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16/21

幹部が揃う


朝、会社の給湯室にはコーヒーの匂いがこもっていた。


苦い匂い。

眠気を追い払うための匂い。

でも相沢悠には、もうその匂いが効かない。


効かないものに囲まれていると、人はだんだん「効くもの」だけを覚えるようになる。


モニターの白は効かない。

鬼塚の「念のため」も効かない。

コンビニのブラックコーヒーも、駅のホームの冷たい風も、もう効かない。


効くのは草原だけだ。


あの冷たさだけが、身体のどこかにまだ届く。


席に戻ると、鬼塚のチャットが点滅していた。


開く前から内容は分かる。

開いても、だいたい合っている。


「念のため、昨日の差分、全体に反映して。あと表現を少しやわらかく」


念のため。

やわらかく。


毎回思う。

言っている人間の方は、少しもやわらかくない。


「了解しました」


打つ。

送る。

送ったあと、自分の中から何かが一枚だけ削れる。


削れたことは分かる。

でも何が削れたのかは、もう分からない。


昼休み、自販機の前で缶コーヒーを見ていた時、スマホにゲームの通知が来た。


> NEOSPHERE ONLINE

> Guild settings initialized.

> Territory permissions extended.


昨日と似ているが、少し違った。

updatedではなく、extended。

広がった、ということだろうか。


意味は分からない。

でも分からない文面が、草原の方から日常へ割り込んでくることには慣れてきた。


慣れたくなかった。

でも慣れている。


缶コーヒーのボタンを押して、落ちてきた缶を握る。

冷たい。


(今日も、行ける)


その確認だけで、午後が少しだけ短くなる。


---


夕方、草原の空気は昨日までと少し違っていた。


変わった、というより――片付き始めていた。


混乱のあとには、だいたい二種類の人間が残る。

逃げる人間と、整理し始める人間だ。


今日は後者の気配があった。


草原の縁には、昨日まで無造作に置かれていた木箱が整列していた。

白い布はたたまれ、使われていない道具は端へ寄せられている。

誰かが勝手にやったのではなく、役割を持ってやった片付き方だった。


その片付けをしている中に、見慣れない女がいた。


細い。表情が薄い。

灰色の帳簿画面を片手に、もう片方の手で箱の中身を仕分けている。

感情がないわけではない。ただ、数字に邪魔だから前へ出さない顔だった。


彼女は箱のひとつから白銀の破片――あの封印アンカーの残骸を取り出すと、別の箱へ迷いなく移した。


「返せないもの」


薄く、そう言った。


草原の中心に向かう途中、地面に小さな布が敷かれているのに気づいた。


昨夜まではなかった。

薄い灰色の布。草の上に一枚、丁寧に。

その上に、細いクッションみたいなものまで置いてある。


YUは足を止めた。


「……何ですか、これ」


すぐ横で、MINAがそちらを見た。

見て、こめかみを押さえた。


「寝床、整えたんだと思う」


「誰が」


「聞かなくても分かるでしょ」


分かる。

分かるけれど、分かりたくない種類の分かり方だった。


少し先にORACLEがいた。

白ローブ。腕章。昨夜までの“見届ける側”の顔ではなく、今日は少し違う。

立ち方が、運営に近い。

宗教の人間なのに、管理の姿勢が混ざっている。


ORACLEはYUに一礼した。


「お戻りになりました」


「……はい」


「寝具を整えました」


「寝具」


「草の冷たさは必要です。ですが、首を痛められては困りますので」


首を痛められては困る。


会社でしか聞かない理屈が、草原で出てくる。


YUは布を見た。


丁寧に敷かれている。

皺がない。

草の上に、一枚だけ。


喉の奥が、少しだけ詰まった。


誰かが自分のために何かを準備する。

それだけのことが、こんなに珍しい。

会社では誰も、自分の休憩を気にしない。

現実のアパートでは、布団のカバーを替える気力さえないまま、ずっと過ぎた。


なのに、ゲームの草原で、名前も知らない誰かが、首の位置を気にしている。


おかしい。

おかしいのに、目の奥が少しだけ熱くなった。

なる前に、口が先に動いた。


「……ちょっと、助かります」


言った瞬間、ORACLEが静かに頷いた。

その後ろで、少し離れて見ていた白ローブの数人が安堵した顔をした。


自分が少しだけ動くだけで、周りの空気がこんなに変わる。

それが怖いとも、嬉しいとも、まだ言えない。


MINAが深く息を吐く。

怒っているのではない。

もういちいち全部に反応していると追いつかない、という顔だった。

でも今日は、その顔の奥に別のものがあった。


この組織が必要な速度で完成していくこと自体が、草原の異常の証明だ。

MINAはそれを分かっている。

分かっているから、安堵する人たちを見ても安堵できない。


RAMPARTが、いつもの位置で立っている。

盾は今日も地面に刺さっていた。

でも昨夜までと違って、周囲に小さな目印みたいな石が置かれている。

侵入路、退避路、立ち位置。

そういうものを無言で決めた形だった。


---


「紹介だけしておきます」


ORACLEが言った。


言われた瞬間、YUは少しだけ身構えた。

紹介という言葉はたいてい長い。

長いものは疲れる。


でも今回は、本当に短かった。


さっき箱を仕分けていた女が前に出る。


「LEDGERです」


一言だった。


「倉庫、献上品、流通を見ます」


それだけ。

でも、その短さで仕事が分かる人間の言い方だった。

さっき「返せないもの」と呟いていた声が、同じ口から出ていたとは少し信じがたいくらい、公の声は平坦だった。


次に、草原の外縁で立っていた大柄な男が歩いてきた。

さっきまで、石の配置を確認するように外周を歩いていたのを見ていた。


「VARGA」


低い声。

余計な装飾がない。

武器の名前みたいな声だった。


「周辺の線を見る。侵入、迎撃、巡回」


短い。

短いのに、もう勝手に線を引き終えている感じがした。


最後に、影の濃い場所にいた女。

さっきから掲示板の画面を高速でスクロールしていた手が止まって、こちらを見た。


「SABLE」


こちらは少しだけ口元が動いた。

笑っているのではない。査定が済んだ時の微かな動きだった。


「外の動き、追跡と分析は私」


それで終わりだった。


YUは小さく頷いた。


「……よろしくお願いします」


三人とも、それぞれ少し違う速度で返した。


LEDGERは一礼だけ。

VARGAは無言で顎を引く。

SABLEは「どうも」とだけ言った。


MINAが横でぼそっと言う。


「分かってる?」

「いま紹介されたの、たぶんこのギルドの中枢」


「……はい」


分かっているような、分かっていないような返事だった。

中枢と言われても、自分にはまだ“よく働く人たち”にしか見えない。


でも、見えないだけで、それが一番大きな変化なのだろう。


ORACLEは満足したように頷いた。


「これで最低限、回ります」


回る。


ギルドが。

草原が。

夜の外側が。


中心にいる自分を置いたまま。


---


その少しあと、YUは草原の縁で小さな箱を見つけた。


木箱。

簡素なつくり。

でも蓋の裏に、薄くECLIPSEの紋章が浮いている。


「これも?」


「たぶん、ギルド倉庫の仮置き」


MINAが即答する。

もう彼女も、何が誰の仕業か一瞬で分かる段階に来ていた。


箱の中には、回復薬、布、簡易食料、小さな携帯ランプ、そして見覚えのない護符みたいなものがいくつか入っていた。


「……初心者支援、充実してますね」


言った瞬間、MINAが笑った。

ちゃんと笑ったのは、少し久しぶりだった。


「今さらその解釈する?」


「でも、実際そうじゃないですか」

「寝具もあるし、箱もあるし……」


MINAは笑いを消してから、少し間を置いた。


「……そう見えるなら、もう少しだけそのままで」


その言い方が、いつもより少しだけ柔らかかった。

柔らかいのに、目は笑っていない。

もう少しだけ、という言葉の裏側に、期限がある顔だった。


YUはインベントリを開いた。


白い破片は、まだある。

黒い布は、昨夜からさらに一枚増えている。

称号欄の空きも、まだ空いたまま。

その隣に、ECLIPSEのギルド名が静かに並んでいる。


増え続けるものと、空のまま待っているもの。

同じ画面に同居している。


すぐ閉じた。


---


その箱の横を通りかかった時、明るい声が飛んできた。


「あっ、やっぱここの位置変わってる!」


初めて見る顔だった。


声が大きい。動きが速い。

空気を読む前に場の温度を変えてしまうタイプの女だった。


「神の寝床の位置、毎回ちょっと違うのエモいんだって!」


「誰ですか」


MINAが言う前に、本人が答えた。


「あたしMUSE。見せ方と伝え方の担当」

「いま切り抜きは自重してるけど、空気戻ったら再開する予定!」


MINAが即座に言った。


「再開しなくていい」


MUSEはまったくへこたれなかった。


「でも見せ方しくじると外に好き放題書かれるし?」

「ほっとくと“呪われた初心者草原”とか、もっと雑な名前つくし?」


SABLEが後ろから静かに足した。


「流れの追跡はこっちでやるけど、発信側の管理は確かに要る」


どうやら、このギルドには“うるさいけど必要”な人材もいるらしい。


SABLEとMUSE。

片方が外の動きを拾い、もう片方が中の動きを見せる。

入口と出口が分かれている。

分かれているから、仕事が回る。


YUは少しだけ思った。


自分一人なら、たぶん草の上で寝て起きて、それだけで終わっていた。

でも周囲はもう、それだけで終わらせる気がない。


終わらせないために、役割を持って動いている。


自分にはよく分からない。

でも、もう自分の知らないところで形になり始めていることだけは分かる。


---


空が少し赤くなってきた頃、草原の外縁で小さな揉め事が起きた。


昨夜の残党らしいプレイヤーが二人。

境界のぎりぎりまで来て、何かを言い合っている。

怖いけれど、確認したい。その種類の声だった。


VARGAが先に動いた。


速かった。

重そうな装備なのに、距離の詰め方に無駄がない。


境界の手前で止まる。

止まった位置がもう答えになっている。


「そこまでだ」


一言。


相手は武器を持っていたが、抜かなかった。

抜けなかったのかもしれない。

VARGAの後ろにRAMPARTが立ち、そのさらに後ろに白ローブが二人、静かに並んだからだ。


ただの威圧ではない。

並びだ。

役割で組まれた並びは、人を妙に黙らせる。


片方のプレイヤーが言った。


「見たいだけだ」


「見るなとは言わない」


VARGAは答えた。


「入るなと言ってる」


短い。

でも“境界の外から見ていろ”という新しいルールが、そこで一つできた。


相手は舌打ちして下がった。

もう一人も、それ以上は何も言わなかった。


戦闘にはならない。

でも支配は発生している。


MINAが小さく言った。


「……もう治安やってる」


それは感想ではなく、確認の声だった。


草原の外縁で、ECLIPSEが勝手に治安を始めている。

運営でもない。

公式イベントでもない。

でももう、機能としてそうなっている。


YUは少し遅れて、その意味を理解した。


自分が寝ている間に、草原は“入ると危ない場所”になった。

その危ない場所の周りで、“誰がどこまで入っていいか”を決める集団が生まれた。


ゲームのルールの外で、別のルールができ始めている。


その間、SABLEはずっと画面を見ていた。

VARGAが動いた瞬間から、相手が引くまで、匿名スレの流速が上がったのを追っている。


「書かれてるね。『止められた』って」


SABLEは誰にともなく言った。


「速い。もう三件」


MUSEがそれを聞いて少しだけ真面目な顔をした。


「こっちも何か出す?」


「まだ。もう少し流れを見る」


情報の入口と出口が、同時に動いている。

一人の指揮官が全体を設計したわけでもないのに、もうそういう形になっている。


その速さが、少しだけ怖かった。


---


風が吹いた。

草が揺れた。

冷たい。


それでも感触だけは、初日と同じだった。


SABLEが追っていた掲示板に、一つ気になる書き込みがあった。

SABLEはそれをMINAに見せた。


「運営、動いてない」


MINAが画面を見る。


公式の告知欄は、二日前の「対応継続」から更新がなかった。

ECLIPSEが勝手に治安を始めていること、境界が出現していること、プレイヤーが止められていること――そのどれに対しても、運営は何も言っていない。


「……見てはいるだろうけど」


MINAは低く言った。


「見てて何も出さないのは、二つのどっちか」

「出せないか、出す必要がないと思ってるか」


SABLEは薄く笑った。


「どっちでも、こっちにとっては同じ」

「公式が黙ってる間は、先に動いた方が場を取れる」


その言い方が妙に慣れていた。

ゲームの話をしているのに、ゲームの外で聞いたことのある話術だった。


昼の通知が、ここで少しだけ繋がる。


Territory permissions extended.


広がったのは、線だけじゃない。

草原の外で、ECLIPSEが触れる範囲そのものが広がり始めている。

システムの文面は、その変化を先に知っていたのかもしれない。


---


夜が近づく。


寝具は整っている。

箱は置かれている。

巡回の足音が外を回る。

掲示板では《ECLIPSE》の名前が、もう冗談では済まない速度で広がっている。


YUは草の上に座って、寝具の位置を少しだけ直していた。


ほんの少しだけ。

首に当たる位置がずれると嫌だから、それを自分の感覚で合わせているだけだ。


その小さな動きを、白ローブの数人が静かに見守っていた。

一人が少しだけ息を止めて。

一人が祈るように手を組んで。


(……大げさだ)


でも大げさだと思える程度には、ここに人がいることに慣れてきた。

慣れたくなかったのに。


MINAが隣にいる。

少し離れて。

でもここ数日で一番近い気配で。


「今日はちょっとだけ、昨日より危ない」


「毎日言ってません?」


「毎日危ないから」


その返しが少しだけおかしくて、YUは小さく息を吐いた。

笑ったのに近い息だった。


「……でも、みんなちゃんとしてますね」


「ちゃんとしすぎてて怖いけどね」


「僕一人だと、たぶん何も分からないまま寝て起きるだけだったので」


MINAは少し黙ってから言った。


「今も、だいたいそうだよ」


否定ではない。

確認だった。


YUは画面を開く。


```text id="g16sleep"

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


Y。


横になる。

草の冷たさ。

薄い寝具。

首の位置が少しだけ楽だ。


```text id="g16rest"

Resting...

```


目を閉じる。


知らない顔が増えた。

知らない役割が増えた。

知らない箱が増えた。

知らないルールが増えた。


でも草の冷たさだけは、まだ知っている。


その冷たさだけを握りしめて、今日も沈む。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 48


`301:`

ECLIPSE、もう幹部っぽいのいるんだけど


`304:`

早すぎだろ。昨日できたギルドだぞ


`307:`

昨日できたっていうか昨日までの信者集団が役割持っただけだろ


`311:`

草原の外で止められたやついるらしいな


`314:`

見た。「入るな」ってやつ


`317:`

もう治安ギルドじゃん


`321:`

運営でもないのに勝手に線の外守ってるの怖すぎる


`324:`

でも正直、今あそこ自由に出入りされる方が怖い


`328:`

それな。公式敗北見たあとだと、勝手にルール作るやついる方がまだマシまである


`332:`

運営は? なんか言ったの?


`336:`

二日前の「対応継続」から何も出てない


`340:`

草原でギルドが治安始めてんのに運営無言って


`344:`

出せないか、出す気ないかどっちかだろ


`348:`

どっちでも怖いわ


`352:`

ギルド名、ECLIPSEって誰がつけたんだろ


`356:`

知らんけど、今の草原にいちばん似合う名前ではある


`360:`

あと草原周辺の素材まだ止まってる


`363:`

採取勢ほんと戻ってきてない


`367:`

市場まで効いてんのマジで笑えない


`371:`

寝てる初心者の周りだけ世界の回り方変わってきてるの意味不明


`375:`

意味不明だけど、もうそれが現実なんだろ


`379:`

昼の初心者、夜の草原、外縁のECLIPSE


`382:`

役割分かれ始めたな


`386:`

ゲームの中で勝手に勢力図ができてく感じする


`390:`

でも中心のやつはたぶん何もしてないぞ


`394:`

それが一番怖いんだって


---


草原の上で、YUは目を閉じている。


周囲では、もう組織が回り始めている。

名前を持ち、役割を持ち、線を守り、外を見始めている。


その全部を、寝ている自分だけが知らない。


今日も知らないまま、眠る。


知らないことだけが、今の自分にできる唯一のことだった。


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