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25/27

通常手段では無理


朝、オフィスの空調は一定だった。


寒いと思う人間にも。暑いと思う人間にも。眠れていない人間にも。

同じ温度を、同じ顔で吹き続ける。


一定というのは親切ではない。

調子の悪い側に合わせない、ということだ。


相沢悠は、自分の席でその風を受けていた。


昨夜は眠った。

正確には、横になって、意識を落とした。


でも、眠れたとは言いづらかった。


浅い眠りは回復にならない。

沈みきれなかった疲れが、水面の少し下に残る。

朝になっても、それはまだ胸の奥で揺れている。


モニターを点ける。

鬼塚のチャットがもう点滅していた。


「念のため、昨日の比較表、先方説明用に一段やわらかく」

「あと、万一に備えて別案も一枚」

「今日中で」


今日中。


最近、またその三文字が前より重い。

元気な日の「今日中」は時間の指定だ。

疲れた日の「今日中」は、ただの圧だ。


「了解しました」


打つ。送る。


最近は、削れるというより、擦り減る感じだった。

欠ける時は音がする。折れる時は自分でも分かる。

擦り減るのは静かだ。

静かな損耗は、自分にも見えにくい。

見えにくいまま、ある日急に底がなくなる。


午前中、比較表を作る。

説明文を丸める。

角のある事実を、角のない文に置き換える。


安心感のある書き方。

誤解の出ない書き方。

誰も強く責任を負わなくて済む書き方。


会社には、そういう文章だけがうまくなる人間がいる。

自分も、たぶん、そちらへ寄っていた。


---


昼休みの少し前、美奈が来た。


デスクの横。

立ったまま、まず顔を見る。


「寝てないでしょ」


挨拶より先に、それだった。


悠は少しだけ笑う形を作ろうとして、やめた。


「少しは寝ました」


「その返し、最近毎回聞いてる」


美奈は小さなパック飲料を机に置いた。


「入れて」


「ありがとうございます」


「あと今日、できるだけ早く上がって」


悠は小さく息を吐いた。


「できるだけ、はやってます」


「それでこの顔なら、できてないの」


まっすぐだった。

やさしい嘘じゃない。

でも、立てる言い方だった。


美奈は少しだけ声を落とした。


「今日、ゲーム入る前に少しでも休んで」

「寝床、安定してないんでしょ」


喉の奥が少し詰まった。


寝床。


ゲームの話なのに、会社で聞くと別の意味になる。

帰る場所。落ち着ける場所。

そういう音に聞こえる。


「……はい」


美奈は一拍だけ黙ってから、言った。


「少し休もう」


短かった。


でも、その一言だけで少し救われた。

「休め」じゃなかった。

一人で何とかしろ、でもなかった。


悠は頷いた。

頷きながら、心の中では別のことを考えていた。


休んでも、眠れるとは限らない。


今の一番まずいところは、それだった。


---


夕方、帰宅してすぐにはログインしなかった。


椅子に座って、VRギアの隣をしばらく見ていた。


被れば、向こうへ行ける。

向こうへ行けば、眠れるかもしれない。


でもその「かもしれない」が、今日は薄い。


昨日の訓練場跡は浅かった。

今日も同じなら、また沈めない。


現実のベッドで眠れる気もしなかった。

鬼塚の「今日中」がまだ目の裏にいる。

白いモニターの残像が、瞼の裏に薄く貼りついていた。


結局、ギアを被った。


選んだというより、残った方向がそれだった。


---


ログインして、訓練場跡へ向かう。


途中で、もう分かった。

今日も浅い。


風が遠い。

地面の呼吸が合わない。

足の裏が、ここを寝床だと認識しきっていない。


訓練場跡には、昨夜の名残が残っていた。

薄い草。

地面を走る細い筋。

見えない境界の、かすかな揺れ。


でも近くない。


「……今日も、だめかもしれません」


素直に言った。


MINAがすぐ横で答える。


「分かる」


短い。

でも、それで十分だった。


「訓練場は昨日より浅い」

「宿屋裏も薄かった。他の代替聖域も同じ」


「全部、ですか」


「全部、ちょっとずつ足りない」


全部あるのに、全部足りない。

それが一番きつい。


ゼロなら諦められる。

足りないものが並んでいると、人は最後まで選ぼうとしてしまう。

選ぼうとして、余計に削れる。


ORACLEが静かに目を伏せた。


「神は消耗しておられます」


「やめて」


MINAが即答した。


「そういう言い方するな」


ORACLEは頭を下げた。

でも記録をやめる顔ではなかった。


VARGAが外周を見て、短く言う。


「線は残ってる。だが薄い」


RAMPARTは黙って盾を立てていた。

立てる位置が、いつもより半歩だけ内側だった。

守る範囲を、少しだけ絞っている。

それだけで今夜のまずさが分かった。


悠はそこへ座る。

目を閉じてみる。


だめだった。


村の音が近い。

考えが沈まない。

身体だけが眠くて、頭だけがまだ会社にいる。


「……だめです」


今日はすぐ言えた。


「眠いのに、落ちないです」


MINAの顔から、ほんの少しだけ色が抜けた。


「最悪」


今回は比喩じゃなかった。

本当にその意味だった。


---


同じ頃、仮設管理室では別の意味で空気が変わっていた。


白い卓。

白いモニター。

白いログ。


佐久間修司は、昨夜の観測結果を前にしていた。


「浅い眠りでは、出力が落ちる」


誰もすぐには答えなかった。


言葉としては単純だ。

でも、その意味が重すぎた。


浅い眠りでは出力が落ちる。

裏返せば、深い眠りほど出力が上がる。

さらに裏返せば——。


佐久間は、その先を言いたくなかった。

でも部屋にいる全員が、同じ先まで考えているのが分かった。


WHITE RAVENが静かに問う。


「再現性は」


「高いと思います」


佐久間は胃を押さえたまま答える。


「昨夜の結果は偶然では片づけにくい。

聖域の厚み、初動、観測層の残存、封印の通り方、全部が一方向に揃いすぎてる」


羽賀の音声が入る。


『なら、結論は出たな』


その一言で、部屋の温度が一段下がった。


結論。


その言い方が、佐久間は嫌だった。

まだ仮説の段階だ。

でも上の人間は、「使える条件」を見つけた瞬間に、それを結論と呼ぶ。


JUDGEが机上の地図を見ながら口を開く。


「通常手段では無理だ」


短かった。

でも、それがこの会議の中心だった。


「討伐では遅い。封印だけでも足りない。局地対応では広がりに追いつかない」


誰かが小さく問う。


「なら、どうする」


JUDGEは間を置かなかった。


「戦場そのものを固定する」


「固定?」

とWHITE RAVEN。


「世界規模イベント化です」


静かな声だった。

静かなのに、決定の声だった。


「草原とその派生聖域を通常フィールドから切り離す。

参加者、観測、封印、補給、避難、そのすべてを公式主導で定義する。

ECLIPSEにも上位連合にも、勝手な秩序を作らせない」


羽賀が乗る。


『封鎖だな』


「封鎖だけでは足りません」


JUDGEは即答した。


「封鎖、凍結、強制誘導。

場合によっては対象のスリープ状態そのものを固定する必要がある」


佐久間の指が止まった。


対象のスリープ状態を固定する。


言い換えれば、眠り方そのものへ手を入れるということだ。


部屋が沈んだ。


今度の沈黙は、考えている沈黙ではなかった。

意味を分かっているのに、最初に口を開きたくない沈黙だった。


「それ、もう……」


佐久間が低く言った。


「異常現象への対策じゃないでしょう」


羽賀の声が少し強くなる。


『では何だ』


佐久間は、ほんの一拍だけ迷った。

その一拍で、立ち位置が決まる気がした。


「……人間一人を、世界の都合で止める話です」


WHITE RAVENの均質な表情に、微かな揺れが走った。

すぐに消えたが、佐久間には見えた。


JUDGEはその沈黙が広がる前に、次の言葉で覆った。


「承知している」


静かな声だった。

矛盾を知らない声ではない。

知っていて、それでも選ぶ声だった。


「承知した上で、それでも必要だと言っている」


ASTERだけが、少しだけ視線を上げた。


「だが、もうそういう段階だ」


低く言う。


「魔王を斬る話ではない。地図の方が書き換わっている」


その通りだった。


草原封鎖。

代替聖域の増殖。

寝床ネットワーク。

上位連合。

市場崩壊。

情報拠点の正確な破壊。

権限の迂回。


どれも、一人を倒せば終わる話ではない。

構造そのものが変わっている。


だからこそ、佐久間は余計に嫌だった。

大きい手を入れる時、人間一人の都合は真っ先に切られる。


JUDGEが最後に言う。


「結論だ。通常手段では無理。

特別イベントを立ち上げる。

封鎖、凍結、共同レイドを同時に行う。

次は、世界ごと囲う」


会議はそこで終わったわけではない。

だが、実質は終わっていた。


タイトル。

封鎖範囲。

動員条件。

上位連合との役割分担。

告知文面。


その全部が、もう決まった結論の上に乗るだけだった。


佐久間は胃を押さえたまま、画面を閉じられなかった。

閉じたら、自分もその決定に参加したことになる気がした。


閉じた。


戻れなくなった。


---


訓練場跡では、悠が結局、横になっていた。


他に選択肢がなかったからだ。


完璧じゃない。

深くもない。

でも立っている方が先に限界が来る。


画面を開く。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Alternate Sanctuary detected.

Sleep depth unstable.

Proceed? [Y/N]

```


また、その一行。


Sleep depth unstable.


最近のシステムは、嫌なことだけ正直だった。


「……言われなくても分かってます」


小さく呟いて、Yに指を置く。

置いたまま、いつもより長く止まった。


Nの方を見る。


押したら、今夜は眠らないことになる。

眠らなければ、浅い眠りすらない。

それ以上は考えなかった。


Yを押す。


```text

Resting...

```


横になる。

風が遠い。

地面が浅い。


それでも、身体はもう限界に近かった。

選ぶ力が残っていないから、そこにある場所で倒れる。


沈む。

深くはない。

でも落ちるしかない夜だった。


---


MINAはスクリーンを開いたまま、悠の呼吸を見ていた。


浅い。

昨夜と同じだ。

水面のすぐ下にいる。


今夜のNOXがどう出るか。

弱いまま終わるか。

途中で深くなるか。


それを見るためにここにいる。


でも今夜は、それだけじゃなかった。


昼の断片ログ。

運営内部から漏れた単語。

特別イベント。

世界規模。

封鎖。

凍結。


断片を並べるだけで、一枚の絵になる。


次は、世界ごと来る。


その絵の中心に、三歩先で眠っている人間がいる。


MINAは、その浅い呼吸を見ながら思った。


この人が深く眠れなくなれば、世界は安全になる。

この人が疲れれば疲れるほど、NOXは弱くなる。


運営はそれを知った。

上位連合も、たぶん知る。

掲示板ももう拾っている。


全員が、この人の消耗を条件に入れ始めている。


それを「最終手段」と呼ぶ人間がいるだろう。

佐久間は嫌がるだろう。

JUDGEは必要だと言うだろう。

ASTERは黙って前へ出るだろう。


MINAは、まだ何も言えない。

言えないまま、三歩先の浅い呼吸を聞いていた。


---


今夜のNOXは、静かだった。


空気は少し沈む。

境界も揺れる。

聖域同士を結ぶ地面の細い筋も、まだ残っている。


でも、誰も消えない。

誰も壊れない。

市場も動かない。

情報拠点も落ちない。


VARGAが低く言った。


「動く前の静けさだ」


誰も反論しなかった。


静かだ。

静かすぎる。


それは空っぽの静けさではなかった。

溜めている静けさでもない。

もっと計画的な静けさだった。


訓練場跡の薄い草だけが、風もないのに同じ方向へ傾いたまま戻らない。

誰かが見えない手で、そこだけ撫で続けているみたいだった。


仮設管理室でも、同じ不気味さが広がっていた。


「反応、低いままです」


佐久間が言う。


「でも消えてない。沈黙してるだけです」


WHITE RAVENが低く問う。


「嵐の前か」


「たぶん、違います」


佐久間は答えた。


「嵐なら気圧が変わる。今夜は変わってない。

変わってないのに静かです。

ということは、溜めてるんじゃなくて、準備してる」


準備。


その単語が、白い部屋で妙に重かった。


上位連合は人を集めている。

運営は世界規模イベントを準備している。

ECLIPSEは寝床ネットワークを整えている。


そしてNOXもまた、動かずに待っている。


全員が同じ方向を向いていた。

次に来るもののために。


だから今夜は、何も起きないことそのものが最悪だった。


---


朝。


訓練場跡で、悠は目を開けた。


今日は昨日よりは少しましだった。

深くはない。

でも、完全に浮いていた昨夜よりは、少しだけ落ちていた。


「……少しだけ、ましです」


最初にそう言った。


MINAは三歩先で、その言葉を聞いた。


赤い目。

疲れた顔。


でも今朝の疲れは、それだけじゃなかった。

決定を知ってしまった人間の顔だった。


知っているのに言えない。

言えないのに、ここにいる。


「おはよう」


短く返す。


悠は身体を起こした。

首を回す。

肩を押さえる。


完全じゃない。

でも立てる。


「昨日、何かありました?」


いつもの問いだった。


毎朝、同じ問い。

答えだけが変わる。


MINAは少しだけ迷った。

最近、その迷う時間が短くなっている。


「……静かだった」


「静か?」


「うん。逆に嫌な方の」


悠は少しだけ考えて、それから言った。


「準備してる感じ、ですか」


MINAがこっちを見る。

ほんの少しだけ驚いた顔になった。

そのあと、寂しさに似たものが来た。


「……よく分かるようになったね」


褒めているようには聞こえなかった。

分かるようになるということは、近づいているということだ。


知らないことが、この人を守っていた。

分かるようになるたびに、その守りが薄くなる。


「最近、そういうの感じるようになってきました」


成長ではない。

距離が縮まっているということだ。


---


SABLEが近づいてきて、スクリーンを見せる。


「もう出てる」


掲示板だった。


特別イベント予告。

名称未発表。

初心者エリア全域の安全確保を目的とした大規模対応。

正式告知は近日中。


MUSEが半笑いで言う。


「“安全確保のための特別イベント”って、もう嫌な匂いしかしない」


LEDGERは平坦だった。


「正式名称が伏せられている時点で、範囲が広い」


少しだけ間を置く。


「運営、腹を括りましたね」


その言葉に、場の空気が少しだけ沈んだ。


VARGAはもっと短かった。


「次で来る」


それだけで十分だった。


運営は、通常手段では無理だと判断した。

だから次は、普通の討伐でも封鎖でもない。

世界ごと囲う手段が来る。


悠はそれを半分も理解できないまま、小さく呟いた。


「……またイベントですか」


MINAは少しだけ笑いそうになって、やめた。


「今度のは、たぶん、今までのと違う」


その言い方が、妙に真っ直ぐで、かえって怖かった。


---


悠はインベントリを開いた。


黒い布。

白い破片。

細い白線の残骸。


そして今日は、見慣れない小さなタグが増えていた。


冷たい銀色。

何かを「保留」にするための道具みたいな見た目だった。

金属でも石でもない。

温度ではなく、意味が冷たい。


「……これも落とし物ですかね」


自分で言って、少しだけ声が止まる。


最近はもう、その言い方自体に力がなかった。

落とし物、という壁が薄くなっている。

薄くなっているのに、まだ使う。

使わないと、一気に近づくからだ。


MINAはゆっくり頷いた。


「そう。今は、それでいい」


今は。


また、その二文字だった。


でも今朝の「今は」は、ほとんど今日一日もたない気がした。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 57


`301:` 今朝の運営告知見た?


`304:` 見た。特別イベント予告ってやつ


`308:` 名前伏せてるの逆に怖い


`312:` 「安全確保」って言い方の時って大体ろくでもない


`316:` 上位連合も動員続けてるし、次マジで来るな


`320:` でも昨夜のNOX、逆に静かすぎなかった?


`324:` それな。何も壊してないのが一番嫌


`328:` 嵐の前って感じ?


`332:` いや、もっと計画的なやつ。全員準備してる感じ


`336:` 運営も連合もECLIPSEも、同時に準備してるの異常だろ


`340:` その中で寝てる初心者だけ普通に「今夜眠れるかな」してるの怖い


`344:` そこが一番危険なんだよな


`348:` 浅い眠りで弱る説出た次の日に、運営が特別イベント予告はタイミング悪すぎる


`352:` 悪すぎるっていうか、もう狙ってるだろ


`356:` やめろ


`360:` でもみんなそう思ってる


`364:` 「通常手段では無理」って空気すごい


`368:` 次は世界ごと囲うつもりなんだろ


`372:` 初心者エリアで世界規模イベントって何だよ


`376:` もう初心者エリアじゃないんだよ


`380:` 名前まだ出てないのに、告知だけでこんだけ怖いのすごい


`384:` 次の夜、絶対やばい


---


訓練場跡の朝に、悠は立っている。


昨夜、夜はほとんど何もしなかった。

でもその静けさは、何も起きていない静けさじゃない。


運営は結論を出した。

上位連合は集まり続けている。

ECLIPSEは守る場所を広げている。

NOXもまた、静かなまま次を待っている。


守る側も。

壊す側も。

もう全員が、次の一手のために呼吸を整えていた。


MINAは朝の薄い風を受けながら、三歩先に立っている。


通常手段では無理。


その結論は、運営にとっての判断でしかない。

でも、その判断の中心には、眠っている一人の人間がいる。


それを、この人はまだ知らない。


知らないまま、

今夜は眠れるだろうか

と考えている。


世界はもう、この人を囲む準備を始めていた。


理由はただ一つ。


この人が、眠るからだ。


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