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12/19

討伐宣言


朝、相沢悠はスマホの通知音で目が覚めた。


目が覚めた、というより——薄い膜が一枚剥がれただけだった。眠れていない。横になっていた時間の長さだけが増えて、意識はずっと浅いところに浮いている。


ネオスフィアの草原では沈める。

現実のベッドでは沈めない。


その差が、毎朝少しずつ重くなる。


スマホを見た。


> NEOSPHERE ONLINE — 公式告知

> 草原区域における異常現象について、調査・対応作戦を実施します。

> 詳細はゲーム内の公式掲示をご確認ください。


調査。対応。作戦。

丁寧な単語が並ぶほど、出口が狭くなる。


スマホを裏返した。

裏返しても、文字は消えない。見たものは、見なかったことにできない。


歯を磨く。顔を洗う。鏡を見る。

鏡の中の顔は、輪郭が薄かった。消しゴムで端から消されていく下書きみたいに、どこかが欠けている。


靴紐を結ぶ。今日は震えなかった。

震えなかったことに安心して、安心したことに気づいて、少し怖くなった。


駅まで歩く。電車に乗る。会社に着く。

全部できる。できるから、壊れていない扱いになる。


席に座った。モニターを点けた。

鬼塚のチャットが点滅している。


「念のため、昨日の件。提出前にもう一度、全体の整合性チェック」


整合性。整える、という名の削り直し。


「了解しました」


文字を打って送った。

吐いた息が蛍光灯の光に混ざって消えた。消えるものは楽でいい。残るものは全部重い。


昼休み、自販機の前に立ってブラックを押した。缶が落ちた。冷たい。

冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。


社食の方から、声が聞こえた。


「ネオスフィア、草原の件、公式が動くらしい」

「イベント化するってこと?」

「いや、“作戦”って言ってた。ヤバいんだろ、あそこ」


ヤバい。

草原がヤバい。自分の寝床がヤバい。


(なくなるかもしれない)


草原が。沈める場所が。眠れる場所が。

その可能性が胸を通過して、通過した後に冷たい跡だけを残した。


午後は、鬼塚の「念のため」を処理した。

処理しながら、頭の半分は草原にいた。草の冷たさが、まだあるうちに。


帰宅。もちろん。倒れた靴を直さない。

冷蔵庫を開ける。何かがあるのを確認して閉める。確認するだけで少し落ち着くのは、現実のバグだ。


VRギアの前で、一瞬だけ迷った。

迷ったのは被るかどうかじゃない。


“今夜が最後になるかもしれない”と思ったからだ。


被った。目を閉じた。

落ちる。


---


白い空間が挟まった。


運営のフォント。冷たい温度。硬い光。


```

NEOSPHERE ONLINE

Official Announcement — Grassland Anomaly Response


草原区域の異常現象に関し、調査・対応作戦を実施します。

参加登録:制限なし(作戦時間内のみ)

注意:安全は保証されません


※ 指定区域への無断接近はペナルティ対象となる場合があります

※ 指定区域でのSleep Mode使用は強く非推奨です

```


「強く非推奨」。

禁止ではない。けれど、やった時の責任をこちらに移す言い方だ。会社の「自己判断でお願いします」と同じ形。


白が溶けて、草原が広がった。


風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。

いつもの朝の顔。いつもの優しい嘘。


YUは身体を起こした。


——沈めた。

まだ沈めた。


「まだ」が、胸の奥で重い。


草原の外側を見る。


灰色のローブが増えていた。OBSERVER。足元の青い円がいくつも回っている。

“観測”の目が、“囲い”の目に変わっている。


その外側に——人影があった。

武装したプレイヤーたち。朝から鎧を着て、武器を持って、位置を決めている。


声が聞こえた。


「作戦、今夜だって」

「集合、丘の裏」

「前衛は先に配置」


怖いものを倒すために、怖くない手順を組む声。効率的で、淡々としていて、だから余計に怖い。


立ち上がって草を払うと、横に黒い外套があった。


MINA。

気づいた時には、もう隣にいる。


「おはよう」


声が掠れていた。眠っていない声。でも目の奥は、折れていない。


「おはようございます」


MINAはスクリーンを開いて見せた。

そこに並んでいたのは、数字じゃなく、短い言葉だった。


「入った瞬間、数秒で動く。毎回。ズレない」

「あなたが沈むと、すぐ“始まる”。そこだけは確定」


確定。

怖い言葉だ。確定は、逃げ道を消す。


「……これ、運営に言いますか」


「言う。けど、その前に“無実”を残す」


MINAの言い方は、いつも通りだった。怒っているのに落ち着いている。心配しているのにぶれない。


「サポート窓口、もう一回行こう。言葉にする。記録に残す」


記録。

現実でも最後に残るのは記録だ。書いてないことは、なかったことになる。


---


村に入ると、広場が“式典”になっていた。


祭りでも戒厳でもない。始まる前の空気。形を整えて、息を揃える空気。


木の掲示板の横に、金属フレームの公式掲示が並んでいる。運営の紋章。白い布。硬い色。

その下で、武装したプレイヤーたちが声を落として動いていた。役割ごとに集まって、確認し合って、装備を整える。


視線が、YUに集まった。


今までは噂の中心。今日は、目の前を歩く“当事者”。


すれ違いざまに声が聞こえた。


「寝てるだけのやつ、あれ?」

「初心者帯ってマジ?」

「ほんとに何もしてないのか?」


何もしていない。

寝ているだけだ。


それでも、その言葉はもう軽くならない。軽く言うほど、周りの顔が困る。


広場の奥、あの扉はまだあった。

`SUPPORT DESK`


中の白さは変わらない。影のない光。均一な温度。

会社の会議室に似ているのに、もっと冷たい。


`SUPPORT GM — Tier 1` が立っていた。


「ご来訪ありがとうございます。対象アカウント `YU` でお間違いありませんか」


対象。

ユーザーでもプレイヤーでもなく、対象。


「……はい」


MINAが一歩前に出た。


「この人は草原で眠っていただけ。意図的な異常行為はしていない。——これを“申し立て”として記録して」


GMは頷いた。


「記録いたします。なお、申し立て内容は今後の判断材料として保持されます」


盾になるかは分からない。でも、盾の材料にはなる。

“ない”よりは、“ある”方がいい。


YUが口を開いた。


「……草原の作戦。参加者、制限なしって……僕は、どうなりますか」


GMは少しだけ間を置いた。


「当該作戦は公式対応ですが、個別プレイヤーの安全を保証するものではありません」

「Sleep Modeの使用は強く非推奨です」

「ただし、現時点で即時停止などの措置は行いません」


即時停止はない。

でも、“いつでも”は残っている。


MINAが低く言った。


「つまり、脅しは残す。でも今は止めない」


GMは答えなかった。答えないことが答えだった。


外へ出ると、草の匂いが戻った。風が頬を撫でて、木漏れ日の影が足元に落ちる。

白い部屋の均一な光が消えて、世界の輪郭が少しだけ“呼吸”を取り戻した。


YUは息を吐いた。長い息だった。吐き切ったあと、胸の奥が空っぽになった。


「……止められると思ってました。今日ここで、草原も僕も」


MINAは歩きながら、短く首を振った。


「止められてない。——保留になっただけ」


「保留って……結局、いつでも切れるってことですよね」


「うん。でも違う」


MINAは一度だけ立ち止まって、YUを見た。怒ってる目じゃない。測る目でもない。

“今ここで倒れられると困る”って目だった。


「保留ってのは、時間ができるってこと。時間があるなら、手は打てる。

少なくとも、あなたの言葉が“記録”になった。——それだけで、昨日よりマシ」


YUは小さく頷いた。

“マシ”という言葉が、妙に現実的で、救いみたいに響いた。


---


広場に戻ると、告知の前にORACLEが立っていた。


公式の掲示を見つめる目が複雑だった。穏やかな狂信でもない。単純な怒りでもない。


「……公式が“いる”と認めた」


ORACLEの声は静かだった。


「認めた上で、排除しようとしている。——複雑です」


MINAが短く聞いた。


「参道は」


「整っています。立つ者は立ちます」


ORACLEの腕章は多くない。けれど残った者の目が深い。怖がっているのに、立つと決めた目だった。


YUは小さく言った。


「……ありがとうございます」


「ありがとうございます」を口にするたび、自分の中の何かが一ミリだけ戻る。

それが怖いのに、少しだけ嬉しい。


---


夕方。


草原へ向かう道の音が変わっていた。

声が少なく、足音が多い。鎧が擦れる音。武器の金属音。革が軋む音。


丘の向こうに、隊列の気配がある。

“制限なし”の列。数えきれない足音。


草原に入ると、線の外側にOBSERVERが並んでいた。青い円が幾重にも回っている。

今夜は、目が本気だ。


線の内側に、参道ができていた。

白ローブが二列。静かに、真っすぐに。走れない道。歩かされる道。


参道の奥にRAMPART。盾を地面に突き立てて、ただ立っている。

言葉も頷きもない。今日は“立っている”だけが答えだった。


MINAが少し離れた場所にしゃがんだ。スクリーンを持っている。

夜を“見る”ための姿勢。


「……いつも通りに」


「はい」


「何も変えないで」


「はい」


YUはいつもの場所に座った。


草が冷たい。硬い。

何も要求しない冷たさ。何も聞いてこない硬さ。


宿屋は開いていた。壁も天井もある。逃げ場もある。

それでも、ここに来た。


「ここしかない」じゃない。

「ここがいい」——その差が、今夜の自分を支えていた。


目を閉じる。


```

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


Y。


横になる。草が頬に当たる。冷たい。硬い。優しい。

意識が沈む。


遠くで、足音が聞こえた。

参道を“歩いてくる”足音。走れない、走らない足音。


ORACLEの声が、遠くで聞こえた。


「ここから先は、お歩きください」


静かな声。穏やかな声。退かない声。


RAMPARTの盾が、どこかで一度だけ鳴った。

線が引かれる音。


MINAが小さく息を吸った。スクリーンを握り直す気配。


そして——夜が来る。


来る、というより、沈む。

空の色が落ちて、音が薄くなって、草のざわめきが遠のいていく。


YUはもう、知らない。

沈むだけだ。


沈む直前、耳の奥に残ったのは、足音だった。

数えきれない足音。

歩かされる足音。


その足音が、草原に届く前に——


意識が底へ落ちた。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 44


`801:` 公式、草原“作戦”出したな

`803:` 制限なしってマジ?

`805:` マジ。集合も許可も“作戦時間だけ”

`808:` 寝るのは?

`810:` 「強く非推奨」だってさ。禁止じゃないのが一番怖い

`813:` つまり寝た奴の自己責任

`815:` 会社みたいで草

`818:` 草じゃねぇよ。草原だよ

`821:` 参道できてるって聞いた

`823:` 白ローブ二列で道作ってる。走れなくするやつ

`826:` 盾のやつもいる?

`828:` いる。今日は無言で立ってた

`831:` 黒外套の女は

`833:` いた。スクリーン持ってた

`836:` 寝てる初心者は

`838:` いつも通り寝るっぽい

`841:` この状況で寝れるの、逆に才能

`844:` 才能っていうか、あれしかないんだろ

`847:` 今夜、草原が“戦場”になるな

`850:` なる。——でも戦闘ログは出ないんだろ?

`852:` それが一番怖い

`855:` 運営の胃が死ぬ

`857:` 俺たちも眠れない

`860:` 寝てるやつだけが安眠してる説、また更新


---


草原の上で、YUは多くを知らない。

公式が“作戦”と名付けたことも、制限なしの足音が揃っていることも。

参道ができたことも、記録の目が増えたことも。


ただ一つだけ、分かっている。


逃げ道は、もう“ある”。

壁と天井のある場所が、開いている。選べる場所が、用意されている。


それでも、YUは草原へ戻る。


冷たい草に頬を預ける。

硬い地面に背中を渡す。

何も要求しない場所へ、意識を沈める。


眠ることを、やめなかった。

ここに来ることを、やめなかった。


それが、今の自分にできる全部だった。

そして——全部で、十分だった。


第1部・了


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