翌朝、英雄でも魔王でもなく“寝起き”
朝、草原は静かだった。
昨夜あれだけ人がいて、金属が鳴って、悲鳴が上がって、公式の白が夜に飲まれたのに――朝はちゃんと朝の顔で来る。
風が草を撫でる。
鳥が鳴く。
朝露が光る。
世界は毎回、「何もなかった」方に合わせて表情を作る。
相沢悠――HN:YUは、草の上で目を開けた。
最初に来たのは、軽さだった。
身体が軽い。
頭が重くない。
胸の奥に詰まっていた、会社の白い光みたいなものが、今朝は少しだけ薄い。
――眠れた。
その事実だけが、起きた瞬間に分かる。
夜の間に何があったかは、分からない。
でも眠れたかどうかは、身体が先に知っている。
YUはゆっくり身体を起こした。
草が冷たい。
頬に草の跡が残っている気がした。
その感触が、ちゃんと優しい。
「……起きた」
声がした。
三歩先。
黒い外套。
MINAがいた。
座っているというより、夜を越えた姿勢のまま、まだ朝に追いついていない人間の形でそこにいた。
目が赤い。泣いた赤じゃない。開き続けていた目の赤だ。
指先が少しだけ震えている。震えているのに、スクリーンだけはまだ持っている。
「おはようございます」
YUは言った。
MINAはそれを聞いて、笑いそうになって、やめた。
笑う余裕もないし、笑ったら何かが壊れそうな顔だった。
「……おはよう」
掠れた声で返したあと、MINAは短く息を吐いた。
「よく眠れた?」
「はい」
その一言で、MINAの目の奥が少しだけ痛そうに歪んだ。
「……そっか」
短い。
でもその短さの中に、一晩分の記録と、記録しきれなかったものが詰まっていた。
YUは周囲を見た。
景色が違っていた。
草原は草原のままだ。
風もある。光もある。
でも、昨夜まで「ただの広い初心者エリア」に見えていた場所が、今朝はどこか削れて見える。
丘の縁。
少し向こう。
地面が薄くなっていた。
穴ではない。
崩落でもない。
その一帯だけ、地面が一枚めくれたみたいに、草の色が不自然に浅い。
朝日が当たっているのに、そこだけ光り方が足りない。
影の落ち方も変だった。隣の草は影を持っているのに、その一帯だけ影が抜けている。
「……何か、減ってません?」
MINAはすぐには答えなかった。
「減った」
「地面が?」
「地面も」
“も”。
地面以外にも、減ったものがある言い方だった。
草原の外側に視線を向ける。
OBSERVERがいた。
でも数は少ない。
昨夜、いくつもあった灰色のローブは、今朝は二体だけだった。
足元の青い円は回っている。
回っているけれど、遅い。
いつもの「記録中」ではなく、「まだ立っているだけ」に近い光り方だった。
そのさらに向こう。
白い仮設台が、半分だけ崩れていた。
白布はある。
卓もある。
でも整っていない。夜の前の「公式の顔」が、朝には保てなくなっている。
WHITE RAVENの姿はなかった。佐久間の姿も、遠目にはない。
撤収でもなく、維持でもない。ただ置き去りにされた白だった。
参道は、残っていた。
白ローブの列はまばらになっている。
昨夜より人数は減っている。それでも二列の形だけは崩していない。
崩さないことそのものが、もう意思表示だった。
RAMPARTが立っていた。
いつもの場所。
いつもの沈黙。
でも盾に傷が増えていた。
横一文字の上に、斜めの深い線が走っている。
刃では付かない種類の傷だった。何か別のもので、表面ごと抉られたような線。
夜の間に何かを受けた。
受けて、残った。
RAMPARTはYUが起きたのを見ると、小さく頷いた。
今日はそれだけだった。
それだけなのに、意味が全部入っていた。
昨夜ここにいた。今朝もここにいる。それだけのことが、今日はひどく重い。
少し離れた場所で、ORACLEが座り込んでいた。
手元のメモ帳は開いている。
でもペンは止まっていた。
文字を書く前に、言葉が大きくなりすぎた人間の手だった。
YUは、素直に聞いた。
「……何かありました?」
MINAは片手で顔を覆った。
しばらくそのままで、指の隙間から声を出した。
「すごく、あった」
「大変でしたか」
「大変って言葉、今朝いちばん似合わない」
怒っているわけではない。
怒る元気がもう残っていない声だった。
そのとき、通知が出た。
画面の端に、いつもの場所に、いつもより多い文字列。
```text id="s0n1"
System Notice:
Sleep record saved.
```
```text id="s0n2"
System Notice:
Sleep record integrity check failed.
Data partially corrupted.
```
```text id="s0n3"
System Notice:
Observation session terminated unexpectedly.
```
```text id="s0n4"
System Notice:
Event data unavailable.
```
四つ並んでいる。
最初の一行は見慣れている。毎朝出る。
二行目以降は見たことがない。
保存された。でも壊れている。
観測は中断された。
イベントデータは利用できない。
失敗とも成功とも書かれていない。
中止とも完了とも書かれていない。
ただ「使えない」とだけ書かれている。
「……イベントだったんですね」
自分でも変な感想だと思った。
でも他に言葉が出なかった。
MINAはその通知欄を見て、乾いた笑いみたいな息を吐いた。
「そう。公式イベント」
MINAは自分のスクリーンを閉じて、それからまた開いた。
閉じたかったのに、閉じきれなかった手つきだった。
「で、公式なのに、何も取れてない」
YUは意味が半分しか分からなかった。
分からないことを、無理に全部理解しようとすると疲れる。
だから理解できるところだけ拾う。
「……取れてないんですか」
「何も。見たって言える最低限だけ残って、中身は全部ない」
それはどういう状態なんだろう、と考えかけてやめた。
今はそれより先に、自分の身体が「眠れた」ことを喜んでいる。
その軽さの上に、説明不能な大きなことが積まれても、すぐには持てない。
指先に違和感があって、YUはインベントリを開いた。
増えている。
いつも通り、増えている。
でも今日は、増え方がいつもより露骨だった。
金属片。
宝石。
黒い布。
紋章。
`???`
見慣れたものが並ぶ中に、見慣れないものが混じっていた。
白銀色の破片。
輪の一部みたいな形。
表面に、ごく薄く青い線が走っている。
指が止まった。
これまでのアイテムは、どれも「分からない」ものだった。
金属片が何なのか分からない。宝石がなぜ増えるのか分からない。`???`は名前すらない。
分からないものには、分からないなりの付き合い方がある。放っておけばいい。
でもこれは違う。
白銀。青い線。どこかで見た。
昨日、草原に打ち込まれていた杭。先端に浮いていた輪。あの光と同じ質感だった。
つまりこれは、「分からない」ではなく、「見覚えがある」だ。
その違いが、指先を冷たくした。
「あ」
MINAの声が止まった。
YUはそちらを見る。
「何ですか」
「……それ」
MINAが指差していたのは、白い破片だった。
「どうしたんですか」
「それ、昨夜の……」
そこまで言って、MINAは口を閉じた。
沈黙が長かった。
長い沈黙の中で、MINAの目だけがYUのインベントリと草原の外周を行き来していた。
杭があった場所と、破片がある場所を、目で繋いでいる。
言えば繋がる。
夜と、草の上で眠っていた初心者が。
繋がったら、もう「落とし物」では済まない。
YUは画面を見た。
「落とし物、ですかね」
言ったあと、自分でも無理があると思った。
運営が設置したギミックの残骸が、なぜ自分のインベントリに入っているのか。
拾った覚えはない。触った覚えもない。眠っている間に、勝手に。
でも他の説明を持つ体力がない。
MINAはしばらく何も言わず、それから低く言った。
「……今は、それでいい」
今は。
それでいい。
否定しない。
肯定もしない。
その曖昧さが、かえって重かった。
「今は」の裏側に、「いつかは違う」が透けている。
インベントリの端で、称号欄が目に入った。
枠は増えている気がした。
でも今日はもうそこを開かなかった。
見たくないものを後回しにする技術だけは、現実で鍛えられている。
画面を閉じる。
---
初期村へ戻る道は、いつもより人が少なかった。
いないのではない。
出てこないのだ。
昨夜あれだけ集まった人間が、朝になったら姿を消した。
ログインしていても表へ出てこない。
窓の内側で、チャットの内側で、まだ自分の言葉を探している気配がある。
村に入ると、空気がさらに変だった。
静かなのに、密度がある。
音が少ないのに、情報だけが多い。
広場の木の掲示板の前には数人しかいない。
でもその少人数が、誰も笑っていない。
怖いものを見た翌朝の顔をしている。
金属フレームの公式掲示板には、新しい文面が貼られていた。
```text id="off14"
Official Notice:
Grassland operation remains under review.
Additional maintenance is in progress.
Please refrain from unauthorized entry into the designated area.
```
レビュー中。
追加メンテナンス。
無断侵入禁止。
結果がない。
説明がない。
ただ「まだ終わっていない」とだけ書いてある。
その文面を見て、YUは思った。
会社の障害報告書みたいだ。
原因不明。
対応中。
再発防止策は未定。
関係者は続報を待て。
現実で見慣れた言い回しが、ゲームの村の中に立っている。
それだけで少し疲れた。
ORACLEが、広場の端から立ち上がった。
さっきまで座り込んでいた姿勢のまま、足だけが先に伸びて、身体があとから追いついたみたいな立ち方だった。
白ローブの裾には草がついている。
昨夜の土をそのまま持ち込んだみたいに、足元が汚れている。
声を張り上げはしなかった。
でも広場の中央へ歩いていくと、周囲が自然と静かになった。
「神は――」
一度、言葉が切れた。
ORACLEの唇が、かすかに震えていた。
言葉が大きすぎるのか、身体が追いつかないのか。
どちらにしても、いつもの滑らかさがない。
それでも、続けた。
「神は、裁定を下されました」
広場の空気が、一段深くなった。
「剣を向けた者には、剣ではなく結果で返された」
声が少しだけ掠れる。
「測ろうとした者には、測れないという事実で返された」
言い直さない。
でも完成されてもいない。
昨夜を丸ごと飲み込もうとして、喉に引っかかったまま出てきた言葉だった。
「昨夜、草原の夜は、公式すら拒みました」
広場が沈んだ。
膝をつく者がいた。
目を伏せる者がいた。
手を組む者がいた。
音はない。
音がないのに、広場の温度だけが変わった。
YUは小さく思った。
(やめてくれ)
自分は寝ていただけだ。
寝ていただけなのに、起きたら裁定になっている。
その変換がどこで起きたのか分からないし、分かりたくもない。
でもやめてくれと言えば、それもまた意味になる。
だから何も言わない。
黙っているしかない。
MINAはORACLEを見ていた。
止めない。
でも全面的にも乗らない。
止めても無駄だと分かっていて、なおかつ放っておくと危ないと分かっている目だった。
ORACLEは、広場の端に座り込んでいる数人へも視線を向けた。
昨夜の参加者たちだ。
鎧は無事。
武器も持っている。
体力の表示も減っていない。
でも全員、目だけが壊れていた。
身体は戻っている。
でも何を見たのか説明できない。
説明できないまま、二度と近づきたくないという確信だけを持って帰ってきた顔だった。
「彼らは生きて戻った」
ORACLEは静かに言った。
「それ自体が、慈悲です」
慈悲。
その言い方に、広場の何人かが頷いた。
MINAは小さく呟いた。
「……違う」
「慈悲じゃない。線を引かれただけ」
その声は誰にも届かないくらい小さかった。
でもYUには聞こえた。
線を引かれただけ。
ここから先はだめだと。
入ってはいけないと。
そういう種類の夜だったのだろう。
MINAの言い方の方が、正確な気がした。
でもORACLEの言い方の方が、人を動かす力がある。
正確さと力は、いつも同じ方向を向くとは限らない。
---
昼前、仮設台の周辺に人影が戻っていた。
WHITE RAVENと佐久間。
遠目にでもそれと分かる白い輪郭と、端末に張りついた背中。
YUとMINAは、村へ戻る途中でそれを見た。
二人の声は聞こえない。
遠すぎる。
でも佐久間が何度もウィンドウを開いて閉じているのは見えた。
閉じたいのに閉じられない、あの動きだった。
しばらくして、公式音声が流れた。
WHITE RAVENの声。
草原の外縁にいる全員に届く、あの均質な音声。
「草原区域異常現象に対する作戦は、対応継続とします。追加情報は改めて告知します」
それだけだった。
失敗とは言わない。
成功とも言えない。
だから「継続」になる。
MINAはその音声を聞いて、顔をしかめた。
「公式が負けるときって、負けましたって言わないんですね」
「会社と同じですね」
思わず言った。
現実の会議室でもそうだ。プロジェクトが失敗したとき、「中止」とは言わない。「方針を再検討する」「対応を継続する」「状況を注視する」。言葉だけが残って、事実が消える。
MINAが少しだけこっちを見た。
それから苦く笑った。
「ほんと、それ」
同意されたことが、少しだけ胸に残った。
会社の話が通じる相手がいる。
それだけのことが、今日はなぜか温かかった。
---
夕方。
草原の周囲は、昨夜より静かだった。
静か、というより、遠巻きだった。
昨日は大軍がいた。
今日は、遠くから見る者ばかりになった。
怖いものを見た人間は、翌日に二種類に分かれる。
もう近づかない人間と、遠くからだけ見続ける人間だ。
その両方が、今日は草原の外縁にいた。
YUはいつもの場所に座っていた。
今日は朝の軽さが少しだけ長く残っている。
現実の疲れが消えたわけではない。
でも昨日より、身体の内側に空白がある。
眠れた翌日だけの、薄い救いだった。
MINAが横にいる。
少し離れて。
でも昨日より近い気配で。
「今夜も寝る?」
「はい」
「宿屋、使わないの」
「……使った方がいいですか」
MINAは少し考えてから言った。
「いい悪いじゃない」
「ただ、今日はたぶん、取り返しに来る夜になる」
「取り返す?」
「昨夜、折れたのに諦めきれない人がいる」
「確認したい人も、記録したい人も、失ったものを拾いたい人も」
取り返す。
たぶん、仲間とか、名誉とか、説明とか。
昨夜持っていかれた何かを、まだ取り返せると思っている人たちのことだ。
「……来ますか」
「来る」
短かった。
遠くの丘に、小さな影がいくつか見えた。
昨夜ほど整っていない。
でも野次馬よりは近い距離だった。
RAMPARTが盾をわずかに持ち直す。
ORACLEは今日は膝をつかない。
立ったまま、遠くを見る。
YUは画面を開いた。
```text id="sleep14"
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
少しだけ迷った。
迷ったのは怖いからじゃない。
今日は朝を知っているからだ。
眠れた朝が、ちゃんとあった。
その事実が、逆に「次もある」と思わせる。
次があると思えることが、こんなに珍しいとは知らなかった。
Y。
横になる。
```text id="rest14"
Resting...
```
沈む。
その直前、MINAが小さく言った。
「……明日も、起きて」
返事をする前に、意識が底へ落ちた。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 46
`101:`
昨夜の公式作戦、マジで失敗扱いになってないの怖い
`104:`
失敗って言ったら責任発生するからだろ。運営しぐさ
`108:`
でも草原まだ変だぞ。丘の一部薄くなってる
`111:`
見た。地形欠けてるのにメンテで直ってない
`115:`
寝てる初心者、朝めっちゃ普通に起きたらしいな
`118:`
普通に起きるなよ逆に
`121:`
しかも「よく眠れた」顔してたって話で草
`124:`
草じゃねぇよ。こっちは一睡もしてねぇ
`128:`
昨夜の参加者、何て言ってる?
`132:`
「説明できない」しか言わん
`135:`
あと「二度と近づかない」
`138:`
あと「ASTERが止まった」
`142:`
王者止まるのヤバすぎるだろ
`146:`
止まったっていうか、斬る意味なくなったみたいな感じだったって
`149:`
意味わからん
`153:`
草原の周り、まだ見に来てるやついるな
`156:`
懲りてねぇな
`160:`
でも昨日みたいな大軍じゃない。遠巻きばっか
`164:`
そりゃそうだろ。公式ですら触れなかった場所だぞ
`168:`
昼の初心者=無害。夜の草原=公式より上。これもう確定でよくない?
`172:`
よくないけど、たぶんもうそう
`176:`
怪談じゃなくて伝説になったって言ってたやつ、正しかったな
`180:`
今朝から相場動いてるの地味に怖い
`183:`
草原方面の素材、出品止まり始めてる
`187:`
え、それどういうこと
`191:`
行くやつ減るだろ。採取勢が草原周辺避けてる
`195:`
世界がビビってるってことか
`199:`
寝てるだけの初心者の周りから、経済まで冷えていくの意味わからん
`203:`
意味わからんけど、もう昨日までのゲームじゃない
---
朝の草原で、YUは何も知らずに息を吐いた。
眠れた。
それだけが、今の自分には本当だ。
その本当の周りで、世界の方が勝手に意味を増やしていく。
英雄でもない。
魔王でもない。
裁定者でもない。
ただの寝起きだ。
それでも昨夜、公式は負けた。
そしてその事実は、朝になっても消えなかった。




