公式討伐イベント、開幕
少し前。
人が多すぎると、草原の匂いは薄くなる。
草の青さより、金属の匂いが勝つ。
風の音より、鎧の擦れる音が勝つ。
初心者エリアにいるはずなのに、ここだけ別の場所に差し替えられたみたいだった。
相沢悠――HN:YUは、草原の入口で立ち止まっていた。
人がいる。
多い、では足りない。
いる、というより、敷かれている。
丘の下から村の門まで、武装したプレイヤーが層になって並んでいた。前衛、後衛、回復、補助。役割ごとに固まっている。野次馬の群れではない。編成された数だ。
その外側に、灰色のローブが立っている。
OBSERVER。足元の青い円が、いつもより速く回っていた。
そのまた外側に、白い旗が見えた。
運営の紋章。白銀の枠。
会社の会議室で見るような、温度のない白だった。
木と草と石の世界に、その色だけが意味もなく正しい。
YUは、素直に言った。
「……イベントって、初心者も参加していいんですか」
すぐ横で、MINAがこめかみを押さえた。
「参加っていうか」
黒い外套の下の声は低かった。
「中心にいるの、あんた」
「……ですよね」
分かっていた。
分かっていたけれど、口にすると少しだけ楽になる言葉というものがある。
たとえ返ってくる答えが、その楽さをすぐに潰すとしても。
草原の内側には、参道ができていた。
白ローブが二列。
ORACLEの腕章を巻いた者たちが、入口から中心へ向かって、まっすぐ並んでいる。
走れば乱れる。歩けば保たれる。そういう幅だった。
その先に、RAMPART。
盾を深く地面に刺して、今日はただ立っている。
頷きもない。言葉もない。立っていること自体が、もう発言だった。
さらに向こう。
白銀の鎧の列があった。
《REGALIA》。
一目で分かる装備の統一感。無駄のない立ち位置。見せるための強さではなく、見ただけで秩序だと分かる強さ。
先頭にはASTERがいた。剣は抜いていない。まだ抜いていない、という方が正しい。
抜くべき瞬間を待っている人間の立ち方だった。
その脇に、見慣れない金属柱がいくつも打ち込まれていた。
草に似合わない杭。
先端に青白い輪が浮いている。地面に刺さっているのに、どこか浮いて見える。
工事の杭みたいに無骨なのに、先端の光だけがやけに軽い。地面と光の温度が合っていなくて、見ていると目の奥がぶれた。
MINAがそれを見て、顔色をさらに悪くした。
「……やってる」
「何をですか」
「封じる準備。運営告知にあった。抑制層、投入済みって」
MINAは目を細めた。
「観測だけじゃない。今夜は止める気で来てる」
止める。
その二文字が、胃の下に沈んだ。
草原で寝ることを。
夜を。
あるいは、もっと別の何かを。
YUは、参道の先――いつもの寝場所を見た。
草の色は変わっていない。
風の吹き方も、朝と同じだった。
宿屋は開いている。
サポート対応の翌日から、ロックは解除されていた。
壁も、天井も、ベッドもある。
逃げ道はある。
それでも、ここに来た。
参道を歩く途中、一瞬だけ宿屋の方を振り返った。
あそこに行けば、壁がある。天井がある。通知のないベッドがある。
安全という名前のついた場所で、目を閉じることができる。
足が止まりかけた。
止まって、それから、また前に向いた。
もう「ここしかない」だけではなかった。
選べるようになって、それでもここに来た。
その違いが、自分でも少し怖い。
怖いのに、足は草原の中心に向かっている。
恐怖より先に、身体が覚えてしまった場所がある。
参道の向こうから、足音が近づいてくる。
整列した足音。歩幅が揃っている。大勢なのに静かだ。
走っていない。走らせないための道があるからだ。
ORACLEの声が、草の上を滑った。
「ここから先は、お歩きください」
穏やかな声。
拒絶の声ではない。案内の声だ。
案内の形をしているから、かえって退けない。
YUはいつもの場所に座った。
草が冷たい。
冷たくて、硬い。
でも要求しない。
これだけ人がいて、これだけ目があって、これだけ「作戦」が並んでいるのに、草だけは初日と同じ顔をしている。
「……MINAさん」
「何」
「本当に、寝てていいんですか」
「いい」
間髪を入れず返ってきた。
「今ここで怯えてる方が危ない」
意味は分からない。
でも分からないことに慣れすぎて、もう全部を理解しようとは思わなくなっていた。
画面が出る。
```text
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
指が、Yに触れる。
誰に頼まれたわけでもない。
前は怖かった。今でも怖い。
でも今夜は、押す指の重さが少しだけ変わっていた。
逃げ場がないから押すのではなく、ここを選んだから押す。
その一文字の意味が、たった一画分だけ、変わった。
Y。
横になる。
草が頬に当たる。冷たい。硬い。優しい。
```text
Resting...
```
目を閉じる。
鬼塚の「念のため」が遠くなる。
運営の「強く非推奨」が遠くなる。
隊列の足音が遠くなる。
沈む。
---
MINAは、YUが目を閉じた瞬間に時間を見た。
秒は記録しない。
数だけが独り歩きすると、あとで人を裏切る。
だから言葉だけを置く。
――入眠。
スクリーンに打ち込んだ、その直後だった。
OBSERVERの青い円が、一斉に強く脈打った。
草原の外れでは、仮設の運営台が白く光っていた。
板張りの高台の上に、白い卓。白い布。白い紋章。
その中心に、WHITE RAVENが立っている。公式イベント進行役のGM。白い仮面めいた顔立ち。感情を薄く削ったような、均質な造形。
その隣で、佐久間修司が端末を叩いていた。
仮設モニターに並ぶのは、草原の俯瞰図と、観測アバターの位置、参加者の隊列、封印ギミックの同期率。
数字と線と円が、風の吹く草原のすぐ隣で動いている。
「封印層、同期完了。観測層、増設済み。SLEEP TRACE、監視優先モードへ移行」
早口だった。
早口なのに、声が死んでいる。寝ていない人間の早口だった。
遠隔回線の向こうで、羽賀の声がした。
『今回は“公式対応”だ。非公認の確認部隊とは違う。失敗はできない』
「失敗したくてする人はいませんよ」
佐久間は画面を見たまま言った。
言い返したというより、独り言がたまたま音声に乗っただけの音量だった。
仮設台の脇で、JUDGEが隊列を見下ろしている。
聞いたことのある種類の声を持つ男だった。会議室の、一番奥に座っている人の声。
「秩序維持のためです」
JUDGEは誰にともなく言った。
「運営が対応する。上位勢が支える。有志が補完する。これで足りないなら、もう何を足しても同じです」
ASTERが横で静かに答えた。
「同じかどうかは、見れば分かる」
短いやりとりだった。
でも短い言葉ほど、余白に熱が溜まる。
WHITE RAVENが草原中央を見た。
参道の先。
草の上に、一人の初心者が横たわっている。
装備らしい装備もない。
武器もない。
高レベル帯の持つ圧もない。
それなのに、その周囲だけが世界の中心になっている。
WHITE RAVENは公式音声に切り替えた。
「これより、草原区域異常現象に対する調査・対応作戦を開始します。参加者は指示に従い、指定ルートを進行してください。安全は保証されません」
最後の一文だけが、少し重かった。
安全は保証されない。
その言い方を、WHITE RAVEN自身が嫌っているのが、わずかに分かった。
---
草原の外周に打ち込まれた封印アンカーが、連動して光った。
青白い輪が草の上を走り、中央へ向かって縮んでいく。
囲う。
測る。
止める。
その全部を一度にやろうとしている光だった。
WHITE RAVENの声が響く。
「先行班、前進。観測維持。封印層、第一段階――」
そこまでだった。
空が落ちた。
夕方から夜へ変わる、あの自然な遷移じゃない。
色が沈んだのではなく、光そのものが一段抜かれたみたいに、世界の明度が急に下がった。
誰かが息を呑む音がした。
一人じゃない。何十人も同時に。
草原の真ん中だけ、夜が濃い。
夜の中に、さらに深い場所がある。
形はない。輪郭もない。
でもそこだけが「他より深い」と分かる。
理解より先に、身体がそう判断する深さだった。
先行班の一人が叫んだ。
「視界が――」
最後まで言えなかった。
そのプレイヤーの表示が、ふっと消えた。
HPが削れたわけでもない。ダメージ表記もない。戦闘ログも出ない。
名前表示だけが抜け落ちて、身体が光にほどけるように薄れた。
強制ログアウト。
その認識が広がるより速く、二人目は声も出さなかった。
三人目は、振り返ろうとした姿勢のまま抜けた。
連鎖だった。
前線の一角がまるごと刈り取られたみたいに、数人分の名前が一度に落ちた。
残った者たちが後ずさる。その後ずさった先で、また別の列が薄くなる。
「ログアウトできない!」
「違う、された――」
「何だこれ、何だこれ!」
悲鳴は上がる。
でも戦闘にはならない。
敵が見えないからだ。攻撃対象がない。だから戦闘の形を取れない。
悲鳴が上がるほど、夜の方が静かだった。
怒っていない。慌てていない。
ただ、入ってきたものを順番に消している。
答案を返すように。
処理するように。
OBSERVERの青い円が、ひとつ消えた。
音はない。
ただ「記録中」という色だけが夜から剥がれた。
佐久間が端末を叩いた。
「一号観測層、ロスト! 二号も――待って、待ってください、封印アンカーが同期外れてる!」
仮設モニターの上で、草原中央の地図が乱れた。
輪郭がぶれる。座標がずれる。中央を示すマーカーだけが、地図からほんの少し外れた位置に刺さっている。
ありえない。
地図の方が現実に追いついていないみたいだった。
佐久間は別のウィンドウを開いた。SLEEP TRACEのログ。
監視優先モードに切り替えたはずの画面は、データの列が一行も埋まっていなかった。
ログは生成されている。タイムスタンプも入っている。
でも中身がない。枠だけが並んで、値がすべて空白だった。
「SLEEP TRACE……応答はしてる。してるのに、中身が空です。何も取れてない」
WHITE RAVENが音声を上げる。
「全参加者、後退してください。繰り返します、後退――」
アナウンスが途中で切れた。
ノイズ。
一瞬だけ。
それだけで十分だった。
草原の一角が、削れた。
爆発ではない。
崩落でもない。
丘の縁の一部が、音もなく欠けた。
土が落ちたのではない。地形データそのものが一枚剥がれたみたいに、草も土も影も、まとめてそこだけ薄くなって消えていた。
誰かが座り込んだ。
誰かが声を上げられないまま口を押さえた。
誰かが叫びながらログアウトした。
戦闘にならない。
勝敗にもならない。
成立していない。
RAMPARTの盾が鳴った。
金属を打つ音ではなかった。
もっと鈍い。
世界の厚みを、盾で受けたみたいな音。
一度。
二度。
三度。
鳴るたびに、参道の白ローブたちが揺れる。
倒れはしない。揺れるだけで持ちこたえる。
でもその持ちこたえ方は、もう「立っている」ではなく「まだ折れていない」だった。
ORACLEは両手を地面についていた。
祈っているのか。見届けているのか。
最初から、この夜を知っていたような顔をしていた。
知っていて、それでも止められなかった人間の顔だった。
ASTERが一歩踏み出した。
正面から。
逃げずに。
王者の立ち方で。
剣を抜く。
抜いた、と思った瞬間。
剣の輪郭が、夜の中で少しだけ遅れた。
ASTERの動きは速い。
なのに、夜の方が速い。
ASTERは止まった。
斬る前に。
斬れると確信した直前で。
剣が届かなかったのではない。
届く前に、剣を振るうという行為そのものが、意味を失った。
初めてだった。何かに負けたのではなく、勝負の場にすら立てなかったのは。
その横で、REGALIAの前衛が数人、表示ごと抜けた。
WHITE RAVENの仮設台で、佐久間の声が裏返る。
「リプレイ層、全部死にました! 保存は――保存は出てるのに、整合性が、通らない……!」
保存された。
でも開けない。
MINAは、目を逸らせなかった。
観測を選んだのは自分だ。
なら、ここで閉じるわけにはいかない。
スクリーンに言葉を打つ。
――入眠直後、開始。
――封印層、反応。
――前線、連鎖ログアウト。
――観測層、順次喪失。
――地形欠損。
――戦闘ログ、未成立。
――SLEEP TRACE、空白。
途中で指が止まった。
草原の中心。
YUが眠っている場所の少し向こう。
そこだけ、夜が濃すぎる。
見えていない。
見えていないのに、「そこにいる」と身体が理解する。
MINAは、思った。
最悪だ。
最悪のタイミングで、
最悪の人数で、
最悪の方法で、
運営が夜に手を突っ込んだ。
だから夜が、ちゃんと答えてしまっている。
強さではない。
拒絶ですらない。
これは、裁定に近い。
「下がって!」
MINAの声が草原に走った。
「下がって! 今は入る場所じゃない!」
届いた者と、届かなかった者がいた。
届いた者は転ぶように下がる。
届かなかった者は、前を見たまま薄れていった。
JUDGEが後方で何かを叫んでいる。
統率の言葉だった。秩序の言葉だった。
でも夜の中では、秩序はよく滑る。
手からこぼれた砂みたいに、号令だけが崩れていく。
そして突然、静かになった。
静か、というより。
夜の方が「もういい」と決めたみたいに、悲鳴と金属音が一段下がった。
残ったのは、草の音でも風の音でもない。
```text
Resting...
```
その一行だけだった。
眠っている。
真ん中で。
全部を巻き込んで。
でも、本人だけはただ眠っている。
MINAの喉がひりついた。
守る、という言葉が軽くなるほど、今夜の真ん中は重い。
---
作戦は、終わったのに終わらなかった。
終了宣言は出なかった。
中止アナウンスも、完了ログも、勝敗表示もない。
仮設台のモニターには「接続断」「取得失敗」「再試行」が並んだまま止まり、参加者UIは半分以上が灰色のままだった。
でも誰が見ても、失敗だった。
公式が。
人数を集めて。
上位勢が入り。
封印ギミックを用意して。
それでも、草原の中心に届けなかった。
届かなかったどころか、夜の方に消された。
丘の裏まで退いた者たちが、誰からともなく草原を振り返った。
空が、おかしかった。
村の上は夜明け前の色に戻り始めている。
星が薄れ、遠くの端から少しずつ青くなる、あのいつもの朝の前の空。
でも草原だけが暗い。
夜が残っている。
色の残像じゃない。
目の錯覚でもない。
草原中央の上だけ、夜の濃さが抜けていない。
まるで、あの場所だけがまだ「終わっていない」みたいに。
WHITE RAVENは、その暗がりを見ていた。
仮面みたいな顔に、初めて小さな亀裂が入った。
その亀裂の名を、WHITE RAVEN自身もまだ持っていない。
佐久間が、乾いた喉で言った。
「……リプレイが、ない」
誰に言ったのか分からない。
たぶん、自分にだ。
「公式作戦なのに……リプレイが、存在しません」
MINAは、草原の暗がりを見ていた。
あの中心で、YUは眠っている。
明日の朝、たぶん起きる。
いつも通り草を払って、「眠れた」と思う。
その横で、公式が負けた。
それを、どう説明する。
本人に。
あの人は「寝ていいですか」と聞いて、「いい」と言われたから寝ただけだ。
何も知らない。
何も壊していない。
それなのに、起きた時に見る世界は、もう昨日までと同じではない。
MINAは説明の言葉を探した。探して、何も見つからなかった。
見つからないまま、スクリーンに最後の一行を打った。
――説明するための言葉が、まだどこにもない。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 45
`901:`
公式作戦、始まったのに終了ログ出てないんだけど
`904:`
出てないどころかリプレイ欄が空だぞ。公式イベントでそれある?
`907:`
ない。絶対ない。記録は「保存」って出てるのに開けない
`910:`
討伐成功したの?失敗したの?
`912:`
成功してたら草原まだ暗くないだろ
`915:`
え、まだ暗いのマジ?
`918:`
マジ。村側はもう朝前なのに、草原の真ん中だけ夜が残ってる
`922:`
REGALIAは?
`925:`
いた。ASTER出た。剣抜いた。……でも止まった
`929:`
止まった?
`932:`
そう。斬る前に止まった。斬れなかったんじゃなくて、斬る意味がなくなったみたいに
`936:`
何だそれ
`940:`
強制ログアウト食らったやつめちゃくちゃいる。しかも連鎖
`943:`
ダメージ見えたやついる?
`946:`
いない。HP減ったとかじゃない。「表示ごと抜けた」って証言しかない
`950:`
WHITE RAVENいたよな? 公式GMまで出てたのにこれ?
`953:`
出てた。出ててこれ。だからヤバい
`957:`
戦闘ログがない公式討伐って何
`961:`
討伐じゃなくて“不戦敗”だろ
`965:`
寝てる初心者は?
`968:`
寝てる。たぶん今も寝てる
`972:`
一番意味わからん
`976:`
意味わからんけど、これで確定したな
`979:`
何が
`982:`
草原の夜は、公式でも触れない
`986:`
しかも今、草原に“夜が残ってる”のが最悪すぎる
`990:`
怪談じゃん
`993:`
怪談だったらよかったんだよ
`996:`
今夜から、伝説だろこれ
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夜は、まだ草原に残っていた。
そして、その中心で。
一人の初心者だけが、何も知らずに眠っている。




