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24/26

浅い眠り


朝、スマホは静かだった。


通知はない。

非通知もない。

茶封筒も届いていない。


それなのに、静かすぎてうるさかった。


昨日まで毎朝何かが来ていたのに、今朝は何もない。

何もないことが、かえって落ち着かない。


嵐の後の静けさじゃない。

嵐の前の静けさだった。


もう来る必要がないのかもしれない。

もう十分に知っているからかもしれない。


相沢悠は、目覚ましが鳴る少し前に目を開けていた。


寝た気はしない。

横になっていただけ、に近い。


眠れなかったわけではない。

でも、沈めなかった。


水に浮かんだまま朝を待つみたいな夜だった。


もう少し深く落ちれば、音は遠くなる。

いつもはそこまで落ちる。

落ちた先に、草原に似た静けさがある。


昨夜は、その遠さが来なかった。


水面のすぐ下にいるのに、水面の上の音が全部聞こえている。

車の音。冷蔵庫の音。自分の心臓の音。

全部が耳に届いたまま、朝になった。


部屋の天井を見る。

白い。


会社ほどではない。

でも、やっぱり白い。


白いものは最近、どれも少しだけ責めてくる。

白は清潔の色で、正しさの色で、

そして「ちゃんとしろ」の色だった。


起きる。

顔を洗う。

鏡を見る。


目の下の色が、昨日より少し深い。


一日分の疲れが、一晩で消えなかった分だけ、

前の日の分の上に積もっている。

積もった色は、洗っても落ちない。


それでも立てる。

立てるということは、まだ終わっていないということだ。


駅まで歩く。

ホームに立つ。

電車が来る。

扉が開く。

人が降りる。

人が乗る。

閉まる。


全部が正しい速さで進む。

自分だけが、少し遅い。


半テンポだけ、世界の拍子からずれている。

それでも電車には乗れる。

乗れるから、問題ないことになる。


---


会社に着いて、席に座り、モニターを点けた。

鬼塚のチャットが、もう点滅している。


「念のため、昨日の差し替え案、比較表も作って」

「あと先方に誤解がないように説明文も」

「今日中で」


今日中。


最近、その三文字が前より重い。

同じ二文字なのに、月曜の「今日中」と木曜の「今日中」では重さが違う。


木曜の「今日中」には、

金曜の修正まで見越した重さが最初から入っている。


「了解しました」


打つ。

送る。


今日の自分は、削れるというより、ひびが入る感じだった。


欠けるより細い。

でも、ひびは一度入ると、いつ広がるか分からない。


欠けた陶器はまだ使える。

ひびの入った陶器は、次に熱いものを入れた時に割れる。


割れるかどうかは、熱さ次第だ。

今日の熱さが、昨日より高くないことを祈るしかない。


午前中、比較表を作る。

説明文を丸める。

先方が安心しそうな言い回しを並べる。


安心しそうな、というのは便利な言葉だ。


実際に安心している必要はない。

安心して見えることが大事だ。

こっちが安心していなくても、だ。


安心していない人間が、安心させる文章を書く。

その矛盾に、もう慣れていた。


慣れたことが、少しだけ悲しかった。


---


昼休み、美奈がデスクの横に来た。


「今日、寝てないでしょ」


挨拶より先に、それだった。


挨拶を飛ばして本題に入る人間は二種類いる。

失礼な人間と、心配している人間だ。


美奈は後者だった。


悠は少しだけ笑う形を作ろうとして、失敗した。

笑うための筋肉が、今朝は足りなかった。


「少しは寝ました」


「その返しの時点で寝てない」


美奈は小さな紙パックの飲み物を置いた。

何味かは見なかった。


見なくても、この人が置くものは飲めるものだと、

もう身体の方が知っている。


信頼というのは、

中身を確認しなくても手に取れる状態のことだ。


「今日、ゲーム入る前に少し休んで」


「休めたら、ですけど」


「休むの」


声が低かった。

でも命令ではなかった。

横から来る強さだった。


横からの強さは、上からの命令より断りにくい。

上からなら反発できる。

横からだと、断ることが裏切りになる。


悠は頷いた。

頷きながら、心の中では別のことを思っていた。


休んでも、眠れるとは限らない。


眠るという行為には最近、体力だけじゃなく運も要る。

どこで沈めるか。

どの深さまで落ちるか。

それが夜ごとに違う。


運の悪い夜は、どこに横になっても水面の上に浮いたまま朝が来る。

昨夜がそうだった。


美奈は少しだけ視線を落として、低く言った。


「今日、寝床、無理しないで探して。だめなら、だめって言って」


その言い方が少しだけ胸に残った。


「見つけろ」じゃない。

「だめなら、だめって言って」。


だめ、と言っていい。


その許可が、今日はいちばん必要なものだった。


会社では「だめ」は言えない。

「了解しました」しか言えない。

了解しました、の裏側にある「だめです」を、誰も聞いてくれない。


この人だけが、「だめって言っていい」と言ってくれる。


その許可だけで、午後の呼吸が少し楽になった。


---


夕方、ログインして訓練場跡へ向かう途中から、もう違和感があった。


風が薄い。


変な言い方だとは思う。

でも、そうとしか言えなかった。


風は吹いている。

でも身体に届く前に、どこかで一枚削れている。

風の厚みが足りない。


草原の風は厚い。

何もない場所を長く吹いてきた風には、その分だけ厚みがある。


ここの風は、村の建物の間をすり抜けてくる。

すり抜けるたびに薄くなる。


訓練場跡に着く。

草はある。

昨日までの寝床の名残りもある。


でも、近くない。


肩の力が勝手には抜けない。

足の裏も、地面に馴染まない。

昨日は六割だった。

今日はもっと遠い。


「……今日、遠いです」


MINAがすぐ横で答えた。


「私もそう見える」


「場所、ずれましたか」


「場所というより、条件が浅い」


浅い。


その言葉が、妙にぴったり来た。


近くないのではない。

浅いのだ。


ここにはまだ寝床の条件がある。

でも深さがない。


プールの浅い方みたいだった。

水はある。

でも飛び込めない。

立てるだけの深さでは、沈めない。


ORACLEが少し離れた位置で目を伏せた。


「神がお疲れです」


「やめて」

とMINAが即答した。

「そういう言い方するな」


ORACLEは静かに頭を下げた。

でも目だけは、悠の方を見ていた。

観察ではない。記録の目だった。


この人にとっては、悠の疲れ方も記録の対象だ。

「神が疲れている」ことすら、教義の一部になりかねない。


MINAはそれを知っているから止める。


RAMPARTはいつものように立っている。

VARGAは訓練場跡の外周を一周して、足を止めた。


「線は残ってる」

短く言う。

「ただ、厚みがない」


厚み。

深さ。


今日はみんな、同じものを違う言葉で言っていた。

風が薄い。

条件が浅い。

厚みがない。


全部、同じことだ。

今日の寝床は、寝床の形をしているだけで、中身が足りない。


---


悠はそこへ座った。

座って、目を閉じてみる。


だめだった。


村の音が近い。

風も浅い。

何より、自分の考えが沈まない。


昼の会議。

鬼塚の「今日中」。

比較表。

白いコピー紙。

全部がまだ頭の表面にいる。


いつもなら、草原の冷たさがそれを押し下げてくれる。

冷たさが蓋になって、会社の白を閉じ込めてくれる。


今日はその蓋が薄い。

薄いから、押し込んだはずのものが浮いてくる。


「……だめです」


素直に言った。


美奈が「だめなら、だめって言って」と言ってくれたから、言えた。

その許可がなかったら、たぶん黙って横になって、眠れないまま朝を待っていた。


「眠いのに、頭が落ちない」


MINAの顔が少し変わった。

この人が一番嫌がる変化の顔だった。


「草原本体はまだ封鎖」

小さく言う。

「訓練場は浅い。宿屋は無理。他の代替聖域も今日は薄い」


そこまで言って、少しだけ間を置いた。


「最悪」


今回は比喩ではなかった。

本当にその意味だった。


最悪というのは、選択肢がゼロになることじゃない。

選択肢が全部あるのに、どれも足りないことだ。


ゼロなら諦められる。

足りないのに存在するものは、諦められない。


---


同じ頃、運営の仮設管理室でも、似た数字が並んでいた。


白い卓。

白いモニター。

白いログ。


佐久間修司は画面を睨んでいた。


「出力、下がってます」


WHITE RAVENが振り向く。


「どの程度だ」


「数値の話をしても仕方ないレベルで」

佐久間は胃を押さえながら言う。

「境界の厚みが薄い。聖域反応も浅い。昨夜までと違う」


胃を押さえるのが、もう癖になっていた。

押さえたからといって痛みが引くわけではない。

でも手を当てると、痛みの場所だけは分かる。


場所が分かると、少しだけ安心する。

安心は嘘だ。

でも嘘でも、胃は少しだけ楽になる。


羽賀の音声が入る。


『原因は』


「分かりません」

佐久間は即答した。

「でも今夜は、向こうの立ち上がりが鈍い」


鈍い。


その単語を口にした瞬間、佐久間の中で二つの感情がぶつかった。

技術者としての好奇心と、人間としての直感だ。


好奇心は「なぜ鈍いのか」を知りたがった。

直感は「鈍い理由を知った時、後悔する」と言った。


ASTERが地図を見たまま言う。


「なら、届くかもしれないな」


その一言で、部屋の空気が変わった。


希望は危険だ。

希望が入ると、人は前に出る。


前に出ることは、普通なら良いことだ。

でも相手を分かっていない場所で前に出ると、前に出た分だけ深く転ぶ。


JUDGEが低く確認する。


「試す価値はある」


佐久間は一瞬だけ黙った。

黙ったのは反対だからじゃない。

嫌な予感があるからだ。


鈍い夜は弱いのか。

それとも別の何かを溜めているだけなのか。

今の時点では、まだ分からない。


分からないものを「弱い」と決めつけるのは、技術者として一番やってはいけない判断だった。


でも、分からないままでも前へ出るのが、今の運営だった。

分からないことを理由に止まると、「何もしていない」と言われる。

何もしていない方が安全かもしれないのに、何もしていないことは許されない。


会社と同じだ、とまた思った。


「観測層、維持」

佐久間が言う。

「封印アンカー、再同期。今回は押し込みます。止まるなら、今しかない」


止まるなら、今しかない。


言いながら、半分は嘘だと分かっていた。

「今しかない」は技術的な判断じゃない。

政治的な判断だ。


今動かないと、動けなくなる。

だから今動く。

正しいからではなく、動かないことが許されないから。


WHITE RAVENが公式音声へ切り替わる。


「各班、準備してください。今夜は接触可能性あり。封印層、前進待機」


前進待機。


言葉としては矛盾している。

前進は動くことで、待機は止まることだ。


でも戦争の準備というものは、だいたいそういう言葉でできている。

動く準備をして、止まる。

止まったまま、動く瞬間を待つ。


---


訓練場跡では、悠がようやく横になっていた。


完璧ではない。

でも身体の方が先に限界を越え始めている。


限界を越えた身体は、寝床の条件を選ばなくなる。

選べなくなる、の方が正しい。

選ぶ力が、もう残っていない。


眠れない、ではない。

深く眠れない。


その違いが、今夜の怖さだった。


眠れないなら起きていればいい。

深く眠れないのは、落ちかけて止まることだ。

落ちかけて止まるのは、落ちるより疲れる。


画面を開く。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Alternate Sanctuary detected.

Sleep depth unstable.

Proceed? [Y/N]

```


一行、増えていた。


Sleep depth unstable.


安定していない。

システムに言われると、余計に嫌だった。

自分の身体のことを、会社の警告文みたいな白い字で言われるのは、少し腹が立つ。


「……言われなくても分かってます」


小さく呟いて、Yに指を置いた。


置いたまま、一拍だけ止まる。

いつもより長くNの方を見た。


押さない。

押さないけれど、見えた。


Nを押したら、今夜は眠らないことになる。

眠らなければ、浅い眠りもない。

浅い眠りがなければ、明日の朝はもっとひどい。

もっとひどい朝は、もっとひどい昼を連れてくる。


どちらを押しても、悪い方に転がる。

悪い方と、もっと悪い方なら、悪い方を選ぶしかない。


Yを押した。


```text

Resting...

```


横になる。

風が遠い。

土の匂いが少し強い。

目を閉じても、村の音がまだ消えない。


それでも、落ちていく。

ゆっくり。

いつもより浅く。

水面から一枚下くらいの深さまで。


水の中にいるのに、水面の光がまだ見える。

もう少し深く落ちれば消えるはずの光が、今夜は消えない。


沈み切れないまま、夜が来た。


---


入眠。


MINAはすぐに打ち込んだ。


――入眠。

――浅い。

――境界反応、弱い。


今夜の夜は、確かに鈍かった。


空気は沈む。

暗くもなる。

でも、いつもの圧がない。


いつもなら入眠の直後に、世界が一段重くなる。

重くなることで、夜が始まる。


今夜はその重さが来ない。

来ないのではなく、足りない。


重力が一割だけ減ったみたいな、頼りない夜の始まり方だった。


OBSERVERが、落ちない。


それだけで異常だった。


今までなら、最初に消えるのは観測層だった。

入眠直後に脈打って、耐えて、落ちる。

それが毎晩の順番だった。


今夜は脈打ちながら、まだ立っている。

脈打っているのに消えない。


それは観測層が強くなったのではない。

消す側が弱いということだ。


SABLEが低く言う。


「残ってる」


その二文字に、草原の空気が少しだけ揺れた。

残っている。

今まで残れなかったものが、今夜は残っている。


---


佐久間の声が、管理室から飛ぶ。


「今です! 固定通ります!」


白いアンカーの線が、訓練場跡を囲む。

格子が下りる。

夜の外周が、初めて少しだけ遅れた。


いつもなら、格子を下ろした瞬間にねじ曲げられる。

白い線が意味を失い、制御が奪われる。

それが毎回の結末だった。


今夜は違う。


格子が、立っている。


VARGAが短く吐く。


「……弱いな」


それは感想ではなく、評価だった。

軍事を知る人間の評価。


今夜は確かに弱い。

出力が落ちている。


いつもの夜を十とするなら、今夜は六か七。

数字で見れば小さい差だ。

でも「届かない十」と「届くかもしれない七」では、意味が全く違う。


RAMPARTの盾が鳴る。

一度。

二度。


いつもなら受けるだけの音が、今夜は少し違った。

押し返している音だった。


受ける音は鈍い。

押し返す音は硬い。

今夜の音には、硬さがあった。


ASTERが前へ出る。


白銀の剣が抜かれる。

今度は、止まらない。


第13話の夜、ASTERは止まった。

剣を振るう意味そのものが消えた。

あの夜以来、この剣は抜かれていなかった。


抜いても届かないと分かっていたからだ。


今夜、抜いた。


刃が暗がりの手前まで届く。

今まで届かなかった距離に、初めて届く。

剣の先が、夜の境界に触れる。


触れた瞬間、ASTERの手に返ってきたのは抵抗だった。


抵抗があるということは、向こうにも形があるということだ。

形がないものには抵抗がない。

抵抗があるなら、斬れる可能性がある。


観測班の誰かが息を呑む。

別の誰かが、思わず言った。


「通る――」


夜の中心が、ほんの一瞬だけ形を失った。


いや。

失ったのではない。

薄くなった。


そこにあるはずの圧が、一拍分だけ消える。

NOXが止まった、ように見えた。


WHITE RAVENの声が飛ぶ。


「封印層、第二段階! 今です!」


白い線が重なる。

格子が閉じる。

夜の中心に、初めて「押さえ込めるかもしれない」という形が出た。


掲示板の向こうでも、息を止める気配があった。

野次馬も。

信者も。

上位勢も。


全員が同じものを見ていた。


止まった。


その一語が、今夜だけは本当に見えた。


---


でも、MINAだけは別のものを見ていた。


悠の呼吸だった。


浅い。

速い。

完全には落ちていない。


指先が少しだけ動く。

眉間が薄く寄る。

眠っているのに、まだ現実のどこかを持っている顔だった。


会社の白がまだ顔に残っている。

鬼塚の「今日中」が、まだ眉間にいる。


「……深くない」


小さく呟く。


その瞬間、悠の唇が動いた。


言葉にはならない。

でも、何かを嫌がるみたいに少しだけ顔をしかめる。


嫌がっているのは夢の中の何かなのか。

あるいは身体が、「もっと深く落ちたい」と訴えているのか。


そして、たぶん、ほんの一瞬だけ。


落ちた。


一段、深く。


何がきっかけだったのかは分からない。

疲労か。

押さえ込まれる感覚が逆に身体を沈めたのか。

それとも、ただ遅れて本当の眠りが来ただけか。


でも、その一段で世界が変わった。


白い格子が、先に軋んだ。


ミシ、とも、バキ、とも違う。

もっと嫌な音だった。

権限が折れる音。

意味が裏返る音。


さっきまで「押さえ込めるかもしれない」だった形が、

内側から歪んでいく。


佐久間の画面に一行だけ走る。


```text

Emergency seal: latency spike

Depth mismatch detected

```


「待って」


佐久間が言う。

声が裏返る。


さっきまでの「今です!」の声とは別人みたいだった。

希望の声と恐怖の声は、同じ喉から出ているのに全く違う。


「深度、変わった」


そこまでだった。


夜が、戻る。


濃さではない。

圧だった。


押さえ込まれていたものが、内側から立ち上がる。

格子の一本一本を外へ押し返すのではない。

格子がそこにある意味そのものを、無効にしていく。


「押さえる」という概念を、

「通り道」に書き換えていく。


前にも見た手口だった。

でも今夜は、その書き換えの速度が違った。

浅かった分を取り返すみたいに、一気に来る。


ASTERの足が止まる。


白い刃が、今度は届く寸前で鈍る。

さっきまで抵抗があった。

抵抗があるから斬れると思った。


でも今、抵抗が消えている。


消えたのは相手が弱くなったからではない。

斬るものがなくなったからだ。

形が消えた。

形がないものは斬れない。


あの夜と同じだ。


ASTERの手が、ほんの一瞬だけ震えた。

剣士の手が震えるのは恐怖ではない。

届かないことへの怒りだ。


RAMPARTの盾が、初めて半歩だけ後ろへ滑った。

押し返していたはずの音が、再び受けるだけの音に戻った。

硬い音が、鈍い音に。


VARGAが低く舌打ちする。


「戻った」


戻った、で済む話ではなかった。

むしろ、深くなった。


NOXは今夜初めて押された。

押されたからこそ、押し返す形が見えた。


その押し返し方が、いつもより重かった。

浅い夜の分を埋めるみたいに、一段分だけ余計に重い。


白い格子が一斉に反転する。

封印線だったものが、ただの白い残骸になる。

OBSERVERの青い円が、今さら遅れて消える。


さっきまで残っていたことが嘘みたいに、一度に全部消えた。


WHITE RAVENの退避命令が出る前に、前線が崩れた。


全滅ではない。

壊滅でもない。


でも、「今ならいける」が一瞬で終わった。


希望を見せてから折る。


そういう夜だった。


希望がなければ、折れない。

折れないなら、まだ痛くない。

痛みが来るのは、希望があったからだ。


何も見えなかった夜の方が、まだ楽だった。

見えたのに届かなかった夜の方が、ずっと辛い。


それが、今夜いちばん残酷だった。


---


MINAはスクリーンに打ち込む。


――浅い。

――押された。

――深くなった瞬間、戻る。

――止まったのではない。足りなかっただけ。


指が震えていた。


怖いのではない。

怖さの輪郭が、はっきりしすぎていた。


浅い眠りなら、NOXは弱い。


その仮説は、今夜でほぼ形になった。


仮説が形になるのは、普通は良いことだ。

分からないことが分かるようになるのは、前に進むことだから。


でも今夜ばかりは、前に進んだことを喜べなかった。


弱点が分かるということは、

この人が深く眠れない夜を待つということだからだ。


それは攻略じゃない。

消耗待ちだ。


相手が疲れるのを待つ。

眠れなくなるのを待つ。

弱るのを待つ。

そして弱った夜に押し込む。


それを「勝ち筋」と呼ぶ人間がいるだろう。

JUDGEなら呼ぶ。

羽賀なら呼ぶ。


でもMINAには呼べない。


呼べないのは、弱る条件の中心にいるのが、

三歩先で眠っている人間だからだ。


この人が疲れれば疲れるほど、世界は安全になる。

この人が眠れなければ眠れないほど、夜は弱くなる。


その構造が、今朝からMINAの胸の中で最も重い石になっていた。


誰かを助けることと、

誰かの消耗を待つことが、

同じ方向を向いている。


その矛盾を、MINAはまだ自分の中でもうまく言えなかった。

言えないまま、スクリーンを閉じた。


---


朝。


訓練場跡で、悠は目を開けた。


最初に来たのは、鈍い疲れだった。

いつもの軽さが、今日はない。


眠ったはずなのに、眠る前より重い。

浅い眠りは回復ではなく、疲労の延長だ。

横になっている時間が長いだけで、身体は休んでいない。


「……あんまり、眠れなかったです」


起きた瞬間に、そう分かった。

身体が先に知っている。


三歩先にいたMINAは、少しだけ目を閉じた。

閉じた時間が、いつもより長かった。


その二秒か三秒の中に、昨夜の全部が入っている。

浅い眠り。

弱いNOX。

押せた一瞬。

戻された結末。


そして、その全部の原因が、目の前で「眠れなかった」と言っている。


やっぱり、と思った顔だった。

そしてその「やっぱり」が、今朝はいちばん重かった。


「おはよう」


「……おはようございます」


悠は身体を起こす。

首の後ろが痛い。

肩も重い。


六割どころではない。

四割くらいしか沈めていない感じがした。

四割の眠りは、四割の回復しかもたらさない。

残りの六割は、昨日からの持ち越しだ。


「昨日、何かありました?」


素直に聞く。

最近の自分は、朝になるとまずそれを聞くようになっていた。

それは日課に近かった。


起きて、

おはようを言って、

何かありましたかと聞く。


聞くたびに答えは違う。

でも問いだけは同じだ。


MINAは少しだけ迷った。


迷ったのは、言うか言わないかだ。


今まではずっと「言わない」を選んできた。

「まだ見なくていい」

「今は、それでいい」


全部、言わない方を選んできた。


でも毎朝同じ問いに毎朝嘘をつくのが、少しだけ重くなっていた。

嘘は一回だけなら軽い。

毎日つくと、重さが積もる。


「……少し」


言ってから、続けた。


「押した」


「押した?」


「NOXを。少しだけ」


その一言で、悠は少し黙った。

意味が半分しか分からない。

でも、半分でも十分だった。


今まで一方的だったものが、少しだけ違った。


「勝てそうだったんですか」


MINAは首を横に振る。


「違う。"勝てそう"が見えただけ」


その言い方が、妙に正確だった。

見えただけ。

届いてはいない。


窓の向こうに景色が見える。

でもガラスは開かない。

見えることと触れることは違う。


悠はインベントリを開いた。


黒い布。

白い破片。

そして今日は、細い白線の欠片みたいなものが一本増えていた。


金属ではない。

光の残骸みたいな、白いタグ。

封印層の破片だろうか。

運営が張った格子の、折れた一本。


それが、眠っている間にインベントリに入っている。


「……これ、また落とし物ですか」


自分で言いながら、声に力がなかった。

落とし物、という言い方を使うたびに、言葉の壁が薄くなっていく。


最初は厚い壁だった。

何も見えなかった。

最近は壁の向こうの影が透けて見える。


影が見えているのに「壁がある」と言い続けるのは、もう限界に近い。


それでも使う。

使わないと、一気に近くなるからだ。


MINAは頷いた。


「そう。今は、それでいい」


でも今朝の「今は」は、もう本当に短かった。

朝一つ分すら、持つか分からない。


---


SABLEが近づいてきて、スクリーンを見せる。


「もう出てる」


掲示板だった。

流れは速い。

でも、核心だけははっきりしていた。


昨夜、NOXが止まった瞬間があった。


MUSEが半分だけ青ざめた顔で言う。


「あとこっち。上位連合側、ちょっと盛り上がってる。"今なら封じられる"派が増えた」


LEDGERはもっと冷たかった。


「最悪です。見込み違いの希望が、一番人を前へ出します」


その通りだった。


勝てないと分かっている相手には、人は慎重になる。

慎重さは臆病に似ているが、生存戦略だ。


一度でも「届くかもしれない」が見えた相手には、無茶をする。

無茶は勇気に似ているが、ただの判断ミスだ。


MINAは地面の薄い草を見下ろした。


昨夜、NOXは弱かった。

でも消えなかった。

押されただけだ。

そして深くなった瞬間、戻った。


その順番が、今朝の地面にも残っている気がした。

薄くなった草。

薄くなったけれど消えていない草。


それは昨夜のNOXと同じだ。

薄いけれど、なくなっていない。


悠は半分も分からないまま、小さく言う。


「……じゃあ、昨日はちょっとだけ、惜しかったんですね」


MINAはすぐには答えなかった。


惜しかった。

その言い方は間違っていない。


でも、その惜しさの条件が、この人の浅い眠りに乗っていることを、今はまだ言えない。


「あなたが眠れなかったから、世界が少しだけ安全だった」とは、どうやっても言えない。


だから短く返した。


「惜しいって言うと、たぶん、ちょっと違う」


「違うんですか」


「うん。代わりに、嫌なことが一個増えた」


悠はそれ以上聞かなかった。

聞けば増える。

その勘だけは、最近よく働く。


聞かなかったことに、今日は少しだけ感謝した。

聞いていたら、たぶん、もっと重いものを持つことになった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 56


`201:` 昨夜、NOX止まった瞬間あったよな?


`204:` あった。初めて"押せた"感じ見えた


`208:` でも結局戻された


`212:` 戻されたっていうか、後半の圧の方が重かった


`216:` 浅い時は弱いんじゃね? って言われ始めてる


`220:` それ、言うなって


`224:` でも実際、昨夜だけ明らかに出力違ったろ


`228:` 途中まではな


`232:` 途中までは、が一番怖い


`236:` 今なら封じられる派、上位連合で増えてるらしい


`240:` それ一番ダメなやつでは


`244:` 希望見えた相手って無茶し始めるからな


`248:` でも初めて"勝てるかも"が見えたのは事実


`252:` 勝てるじゃなくて、止まった瞬間があっただけだろ


`256:` それで十分人は勘違いする


`260:` てか寝てる初心者、今日あんま眠れてないらしいぞ


`264:` やめろその情報


`268:` いやでも、それと昨夜の弱さつながると最悪なんだが


`272:` 考えるな


`276:` でももうみんな考えてる


`280:` 怖いの、弱点見つかったことじゃなくて、その弱点の条件だよな


`284:` それ


`288:` "浅い眠りを待つ"って、もう攻略じゃなくて消耗待ちじゃん


`292:` 初心者エリアでやる話じゃない


---


訓練場跡の朝に、悠は立っている。


昨夜、夜は初めて押された。

そして押し返した。


その間にあったのは、ただ一つ。

深さだった。


浅い眠りの夜には、NOXは弱る。

でも、弱ることが救いになるとは限らない。


弱点が見つかるということは、

誰かがその弱さを待つということだからだ。


MINAは朝の風の中で、小さく息を吐いた。


今までの恐怖は、届かないことだった。

今朝からの恐怖は、届いてしまうことだ。


届く条件が、この人の消耗であるなら。

守ることと、待つことが、同じ方向を向いてしまうなら。


MINAは、まだその問いに答えを持っていない。

持っていないまま、三歩先に立っている。


上位連合は、昨夜の「止まった瞬間」を見た。

運営も見た。

信者たちも見た。

そして掲示板も、もう拾っている。


次の夜からは、世界の見方が変わる。


強すぎるNOXではなく、

弱る条件を持ったNOXとして見られ始める。


それは、守る側にとっても、壊す側にとっても、同じくらい危険だった。


そして、その中心にいる本人だけが、

いちばん単純なことを考えていた。


今夜は、ちゃんと眠れるだろうか。


その問いが、今までで一番危ない問いになっていた。


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