相場戦
朝、会社の時計は誰の事情も知らない顔で進んでいた。
一分。
三分。
五分。
そのたびに、誰かの余裕が削れていく。
でも時計の針は、そういうものを一切見ない。
見ないまま、正しい速度で進む。
相沢悠は席に座って、モニターを点けた。
白い。眩しい。
でも今日は、少しだけ世界の輪郭がある。
昨夜、眠れたからだ。
眠れた翌朝だけ、頭の奥に薄い空白ができる。
何もない空白。
でもその空白にだけ、人間らしい思考が入る。
たとえば「今日はいつもより楽かもしれない」とか。
たとえば「午前中くらいはもつかもしれない」とか。
持たなくても困らない。
でも、あると少しだけ背筋が伸びる。
そういう種類の空白だった。
鬼塚のチャットが点滅していた。
開く。
「念のため、昨日の資料、数値の見せ方をもう少しやわらかく。あと先方に安心感が出るように」
数値。見せ方。安心感。
全部、誰かにとっての都合を、別の誰かの手で整えろという意味だった。
「了解しました」
打つ。送る。
送ったあと、自分の中から何かが一枚だけ削れる。
でも今日は、その削れ方が少し浅い。
昨夜、ちゃんと沈めたからだ。
浅いだけで、消えはしない。
けれど昨日よりは薄い。
その差だけで、人間は午前中をやりすごせる。
昼休み。
自販機の前で、ブラックコーヒーのボタンを押す。
その時、スマホが震えた。
> NEOSPHERE ONLINE
> Market Settlement Complete.
> 3 items sold.
悠は缶を取ってから、画面を見た。
三件。
昨日、村の露店に置いた初心者向けの採取品だ。
草原の端で拾った、何の変哲もない草束と、小さな石片と、余った薬草。
値段なんてよく分からないから、一番下の相場に合わせて適当に出しておいた。
明細を開く。
止まった。
販売価格が、おかしかった。
安く出したはずなのに、売れている値段が高い。
高い、では足りない。
草束一つの値段じゃない。
初心者が一週間かけても持たない額だった。
悠はもう一度見た。
表示ミスを疑った。
でも何度見ても同じ数字だった。
「……初心者救済……?」
声に出してしまってから、さすがに違うなと思った。
ゲームは初心者に優しいことがある。
でも、ここまで露骨に優しくはない。
缶コーヒーを握る。
冷たい。
冷たさだけが正直だった。
数字は分からない。
ゲームの市場は分からない。
でも缶の温度と、指先の感覚だけは嘘をつかない。
(相場が壊れてるのか)
その考えが浮かんだ瞬間、胃の下が少しだけ重くなった。
自分の寝床のまわりで起きていることが、とうとう値段になって、数字になって、現実のスマホに出てきた。
草原は草原のままだと思っていた。
寝場所は寝場所のままだと思っていた。
でもそこで起きている何かが、もうゲームの画面の外にまで滲み始めている。
午後が始まる。
鬼塚の「安心感」が待っている。
でも頭の半分は、もう草原の市場板の前にいた。
* * *
夕方、初期村に入った瞬間、音が違った。
いつものざわめきではない。
市場のざわめきだった。
売り声。
値段の確認。
在庫切れの舌打ち。
買い占めを疑う声。
露店の価格改定。
全部が一度に鳴っている。
重なりすぎて、もう意味にならない。
祭りの喧騒に似ているのに、どこにも笑い声がなかった。
広場の掲示板の前には、人だかりができていた。
昨日まで草原の怪談を話していた場所で、今日は値札の話をしている。
「草原方面の薬草、また上がった!」
「いや逆だ、今ちょっと落ちた!」
「落ちたって言っても昨日の三倍だぞ!」
「誰が売ってんだよこんな量!」
YUは足を止めた。
「……何ですか、これ」
すぐ横に来たMINAが、長く息を吐いた。
吐き方だけで今日の重さが分かる種類の息だった。
「値段が壊れ始めた」
「値段」
「うん。一番面倒なやつ」
市場板を開く。
薬草、原石、皮、布、低級回復素材。
全部、値段がおかしい。
草原周辺で取れる初心者素材だけが、極端に上下している。
高い。
と思った次の瞬間に少し落ちる。
落ちたと思ったら別の品が上がる。
誰かが意図して触っている動きだった。
心拍みたいに不規則に脈打つ数字を見ていると、自分まで落ち着かなくなる。
「……これ、普通なんですか」
「普通じゃない」
MINAは即答した。
「普通じゃないけど、よくある。市場を握りたい連中がいる時の動き」
その言葉とほぼ同時に、後ろから平坦な声が来た。
「よくある、では済まないですけどね」
LEDGERだった。
灰色の帳簿画面。
薄い表情。
でも今日は、その画面に並ぶ数字の量が異様だった。
指だけが動いている。
顔は止まっている。
数字を追う時だけ、この人は機械に似る。
「草原周辺の採取勢が引いた。供給が減った」
「そこに談合が入って価格を吊った」
「さらに今朝、BOT農場の一部が消えた」
「だから一度跳ねた」
「そこへ、こちらの在庫放出を少量ずつ入れて、落ちるように見せている」
悠は、半分しか分からなかった。
「こちらの在庫」
「ギルド倉庫です」
LEDGERは淡々と言う。
「昨夜の残骸と、献上品と、流れ込んだ素材。今いちばん草原周辺で在庫を持っているのは、たぶんこちらです」
たぶん、の言い方が軽い。
軽いのに、言っていることは全然軽くなかった。
「……僕のギルド、そんなに持ってるんですか」
LEDGERは帳簿を一枚切り替えた。
見せられた数字に、YUは本気で黙った。
倉庫の在庫一覧。
布、石、薬草、鉱片、魔石、用途不明品、白い破片、黒い布。
それぞれの欄に、初心者が見てはいけない桁が並んでいる。
息を吸った。
吸ったのに、胸が膨らまなかった。
数字の圧で、肺が先に押されたみたいだった。
「……これ、怖くないですか」
MINAが横で笑いそうになって、やめた。
「そこ、怖がるのは正しい」
ORACLEが少し後ろから歩いてくる。
「神の采配です」
LEDGERが一切頷かずに補足した。
「いえ。市場の空白です。空白があれば、埋める人間が勝ちます」
ORACLEは少しも気にしなかった。
「空白もまた、神意の形です」
MINAが低く言う。
「会話しろ」
でも二人とも、どこも見ていなかった。
ORACLEは意味を。
LEDGERは数字を。
それぞれ別のものを見ていて、別のものを正しいと思っている。
交わらないのに並んでいる。
このギルドは、そういう人たちで動いている。
そのすぐ向こうで、MUSEが誰かに向かって声を張っていた。
「だから“暴落”って言い方しないで! “正常化の兆し”で統一して! いま不安煽ると余計に売り逃げが出るから!」
SABLEはその横で、掲示板の流れを追っている。
「外ではもう“草原銘柄”って呼ばれ始めてる」
「最悪ね」
「最悪なのは分かってる!」
とMUSE。
「でも名前ついた時点で、もうコンテンツなの!」
コンテンツ。
その言葉が、悠には冷水みたいに届いた。
自分は寝床を探しているだけだ。
眠りたいだけだ。
それだけのことが、いつの間にか値段に名前をつけられ、流れを持たされ、誰かの利益と損失になっている。
自分の体温は一度も上がっていないのに、周りだけが燃えている。
* * *
その頃、村から少し離れた中継都市の高台では、別の種類のざわめきが起きていた。
白銀の鎧。
整った隊列。
《REGALIA》の臨時会合だった。
ASTERが市場板を見ている。
その横に、JUDGE。
さらに数人の上位勢。
「笑えないな」
JUDGEが言った。
声は低い。低いのに、よく通る。
会議室の一番奥から、全員の耳に届く種類の声だった。
「公式を拒んだ夜が、次は市場を握り始めた」
ASTERは短く答える。
「握っているのは夜そのものではない」
「では」
「それに適応した人間たちだ」
ASTERの目は、草原ではなく、その周囲を見ていた。
《ECLIPSE》。
昨日までは狂信の寄せ集め。
今日は、倉庫を持ち、相場を読み、線を守る集団になりつつある。
「危険なのは魔王だけじゃない」
ASTERは言った。
剣の柄を握る手が、わずかに白くなっていた。
「魔王を中心に、秩序が生まれ始めている」
JUDGEが眉を動かす。
「秩序?」
「我々の外側の秩序だ」
その言い方には、王者の不快感があった。
勝てない相手への苛立ちではない。
自分たちの外で、新しい基準ができることへの不快感だった。
REGALIAの白銀は「正しい秩序」の色だ。
その正しさの外側に、別の正しさが立ち始めている。
それが、ASTERの指を白くさせていた。
JUDGEは少し黙ってから言った。
「であれば、なおさら管理が要る」
管理。
その一語に、JUDGEの全部が入っていた。
大義で包んで、権限で動かす。
秩序を名乗る側の武器は、いつもその二つだ。
* * *
さらに別の場所。
もっと現実に近い顔の連中がいた。
商会風の看板。
整えられた帳簿。
善人みたいな笑顔。
《MIDAS WORKS》の裏会議室だった。
神崎俊――GILTは、価格ボードを見ながら笑っていた。
笑っているが、目が笑っていない。
唇だけが正確に上がっている。
その精度が、かえって不気味だった。
「面白いですね」
柔らかい声だった。
柔らかいのに、どこにも手触りがない。
「草原に近づけない人間が増えただけで、ここまで素直に動く。市場は正直です」
部下が言う。
「ですが、ECLIPSEが在庫を放出しています。値を固定しきれません」
「なら固定する側を増やせばいい」
GILTは微笑んだまま答えた。
微笑みの温度が一度も変わらない。
「徴収部隊を出してください。草原周辺の流通を、こちら側の価格で一度くくる。売るならこちらを通す。通さないなら、通れなくする」
部下は少し黙った。
「草原です。今は……近づきたがる者も減っています」
「だからこそです」
GILTは優しく言った。
「怖い場所ほど、管理する価値がある。誰も近づきたくないなら、近づける側に値段がつく」
恐怖を通貨に換える。
その発想が、悠にはまだ届かない場所で動いている。
でも夜には、届くことになる。
* * *
夕方が深まり、草原の縁にはまた別の熱が集まっていた。
今度は大軍ではない。
少数だ。
でも装備がいい。
荷車がある。
契約箱がある。
価格札みたいな細長い杭を持っている。
YUはそれを見て、小さく言った。
「……何屋さんですか」
MINAは顔をしかめた。
しかめた眉の間に、怒りと疲労と「やっぱり来たか」が全部詰まっていた。
「徴収部隊」
VARGAがすでに外縁へ向かっていた。
RAMPARTも動く。
ORACLEは立っているだけだが、その立ち方が、もう“通さない側”だった。
身体は静止しているのに、周囲の空気だけが固まっている。
先頭の男が、境界の外で止まる。
「こちらはMIDAS WORKS管理下の価格調整班です。草原方面素材の流通安定化のため、以後この周辺の売買は当方窓口を通していただきます」
言い方がやたら丁寧だった。
丁寧な言葉の中に、通さないと困るだろ、が入っている。
会社のメールみたいだった。
「ご確認のほどよろしくお願いいたします」と書いてあるのに、確認の余地がないやつだ。
MINAが低く吐き捨てる。
「現実と同じことやってる」
LEDGERが前に出た。
表情は変わらない。
数字以外のことで表情を動かす燃料が、この人にはないのだと見るたびに思う。
「安定化ではありません。価格支配です」
「呼び方の違いでしょう」
「違います」
一歩も引かない平坦さだった。
LEDGERの声は怒っていない。冷たくもない。
ただ、間違った数字を訂正する時の声だ。
帳簿に赤が入った時と同じ声で、人間と話している。
「あなたたちは供給を絞り、恐怖で価格を吊り、そこへ窓口を置く。安定ではなく、徴収です」
先頭の男の笑顔が少しだけ薄くなる。
「商いとはそういうものです」
「搾取です」
ORACLEが静かに言った。
その一言で、交渉の空気が冷えた。
冷えたのは気温ではない。会話の温度だ。
交渉の余地が、一語で凍った。
男は白ローブの列を見て、次に境界の向こうの草原を見た。
その奥。寝具の整った場所を。
「では、そちらのMasterとお話を――」
「寝ます」
YUは正直に言った。
全員が一瞬だけ黙った。
「……はい?」
「寝るので。話は、あとで」
MIDAS側の顔に、初めて本物の困惑が浮いた。
怒りでも侮蔑でもない。
純粋な、「何を言っているのか分からない」だった。
交渉を拒否されたのとも違う。
交渉という概念のない場所に話しかけてしまった人間の顔だった。
MINAは鼻で笑いそうになったが、すぐ戻した。
笑うと負けるような気がしたからではなく、笑ったあとに来る疲れが見えたからだ。
VARGAが短く言う。
「帰れ」
「交渉の余地は――」
「ない」
RAMPARTが盾を一度だけ鳴らした。
金属の音ではなく、もっと深い音だった。
地面を通って足の裏に届く音。
それで会話の形が崩れた。
会話は空気の上を走る。
でもあの音は地面から来る。
地面から来るものには、言葉で返せない。
男たちは境界の外で止まったままだった。
入れない。
でも引かない。
彼らは分かっている。
ここで引けば値段を失う。
入れば、もっと別のものを失うかもしれない。
だから境界の外で止まり、値札の杭だけを地面へ打ち込み始めた。
一種の宣言だった。
ここから先の値段は、こちらが決める。
その意思表示。
MINAが小さく言った。
「最悪」
LEDGERが言う。
「ええ。だから今夜で終わらせます」
その言い方に感情はなかった。
なかったから、逆に信じられた。
感情で言う人間は途中でぶれる。
感情のない声で「終わらせる」と言う人間は、本当に終わらせる。
* * *
YUはいつもの場所に座った。
草が冷たい。
寝具は薄い。
首の位置は楽だ。
草原の外では、価格札の杭が夕日に光っている。
夕日は美しいものだと、どこかで誰かが決めた。
でも今日の夕日は杭の先で光っていて、その光り方は美しくなかった。
金属が光を返す時の、意味のない輝き。
「……僕、迷惑かけてないですか」
思わず出た。
出てから、少し恥ずかしかった。
この問いは、昔から自分の中にある。
会社で。電車で。コンビニのレジで。
「迷惑かけてませんか」。
そう聞くことで、自分がここにいていいことを確認したがる癖だ。
MINAがこちらを見る。
「急にどうしたの」
「いや……最近、何か起きるたびに大きくなってるので。市場とか、除名とか、徴収とか」
MINAは少しだけ黙ってから言った。
「迷惑は、かかってる」
一瞬、胸の奥が冷えた。
分かっていた。分かっていたけれど、口に出されると冷える場所がある。
「でも今さらそこを気にしても遅い」
「ひどくないですか」
「ひどいよ。でも本当だから」
それで、不思議と少しだけ楽になった。
優しい嘘より、ひどい本当の方が、今日は受け取りやすかった。
優しい嘘は後から重くなる。
ひどい本当は最初が重いだけで、あとは軽くなる。
「で、今日も寝る?」
「寝ます」
「そうだろうね」
MINAは草原の外を見る。
杭が並ぶ外縁を。
「今夜は、ちょっと派手になる」
「戦いますか」
「戦わない」
MINAは言った。
「でも、向こうは壊れる」
戦わないのに壊れる。
その言い方が、最近の草原のすべてをいちばん正確に言い当てている気がした。
画面を開く。
```text
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
Y。
押す。
横になる。
草の冷たさ。
首の位置。
風の匂い。
今日は杭の匂いも混じっている。
金属の匂い。
草の匂いの中に、一筋だけ硬い匂いがある。
それでも草の方が勝っている。
まだ勝っている。
明日も勝っていてほしいと思う。
```text
Resting...
```
沈む。
* * *
夜。
MIDASの徴収部隊は、境界の外で待っていた。
入らない。
入れない。
だから外から値段を決める。
価格札の杭が青く光る。
流通契約のスクロールが開かれる。
仲買人アカウントが待機状態に入る。
遠隔倉庫の在庫一覧が同期される。
あの杭は、ただの値札じゃなかった。
草原の外と市場の在庫口座を繋ぐ、流通契約の端末だった。
彼らは境界の外に立ったまま、草原の価値を自分たちの市場に接続しようとしていた。
やっていることは商売だった。
剣は一本も抜かれていない。
でもやろうとしていることは、剣で脅すのと同じだった。
「始めます」
先頭の男が言った。
その瞬間だった。
境界の向こう側の空気が、少しだけ沈んだ。
爆発はない。
轟音もない。
ただ、世界の密度だけが変わる。
空気中の何かが重くなったのではない。
空気そのものが、一段分、深くなった。
水面が下がったのではなく、水底が遠のいたみたいな変化だった。
価格札の杭の先端で回っていた光が、一斉に裏返った。
青から、色のない暗さへ。
光っているのに、暗い。
「何だこれ――」
一人が杭に触れる。
その手元のウィンドウが、値段ではなく在庫を表示し始めた。
隠していた在庫。
倉庫番号。
保管先。
裏口座。
画面が“見せてはいけない方”へ勝手に開く。
「閉じろ」
「閉じません!」
「何でこっちの帳簿が――」
彼らの声には、初めて恐怖があった。
剣を向けられた時の恐怖ではない。
財布の中身を知らない誰かに読み上げられた時の恐怖だ。
持っているものを、見せたくない相手に見られている。
その無防備さが、顔から血の色を引かせていた。
SABLEが草原の内側で小さく言った。
「抜けた」
「何が?」
とMUSE。
「隠し在庫」
LEDGERが画面を見て、一度だけ瞬いた。
瞬いたのは驚きではなかった。
予想した通りの数字が出た時の、確認の瞬きだった。
「全部出る」
その言葉と同時だった。
MIDAS側の遠隔市場アカウントが一斉に動いた。
秘匿していた在庫が、勝手に市場へ流れ始めた。
高値固定用に抱えていた薬草束。
談合用に寝かせていた低級鉱石。
草原方面の代替品として吊っていた粗悪素材。
全部が、ばらばらの値段で市場に出る。
しかも安い。
安すぎる。
値崩れどころではない。
誰かが“売る意味”ごと切っているみたいな投げ方だった。
値段というものが、土台から持ち上がって引っくり返されている。
「止めろ!」
「止まらない!」
「権限が――」
「誰がこの価格を通した!?」
誰も通していない。
でも通っている。
彼らの手が震えていた。
武器を握ったことのない指が、画面だけを触ってきた指が、初めて制御を失って震えている。
戦場の震えではない。
帳簿の震えだ。
自分が積み上げたものが、自分の手の中で崩れていく時の震えだった。
GILT側の徴収部隊は、初めて本気で青ざめた。
価格を握っていたはずなのに、価格の方が逃げる。
締めていた蛇口が、手元から消える。
さらに悪いことに、BOT農場の残存口座まで巻き込まれた。
昨夜落ちた農場の補填用に残していた在庫まで、同じ方向へ流れ始める。
「全部、吐いてる」
SABLEの声が少しだけ笑う。
笑いの種類は楽しさではない。
答え合わせが済んだ時の、乾いた安堵だった。
「値段ごと、剥がされた」
VARGAは境界の向こうを見たまま動かない。
RAMPARTも。
ORACLEも。
誰も攻撃していない。
剣も抜いていない。
でも向こうは壊れている。
殴っているのは人ではない。
仕組みだ。
値段の付け方。
流通の設計。
隠し在庫という前提。
その全部が、一晩で表に引きずり出されている。
先頭の男が、最後に一度だけ境界の奥を見た。
草原の中心。
眠っている初心者。
「……魔王」
小さく、そう漏れた。
その声には侮蔑がなかった。
恐怖だけがあった。
自分の全てを奪ったものに対する、純粋な恐怖だった。
その直後、男の表示がふっと消えた。
強制ログアウト。
一人落ちる。
二人目は値札の杭を掴んだ姿勢のまま抜ける。
三人目は、謝罪文のテンプレートを開いたまま消えた。
謝罪文。
そのウィンドウが、なぜか残った。
画面の中の文字が、夜の風に揺れている。
MUSEが目を見開く。
「うわ」
「何」
「向こうの配信用テンプレ、開いてる。“この度は市場混乱を招き申し訳ありませんでした”って」
MINAが低く言う。
「……準備してたんだ」
準備してたのだ。
壊される前から。
万が一のためのテンプレートを、あの笑顔の裏に持っていた。
その用意周到さが、かえって虚しく見えた。
どれだけ備えても、夜は備えの外から来る。
草原の外で。
市場の上で。
謝罪文のテンプレートまで含めて。
夜は全部をひっくり返した。
外では、都市の市場板が一斉に赤く点滅していた。
価格の更新。
大量出品。
値下がり。
買い。
転売失敗。
在庫消失。
補填不能。
世界の回り方が、一晩で別の基準へ切り替わる音がした。
MINAは草原の中心を見ていた。
あの中心で、YUは眠っている。
今夜もぐっすり。
何も知らずに。
身体が軽くなる夢を見ているのかもしれないし、夢すら見ていないのかもしれない。
でもその眠りの周囲で、世界の値段がひっくり返った。
MINAはスクリーンに一行だけ打った。
――もう「ただ強い」では説明がつかない。
* * *
朝。
草原は静かだった。
風が草を撫でる。
鳥が鳴く。
朝露が光る。
いつもの朝だ。
でも「いつもの朝」の裏側に、昨夜の重さが隠れている。
隠れているのに朝日は明るい。
その明るさが、少しだけ嘘みたいだった。
YUは目を開けた。
最初に来たのは、匂いだった。
草の匂い。冷たい匂い。
その中に、昨日はなかった何かが混じっている。
鉄の匂いではない。
もっと薄い、紙みたいな匂い。
帳簿の匂い。値段の残り香。
身体は軽い。
軽いのに、今朝はその軽さを手放しで喜べなかった。
理由は分からない。
身体は眠れたと言っている。
頭も、昨日よりは楽だと言っている。
でも胸の奥に、何かが引っかかっている。
名前のない引っかかりだ。
MINAが三歩先にいた。
今日も目が赤い。
でも今日は、赤いだけじゃない。
疲れているのに、どこか呆れている。
呆れているのに、まだ座っている。
それはもう、意地だった。
「おはようございます」
「……おはよう」
掠れた声だった。
でも昨日より少しだけ、声の底に別のものがあった。
諦めではない。
確認だ。
まだここにいる、という確認の声だった。
「何かありました?」
MINAは少しだけ笑いそうになって、やめた。
やめてから、もう一度笑いそうになって、今度は小さく息だけ漏らした。
「あったよ。今回は値段ごと」
「値段」
「うん。談合勢が持ってた在庫が、夜のうちに全部吐いた。今、各都市で価格板が死んでる」
意味は半分しか分からない。
でも半分で十分だった。
何かが外へ届いた。
夜が、草原の中だけでは済まなくなった。
YUはインベントリを開いた。
黒い布が増えている。
白い破片も、まだある。
そして今日は、見慣れないものが混じっていた。
小さな値札札。
未使用の契約片。
都市市場の仮印。
草原では見たことのない、売買の道具だった。
指先で触れてみる。
固い。冷たい。
でも草や石とは違う冷たさだった。
人が使うために作ったものの冷たさ。
目的を持って作られたのに、目的を失った後の冷たさ。
「……これ、何ですか」
MINAはそれを見て、すぐに顔をしかめた。
「向こうの残骸。……たぶん」
自分は拾っていない。
触ってもいない。
眠っていただけだ。
なのに、外で壊れた値段の残骸がここへ来ている。
その事実が、今朝はいちばん重かった。
昨日は人が消えた。
今日は値段が壊れた。
夜のたびに、壊れるものの種類が変わっていく。
その変わり方が、自分には見えない。
見えないのに、朝のインベントリだけが結果を教えてくる。
その時、広場の方からMUSEの叫び声が聞こえた。
「見て! 見てこれ!」
SABLEが少し速歩きで来る。
珍しく表情が動いている。
唇の端が上がっているのではない。
目が開いている。
情報が予想を超えた時の、分析者の驚きだった。
「謝罪配信」
「誰が?」
とMINA。
「MIDAS側の表向き窓口。朝から全チャネルで流してる。『市場混乱を招き申し訳ありませんでした』って」
MUSEが半笑いで言う。
「昨夜のテンプレ、そのまま使ってる。こわ」
MINAは真顔だった。
「談合勢、謝罪配信してるの?」
「してる」
SABLEが即答する。
「でも謝罪の中身が謝罪じゃない。“何が起きたか分かりませんが”って言ってる」
何が起きたか分からないのに、先に謝っている。
それはもう、謝罪の形だけが残った状態だ。
中身のない謝罪ほど早い。
会社でもそうだった。
原因が分からない時ほど、テンプレートの謝罪文が速く出る。
YUは少し黙ってから言った。
「……魔王って、人じゃなくて仕組みの方を殴ってませんか」
MINAがこっちを見た。
少しだけ、目の色が変わった。
驚きではない。
この人がこういうことを言う、ということに対する、小さな再発見みたいな目だった。
「今の、かなり正しい」
「正しいんですか」
「それがいちばん困るの」
MINAは草原の外を見る。
朝日の中で、杭がまだ光っていた。
でも昨日より、本数が減っている気がした。
「人を倒すだけなら、まだ対策の立てようがある。でも相場と流通と治安の方を先に壊されると、世界の基準が入れ替わる」
基準が入れ替わる。
その言葉の意味を、YUはまだ全部は分からない。
でも、昼のスマホに届いた売却額を思い出した。
草束一つが、初心者一週間分の値段で売れた。
あれは異常だ。
異常なのに、市場はあの価格を受け入れた。
受け入れたということは、世界の方がもう、昨日までの基準を捨て始めているということだ。
草原の風はいつも通り冷たい。
でもその外側では、もう値段の付き方まで変わり始めている。
YUはインベントリを閉じた。
閉じたあと、少しだけ思った。
昨日までの草原は、寝るだけの場所だった。
今日からの草原は、寝るだけの場所の周りで、世界の回り方が変わった場所だ。
自分は何もしていない。
何もしていないのに、朝のインベントリだけが、昨夜の結果を毎回教えてくる。
その距離が、少しずつ縮まっている気がした。
まだ届かない。
まだ分からない。
でも、縮まっていることだけは、今朝、初めて感じた。
* * *
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 50
`501:` 草原銘柄、朝から死んでるんだけど
`504:` 死んでるっていうか、値段の付き方そのものが壊れてる
`507:` 昨夜MIDASの徴収部隊来てたよな?
`511:` 来てた。で、朝には謝罪配信してる
`515:` 早すぎて草
`518:` 草じゃなくて草原な
`521:` 謝罪文のテンプレそのままだったの笑えない
`525:` 笑えねぇよ。市場板めちゃくちゃなんだが
`529:` 談合在庫が勝手に吐いたってマジ?
`533:` マジ。抱えてた連中、みんな死んだ顔してる
`537:` しかも戦闘ログがない。また戦闘ログがない
`541:` もう戦闘じゃないんだよな。人を殴るんじゃなくて仕組みを殴ってる
`545:` 値段を殴るの怖すぎる
`548:` 寝てる初心者はまた普通に起きたらしい
`552:` そいつだけ安眠してんのほんと何なんだよ
`556:` 昼の初心者、夜の草原、外縁のECLIPSE、市場崩壊
`560:` 初心者エリアのやることじゃねぇ
`563:` でもこれで分かったな
`566:` 何が
`569:` 草原の夜、もう「戦闘」じゃない
`573:` 世界の回り方ごと変え始めてる
`577:` しかも中心のやつはたぶん何も知らん
`581:` それが一番怖いんだって
`585:` 怖いけど、ちょっとだけスカッとしたやつ正直に手挙げろ
`589:` ……はい
`593:` RMTと談合がぶっ壊されるの、嫌いじゃないんだよな
`597:` 分かる。でも方法が怖すぎる
`601:` 寝てるだけで経済制裁するな
* * *
草原の上で、YUは目を閉じている。
昨日、自分の名前の下で一人が消えた。
昨夜、外の市場が崩れた。
朝には談合勢が謝罪している。
その全部を、自分は知らないまま眠っていた。
でも今日は、少しだけ感じた。
夜は人を倒しているんじゃない。
もっと大きくて、もっと面倒なものを壊し始めている。
値段。
流れ。
基準。
そういう、人が毎日“当たり前”として触っているものを。
朝のインベントリに残る、冷たい欠片たちが、それを教えている。
昨日までの草原と、今日の草原は、もう同じ場所ではなかった。




