討伐宣言
朝、相沢悠はスマホの通知音で目が覚めた。
目が覚めた、というより——薄い膜が一枚剥がれただけだった。眠れていない。横になっていた時間の長さだけが増えて、意識はずっと浅いところに浮いている。
ネオスフィアの草原では沈める。
現実のベッドでは沈めない。
その差が、毎朝少しずつ重くなる。
スマホを見た。
> NEOSPHERE ONLINE — 公式告知
> 草原区域における異常現象について、調査・対応作戦を実施します。
> 詳細はゲーム内の公式掲示をご確認ください。
調査。対応。作戦。
丁寧な単語が並ぶほど、出口が狭くなる。
スマホを裏返した。
裏返しても、文字は消えない。見たものは、見なかったことにできない。
歯を磨く。顔を洗う。鏡を見る。
鏡の中の顔は、輪郭が薄かった。消しゴムで端から消されていく下書きみたいに、どこかが欠けている。
靴紐を結ぶ。今日は震えなかった。
震えなかったことに安心して、安心したことに気づいて、少し怖くなった。
駅まで歩く。電車に乗る。会社に着く。
全部できる。できるから、壊れていない扱いになる。
席に座った。モニターを点けた。
鬼塚のチャットが点滅している。
「念のため、昨日の件。提出前にもう一度、全体の整合性チェック」
整合性。整える、という名の削り直し。
「了解しました」
文字を打って送った。
吐いた息が蛍光灯の光に混ざって消えた。消えるものは楽でいい。残るものは全部重い。
昼休み、自販機の前に立ってブラックを押した。缶が落ちた。冷たい。
冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。
社食の方から、声が聞こえた。
「ネオスフィア、草原の件、公式が動くらしい」
「イベント化するってこと?」
「いや、“作戦”って言ってた。ヤバいんだろ、あそこ」
ヤバい。
草原がヤバい。自分の寝床がヤバい。
(なくなるかもしれない)
草原が。沈める場所が。眠れる場所が。
その可能性が胸を通過して、通過した後に冷たい跡だけを残した。
午後は、鬼塚の「念のため」を処理した。
処理しながら、頭の半分は草原にいた。草の冷たさが、まだあるうちに。
帰宅。もちろん。倒れた靴を直さない。
冷蔵庫を開ける。何かがあるのを確認して閉める。確認するだけで少し落ち着くのは、現実のバグだ。
VRギアの前で、一瞬だけ迷った。
迷ったのは被るかどうかじゃない。
“今夜が最後になるかもしれない”と思ったからだ。
被った。目を閉じた。
落ちる。
---
白い空間が挟まった。
運営のフォント。冷たい温度。硬い光。
```
NEOSPHERE ONLINE
Official Announcement — Grassland Anomaly Response
草原区域の異常現象に関し、調査・対応作戦を実施します。
参加登録:制限なし(作戦時間内のみ)
注意:安全は保証されません
※ 指定区域への無断接近はペナルティ対象となる場合があります
※ 指定区域でのSleep Mode使用は強く非推奨です
```
「強く非推奨」。
禁止ではない。けれど、やった時の責任をこちらに移す言い方だ。会社の「自己判断でお願いします」と同じ形。
白が溶けて、草原が広がった。
風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。
いつもの朝の顔。いつもの優しい嘘。
YUは身体を起こした。
——沈めた。
まだ沈めた。
「まだ」が、胸の奥で重い。
草原の外側を見る。
灰色のローブが増えていた。OBSERVER。足元の青い円がいくつも回っている。
“観測”の目が、“囲い”の目に変わっている。
その外側に——人影があった。
武装したプレイヤーたち。朝から鎧を着て、武器を持って、位置を決めている。
声が聞こえた。
「作戦、今夜だって」
「集合、丘の裏」
「前衛は先に配置」
怖いものを倒すために、怖くない手順を組む声。効率的で、淡々としていて、だから余計に怖い。
立ち上がって草を払うと、横に黒い外套があった。
MINA。
気づいた時には、もう隣にいる。
「おはよう」
声が掠れていた。眠っていない声。でも目の奥は、折れていない。
「おはようございます」
MINAはスクリーンを開いて見せた。
そこに並んでいたのは、数字じゃなく、短い言葉だった。
「入った瞬間、数秒で動く。毎回。ズレない」
「あなたが沈むと、すぐ“始まる”。そこだけは確定」
確定。
怖い言葉だ。確定は、逃げ道を消す。
「……これ、運営に言いますか」
「言う。けど、その前に“無実”を残す」
MINAの言い方は、いつも通りだった。怒っているのに落ち着いている。心配しているのにぶれない。
「サポート窓口、もう一回行こう。言葉にする。記録に残す」
記録。
現実でも最後に残るのは記録だ。書いてないことは、なかったことになる。
---
村に入ると、広場が“式典”になっていた。
祭りでも戒厳でもない。始まる前の空気。形を整えて、息を揃える空気。
木の掲示板の横に、金属フレームの公式掲示が並んでいる。運営の紋章。白い布。硬い色。
その下で、武装したプレイヤーたちが声を落として動いていた。役割ごとに集まって、確認し合って、装備を整える。
視線が、YUに集まった。
今までは噂の中心。今日は、目の前を歩く“当事者”。
すれ違いざまに声が聞こえた。
「寝てるだけのやつ、あれ?」
「初心者帯ってマジ?」
「ほんとに何もしてないのか?」
何もしていない。
寝ているだけだ。
それでも、その言葉はもう軽くならない。軽く言うほど、周りの顔が困る。
広場の奥、あの扉はまだあった。
`SUPPORT DESK`
中の白さは変わらない。影のない光。均一な温度。
会社の会議室に似ているのに、もっと冷たい。
`SUPPORT GM — Tier 1` が立っていた。
「ご来訪ありがとうございます。対象アカウント `YU` でお間違いありませんか」
対象。
ユーザーでもプレイヤーでもなく、対象。
「……はい」
MINAが一歩前に出た。
「この人は草原で眠っていただけ。意図的な異常行為はしていない。——これを“申し立て”として記録して」
GMは頷いた。
「記録いたします。なお、申し立て内容は今後の判断材料として保持されます」
盾になるかは分からない。でも、盾の材料にはなる。
“ない”よりは、“ある”方がいい。
YUが口を開いた。
「……草原の作戦。参加者、制限なしって……僕は、どうなりますか」
GMは少しだけ間を置いた。
「当該作戦は公式対応ですが、個別プレイヤーの安全を保証するものではありません」
「Sleep Modeの使用は強く非推奨です」
「ただし、現時点で即時停止などの措置は行いません」
即時停止はない。
でも、“いつでも”は残っている。
MINAが低く言った。
「つまり、脅しは残す。でも今は止めない」
GMは答えなかった。答えないことが答えだった。
外へ出ると、草の匂いが戻った。風が頬を撫でて、木漏れ日の影が足元に落ちる。
白い部屋の均一な光が消えて、世界の輪郭が少しだけ“呼吸”を取り戻した。
YUは息を吐いた。長い息だった。吐き切ったあと、胸の奥が空っぽになった。
「……止められると思ってました。今日ここで、草原も僕も」
MINAは歩きながら、短く首を振った。
「止められてない。——保留になっただけ」
「保留って……結局、いつでも切れるってことですよね」
「うん。でも違う」
MINAは一度だけ立ち止まって、YUを見た。怒ってる目じゃない。測る目でもない。
“今ここで倒れられると困る”って目だった。
「保留ってのは、時間ができるってこと。時間があるなら、手は打てる。
少なくとも、あなたの言葉が“記録”になった。——それだけで、昨日よりマシ」
YUは小さく頷いた。
“マシ”という言葉が、妙に現実的で、救いみたいに響いた。
---
広場に戻ると、告知の前にORACLEが立っていた。
公式の掲示を見つめる目が複雑だった。穏やかな狂信でもない。単純な怒りでもない。
「……公式が“いる”と認めた」
ORACLEの声は静かだった。
「認めた上で、排除しようとしている。——複雑です」
MINAが短く聞いた。
「参道は」
「整っています。立つ者は立ちます」
ORACLEの腕章は多くない。けれど残った者の目が深い。怖がっているのに、立つと決めた目だった。
YUは小さく言った。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます」を口にするたび、自分の中の何かが一ミリだけ戻る。
それが怖いのに、少しだけ嬉しい。
---
夕方。
草原へ向かう道の音が変わっていた。
声が少なく、足音が多い。鎧が擦れる音。武器の金属音。革が軋む音。
丘の向こうに、隊列の気配がある。
“制限なし”の列。数えきれない足音。
草原に入ると、線の外側にOBSERVERが並んでいた。青い円が幾重にも回っている。
今夜は、目が本気だ。
線の内側に、参道ができていた。
白ローブが二列。静かに、真っすぐに。走れない道。歩かされる道。
参道の奥にRAMPART。盾を地面に突き立てて、ただ立っている。
言葉も頷きもない。今日は“立っている”だけが答えだった。
MINAが少し離れた場所にしゃがんだ。スクリーンを持っている。
夜を“見る”ための姿勢。
「……いつも通りに」
「はい」
「何も変えないで」
「はい」
YUはいつもの場所に座った。
草が冷たい。硬い。
何も要求しない冷たさ。何も聞いてこない硬さ。
宿屋は開いていた。壁も天井もある。逃げ場もある。
それでも、ここに来た。
「ここしかない」じゃない。
「ここがいい」——その差が、今夜の自分を支えていた。
目を閉じる。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
Y。
横になる。草が頬に当たる。冷たい。硬い。優しい。
意識が沈む。
遠くで、足音が聞こえた。
参道を“歩いてくる”足音。走れない、走らない足音。
ORACLEの声が、遠くで聞こえた。
「ここから先は、お歩きください」
静かな声。穏やかな声。退かない声。
RAMPARTの盾が、どこかで一度だけ鳴った。
線が引かれる音。
MINAが小さく息を吸った。スクリーンを握り直す気配。
そして——夜が来る。
来る、というより、沈む。
空の色が落ちて、音が薄くなって、草のざわめきが遠のいていく。
YUはもう、知らない。
沈むだけだ。
沈む直前、耳の奥に残ったのは、足音だった。
数えきれない足音。
歩かされる足音。
その足音が、草原に届く前に——
意識が底へ落ちた。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 44
`801:` 公式、草原“作戦”出したな
`803:` 制限なしってマジ?
`805:` マジ。集合も許可も“作戦時間だけ”
`808:` 寝るのは?
`810:` 「強く非推奨」だってさ。禁止じゃないのが一番怖い
`813:` つまり寝た奴の自己責任
`815:` 会社みたいで草
`818:` 草じゃねぇよ。草原だよ
`821:` 参道できてるって聞いた
`823:` 白ローブ二列で道作ってる。走れなくするやつ
`826:` 盾のやつもいる?
`828:` いる。今日は無言で立ってた
`831:` 黒外套の女は
`833:` いた。スクリーン持ってた
`836:` 寝てる初心者は
`838:` いつも通り寝るっぽい
`841:` この状況で寝れるの、逆に才能
`844:` 才能っていうか、あれしかないんだろ
`847:` 今夜、草原が“戦場”になるな
`850:` なる。——でも戦闘ログは出ないんだろ?
`852:` それが一番怖い
`855:` 運営の胃が死ぬ
`857:` 俺たちも眠れない
`860:` 寝てるやつだけが安眠してる説、また更新
---
草原の上で、YUは多くを知らない。
公式が“作戦”と名付けたことも、制限なしの足音が揃っていることも。
参道ができたことも、記録の目が増えたことも。
ただ一つだけ、分かっている。
逃げ道は、もう“ある”。
壁と天井のある場所が、開いている。選べる場所が、用意されている。
それでも、YUは草原へ戻る。
冷たい草に頬を預ける。
硬い地面に背中を渡す。
何も要求しない場所へ、意識を沈める。
眠ることを、やめなかった。
ここに来ることを、やめなかった。
それが、今の自分にできる全部だった。
そして——全部で、十分だった。
第1部・了




