聖書が書かれている。
RAMPARTが、広場の反対側に立っていた。
昨夜の戦闘に巻き込まれたのか、鎧に小さな傷がついていた。でも立っている。盾を背負って、腕を組んで、何事もなかったように立っている。
目が合った。
RAMPARTは小さく頷いた。何も言わなかった。
その「何も言わない」が、今は一番ありがたかった。
---
> 【速報】PK本隊《REDJACKS》、草原で壊滅
>
> 1:名無しの旅人
> 昨夜、本隊が突入した。配信もしてた。暗転→音消失→コメント凍結→配信途切れる。いつものパターン。
>
> 9:名無しの盾
> 戻ってきたやつが五人いる。全員、装備ロスト。全員震えてる。「見えなかった」って繰り返してる。
>
> 14:名無しの槍
> 戦闘ログは?
>
> 16:名無しの旅人
> 「記録がありません」
>
> 19:名無しの僧
> もうそれ定型文じゃん。草原の合言葉。
>
> 25:名無しの魔
> で、何が起きたの? 三十人近く入って、五人しか帰ってきてないんだろ?
>
> 31:名無しの旅人
> 分からん。ただ、入った人数だけ減った。残った五人に聞いても「分からない」しか言わない。
>
> 38:名無しの弓
> 配信のアーカイブ見た。暗転の直前、黒いコートみたいなシルエットが“見えた気がする”。スクショしようとしたけど、うまく撮れなかった。
>
> 52:名無しの弓
> いや、噂だけど——金で動いてたって話がある。誰かに"雇われた"んじゃないかって。
>
> 67:名無しの旅人
> PKが消えた。次は"金の連中"が来るぞ。
>
> 74:名無しの盾
> 草原の王はどうするんだ。
>
> 76:名無しの旅人
> どうもしないだろ。寝てるんだから。
その夜も、YUは草原へ行くだろう。
眠るために。
そして次は、PKより厄介な連中が来る。剣ではなく金で動く、もっと静かで、もっと根深い敵が。
YUは何もしていない。
寝ているだけだ。
なのに——世界だけが、どんどん大きくなっていく。




