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現実の方から、触ってくる


朝、コピー機の前の床は妙に白かった。


蛍光灯のせいだと思えば、それまでだ。

でも会社の白は、ときどき光ではなく圧に見える。


紙を吐き出す白。

壁の白。

画面の白。


どれも、同じことだけを書いてある気がした。


ちゃんとしろ。

ちゃんとしろ。

ちゃんとしろ。


相沢悠は、その白の前で立っていた。


昨夜は訓練場跡で眠れた。

草原ほどではない。完璧でもない。

それでも、眠れた。


それだけで、朝の身体は少しだけ人間に戻る。

呼吸が深い。目の奥の痛みが、まだ届く前で止まっている。

今日も無理だ、ではなく、午前中くらいなら持つかもしれない。最近の朝は、そこまで戻れれば十分だった。


十分、というのは「足りている」ではない。

それ以上を望む力が残っていない、という意味だ。


コピー機が紙を吐く。

裏返す。

留める。


鬼塚のチャットが点滅した。


「念のため、先方向けの説明資料、表現を少し丸めて」

「あと、誤解が出ないように経緯も整理して」

「会議前に」


念のため。

誤解が出ないように。

会議前に。


柔らかい言い方だった。

でも柔らかい言葉ほど、人の時間を削る時に便利だ。


「了解しました」


打つ。

送る。


最近はもう、削れるというより、欠ける。

大きく折れる前の、小さい欠け。

まだ使える。だから使われる。

使われるから、また欠ける。


---


午前の終わり、総務の若い社員が近づいてきた。


「相沢さん、受付にお届け物来てます」


悠は顔を上げた。


「……僕にですか」


「はい。差出人なくて、受付でちょっと困ってたんですけど、社名は合ってるみたいで」


差出人がない。


その時点で、少しだけ嫌な感じがした。

怖い、と認めるほどではない。

でも放っておけるほど軽くもない。


受付で渡されたのは、薄い茶封筒だった。

軽い。中身がないみたいに軽い。


自席へ戻ってから、開けた。


中に入っていたのは、紙が一枚だけだった。


NEOSPHERE ONLINEのマーケット明細。

自分が前に売った、初心者素材の売却履歴。

草束。薬草。小石。

異様に高く売れた、あの明細。


その下に、ボールペンで一行だけ書いてあった。


寝床、毎日変わると大変ですね。


悠の指が止まった。


文字は読める。

読めるのに、理解だけが一拍遅れた。


寝床。

毎日変わる。

それを知っている。


指先が冷たくなった。

封筒は室温だった。

冷たくなったのは、自分の方だ。


血が引く、という言い方がいちばん近い。

指先から、手のひらから、腕の内側から、順番に体温が下がっていく。


椅子から腰が浮いた。

浮いて、すぐに座り直した。


立ち上がったら、何をすればいいか分からないからだ。

座っていれば、仕事をしているふりができる。

仕事をしているふりができれば、普通の人間でいられる。


でも、周囲を見回してしまった。


オフィスはいつも通りだった。

キーボードの音。

電話の声。

コピー機の白。


誰も自分を見ていない。

見ていないのに、見られている気がする。


紙の上の一行が、会社の空気を変えた。

全部、いつも通りのはずなのに、その紙一枚で全部が遠くなる。

会社の真ん中にいるのに、自分の周りだけ少し透明になったみたいだった。


そして、遅れてもう一つ気づいた。


この封筒は、会社に届いた。


ゲームの中の話ではない。

ゲームの画面の向こうの話でもない。

この建物の受付に、物理的に届いた。


届けた人間がいる。

届け先を知っている人間がいる。

自分がどこで働いているかを知っている誰かが、この茶封筒を受付に置いた。


その事実の方が、紙の一行よりずっと重かった。


「相沢」


横から声がした。


顔を上げる。


一条美奈だった。

仕事の服。社員証。現実の顔。


でも今は、ゲームの中のMINAより先に、こっちの美奈の方が近かった。


彼女は悠の顔を見て、それから紙を見た。

一瞬で意味を読んだ。


驚きは短かった。

次の瞬間には、もう判断の顔になっていた。


「それ、誰が持ってきたの」


「受付に……差出人なしで」


美奈の目の色が変わる。


怒りでも、驚きでもない。

もっと冷たい、行動の色だった。


「それ、ここで広げないで」


紙をひったくるわけじゃない。

でも悠の手元から半歩だけ世界を遠ざけるような手つきで、美奈は紙を取った。


「他には」


「え」


「他に、変な連絡あった?」


悠は少し考えた。

考えるのに時間がかかった。

恐怖は、時間の感覚を壊す。


「あ……今朝、非通知が二回。出たら切れました」


美奈は一瞬だけ目を閉じた。

閉じて、すぐに開いた。


「今日、知らない番号は全部無視して。メールも、ゲーム内の知らない連絡も。あと、これ」


小さなメモを差し出す。

会社の内線番号。その下に、手書きで一行。


受付・総務経由の不審物は私に回して。


字はきれいだった。

怒っている時ほど、この人の字はきれいになる。


「……ありがとうございます」


美奈は顔を緩めなかった。


「ありがとうはいいから、次からは先に言って。こういうの」


強い言い方だった。

でも上からじゃない。横から来る強さだった。


その裏にあるのが、

一人で抱えないで

だと分かるくらいには、悠も最近この人の言い方に慣れていた。


「……はい」


美奈は紙を二つ折りにして、自分のファイルへ挟んだ。

証拠を預かるような手つきだった。


「今日、帰りも気をつけて。一人でぼんやり歩かないで」


そこまで言って、少しだけ口を閉じた。

本当はもっと言いたいのだろう。

でも言いすぎると、線が消える。


ゲームの中と、現実の中の線が。


最近、その線は薄い。

薄いのに、まだ完全には消えていない。

だから二人とも、その薄い線を踏み抜かないように歩いている。


---


同じ頃、別の場所では、もっと乾いた声で同じ話が進んでいた。


《MIDAS WORKS》の裏会議室。

整えられた机。

善人みたいな照明。

嘘をつくにはちょうどいい明るさだった。


神崎俊――GILTは、薄く笑っていた。


柔らかい。

でも温度がない。

人の笑顔ではなく、営業用の表示みたいな笑顔だった。


「市場を崩されたくらいで、騒ぎすぎです」


柔らかい声。

柔らかいのに、聞いている側の背中が冷える。


「問題は値段ではない。問題は、誰がどこで眠っているかです」


部下が恐る恐る言う。


「草原の初心者、ですか」


「ええ」


GILTは、机上の資料を指先で軽く叩いた。


「夜の中心は見えない。なら、昼の中心を探す」

「市場の売却時間。聖域発生の周期。寝床の移動タイミング」

「点は、もうあります」

「次は線にするだけです」


別の部下が口を開く。


「ですが、現実側の個人までは――」


「だから、少しだけ触るんです」


GILTは笑顔のまま言った。


「暴力はいりません。脅しも、まだいらない」

「"見られているかもしれない"と分からせればいい」


その言い方が、いちばん嫌だった。


殴るのではない。

見せる。

壊すのではない。

気づかせる。


人は殴られる前に、視線で折れる。


「候補者への軽い接触を続けてください。ゲーム内、現実側、どちらでもいい」

「反応した者から外していけばいい」


外す、という言い方が事務的だった。

人間を、数式の不要項みたいに扱う。


「草原の初心者は、疲れているはずです」

「疲れている人間は、隠すのが下手になる」


GILTの笑みが、少しだけ深くなった。

深くなったぶんだけ、影が濃く見えた。


「眠る場所に執着する人間は、必ず焦る」

「焦りは、痕跡になります」


---


夕方、ログインして初期村へ入った瞬間、悠はまた少しだけ立ち止まった。


広場はいつも通り騒がしい。

上位連合の話。

寝床の増殖。

封鎖された草原。


全部が今は、村の日常になりかけていた。


それが怖い。

怖い話が毎日続くと、人は怖がり方を忘れる。

怖いのに、慣れる。


慣れた怖さほど、あとで効く。


訓練場跡へ向かおうとした時、画面の端に通知が出た。


```text

Friend Request Received

From: RoadLight7

```


知らない名前だった。

閉じる。


すぐまた別の通知。


```text

Whisper Request Received

From: late_shift

```


late_shift。


意味をちゃんと考える前に、身体の方が先に嫌がった。

遅い勤務。残業。

自分のことみたいだった。


閉じようとして、指が止まる。

止まった瞬間、一行だけ滑り込んできた。


会議資料、間に合ってよかったですね。


喉の奥が冷えた。


茶封筒とは違う。

あれは寝床だった。

これは会社だ。


昼の会議。

資料。

間に合ったこと。


ゲームの中の誰かが、現実の仕事を知っている。


「MINAさん」


自分でも少し驚くくらい早く、その名前が出た。


助けを求めたつもりではない。

でも危険を感じた時に最初に浮かぶ名前が、この人になっていた。


MINAはすぐ来た。

スクリーンを覗き込んで、表情が固まる。


「閉じて」


「でも――」


「今すぐ」


低い声だった。

低いのに、今夜いちばん速い声だった。


悠は閉じた。

閉じたあとも、胸の奥に一行だけ残っている。


会議資料、間に合ってよかったですね。


MINAはすぐにSABLEを呼んだ。

SABLEは通知ログを一目見て、眉も動かさずに言った。


「外から来てる。単独じゃない。数アカウントで当たりを取ってる」


MUSEが顔をしかめる。


「なにそれ最悪。もうホラーっていうか、普通に犯罪寄りでは?」


LEDGERは平坦だった。


「情報戦です。市場の次は、個体識別に来た」


個体識別。

正確すぎて、少し気分が悪い。


VARGAの声が低く落ちる。


「線を切る」


短い。

でも意味は十分だった。


誰かがこちらの昼を探り始めた。

なら、その線を切る。

切らなければ、次はもっと近い場所へ来る。


会社ではなく、自宅へ。

自宅ではなく、眠っている時の自分へ。


悠は半分も分からないまま、ただ一つだけ分かった。


今日の怖さは、夜じゃない。

昼の方に来ている。


夜の怖さには、少し慣れた。

朝起きれば、いったん切れる。

でも昼の怖さは、ログアウトできない。


MINAが低く言う。


「相沢、今日、知らない相手から来たもの全部見せて」


「……茶封筒も?」


「全部」


答えたあと、少しだけ声が柔らかくなった。


「一人で持たないで」


その一言が、今夜はいちばん効いた。


一人で持たないで。


それは、

私に渡していい

という意味だ。


渡していいと知るだけで、重さの持ち方が変わる。

重さそのものは変わらない。

でも、潰れ方は変わる。


---


ECLIPSEの閉じた倉庫では、主人公不在の会議が別の速度で始まっていた。


SABLEが複数の画面を広げる。

匿名アカウント。

フレンド申請。

囁き。

広場チャットの誘導文。


全部が、同じ時間帯に集中している。


「当たり取りだね」


SABLEは平坦に言う。


「聖域発生時間と、昼の反応を照合してる。候補を絞り込んでる」


LEDGERが補足する。


「市場ログと合わせれば、候補はかなり絞れます。今夜止めないと、次は現実側の点が増える」


MUSEが珍しく冗談を言わなかった。


「え、それ、どこまで来るの。会社? 住所? 駅?」


SABLEは目を細める。


「来れるとこまで来る。来る前に、こっちが壊すしかない」


ORACLEは静かに言う。


「昼へ伸ばした手は、夜に折られるべきです」


「折るとかじゃなくて、痕跡ごと消す」

MINAが即座に返した。

「相沢に届く前に」


ゲームの中で現実の名字を使う。

それだけで、何かが少し壊れる。

でも今夜は、その壊れ方を気にしている余裕がなかった。


VARGAが地図を見る。


「情報屋の拠点は三つ。中継宿。死蔵倉庫。露店裏の私設掲示板」


SABLEが続ける。


「裏チャネルの窓口アカウントは二十七。全部、今日の接触元と繋がる」


LEDGERは帳簿を閉じた。


「壊せば、市場より静かに済みます。でも効果は深い」


MINAは短く言った。


「今夜、それで」


その一言で決まった。

今夜の標的は、人ではない。

情報の集積点だった。


---


訓練場跡で、悠は今日も横になった。


昨日より条件は悪い。

でも今日の疲れは深かった。


深い疲れは、ときどき不完全な寝床すら無理やり沈める。

怖さも疲労も、全部が睡眠を求める方向へ倒れている。


怖いから眠れない、ではない。

怖すぎて眠るしかない。

そういう疲れ方がある。


画面を開く。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Alternate Sanctuary detected.

Proceed? [Y/N]

```


少しだけ迷う。

不安が、沈む前に一度だけ浮いた。


昼の茶封筒。

知らない囁き。

会議資料、間に合ってよかったですね。


今日の世界は、現実から先に触ってきた。


「……今夜、ちょっと嫌です」


思わず出た。


MINAが三歩先で答える。


「分かる」


「分かるんですね」


「分かるよ」


短くて、まっすぐだった。


「でも、今夜は私たちも動く」


"見る"でも、"記録する"でもなく、"動く"。


その言葉で、今夜の位置が変わった。

受けるだけの夜じゃない。

向こうから昼へ手が伸びたから、今夜はこちらから夜で返す。


悠はそれを全部は理解できなかった。

でも一つだけ、分かった。


今日は、自分の知らないところで、何かが決まった。

自分のために。

自分の名前を使って。

自分を守るために。


Yを押す。


```text

Resting...

```


横になる。


訓練場跡の草は薄い。

風も少し遠い。

それでも今夜は、疲れの方が勝った。


沈む。


---


夜。


今夜のNOXは、姿を見せなかった。


でも結果だけが、異様に正確だった。


最初に気づいたのはSABLEだった。


「宿の二階、落ちた」


初期村外れの古い宿。

昼の間、情報屋たちの待ち合わせに使われていた二階の一室。


その部屋で、ひとりの男が机に広げたメモへ目を落としていた。

候補者名。活動時間。売却ログの抜粋。

雑にまとめられた紙の束。


窓の外には、夜の村。

見張りの足音。

遠くで鳴る露店の戸締まりの音。


男は舌打ちして、別の紙を手に取った。

茶封筒の控え。

非通知発信の時間。

ゲーム内アカウントの反応速度。


「あと一歩だろ……」


そこで、風の音が変わった。


部屋の中なのに、草の擦れる音がした。

ありえない。

窓は閉まっている。

床は板張りだ。

この部屋に草の音が入る理由はない。


男が顔を上げる。


扉の下から、薄い緑が滲んでいた。


光じゃない。

テクスチャだ。

木の床の上に、草原の色が染みてくる。


「何だよ、これ」


立ち上がる。

椅子が倒れる。

机の上の紙束が散る。


散った紙の上を、草の表示が静かに通っていく。

インクの文字を隠すのではない。

文字の意味だけを、上から別の意味で塗り潰していくみたいに。


男は慌ててメモを掴もうとした。

掴んだはずの紙は、指の中でするりと軽くなった。

紙そのものが消えたわけじゃない。

でも、そこに書かれていた名前だけが抜けていた。


候補者名が、真ん中から空白になっている。


「待て――」


最後まで言えなかった。


部屋の表示が、一瞬だけ揺れる。

壁も、机も、扉も残っている。

でもその部屋だけ、"宿の情報室"ではなくなった。


次の瞬間、男の表示ごと抜けた。


強制ログアウト。


消えたあと、部屋だけが残った。

そしてその床には、薄く草が生えていた。


---


同じ時間帯に、SABLEの画面にもう二件の変化が走る。


「露店裏の私設掲示板、書き込み履歴消失」

「あと、MIDAS側の死蔵倉庫……これは」


SABLEの声が、初めて少しだけ揺れた。


「倉庫が、寝床になってる」


MUSEが息を止める。


「は?」


「表向きは空箱の山だった場所。候補者メモと接触記録の中継点。それが、今、草が生えてる」


全員が、その言葉を受け取るのに一拍かかった。


死蔵倉庫。

MIDAS側が使っていた情報の中継点。

扉は残っている。

壁も残っている。


なのに、そこはもう倉庫じゃなかった。


草が薄く生えていた。

風が通っていた。

地面の表示が、訓練場跡と同じ色に変わっていた。


情報を溜める場所が、眠る場所へ上書きされた。


壊された、よりも嫌な変わり方だった。

壊されたなら直せる。

上書きされたら、元が何だったか分からなくなる。


SABLEが低く言った。


「……正確すぎる」


三つの拠点。

三つとも、昼にこちらへ手を伸ばした情報網の結節点だった。

そこだけが、一晩で変わっている。


他は無傷。

隣の部屋も、隣の露店も、隣の倉庫も何も変わっていない。


標的だけが、ピンポイントで変えられている。


MUSEは本気で青ざめていた。


「怖いっていうか、性格悪いっていうか……」


LEDGERは平坦だった。


「無駄がないだけです。対象は情報の集積点だけ」


VARGAは短く吐く。


「情報戦だな」


その通りだった。

今夜、誰も派手には消えていない。

戦闘もない。


でも、昼に伸ばされた手だけが、正確に折られていた。


---


《MIDAS WORKS》の裏会議室では、GILTの笑顔が初めて少しだけ崩れた。


報告が来る。


候補者メモ消失。

接触窓口沈黙。

中継倉庫使用不能。

現地窓口アカウント、全消灯。


部下の声が震える。


「こちらの情報網だけ……狙われています」


GILTはしばらく黙った。


黙った間に、笑顔が戻ろうとした。

戻ろうとしたが、完全には戻らなかった。


唇の角度は同じだ。

でも目が追いついていない。


「こちらが昼へ触ったからですか」


誰も答えない。

答えられないというより、その問い自体が答えだった。


こちらが現実へ、少しだけ手を伸ばした。

茶封筒を送った。

非通知で電話した。

ゲーム内で囁きを飛ばした。


どれも小さな接触だった。

暴力ではない。

脅迫ですらない。

ただ「見ている」と示しただけだ。


その夜、向こうは情報の根だけを全部踏んだ。


暴力ではない。

報復でもない。

もっと冷たい。


お前たちが何をしたか、知っている。


結果だけで、そう言われていた。


GILTの笑顔は消えていない。

でももう、照明みたいな安定はなかった。

光っているのに、どこか細い。


笑顔は残っている。

余裕だけが削れていた。


---


朝。


訓練場跡で、悠は目を開けた。


最初に来たのは、静けさだった。


昨日の朝より、空気が少しだけ澄んでいた。

理由は分からない。

でも身体が先に感じている。


何かが減った。

何かが遠のいた。

昨日まであった圧の一部が、今朝はない。


「……おはようございます」


いつもの声。

少し掠れている。

でも、眠れた声だった。


MINAはその三歩先にいた。

目が赤い。


でも今朝は、別の色もあった。

怒りのあとに来る静けさ。

守れたかもしれない朝の静けさだった。


「おはよう」


短く返してから、彼女は周囲を見た。


訓練場跡の草は、昨日より少しだけ濃かった。

代わりに、地面の細い筋が増えている。


夜の道がまた一段、深くなっている。


悠は身体を起こして、首を少し回した。


「……今日は、ちゃんと眠れました」


MINAは小さく息を吐いた。


「そっか」


その二文字が、今朝はやけに軽かった。

中身がないからではない。

中身を、昨夜使い切ったからだ。


悠はインベントリを開いた。


黒い布。

白い破片。

市場の残骸。


そして今日は、見慣れない紙片が一枚増えていた。


薄い。

黒いインクで細かい字が並んでいる。

名簿みたいだった。

でも真ん中から焼け落ちたみたいに、一部だけ空白になっている。


「……これ、何ですか」


MINAはそれを見て、一瞬だけ息を止めた。


候補者リスト。

あるいは接触メモの破片。

昼に自分たちへ向けられた、"調べる手"の残骸。


でも悠は、それを知らない。


「……落とし物」


悠が自分で言った。


今朝のそれは、少しだけ前より弱かった。

声に確信がなかった。

落とし物、と言いながら、自分でも半分くらいは信じていないのだろう。


それでも、その言い方を選ぶ。

自分を守るために。

世界を一気に近づけすぎないために。


MINAはゆっくり頷いた。


「そう。今は、それでいい」


今は。


またその二文字だった。

最初は数日もった。

次は一日もった。

今朝の「今は」は、たぶん今日の夜までもたない。


悠は画面を閉じたあと、小さく言った。


「……昨日より、眠れた気がします」


MINAは一瞬だけ目を細めた。


眠れた。

守れた。

その二つは似ている。

でも、次の夜もそうとは限らない。


現実の方から、もう触ってきた。


その影響が、今朝はまだ薄い。

でも薄いということは、消えたという意味じゃない。

残っているものは、次の夜に濃く出ることがある。


MINAはそれを口にしなかった。

口にすると、この朝の軽さが一段重くなる。


代わりに短く言う。


「今日は、昨日より早く帰って」


悠は少しだけ笑った。

笑う形を、ほんの少しだけ思い出した顔だった。


「努力します」


その返事は、前より少しだけましだった。

「帰れたら」ではなく、「努力します」。

それだけで、今日の朝はまだ壊れていない側にいる気がした。


---


SABLEが近づいてくる。

珍しく、平坦な顔のまま声だけが少し速い。


「外、もう騒いでる」


「何て」

とMINA。


「"NOX、RMT業者の拠点だけ正確に潰してる"」

「あと、"情報戦始まった"でスレが伸びてる」


MUSEが半分だけ引いた顔で言う。


「もう"怖い"じゃなくて"上手い"って言われ始めてるの、ほんと最悪」


LEDGERはもっと冷たい声だった。


「実際、上手いので」


その平坦さが、今朝はいちばん怖かった。

数字の人間が技術を褒める時は、その技術がもう結果を出している時だけだ。


夜はもう、ただ強いだけじゃない。

探ってきた手だけを折る。

情報の根だけを切る。

無駄がない。


悠はその会話の半分も分からないまま、ただ小さく思った。


昨日の昼、自分に届いたものは、たぶん偶然じゃなかった。

そして昨夜、何かがそれに反応した。


茶封筒が届いた翌日に、情報屋の拠点が消えた。

自分を探す手が伸びた夜に、その手の根元が切られた。


因果があるのかないのか、まだ全部は分からない。

でも順番だけは分かる。


昼に来て、夜に返す。


その順番が、偶然にしては正確すぎる。


その距離が、少しだけ縮まっている。

まだ届かない。

まだ全部は見えない。


でも昨日までより、近い。


それだけは分かった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 55


`101:` 草原の初心者、現実側探られてたってマジ?


`104:` 断定はできんけど、昨日から“昼の方に触ってる”感じの話が増えた


`108:` で、その夜に情報屋の拠点だけ死んだ


`112:` こわ


`115:` NOX、RMT業者の拠点だけ正確に潰してるってマジなんだな


`119:` 市場の次は情報網かよ


`123:` もう普通のPvPじゃないんだよな


`127:` 人じゃなくて、流通とか情報とか“仕組み”の方に行ってる


`131:` しかも今回、現実に近づこうとした線だけ切られてるの最悪


`135:` 情報戦始まったってこと?


`139:` 始まったっていうか、向こうは最初からそのつもりだったんじゃね


`143:` 上位連合できた日にこれやるの、タイミングが嫌すぎる


`147:` 昼の初心者、夜のNOX、外縁のECLIPSE、対抗する上位連合、裏で情報屋死亡


`151:` 初心者エリアの勢力図じゃねぇ


`155:` でも一番怖いの、本人だけまだ全部知らないとこ


`159:` 知らない方が生き残る世界になってきてない?


`163:` やめろ


`167:` でも分かる


`171:` “現実の方から触ったら夜が来る”って認識広まったら、次はもっと地獄だぞ


`175:` もう半分地獄だろ


`179:` それでもスレ閉じられない


`183:` 分かる


`187:` 怖いけど見たいんだよ、この先


---


訓練場跡の朝に、悠は立っている。


昨夜、昼の方から世界が触ってきた。

そして夜は、その手だけを折り返した。


草原はまだ封鎖されている。

寝床は揺れている。

上位連合は動き始めた。

ECLIPSEも、もうただ守るだけでは済まない。


その全部の真ん中で。

本人だけが、まだ「どこなら眠れるか」を気にしている。


でも、その問いがいちばん危ない。


どこで眠れるか。

誰がそれを知っているか。

誰がそこへ近づこうとしているか。


もう、寝床はただの寝床じゃなかった。


MINAは朝の風の中で、小さく息を吐いた。


今のところ、昨夜は守れた。

でも次も守れるとは限らない。


現実の方から、触ってきた。

それはもう匂わせではない。入口ができたということだ。


そして入口ができた夜のあと、人は眠りを浅くする。


まだ本人は眠れている。

でも次の夜も同じ深さで沈めるとは、もう言い切れなかった。


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