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19/24

同じ時間に、壊れる


朝、会議室の空気は薄かった。


酸素が少ないのではない。

言い訳の余地が少ない。


長机。白い壁。消し忘れた前日の議事メモ。

窓の外は明るいのに、この部屋だけ天気が違った。


相沢悠は、端の席に座っていた。

端は安全だ。発言を求められにくい。視線も集まりにくい。


少なくとも、そういうことになっている。


鬼塚が資料をめくる。


紙の音は静かだった。

静かな紙の音は、怒鳴り声より怖い。怒鳴り声は感情だが、紙の音は手順だからだ。


「念のため確認だけど」


その一言で、背筋の奥が冷えた。


「この差し替え前データ、相沢くん見てるよね」


悠は頷いた。


「……はい」


「だよね。で、この数値ズレ、先方に出る前に拾えてない」


鬼塚の声は強くなかった。

強くないまま、逃げ道だけを塞いでいく声だった。


「僕が最後に触った版は、そっちじゃなくて――」


言いかけて、止まった。


鬼塚に遮られたわけじゃない。

隣の席の人間が、もう“面倒な流れだ”という顔をしていたからだ。


誰かが説明を始めると、会議が長くなる。

長くなると全員が削られる。


だから、一番削られやすい人間が先に沈む方が早い。


鬼塚は資料を置いた。


「いま大事なのは原因究明じゃなくて回収」

「言い訳はあとでいい。先方向けの差し替え、今日中」


言い訳。

まだしていないのに、もう言い訳扱いだった。


「……了解しました」


口が勝手に動いた。


その瞬間、胸の奥で何かがひとつ折れた。


大きい音はしない。

付箋が剥がれるみたいな、小さな折れ方だった。


会議が終わる。

席に戻る。

モニターを点ける。


白い。

眩しい。


でも今日は、その白さが少し深く刺さった。


チャットが点滅する。


鬼塚。先方窓口。総務。鬼塚。鬼塚。


「念のため、差し替え前の経緯も整理して」

「念のため、再発防止も一枚」

「念のため、先方に安心感ある文面で」

「念のため、今日中」


念のため。念のため。念のため。


この人の“念のため”は、お守りじゃない。

他人の夜を削るための道具だ。


悠はキーボードに手を置いた。

指が少しだけ震えた。


もう片方の手で押さえる。

押さえれば止まる。止まれば打てる。


打てるから、壊れていない扱いになる。


---


昼を過ぎても、終わらなかった。


社食に行かなかった。

行けなかった、の方が近い。


自販機の前でブラックコーヒーを買って、会議室の外の壁にもたれた。

缶は冷たかった。冷たいのに、身体の熱は下がらない。


スマホが点いた。


通知ではない。

ただの画面点灯だった。


黒い画面に映る自分の顔を、悠は少しだけ見た。

目の下が深い。唇が白い。顔色が悪いというより、色の種類が減っていた。


「相沢」


声がした。


振り向く。


一条美奈が立っていた。


仕事帰りの服。首から下げた社員証。黒いジャケット。

ゲームのMINAとは違うのに、同じ目をしている。


怒っている目。

心配している目。

その二つが同時にある目。


「……あ」


それしか出なかった。


美奈は周囲を確認して、少しだけ声を落とした。


「顔、やばい」


ごまかしのない言い方だった。


「大丈夫です」


反射で出た。


美奈の眉がわずかに動く。

その返しが、もう大丈夫じゃない。たぶん全部分かっている顔だった。


でも、それ以上は言わなかった。


悠の缶コーヒー。震えている指。顔色。

それを順に見て、短く言う。


「今日、帰ったら寝て」


「……はい」


「“できたら”じゃなくて」


「……はい」


二つ目の返事は、少しだけ遅れた。


美奈は何かを言いかけて、やめた。

現実で言いすぎると、ゲームでの線が壊れる。そのことを、もう二人とも知っている。


だから最後に一言だけ残した。


「今日は、ほんとに無理しないで」


悠は頷いた。


でも心の中では、もう別の答えが出ていた。


――無理しない方法がない。


---


仕事を終えて、駅まで歩く。

電車に乗る。

ドアに寄りかかる。


視界の端で、街の灯りが流れていく。


その全部から少しずつ遠ざかりながら、悠は思った。


(ゲームで寝るしかない)


情けない。

でも、それがいちばん本当だった。


現実では眠れない。

ベッドでは沈めない。

横になっても、脳だけが起きている。


草原だけだ。

あの冷たい場所だけが、まだ自分の身体に届く。


だから、帰る。

だから、被る。

だから、沈む。


それしかない。


---


ログインした瞬間、草原の空気はいつもより静かだった。


静か、というより。

待っている感じだった。


境界の外縁に白ローブ。

少し離れてECLIPSEの巡回。

さらに外には、もう野次馬すら少ない。


怖い場所は、ある段階を越えると見物人を減らす。

残るのは、本気の人間だけだ。


「遅かった」


MINAが来た。

今夜は最初から近い。三歩より、半歩くらい近い。


「……仕事、長引いて」


「見れば分かる」


声が少し強かった。

でも怒りの向きは悠じゃない。


悠は草の上に視線を落とした。


「今日は、ちょっとだめかもしれません」


「何が」


「何か全部」


言った瞬間、少し離れた位置でORACLEの手が止まった。


白ローブ。メモ帳。いつもの姿勢。

でも今夜は、そのペン先が完全に止まった。


MINAがすぐに遮る。


「それ、そっちが拾わなくていいから」


ORACLEは静かに頭を下げた。


「失礼しました」

「ですが、言葉は残ります」


「残さなくていい」


「残ってしまうのです」


会話になっていなかった。


悠はそれ以上何も言わなかった。

言えば増える。解釈が。意味が。外側が。


---


MINAはスクリーンを開いた。


今までの記録。

入眠。観測層の反応。OBSERVERの消失。夜の初動。


全部、言葉で並んでいる。

数字ではない。でも順番がある。


今夜の欄は、まだ空白だった。


MINAはその空白を見てから、悠の顔を見た。


「現実で、何かあった?」


「……いつも通りです」


「それ、何も答えてない」


「じゃあ、たぶん、いつもよりだめでした」


悠は正直に言った。


「会議で」

「ちょっと、折れた感じはあります」


その言葉に、MINAの指が止まった。


折れた。


彼が自分でそう言うのは珍しい。

いつもは“疲れた”にも届かないまま沈む人間が、今日は折れたと言った。


「……そっか」


短く答える。


その短さの中で、何かがつながった。


現実の圧。

睡眠の深さ。

夜の濃さ。


まだ仮説だ。

でも、仮説にしては一致が多すぎる。


「今日は、早いかも」


「何が」


「来るのが」


それ以上は言わなかった。


---


悠はいつもの場所に横になった。


寝具。草の冷たさ。首の位置。風。

全部が、昨日までと同じはずだった。


でも今日は、身体の方が先に沈もうとしている。


眠いのではない。

落ちるしかない、に近い。


画面が出る。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


指がYに触れる。


迷わない。

迷う余力がなかった。


```text

Resting...

```


目を閉じる。


その直前、MINAが言った。


「今夜、たぶん速い」

「だから、私は最初から見る」


何を、とは聞かなかった。


意識が沈む。


---


入眠。


MINAはすぐに打ち込んだ。


――入眠。


その直後だった。


外縁のOBSERVERが、一斉に強く脈打った。


「……早い」


声が漏れる。


VARGAがすぐに反応する。


「何が」


「来るの」


答えた瞬間、空気が沈んだ。


夜が落ちる前触れ。

あの、明度じゃなく密度が変わる感じ。

今日はそれが、あまりにも早い。


いつもは入眠のあと、少し間がある。

観測が走って、境界が沈んで、夜が濃くなる。


今日は違う。

入眠と、夜の初動が近すぎる。


草原の温度が一段下がる。

音が薄くなる。

風が、風のまま届かなくなる。


OBSERVERの一体が、すぐに消えた。


「一号、落ちた」


SABLEが外縁から声を飛ばす。


二体目。

三体目。


順番は同じなのに、間隔が短い。

今夜は“反応した時にはもう遅い”になっている。


VARGAが低く言う。


「圧が強い」


RAMPARTの盾が鳴った。


一度。

二度。


今夜の音は重かった。

守っているというより、受け流しきれていない音だった。


外縁のさらに向こう。

様子見に来ていた小さな影がいた。


MIDASの残党か。

ただの確認者か。


どちらでもよかった。


夜の方には、区別がない。


一人が境界へ近づいた。

足を入れる前に、表示が揺れた。


「何だよ、今日――」


最後まで言えなかった。


表示ごと抜ける。

強制ログアウト。


もう一人が後ずさる。

後ずさった瞬間、境界の影がそちらへ伸びた気がした。


次の瞬間、その二人目も消えた。


逃げる時間がなかった。


---


MINAはスクリーンを睨んでいた。


――入眠直後、反応。

――観測層、即落ち。

――境界干渉、早い。

――逃走前に処理。


打ち込みながら、昼の廊下を思い出していた。


白い壁。鬼塚の声。

“言い訳はあとでいい”。

コーヒーの缶。震える指。

「今日は、ほんとに無理しないで」。


現実で彼が削られた日ほど、夜の出方が速い。


証明にはまだ足りない。

でも、足りなさより一致の方が目立ち始めている。


同じ時間に、壊れる。


昼は相沢悠が。

夜は世界の方が。


その一致が、今夜は露骨だった。


「……相沢」


MINAは小さく呟いた。


眠っている本人には届かない。

届かないからこそ、言えた。


「やっぱり、あんた……」


そこまでで止まった。


言ったら壊れる。

その直感が、今夜はいつもより強い。


本人が原因なのか。

トリガーなのか。

器なのか。


そんな言葉はまだどれも雑すぎる。


でも、同一人物説だけはもう“突飛な仮説”の顔をしていなかった。


---


夜はさらに深くなる。


草原の中心に、見えない圧が立つ。


人型ではない。輪郭もない。

でも今日のそれは、いつもよりはっきり“前へ出ている”感じがした。


NOX。


名前にすると、それだけで少しだけ現実になる。

だからMINAは心の中でだけ呼んだ。


今夜のNOXは速い。

強い、ではなく、速い。


切るように。

迷わず。

手順を知っているみたいに。


世界の余白へ入ってきたものから順に、意味を剥がしていく。


それが不気味で、

同時に、あまりにも整合していて、

MINAは吐き気に似た寒気を覚えた。


昼、あの会議室で相沢悠が折れた。

夜、その直後の草原でNOXが速くなった。


偶然で済ませるには、もう重なりすぎている。


MINAはスクリーンに、今夜の最後の一行を打った。


――現実の損耗と、夜の出力が連動している可能性。

――まだ書けない。でも、もう消せない。


---


朝。


草原は静かだった。


風が吹く。

鳥が鳴く。

朝露が光る。


昨日と同じ朝の顔。

でもMINAにとっては、昨日までと違う朝だった。


YUが目を開ける。


「……おはようございます」


普通の声だった。

少しだけ掠れている。

でも昨夜の外側を一切知らない人間の声だ。


その普通さが、今朝はいちばん痛かった。


「おはよう」


少し遅れて返した。


YUは身体を起こす。

草を払う。

首を回す。


「今日は、ちょっと楽です」


その一言が、MINAには刺さった。


楽。


現実であれだけ削られても、草原で寝れば少し戻る。

戻るからまた来る。

来るから夜が起きる。


その循環が、今朝はやけに残酷に見えた。


「……そっか」


それしか返せなかった。


悠は周囲を見る。

外縁のOBSERVERが、今朝は一体しか残っていなかった。


「減ってますね」


「うん。今日は特に」


「何かありました?」


MINAは答えた。


「あった」

「今日は、いつもより速かった」


「速い?」


「夜の初動が早かった。入眠から、ほとんど間がなかった」


悠は半分だけ理解した顔で頷いた。


---


SABLEが近づいてくる。

画面を見せる。


「もう出てる」


掲示板だ。流れが速い。

その中に、今朝の核心みたいな書き込みがあった。


> 昨夜のNOX、いつもより速かった

> 近づいたやつが“理解する前に”抜けた


MUSEが横から言う。


「あとこれ」

「“昼の初心者のコンディションで夜のキレ違わない?”って流れ、出始めてる」


MINAの指が止まった。


「誰がそんなの」


「勘のいいやつ」

とSABLE。


「まだ与太話扱い。でも火はついた」


最悪だった。


MINAはすぐに言う。


「その流れは潰して」


MUSEが目を丸くする。


「え、でも今のとこ弱いよ?」


「弱いうちに潰すの」

「強くなる前に」


声が強かった。

MUSEはすぐに真顔になる。


「了解」


SABLEはすでに別の話題を上げていた。

外縁。高速処理。観測層の即落ち。

核心から目を逸らさせるための、別の火だ。


でもMINAの中で燃えた火は、もう消えない。


同じ時間に、壊れる。


その一線が、今朝ではっきりしすぎていた。


---


悠は何も知らずに、インベントリを開いた。


黒い布。

白い破片。

市場の残骸。


そして今日は、見慣れない小さな金属片がひとつ増えていた。


細い。黒い。

まるで社員証のクリップみたいな形だった。


「……何これ」


MINAはそれを見て、一瞬だけ呼吸を止めた。


昨夜、境界の外で落ちた確認者の装備に似ていた。

それだけじゃない。

現実の会社の名札クリップにも、少し似ていた。


嫌な連想だった。

嫌すぎて、口に出せなかった。


「……落とし物」


悠が自分で言った。


その言い方に、MINAは少しだけ救われた。


「そう」

「今は、それでいい」


悠は頷いて、画面を閉じた。


閉じたあと、小さく言う。


「今日は、早く帰りたいです」


願望だった。

予定でも、決意でもない。

ただの願望。


でも、この人が願望を口にするのは珍しかった。


「帰って」


MINAはすぐに言った。


「今日は、ちゃんと帰って。寝るために」


悠は少しだけ笑った。


「ゲームで、ですよね」


「現実でも」

MINAは言った。

「そのうち、そっちも」


その“そのうち”はまだ遠い。

でも、言わないよりはましだった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 51


`601:` 昨夜のNOX、いつもより速くなかった?

`604:` わかる。近づいたやつが状況理解する前に抜けた

`608:` しかも観測層落ちるのも早かった

`611:` 市場壊した次の日に、今度は初動速度アップとか何なんだよ

`615:` もう“強い”じゃなくて“早い”なんだよな

`619:` 処理されてる感じがする

`623:` それ言うな。怖い

`627:` でも一番怖いの、寝てる初心者は今日も普通に起きたってとこ

`631:` 昼の初心者、夜のNOX、ほんとに関係ないのか?

`635:` それ前から言ってるやついるけど、証拠ないだろ

`639:` 証拠はない。でもタイミングが一致しすぎてる

`643:` 昼の初心者のコンディションで変わってないか?

`646:` それは流石に考えすぎ

`650:` でも昨日の夜、妙にキレがよかったんだよな……

`654:` キレって言い方すんな怖い

`658:` 草原の夜、もう育ってない?

`662:` 育つって何だよ

`666:` いや、だんだん学習してる感じある

`670:` やめろ

`674:` 寝てるだけの初心者の周りで、世界の方が学習してるの最悪すぎる

`678:` でもスレ追っちゃう

`682:` 分かる

`686:` 怖いのにスレ閉じられないやつ


---


草原の上で、YUは今日も眠る準備をしている。


現実で少しずつ削られ、

夜の外側では少しずつ速くなり、

そのあいだにいる本人だけが、まだ何も知らない。


でも、知らないままではもう少しずつ済まなくなってきている。


昼に折れたものと、

夜に壊れるものが、

同じ時間の上に重なり始めていた。


それを、MINAだけが見ている。


まだ言えない。

でも、もう見間違えられない。


今夜より次の夜が、少しだけ怖い。


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