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3/19

PKが来た


昨日、鬼塚の「午前中な」は、午前中で終わらなかった。


二十三個の修正は、二十三個の「念のため」を孕んでいた。直せば直すほど別の赤が出る。赤を消すたびに、見えなかった赤が浮く。終わる気配がない。終わる気配がないのに、定時は来る。定時は来るだけで、何もしない。誰も助けない。


結局その日は夜まで粘って、日付が変わる頃に帰宅した。床に座り込んで、ギアを被って、草原で眠って——そして翌朝、何事もなかったように会社へ戻った。


人間は、こうやって壊れるんだと思う。壊れた本人だけが、壊れていることを知らない。壊れているのに朝が来て、壊れているのに電車に乗って、壊れているのに「おはようございます」と言える。その「言える」が、壊れている証拠だと気づく頃には、もう戻れない場所にいる。


朝会の十分前。鬼塚のチャットが鳴った。


「昨日のやつ、見せて」


"見せて"は、優しい言葉だ。命令形ではない。疑問形でもない。ただの依頼。断る余地がある——ように見えて、ない。優しい言葉ほど逃げ道がない。パワハラは怒鳴り声より丁寧語のほうが上手くできている。


悠は頷いて、画面を開いて、修正を説明した。鬼塚は頷いた。頷いて、一拍置いて、言った。


「念のため、ここも」


念のため。


三日連続の念のため。念のためは永久機関だ。燃料がなくても回り続ける。回り続ける限り、自分も回らなければならない。歯車として。歯車は自分では止まれない。


昼が過ぎた。夕方が過ぎた。窓の外が暗くなった。蛍光灯だけが変わらない明るさで頭上に貼りついている。


隣の席の同期が帰った。向かいの先輩が帰った。フロアが静かになる。静かになるほど、鬼塚のキーボードの音が近くなる。


「相沢」


「はい」


「これ終わったら上がっていいよ」


"上がっていいよ"は、許可の形をした命令だ。「終わったら」が条件節で、「上がっていい」が結論。条件を満たさなければ結論は発動しない。つまり「終わるまで帰るな」の丁寧語。


日本語は、どこまでも優しく人を殺せるようにできている。


終わったのは二十二時だった。鬼塚はまだいた。この人はいつ帰るのだろう。いつ寝るのだろう。寝なくても生きていけるのだろうか。もしかして、この人も壊れているのかもしれない。壊れていることに気づかないまま、部下を壊し続けているのかもしれない。


そう考えたら、一瞬だけ、鬼塚が可哀想に見えた。


一瞬だけだ。


帰宅。コンビニ。おにぎり二個。食べる気力がないから一個だけ食べて、もう一個は冷蔵庫に入れた。明日の自分への贈り物だ。明日の自分は、今日の自分より少しだけマシであってほしい。そうでなければ、おにぎりを冷蔵庫に入れる行為に意味がない。


ギアを被る。


眠りたい。


ただ、それだけだ。


---


視界が暗転して、次に開けた時、草原は朝だった。


ネオスフィアの時間は現実より早い。だから、ここではいつも「朝」から始まる。現実の自分がどれだけ擦り切れていても、ここの空だけは白くなる。ここの鳥だけは鳴く。ここの草だけは揺れる。


現実と同じ「朝」のはずなのに、全然違う。


現実の朝は、アラームが殴ってくる。ネオスフィアの朝は、風が撫でてくる。その差だけで、生きていたいかどうかが変わる。


YUは身体を起こした。


——眠れた。


三日連続。ここで眠りに落ちて、ここで目が覚める。それだけのことが、こんなに貴重だなんて、一週間前の自分には想像もつかなかっただろう。


風が冷たい。草が揺れる。


そして今日は、静かじゃなかった。


草原の端。丘の陰。森の影。人影が増えている。昨日より多い。輪が大きい。距離が近い。物見遊山の空気。昨日の"下見"が消えた噂が、また新しい人を連れてきたのだろう。


人は怖いもの見たさで集まる。それは現実でもゲームでも同じだ。交通事故の現場でスマホを構える人と、草原の端で覗き込んでいる人は、たぶん同じ種類の人間だ。


YUは立ち上がって、背中の草を払った。


インベントリは——開いた。開きたくないのに、開いてしまった。確認せずにはいられない。怖いのに見る。ホラー映画で目を覆いながら指の隙間から覗くのと同じだ。


増えていた。


金属片。宝石。見覚えのない紋章。昨日と同じ種類の、説明のつかない素材。


そして——黒い布の切れ端。


装備の一部だろうか。誰かの鎧か、コートか、マントの端。引き裂かれたような不規則な断面。


これは——


初心者サポートじゃない。


そう思った。思って、すぐに蓋をした。


(……落とし物だろ)


落とし物。フィールドに落ちていたものを自動で拾う機能があるのだろう。きっとそうだ。そうに決まっている。


でも——「引き裂かれた断面」の落とし物を、誰が喜んで拾う?


考えるな。考えるな。考えると壊れる。現実でも考えすぎて壊れかけている。これ以上、壊れる要素を増やしてどうする。


YUはインベントリを閉じた。閉じる速度が、昨日より速かった。


休息記録の通知も、もう見慣れた。


```

System Notice:

Resting record could not be retrieved.

Data partially corrupted.

```


三日連続。同じ文面。同じエラー。


ベータ版のバグ——と思い続けるには、三回は多い。でも、三回を「偶然」と呼べなくなった瞬間に何が始まるのか、悠には分からなかった。分からないことは棚に上げる。社畜の生存戦略だ。


---


初期村の門が見えたところで、別の音が混じった。


笑い声。荒い笑い声。人を値踏みする笑い声。


広場の端に、黒い装備の集団が陣取っていた。昨日の先遣とは比べものにならない人数。十五人、いや二十人近い。鎧が黒い。武器が赤い。傷の入り方が揃っていて、わざと"荒れ"を演出しているのが分かる。不良が制服を着崩すのと同じだ。見せるための乱暴さ。


PKギルド《REDJACKS》。


昨日の掲示板で名前を見た。配信で「草原に行く」と言っていた集団。下見で消えた仲間がいるのに、本隊で来た。


怒っているのか。面白がっているのか。たぶん両方だ。怒りと好奇心が混ざると、人は一番厄介になる。


誰かが、こちらを指差した。


「来た来た。二文字のやつ」


「寝てるだけの王」


(王って言うな)


白いローブ——ORACLEもいた。昨日と同じ位置。昨日と同じ穏やかさ。だが、その周囲に増えている人間の数が穏やかではなかった。腕章をつけたプレイヤーが十人以上。色が統一されている。並び方に規則がある。


組織になりかけている。


ORACLEが静かに頭を下げた。


「おはようございます、YU様」


(様はやめてって言ったのに)


言い返す前に、黒い装備の先頭が前に出た。背が高い。鎧の胸に赤い牙の紋章。ギルドの印だろう。


声が大きい。笑い方が、飲み会の上座の人と同じだ。自信があって、自分が面白いと思っているやつ。


「よぉ。お前が"寝てただけの王"か」


声が広場に響く。静かになる。全員がこちらを見る。


「昨日、下見で消えたやつがいるんだわ。三人。配信も止まった。ログも取れねぇ。で、今朝の噂だ」


一拍。間を取る。演出だ。配信者慣れしている。


「——お前がやったって」


(やってない)


言いたい。言いたいが、言えば変換される。ORACLEのメモ帳に追加される。「"やってない"——つまり、自覚なき裁定……」みたいなことを書かれる。もう学習した。何を言っても神託にされる。沈黙だけが安全だ。


でも沈黙は、肯定に見える。


会社でもそうだ。黙っていると「認めた」ことになる。否定しても「言い訳」になる。どちらを選んでも負ける。負ける二択しかない。


「……僕、寝るだけなんで」


結局、いつもの台詞が出た。四回目。もう持ち歌みたいなものだ。


笑い声が返ってくる。《REDJACKS》の全員が笑っている。示し合わせたように。


「寝るだけ、ねぇ」


先頭が顎を上げた。目が笑っていない。口だけ笑って、目で値踏みしている。


「だったら起きてる間に確認させろよ。ほんとに何もしねぇのか」


黒い装備の一人が、地面に小さな杭を打った。杭の周りに薄い線が走る。結界のような光。円形。直径は三メートルほど。


「ほら。ここから出てみろよ」


罠だ、と直感した。


ゲームの仕組みは分からない。PvPのルールも分からない。結界が何を意味するのかも分からない。でも、悪意の形だけは分かる。現実と同じだ。笑いながら追い詰めるのは、いじめの基本形式だ。


YUは一歩下がった。


「……無理です」


「無理? なんで?」


「寝に来ただけだから」


言った瞬間——背後の空気が動いた。


"見守り"のプレイヤーたちが、ざわ、と揺れた。昨日までの揺れは「神託だ」という興奮だった。今日の揺れは——怒りだ。


ORACLEが、静かに目を閉じた。


唇だけが動く。


「"寝に来ただけ"」


その言葉を、舌の上で転がしている。


「眠りに来た者が、眠ることすら許されない。——これは」


目を開けた。マグマの光が、一段強い。


「——"侵害"です」


変換された。


だが今日の変換は、今までと温度が違った。「苦役を拒め」は教義だった。「侵害」は——告発だ。


周囲の腕章たちが、一斉にPK集団のほうを向いた。


空気が張り詰める。


黒い装備の先頭が面白がるように笑った。


「ほらな。信者までいる。お前、何者だよ」


"何者"。


その言葉が、胸の奥に刺さった。深く。静かに。音もなく。


自分は何者でもない。


社畜。不眠。下っ端社員。返事だけが得意。修正を二十三個直す歯車。念のためを無限に回す装置。朝が来れば「おはようございます」と言えてしまう壊れた人間。


何者かに、なりたかったことすらない。


ただ——眠りたかっただけだ。


「……何者でもないです」


声が薄かった。限界のときの声だ。感情が抜け落ちる声。丁寧なのに冷たい声。会社で、本当に追い詰められたときに出る声。


黒い装備の一人が、剣を抜いた。


金属音が短く鳴る。鞘走りの音。わざとゆっくり抜いている。見せるための暴力。音で脅すための暴力。


「じゃあ試すわ」


剣が持ち上がった。


次の瞬間——


金属音。


盾が、前に出た。


YUとPKの間に、誰かが立っていた。


大きな盾。身体の半分を覆うほどの金属盾。整った鎧。黒い集団の傷だらけの装備とは対極の、手入れの行き届いた銀色。


盾の男は、YUに背を向けて立っていた。壁のように。


頭上の名前表示が見える。


`RAMPART`


盾の男は、短く言った。


「通さない」


声が低い。太い。でも怒鳴っていない。怒鳴る必要がない声だ。「通さない」は意思表示ではなく、物理法則の宣言に聞こえた。


空気が変わった。


広場の温度が一瞬で下がった。


黒い装備の先頭は笑っていた。笑っていたが——目が、一瞬だけ揺れた。


「おいおい。本人は寝るだけって言ってんだろ。止めんなよ」


RAMPARTは動かない。


「寝るなら、寝かせろ」


短い。それだけで十分だった。


YUは、RAMPARTの背中を見ていた。


大きい。鎧越しでも分かるほど肩幅が広い。盾を構える腕が太い。立ち方に迷いがない。重心が低くて、風が吹いても動かないような立ち方。


守られている。


その事実が——怖かった。


守られると、期待される。期待されると、応えなければならない。応えられなければ、裏切りになる。


会社でもそうだった。最初に「任せるよ」と言われた時は嬉しかった。任されるということは信頼されているということだ。でも「任せる」は「責任を渡す」の丁寧語だった。信頼ではなく、重荷の移動だった。


守ってもらうのも、きっと同じだ。


いつか「守ったのに」と言われる。「守ったのに、何もしてくれなかった」と言われる。


(守らなくていいのに)


(僕は、寝てるだけなのに)


黒い集団の先頭が舌打ちした。大きな舌打ち。聞かせるための舌打ち。


「わかったよ。じゃあ今夜だ」


腕を組み直す。


「今夜、草原で"確認"してやる。本隊、全部連れてくる。配信もする」


視線がYUを射抜く。


「逃げんなよ」


逃げる、という言葉に、身体が小さく震えた。


逃げたい。本当に逃げたい。


でも——逃げる場所がない。


ネオスフィアに来た理由は、逃げるためじゃない。眠るためだ。そして眠れる場所は、あの草原しかない。


《REDJACKS》が去っていく。足音が荒い。武器が揺れる金属音が遠ざかる。


広場が静かになった。


RAMPARTが振り返った。


「……気にするな」


低い声。今度は、さっきより少しだけ柔らかい。


YUは何と返せばいいか分からなくて、ただ頭を下げた。


「ありがとう、ございます」


RAMPARTは少しだけ間を置いて言った。


「礼はいい。——今夜も、寝るんだろ」


言い方が、確認ではなかった。確信だった。


「……はい」


「なら、寝ろ。あとは気にするな」


それだけ言って、RAMPARTは背を向けた。


大きな背中。銀色の鎧。傷はないが使い込まれた光沢。


その背中を見送りながら、YUの中で二つの感情が混ざった。


安心と、恐怖。


守られる安心。守られることの恐怖。


どちらが正しいのか分からないまま、YUは宿屋へ向かった。


ORACLEが、RAMPARTの背中を見つめていた。メモ帳が開いている。ペンが動いている。


何を書いているのか、YUには分からなかった。


---


夕方、空が紫に沈み始めた頃、草原はもう人で埋まっていた。


輪が二重になっている。外側は野次馬。内側は"見守り"。そのさらに内側に、RAMPARTが立っていた。一人で。盾を地面に突き立てて、仁王立ち。


その隙間に、黒い装備が点々と混じる。《REDJACKS》本隊。数が多い。二十人以上。もしかしたら三十人。


配信の光が揺れている。空に浮かぶ小さなウィンドウ。コメントが流れる。


「草原の王」

「記録がありません」

「今夜こそ見える?」

「配信者生きて帰れよ」


文字が、現実のチャットより軽くて、現実より刺さる。


YUは輪の中心へ歩いた。歩きたくないのに、足が勝手にそこへ向かう。


ここで寝ないと、明日の自分が壊れる。壊れるから、寝る。寝るしかない。


昨日と同じ場所。草の感触。風の匂い。同じなのに、空気だけが違う。


黒い装備の先頭——《REDJACKS》のリーダーが、少し離れたところで腕を組んでいた。


「ほんとに寝るんだな」


声が笑っている。でも昼間より笑いが薄い。仲間が消えた夜を、これから繰り返すかもしれないのだ。怖くないはずがない。怖いのに来ている。プライドか、意地か、怒りか。


「起きてる間に何もしねぇなら、寝てる間に確かめるしかねぇ」


RAMPARTが、輪の内側で盾を構え直した。声は出さない。ただ、立っている。


ORACLEが膝をついた。祈るように手を組む。


「……神の夜が来る」


(来ないでほしい)


YUは横になった。


草が冷たい。背中に地面の硬さ。ここは包んでこない。だから楽だ。布団の柔らかさは眠れない夜に敵になるが、草原の硬さは味方だ。


目を閉じる。


```

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


迷わない。


```

Resting...

```


意識が沈み始める。


遠くの声が薄れていく。鬼塚の「念のため」。ORACLEの「神託です」。《REDJACKS》の笑い声。RAMPARTの「気にするな」。


全部、沈む。


全部、遠くなる。


意識の底に、静寂がある。ここには誰もいない。上司もいない。信者もいない。PKもいない。盾の男もいない。ただ暗くて、静かで、何も要求されない場所。


——ここでいい。


ここだけでいい。


YUのアバターが、草原の上で静かに動きを止めた。


輪の外側から、ざっと息を呑む音がした。


風が止んだ。


草のざわめきが消えた。


空が——暗転した。


一瞬で、世界から音が消えた。


配信のコメントが止まった。映像が止まった。


《REDJACKS》のリーダーが、笑うのをやめた。


「……おい」


声が出ている。まだ声が出ている。


「おい。音が——」


隣の仲間に声をかけた。返事がなかった。


「おい!」


振り返った。仲間がいない。さっきまで隣にいたはずの黒い鎧がいない。


「冗談だろ……」


足元を見た。草が揺れていない。風がないのに、草が完全に静止している。


「おい! 誰か! 画面が——」


叫んだ。叫んだはずだ。でも、声が自分の耳に届かない。


暗闇の中で——何かが、動いた。


見えない。形がない。ただ、空気の密度が変わった。重くなった。呼吸するのに力がいる空気。


リーダーは剣を構えた。構える手が震えていた。


配信は止まっている。コメント欄は凍っている。視聴者は、黒い画面を見つめている。


闇の中で、最後に聞こえたのは、リーダーの声だった。


「……記録、残してくれよ」


---


朝、草原は何事もなかった顔をしていた。


朝露が光っている。空が白い。鳥が鳴いている。風が草を撫でている。


平和だ。完璧な平和。昨日と同じ朝。


YUは身体を起こした。


——眠れた。


頭が軽い。胸の焦げつきが薄い。鬼塚の声が遠い。「念のため」が、一枚膜を隔てた向こう側にある。


ここで眠りに落ちて、ここで目が覚める。


(今日も、眠れた)


その安堵がまず来て——それから、遅れて、怖さが来た。


輪がない。


あれだけいた人間が、いない。


いや——いる。草原の端に、数人だけが立っている。


顔色が悪い。立ち方が崩れている。装備がない——昨日まで鎧を着ていたはずなのに、布の下着だけになっている。装備を全部失ったのだ。


そのうちの一人が、こちらを見た瞬間——膝から崩れ落ちた。


「……生きてる」


声が掠れている。誰に言っているのか分からない。自分に言っているのか。YUに言っているのか。空に言っているのか。


YUは立ち上がった。


草を払う。いつものように。でも手が少しだけ震えていた。


インベントリを開く。


増えていた。


金属片。宝石。見覚えのない紋章。


そして——黒い布の切れ端。


昨日の朝にもあった、引き裂かれた断面の布。今日はそれが、さらに増えていた。数えるのをやめた。数えたら、何かが確定してしまう気がした。


(……落とし物)


自分に言い聞かせた。落とし物だ。フィールドに落ちていたものを自動で拾う機能。そういう仕様。


でも——引き裂かれた布を、誰が落とす?


思考が、その先に進もうとした。進もうとして——止まった。


止めた。自分で止めた。


考えたら壊れる。現実でも、考えすぎて壊れかけている。これ以上壊れる場所がない。壊れる余裕がない。


YUはインベントリを閉じた。


休息記録の通知が、画面の端に出ている。


```

System Notice:

Resting record could not be retrieved.

Data partially corrupted.

```


まただ。


もう、「バグ」とは思えなかった。


思えなかったが——じゃあ何なのかを考える力が、今の悠にはなかった。考える力は、全部会社に持っていかれている。残りカスで生きている。残りカスでゲームをして、残りカスで眠って、残りカスで朝を迎えている。


だから。


棚に上げる。


社畜の生存戦略だ。


---


初期村に戻ると、広場は昨日より静かだった。


静かなのに、人は多い。熱がない。代わりに、ひんやりした恐怖が空気に溶けている。


誰もが小声で話している。目が泳いでいる。


ORACLEが駆け寄ってきた。顔色が白い。昨日までの穏やかさが、一段深いものに変わっている。底が見えない井戸を覗き込んだ後の顔。


「……お戻りになった」


言い方が、帰宅ではなく帰還だった。日常の挨拶ではなく、生還者への言葉だった。


「昨夜、草原に入った者の多くが……戻っていません」


YUは何も言えなかった。


知らない。本当に知らない。寝ていた。寝ていただけだ。


でも「知らない」と言えば——ORACLEはきっとこう変換する。「"知らない"——つまり、無自覚の裁定」と。何を言っても教義になる。言葉が自分のものでなくなる。


だから黙った。


広場の端で、誰かが怒鳴っていた。喉が焼けた声。泣いているのか怒っているのか分からない声。


ORACLEは、その方向に耳を向けた。


しばらく聞いていた。


そして、こちらを振り返った。


「……今、"報酬"と"契約"という言葉が聞こえました」


淡々とした声だった。淡々としているのに、怖い。


「昨夜の襲撃者たちは、自発的に来たのではなかったようです。"別の力"が、背後にある」


ORACLEの目が、深くなった。


「つまり——」


来る、と思った。変換が来る。


「——"試練は、まだ続く"」


来た。


今日の変換は、飛距離が大きかった。「報酬」と「契約」から「試練は続く」まで、原文の面影がない。ORACLEの脳内で何が起きているのか、YUにはもう追えなかった。


ORACLEはメモ帳を開いた。ペンが走る。今日も一行増えた。教典が厚くなっていく。自分の知らないところで、自分を素材にした聖書が書かれている。


RAMPARTが、広場の反対側に立っていた。


昨夜の戦闘に巻き込まれたのか、鎧に小さな傷がついていた。でも立っている。盾を背負って、腕を組んで、何事もなかったように立っている。


目が合った。


RAMPARTは小さく頷いた。何も言わなかった。


その「何も言わない」が、今は一番ありがたかった。


---


> 【速報】PK本隊《REDJACKS》、草原で壊滅

>

> 1:名無しの旅人

> 昨夜、本隊が突入した。配信もしてた。暗転→音消失→コメント凍結→配信途切れる。いつものパターン。

>

> 9:名無しの盾

> 戻ってきたやつが五人いる。全員、装備ロスト。全員震えてる。「見えなかった」って繰り返してる。

>

> 14:名無しの槍

> 戦闘ログは?

>

> 16:名無しの旅人

> 「記録がありません」

>

> 19:名無しの僧

> もうそれ定型文じゃん。草原の合言葉。

>

> 25:名無しの魔

> で、何が起きたの? 三十人近く入って、五人しか帰ってきてないんだろ?

>

> 31:名無しの旅人

> 分からん。ただ、入った人数だけ減った。残った五人に聞いても「分からない」しか言わない。

>

> 38:名無しの弓

> 配信のアーカイブ見た。暗転の直前、黒いコートみたいなシルエットが“見えた気がする”。スクショしようとしたけど、うまく撮れなかった。

>

> 52:名無しの弓

> いや、噂だけど——金で動いてたって話がある。誰かに"雇われた"んじゃないかって。

>

> 67:名無しの旅人

> PKが消えた。次は"金の連中"が来るぞ。

>

> 74:名無しの盾

> 草原の王はどうするんだ。

>

> 76:名無しの旅人

> どうもしないだろ。寝てるんだから。


その夜も、YUは草原へ行くだろう。


眠るために。


そして次は、PKより厄介な連中が来る。剣ではなく金で動く、もっと静かで、もっと根深い敵が。


YUは何もしていない。


寝ているだけだ。


なのに——世界だけが、どんどん大きくなっていく。


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