初心者クエのつもりが"儀式"扱い
朝の六時に目が覚めた。
正確には、目が覚めたのではなく、スマホのアラームに叩き起こされた。三回目のスヌーズ。画面に「06:18」と表示されていて、計算が合わない。最初のアラームは五時半だったはずだ。四十八分間、悠はアラームと戦い続けていたことになる。
負けたのは悠のほうだ。アラームは何度殴っても死なない。人間より頑丈にできている。
布団から身体を引き剥がす。シャワーを浴びる時間はない。昨日のワイシャツの匂いを嗅ぐ。——まあ、いける。「いける」の基準が週を追うごとに下がっている自覚はある。
キッチンに立つ。冷蔵庫を開ける。マヨネーズと水と、賞味期限が二週間前に死んだ納豆。閉める。
コンビニで買う。それでいい。それしかない。
玄関で靴を履く。鏡は見ない。見ると負ける。
駅までの道を歩く。七月の朝はもう暑い。汗が首筋を伝う。スマホが鳴る。チャット通知。
鬼塚からだった。
「昨日の資料、確認した。修正箇所まとめたから、今日中に反映して」
添付ファイル。開く。修正箇所が二十三個。
二十三個。
昨日、退勤したのが二十三時。帰宅が零時。VRギアをつけて、ネオスフィアの草原で眠りに落ちたのが一時前。
つまり鬼塚は、悠が寝ている間にも資料を読んでいた。そして二十三個の修正を見つけた。寝ないのか、この人は。寝なくても生きていけるのか。
「了解しました」
打って、送る。指が重い。
電車に乗る。座れない。吊り革に掴まりながら、昨夜のことを考える。
草原。風。草の匂い。寝落ちた瞬間の、あの「沈む」感覚。
——あれは、良かった。
今の自分が持っている「良かった」が、仮想空間の草原で寝たことだけだという事実は、考えないことにする。
会社に着く。鬼塚の席は悠の三メートル前にある。背中が見える。背中から圧が出ている。人間の背中から圧が出ることを、悠は入社して三ヶ月で学んだ。
「相沢」
振り返らなくても分かる声。
「修正、午前中な」
午前中。二十三個を。
「……はい」
返事をする。返事だけは得意だ。返事だけが、自分にできることだ。
パソコンの電源を入れる。画面が立ち上がるまでの数秒間、悠は目を閉じた。
草原の風が——ほんの一瞬だけ、頬に触れた気がした。
(夜まで。夜になれば、眠れる)
それだけを支えに、悠は午前を始めた。
---
帰宅した時、時計はもう日付を跨いでいた。
シャワーを浴びる気力もなく、床に座り込んで、白い箱を見た。
VRギア。ネオスフィア対応。睡眠モード搭載。
悠は立ち上がって、箱からギアを取り出した。
深呼吸を一回。息を吐く。
眠りたい。
ただ、それだけだ。
ギアを被る。
視界が暗転して、次に開けた時、草原はもう朝だった。ネオスフィアの時間は現実より早いらしい。
---
草原で目を開けた瞬間、まず思ったのは——よく寝た、だった。
昨日より深い。意識が沈んだまま、浮かんでこない夜があった気がする。現実なら怖い。呼吸が止まったんじゃないかと不安になる。でもここだと、沈んだことが安心に変わる。底に着くことが、救いに変わる。
理由は分からない。分からなくていい。
風が草の匂いを運んでくる。遠くで鳥が鳴く。世界が静かだ。
静かすぎて——逆に、気づいた。
草原の端。丘の陰。木の影。
人影がいくつもある。
誰かがこちらを見ている。近づいてはこない。けれど、逃げもしない。距離を保ったまま、じっとこちらを見ている。配信の切り抜きでも回ったのだろう、物見遊山の輪ができていた。動物園の檻の前に立つ客みたいだ。檻の中にいるのは自分だ。
(……見張られてる?)
昨夜、眠りに落ちる直前に聞こえた声を思い出す。
「見ろ。寝てる」
「本当に、寝てるだけだ……」
寝ているところを見学される趣味はない。というか、そんな趣味は人類にない。
YUは立ち上がって、草を払った。背中に草の跡がついている。服を叩く。アバターの服に草の跡がつく仕様があるのか。細かい。変なところが細かいゲームだ。
インベントリを開く。
——開いて、固まる。
見覚えのない素材が増えている。昨日よりも、明らかに。
金属片が三個。色の違う宝石が二個。名前の長い薬草が四束。それに、黒い羽根みたいなアイテムが一枚。
取得方法は、どれも `Acquisition: Unknown`。
(……何これ)
拾ってない。買ってない。誰かにもらった覚えもない。なのにインベントリにある。昨日の `NIGHT'S TOOTH` と同じだ。寝ている間に、何かが勝手に増えている。
ゲームにはそういう仕組みがあるのだろう。スリープモード中にボーナスが溜まるとか。放置報酬というやつだ。最近のソーシャルゲームにはよくある——と、同期が言っていた気がする。
(初心者サポート、やりすぎじゃない?)
そう思うことにする。そう思っていないと、心臓が嫌な音を立てる。
画面の端に、通知がまた出た。
```
System Notice:
Resting record for [01:07 - 05:52] could not be retrieved.
Data partially corrupted.
```
——深夜一時七分から、朝の五時五十二分。
休息記録だけが、また取れない。
(ベータ版だし……バグだろ)
昨日と同じことを思う。同じ言い訳が二日連続で必要になっている。三日目も同じだったら——いや、考えるのはやめよう。
YUは草原を離れ、初期村へ向かった。遠巻きの人影が、少しだけ動いた。ついてきている。見ないふりをする。現実でもゲームでも、見ないふりは得意だ。
村に近づくにつれ、人の気配が増える。門が見えた瞬間、昨日と同じ空気が待っていた。
視線。ざわめき。道が割れる。
(今日もか)
YUは俯いたまま、なるべく早足で通り過ぎようとした。会社の廊下を歩くときと同じだ。目を合わせなければ話しかけられない。足を速めれば追いつかれない。——という理論は、現実では三割くらい通用する。
ゲームでは通用しなかった。
「おはようございます。YU様」
背後から、やけに丁寧な声が追いかけてくる。声のトーンが整いすぎている。カスタマーサポートの電話口みたいだ。ただし、カスタマーサポートは客に「様」をつける。ゲームのプレイヤー同士で「様」は異常だ。
振り返りたくない。でも呼ばれている。しかも道のど真ん中で。無視したら目立つ。目立ちたくない。
仕方なく、YUはほんの少しだけ顔を上げた。
そこにいたのは、白いローブのプレイヤーだった。
装備は派手ではない。杖も持っていない。魔法使い風のローブだが、戦闘用というより儀式用に見える。問題は装備ではなく、目だった。
目が、妙に落ち着いている。
昨日の土下座集団のような興奮がない。熱に浮かされていない。むしろ——静かに、深いところで燃えている。薪が燃えるのではなく、地下のマグマが光っているような目。
この手の目を、悠は知っている。会社にもいる。プロジェクトが炎上しているのに、一人だけ静かに笑っている先輩。あれは狂気だ。
「……あの、すみません。様はやめてください」
反射で出た。いつもの「すみません」。便利な日本語。万能な白旗。
言った瞬間、周りの空気が吸い込まれた。
ローブのプレイヤーは、すぐに頭を下げた。深い。腰から折れている。
「失礼いたしました。呼称は重要です。言葉は形であり、形は意味であり、意味は存在を規定します。不適切な呼称は、存在を歪める——」
(長い。長いし怖い)
「えっと……僕、寝るだけなので」
いつもの逃げ口上を出した。この台詞は昨日から三回目だ。「寝るだけ」が自分のキャッチフレーズになりつつある。嫌なキャッチフレーズだ。
ローブのプレイヤーの目が、さらに輝いた。
「……"寝るだけ"」
彼は、その言葉を噛みしめるように反芻した。舌の上で転がしている。グルメ番組の審査員が高級ワインを味わうときの顔だ。
何かを確かめるように小さく頷いて、彼は一歩引いた。
「承知しました。——では、本日の"行"は、どちらへ」
(行?)
行って何だ。修行の行か。苦行の行か。どっちにしろ嫌だ。
YUは考えた。今日やりたいことを、正直に考えた。
昨日から所持金が増えた。宿屋に泊まれるかもしれない。草原は眠れるが、視線が怖い。室内で眠れるなら、そっちのほうがいい。そのためには金がいる。金を稼ぐには——クエストだ。たぶん。
「……初心者クエスト、やってみようかなって」
それだけだった。
ローブのプレイヤーは、一拍置いた。
長い一拍だった。
世界が止まったような一拍の後、彼は深く——本当に深く——頷いた。大地の底まで届くような頷きだった。
「——"初心者"」
小さく呟いて、彼は胸の前で手を組んだ。祈りの姿勢。いや、宣誓の姿勢。何かが決まったときの姿勢だ。
「皆様。お聞きになりましたか」
(皆様?)
振り返って、YUは後悔した。
いつの間にか、広場に人が集まっていた。昨日の土下座よりは少ないが、同じ腕章をつけた影が増えている。全員がこちらを見ている。土下座未満、正座以上の姿勢で、呼吸を止めている。
ローブのプレイヤーは、その空気に向かって宣言した。
「本日、YU様は"初心者の道"を示されます」
声が広場に響く。反響する。静けさが音を増幅している。
「弱き者の歩みに、我々は学ぶべきです」
(何言ってるんだこの人)
言い返す前に、ローブのプレイヤーは自分の頭上の名前表示を指差した。
`ORACLE`
嫌な予感しかしない。
嫌な予感しかしないのに、周囲が穏やかに頷いている。嫌な予感を感じているのは自分だけだ。自分だけが正気で、周りが全員おかしい——という状況は、会社でもよくある。企画会議で「このスケジュール無理です」と思っているのが自分だけ、という地獄。あれと同じ匂いがする。
---
クエストを受けるために、YUは掲示板の前に立った。
掲示板は村の広場の端にある。木の板に羊皮紙が貼ってある。近づくとUIが反応して、クエスト一覧が浮かんだ。
操作はよく分からない。チュートリアルをスキップしたツケが回ってきている。でも直感で触れる設計らしく、一覧をスクロールするとそれらしいものが見つかった。
```
BEGINNER QUEST
Collect: Dreamleaf ×10
Location: Whispering Woods (East)
Reward: 800G
```
(ドリームリーフ……夢の葉?)
クエストの名前が、自分の状況に寄りすぎている。偶然だ。偶然に決まっている。
(800G。宿屋一泊、いけるかな)
受注ボタンを押した。
その瞬間、背後が波打った。
「夢の葉……」
誰かが呟いた。
「やはり……」
別の誰かが続いた。
「眠りを司る儀式だ……」
(初心者向けの採取クエストだろ)
ORACLEが、穏やかに頷いている。穏やかすぎて怖い。台風の目の中にいる人の穏やかさだ。
YUは逃げるように村を出た。
足音がついてくる。
一つ。二つ。三つ。四つ。もっと。
振り返らない。振り返ったら何かが確定してしまう気がする。観測しなければ、ついてきていないことにできる。
草原の端に、細い小道があった。その先に低い森が広がっている。木々の間から光が漏れている。クエストマーカーが、そこを指していた。
`Whispering Woods`
囁きの森。名前まで不穏だ。
森の入り口で、ORACLEが静かに言った。
「ご安心ください。——我々は"見守るだけ"です」
見守る、という言葉を信用できない理由が、悠には山ほどあった。会社でも「見守ってるから」と言った上司は、三日後に「なんで相談しなかったの」と詰めてきた。見守りは監視の言い換えだ。
(見守るだけでこの人数は要らないんだよ)
言えない。言えないまま、YUは森に入った。
薄い影が落ちる。光が木漏れ日に変わる。湿った土の匂い。葉が揺れる音。苔の柔らかさが足裏に伝わる。
——良い場所だ。
不覚にも、そう思った。現実の公園とは匂いが違う。観葉植物とも違う。もっと生きている匂い。呼吸している匂い。土が息をしている。
奥に進むと、クエストマーカーが点滅した。足元に、小さな青い葉が群れている。葉脈が薄く光っている。
`Dreamleaf`
YUはしゃがんで、そっと手を伸ばした。指先が葉に触れる。ひんやりして、少しだけ湿っている。摘む。茎が短く折れる音がする。
その瞬間。
背後で、誰かが息を呑んだ。
次いで、地面に膝がつく音。
布が擦れる音。金属が鳴る音。
また、膝。
また、膝。
(……まさか)
恐る恐る振り返ると、森の入り口に集まった人たちが——全員、頭を下げていた。
採取しているだけなのに。
葉っぱを摘んだだけなのに。
ORACLEが、感極まったように囁いた。
「……"摘む"」
彼は、何かをメモしていた。手元に薄いUIパネルを開いている。速記している。速記するような内容ではない。
「神は"夢"を選び取る。己の手で、一枚ずつ。——良い教えです」
(教えじゃない。ただの採取作業だ。800Gのために葉っぱを摘んでるだけだ)
言い返す気力がなかった。言い返しても変換される。何を言っても「神託」にされる。入力と出力が一致しないコミュニケーションは、会社で十分に経験している。
YUは無言で摘み続けた。
一枚。二枚。三枚。指が覚える。摘んで、入れて、摘んで、入れて。単純作業。頭を使わない。誰にも怒られない。納期もない。修正もない。クライアントの「念のため」もない。
七枚目を摘んだあたりで、思わず口からこぼれた。
「……これ、仕事より楽だな」
独り言だった。独り言のつもりだった。
背後の空気が凍った。
森の中の虫の声まで止まったように感じた。
ORACLEのペンが止まっていた。
顔を上げていた。目が見開かれていた。
長い沈黙。
ORACLEの唇が、震えながら開いた。
「……仕事より、楽」
彼は、その言葉を空気の中に置くように、ゆっくりと繰り返した。
「仕事より——楽」
周囲が泣きそうな顔をしていた。なぜ泣きそうなのか分からない。
ORACLEが目を閉じた。深く息を吸い込んだ。胸の前で手を組み直した。
そして、静かに——しかし一切の揺らぎなく——言った。
「——苦役を、拒め」
森が、震えた。
「苦役を拒め。——それが、神託です」
(違う)
「神は、夢の葉を一枚ずつ摘みながら、我々に示された。苦しみの労働より、静かな一歩のほうが尊い。搾取に従うな。消耗を受け入れるな。自分の手で、自分の"夢"を——」
(違うって。仕事の愚痴が出ただけだって)
言えなかった。言える空気ではなかった。
周囲のプレイヤーが、涙を流していた。
(泣くこと……ある?)
でも——「仕事より楽」が誰かを泣かせるなら、この世界には、自分と同じように「仕事」に殺されかけている人が、たくさんいるのかもしれない。
その想像が、少しだけ胸に刺さった。
刺さったことを認めたくなくて、YUは黙って残りの三枚を摘んだ。
```
Quest Complete: Dreamleaf ×10
```
通知が出た。終わった。帰ろう。
---
森を出ると、道がまた割れていた。
左右に人が並んでいる。整列している。花道だ。見守りの人たちが、見守りの姿勢で——つまり直立不動で——YUが通るのを待っている。
(見守りってそういう意味じゃないだろ)
YUは俯いたまま歩いた。広場へ戻る。ORACLEが半歩後ろについて歩いている。上司の距離ではない。秘書の距離だ。報告を待っている距離。
「本日の"行"、誠に見事でした」
「……ただの採取です」
「ええ。だからこそ、です」
ORACLEは真剣な目で言った。
「強者の剣は、敵を倒します。しかし、弱者の一歩は、世界を照らします」
(照らしてない。葉っぱを摘んだだけだ)
「あなたは、"初心者の一歩"で——世界を動かされた」
(動いてない)
言い返すのを、諦めた。
ORACLEのメモ帳には、もう何行もの文字が書き込まれていた。さっきの「仕事より楽」も、きっとそこに記録されている。加工されて、変換されて、元の形が分からなくなった言葉として。
(僕の愚痴が"教典"になるのか……)
背筋が寒くなった。
---
宿屋の前に着いた。
ポケットの中の報酬を確認する。
```
+ 800G
```
(よし。泊まれる)
今はそれだけで十分だ。室内で眠りたい。壁と屋根が欲しい。視線を遮るものが欲しい。草原は良い。でも今夜は——壁の内側で眠りたい。
そう思って宿屋の扉に手をかけた瞬間、視界の端に異質な色が入った。
宿屋の前に人がいた。昨日より増えている。いつもの「見守り」組もいるが、それとは別に——妙に物騒な装備の集団が混じっていた。
鎧が傷だらけだ。武器が黒い。
雰囲気が荒い。村の牧歌的な空気と噛み合っていない。ファミレスに暴走族が入ってきたときの、あの温度差。
YUの足が止まった。
その集団の先頭にいた男が、こちらを見て笑った。
会社の飲み会で、一番声が大きい人。上座に座って後輩の失敗談を笑い話にする人。笑っているのは本人だけで、周りは笑わされている——あの笑い方。
胃が縮んだ。
「おーい。お前が"寝てただけの王"か?」
声が大きい。広場に響く。周囲の「見守り」組が、ぴくりと動いた。
(王って言うな)
「寝てただけって言う割に、朝から盛り上がってんなぁ。なあ?」
集団が笑う。笑い声が重なる。
ORACLEの表情が固くなった。
「失礼ですが、あなた方は——」
先頭の男が鼻で笑った。
「確認しに来ただけだよ。草原。今夜も寝るんだろ?」
顎でYUを示す。値踏みするような目。
「見に行こうぜ。先に何人か行かせてっからさ」
(先に——何人か?)
「今夜は下見。明日は本隊で来るわ」
掲示板の文字が、頭の中で再生された。
「PKギルドが"草原行くわ"って配信で言ってた」
(こいつらか)
理解した瞬間、恐怖より先に疲労が来た。
またか、と思った。
現実では上司に追われ、ゲームでは信者に囲まれ、その上PKにまで絡まれる。逃げ場を探して来たのに、逃げ場にも人がいる。どこへ行っても人がいる。どこへ行っても何かを要求される。
(寝たいだけなのに)
口が動いた。反射だった。
「……僕、寝るだけなんで。見に来ないでください」
静かだった。
自分の声なのに、自分のものじゃないみたいに聞こえた。疲れすぎると、声が薄くなる。感情が抜け落ちる。丁寧なのに冷たい、あの声。限界のときに出る声。
広場が一瞬止まった。
ORACLEが息を吸った。深く、長く。
「——"見に来ないで"」
彼の声は祈りに近かった。
「"眠りを覗くな"。聖域を侵すな。——これは警告です」
(警告じゃない。お願いだ)
でもORACLEの目は、もう「お願い」を「神託」に変換し終えていた。メモ帳のペンが動いていた。また一行増えた。
荒い集団は、さらに笑った。
「おもしれぇ。じゃあ見に行くわ。今夜な」
言い残して、集団は村の門を出ていった。
YUは動けなかった。
宿屋の扉に手をかけたまま、立っていた。
(今夜、あいつらが来る)
(草原に)
(僕が寝ている場所に)
恐怖ではなかった。それよりもっと根本的な感情——「邪魔をされる」という絶望だった。
やっと見つけた寝床だ。
現実には寝床がない。布団はある。部屋はある。でも眠れない。あの草原だけが、唯一、眠りに落ちられる場所だ。
それを奪われるかもしれない。
(……ゲーム世界でまでいいかげんにしろ。やけくそだ。行くしかない)
YUは扉を離した。宿屋には泊まらない。泊まれない。あの草原で寝なければ、明日の自分が持たない。
---
夜が近づいた。
ゲーム内の空が、橙から紫に変わっていく。雲が低い。風が冷たくなる。
YUは草原に向かった。
背後に足音がつく。昨日より多い。数えたくない。
草原に着くと、もう人がいた。丘の陰。木の影。森の端。遠巻きの輪が、昨日より大きい。
輪の中に、荒い装備の影が混じっていた。
さっきの集団の先遣だ。
(もう来てる)
YUは足を止めかけた。止めかけて、歩いた。
ここで寝るしかない。ここでしか眠れない。
昨日と同じ場所に座った。同じ草の感触。同じ空。違うのは、空気の中に荒い笑い声が混じっていること。
「ほんとに寝るんだな」
荒い声が言った。
「すげぇ。マジで寝るだけじゃん」
別の声。
「PKの前で寝るとか、肝据わってんのか頭おかしいのか」
(どっちでもない。眠いだけだ)
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
迷わない。
横になる。草が冷たい。背中に地面の硬さ。いつもの硬さ。いつもの冷たさ。
目を閉じた。
遠くの声が、遠くなっていく。
鬼塚の声が聞こえる。——修正、午前中な。
ORACLEの声が聞こえる。——神託です。
PKの声が聞こえる。——今夜な。
全部、遠くなる。
全部、沈んでいく。
```
Resting...
```
意識の底に、静寂がある。
ここには誰もいない。上司もいない。信者もいない。PKもいない。ただ暗くて、静かで、何も要求されない場所。
——ここでいい。
ここだけでいい。
YUのアバターが、草原の上で静かに動きを止めた。
風が止んだ。
草のざわめきが消えた。
空が——暗転した。
遠巻きの輪が一斉に息を呑んだ。
ORACLEが膝をついた。
「……来る」
荒い集団の一人が、笑うのをやめた。
「おい……何だこれ。視界が——」
声が途切れた。
「おい。おい? 聞こえてるか?」
応答がなかった。
闇の中で、誰かが最後に呟いた。
「"夜"が——来た」
---
> 【速報】草原の偵察、帰ってこない
> 1:名無しの旅人
> 今夜、草原の端にいた。さっき一瞬視界が“暗転”した。その直後、近くにいた偵察役が消えた。ログアウトじゃない。消えた。
>
> 8:名無しの槍
> こっちも暗転した。音が全部消えた。草の音も、風の音もしない。で、戻ったら隣にいたやつの足跡が無かった。跡形もなく。
>
> 13:名無しの盾
> 戦闘ログは?
>
> 15:名無しの旅人
> 見た。「記録がありません」
>
> 19:名無しの僧
> だからそれ何なんだよ。記録がありませんって。ゲームの戦闘なのに記録が無いってバグか?
>
> 24:名無しの弓
> 偵察ってPKの?
>
> 27:名無しの旅人
> そう。PKギルドの先遣隊。配信してたのに途中で映像止まった。コメント欄が「戻ってこい」で埋まってる。
>
> 33:名無しの盾
> アーカイブ見たけど、暗転する直前に“黒い影”が見えた気がする。
>
> 41:名無しの魔
> こわ。
>
> 47:名無しの旅人
> PKギルドのリーダーが配信で言ってた。「明日、本隊で行く。“狩り”だ」って。
>
> 52:名無しの盾
> やめとけ。
>
> 55:名無しの旅人
> なんで?
>
> 56:名無しの盾
> “狩り”に行ったやつが、狩られてんだよ。
---
朝になれば、YUはまた目覚める。
また知らないアイテムが増えていて、また休息記録が壊れていて、またORACLEがメモを取っている。
それが怖いのか、ありがたいのか、本人にもまだ分からない。
分かっているのは一つだけだ。
——明日の夜、草原に"本隊"が来る。




