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11/19

草原の包囲準備


朝、相沢悠は靴紐を結ぼうとして、指が震えているのを見た。


見てしまった。


見なければ、「震えていない」で済んだ。

見た瞬間に、震えは事実になった。事実になった震えは、名前を要求してくる。疲労。栄養不足。睡眠障害。自律神経。——どの名前をつけても、その先に「病院」がある。


病院に行く時間はない。

行く時間がないのではなく、行ったら止まる。止まったら動けなくなる。動けなくなったら——戻れない。


靴紐を結んだ。

震えたまま結んだ。結べたから、結べる扱い。


駅まで歩いた。電車に乗った。会社に着いた。

全部、できた。

できるから、壊れていない扱い。


席に座って、モニターを点けた。鬼塚のチャットが点滅していた。


開く。開いた瞬間に、夜が遠のく音がした。


「念のため、昨日の件。こちらの想定に合わせて全体調整。午前中まで」


全体調整。作り直しだ。修正ではなく、構造ごと変えろということだ。


「了解しました」


打って送った。送った瞬間に、肩の上に何かが一枚載った。見えない紙。重さだけがある。

「了解しました」を送るたびに一枚ずつ載る。もう何百枚も載っている。それでも首が折れないのは、折れる前に沈むからだ。


午前中、全体調整をした。全体を調整しながら、頭の半分は草原にいた。

草原にいる方の自分は、静かに横たわっている。草が冷たい。風がある。何も要求されない。


——もう半分の自分が、モニターに向かって鬼塚の赤字を処理している。


昼休み、スマホを開いた。

NEOSPHEREの通知が残っている。警告。消えていない。


「異常な活動パターン」

「控えてください」


閉じた。閉じても、文字が目の裏に残る。


午後、隣の席の同期が話しかけてきた。


「相沢、今日の飲み——」


「すみません、今日は」


反射で断った。飲みに行く体力がない。飲みに行ったら、帰りが遅くなる。帰りが遅くなったら、沈む時間が削れる。


同期は「そっか」と言って、それ以上何も言わなかった。

それ以上言わないのが、この会社の優しさだ。踏み込まない優しさ。触れない優しさ。


優しいのに、誰も助けてくれない。

——いや。一人いる。ゲームの中に、一人いる。


終電一本前。帰宅。靴を脱ぐ。倒れた靴を直さない。

冷蔵庫を開ける。昨日の菓子パンの残りがある。半分齧って、半分残す。残した理由は分からない。


VRギアを被る。

目を閉じる。


落ちる。


---


草原の朝は嘘みたいに綺麗だった。


白い画面が一瞬だけ挟まる。運営のフォント。もう読まない。読んでも同じだ。「控えてください」。控えない。


草原。風。鳥。草。

いつもの朝の顔。


YUは身体を起こした。


——眠れた。


まだ、眠れた。


「まだ」が重くなっている。昨日より重い。次の朝はもっと重くなる。


立ち上がって、草を払った。


草原の外側を見る。

昨日と違った。


人が増えていた。OBSERVERではない。プレイヤーだ。

線の外側に、武装した人影がちらほら見える。朝なのに鎧を着ている。朝から草原の周囲にいる。


「下見」でも「確認」でもない。

「配置」だ。


位置を決めている。どこに立つか。どこから入るか。どの角度で草原の中心を見るか。

包囲の準備の仕方だった。


横に影が並んだ。


MINA。黒い外套。フード。気づいた時には横にいる。


「おはよう」


「……おはようございます」


「見た?」


「見ました」


MINAは草原の外側を一度だけ見て、短く言った。


「七十人台。もう作戦の形になってる」


数字が来た。数字が来ると、世界が現実になる。

現実になるほど、逃げ場が狭くなる。


「集合は——近い。たぶん、すぐ」


“すぐ”。

その言葉だけで、草の匂いが少し苦くなった。


「……MINAさん」


「何」


「今日、僕にできることって、ありますか」


MINAが一瞬だけ足を止めた。止めて、YUを見た。


「あるよ。一つだけ」


一拍置いて、言い切った。


「ログを取る。あなたのためのログ」


---


村に入ると、広場の空気が昨日より重かった。


掲示板の前に人だかり。

紙が増えている。参加者リスト。配置図。注意事項。時刻表。

もう「募集」ではなく「作戦」になっている。


ORACLEが掲示板の横に立っていた。

腕章の列は短い。でも残った者の目が深い。


ORACLEはYUを見て、頭を下げた。


「お戻りになりました」


YUは頷いた。

今日は余計なことを言わない。言うと変換される。


MINAがYUの袖を引いた。


「こっち」


広場を横切って、倉庫の裏ではなく——村の外れ、東の丘に向かった。


丘は草原の端が見下ろせる場所だった。

初期村と草原の間にある、小さな高台。木が一本。石がいくつか。誰もいない。


MINAは石に座った。


「座って」


YUも隣の石に座った。

二人で丘の上に座っている。ゲームの中の、何でもない丘。


MINAがスクリーンを開いた。


「昨日、“計測”って言ったの覚えてる?」


「……はい」


「やる。今日」


「何を計測するんですか」


MINAは淡々と言った。


「あなたが沈む瞬間と、OBSERVERが落ちる瞬間。相対でいい。秒単位じゃなくていい。順番と距離感が分かれば」


「……合わせるんですか」


「合わせる。合わせて、ズレがあるか見る」


YUは意味を考えた。今日は菓子パンを半分食べた。その半分が、頭を回している。


「……もし合ってたら、どうなるんですか」


MINAの指が止まった。


「合ってたら、あなたが眠りに入った直後に“何か”が起きることが確定する。原因じゃなくても、トリガーになってる」


トリガー。

引き金。引き金は弾を選ばない。


「怖い?」


MINAが聞いた。


「……怖いと思うほど、余裕がないだけです」


MINAの目が少しだけ緩んだ。笑いじゃない。「正直だ」を認める目だった。


「正直でいい。じゃあ、やり方」


MINAは説明した。短く、分かりやすく。


「今夜、いつも通り草原で寝て。私が横にいる。あなたが沈む“直前”と“直後”を私がメモする。次にOBSERVERのインジケータが変わるタイミングを外から拾う。落ち方の順番も拾う」


「……僕の側は?」


「あなたの側は、もう一つだけ」


MINAの視線が、YUの手元に落ちた。


「インベントリ。毎朝増えるやつ。今日から記録して。名前と個数。ざっくりでいい」


「……今まで記録してませんでした」


「だから今日から」


MINAがメモ用のスクリーンを渡した。ゲーム内のシンプルなテキスト画面。


YUはインベントリを開いた。


金属片。宝石。紋章。黒い布。`???`。

積み上がった“分からない”が、並んでいる。


数えた。初めて数えた。


数えている間、指が震えなかった。


震えなかったことに気づいて——少しだけ驚いた。

作業をしている間だけは、身体が静かになる。会社でも同じだ。キーボードを打っている間だけは、震えが止まる。


「……書けました」


「見せて」


MINAが覗く。データを見る目だった。


「金属片はじわじわ。宝石はゆっくり。紋章は不定期。……黒い布、これ、人が来た翌朝に増える傾向がある」


「……え」


「PKの夜のあと、徴収の夜のあと、確認部隊の夜のあと。——増えてる」


偶然かもしれない。

でも“偶然かどうか”を考えるスタート地点に、初めて立った。


「これ、偶然ですか」


MINAは首を振った。


「偶然かもしれない。でも記録がなかったら、偶然かどうかも言えなかった。だからログは大事」


ログは大事。

当たり前の言葉が、今は救いみたいに聞こえた。


MINAが立ち上がった。


「もう一つ。今日のうちにやること」


「何ですか」


「サポート窓口。宿屋の件、進捗を聞く。あと、あなたの“無実”をもう一回、記録に残す」


---


サポート窓口の扉は、昨日と同じ場所にあった。


金属の扉。ファンタジーの中の異物。

MINAが躊躇なく開ける。中は白い。


`SUPPORT GM — Tier 1`


同じ顔。同じ焦点。同じ仕事の声。


「ご来訪ありがとうございます。対象アカウント `YU` ——」


「昨日も来ました」


YUが言った。自分でも意外だった。

隣でMINAが、ほんの少しだけ目を見開いた。「お」という顔。


GMは処理して、続けた。


「昨日のご相談について、進捗をお伝えいたします。宿屋の“満室”状態は、指定区域への安全措置の影響による一時的なものであることが判明いたしました」


やっぱり運営の都合だった。


「解除は?」


MINAが短く聞く。


「本日中に対応いたします」


本日中。

“今日のうちに”が、珍しく具体に落ちた。


MINAが続ける。


「もう一つ。本人の申し立てを記録して。草原で眠っていただけ。意図的な異常行為は一切ない」


GMが頷く。


「記録いたします。今後の判断材料として保持されます」


判断材料。盾になるかは分からない。

でも、盾の材料がないよりはいい。


YUが口を開いた。


「討伐レイドが来たら……僕は、どうなりますか」


GMはすぐには答えなかった。短い沈黙の中で、判断が走った。


「運営として討伐レイドは非公認イベントです。運営側から許可も禁止もしていません」


MINAが低い声で言った。


「つまり、見てるだけ」


GMは一拍置いて、言った。


「見ているのではありません。——見ることしか、できないのです」


均一な声に、一瞬だけ人間の重力が混ざった。

マニュアルの外の言葉だった。


YUは小さく言った。


「……ありがとうございます」


「了解しました」ではなく。

二回目の「ありがとうございます」は、一回目より少しだけ深かった。


---


外に出ると、草の匂いが戻ってきた。

白い部屋の均一な光が消え、木漏れ日のまだらな影が足元に落ちる。


MINAが歩きながら言う。


「宿屋、今日中に開くって」


「……本当ですか」


「本当。でも」


「でも?」


「開いても、あなたは草原で寝るでしょ」


図星だった。

壁があっても、天井があっても、あの草の冷たさの方が沈める。


「……はい」


「知ってた。でも、“選べる”のと“選べない”のは違う。逃げ場があるって事実に意味がある」


逃げ場。

会社にないもの。ここに一つ増えるもの。


広場へ戻る途中、ORACLEがいた。

掲示板の端ではなく、草原へ向かう道の途中。


ORACLEは静かに言った。


「近いうちに、宣言が出ます。草原討伐宣言」


MINAが立ち止まる。


「人数は」


「八十を超えています。まだ増えるでしょう」


増える。

数字は磁石だ。大きくなるほど引力が増す。


ORACLEは続けた。


「我々は草原の内側を“参道”にします。外から来る者が走れないように道を作る。道を歩かせれば速度が落ちる。速度が落ちれば暴発が減ります」


MINAの眉が寄る。


「信者が人柱になるってこと?」


「人柱ではありません。道標です」


穏やかな目。穏やかなのに退かない目。


MINAは短く息を吐いた。


「……足りない」


「足りません」


ORACLEは微笑んだ。


「足りないのは最初からです。——でも、折れません」


折れない。

その言葉が、なぜかYUの胸に近かった。


---


夕方。


草原へ向かう道で、丘の下に影が見えた。

昨日より多い。昨日より整っている。武装した人影が等間隔に並び始めている。笑い声はない。怒声もない。


準備の空気。

静かなのに、息が浅くなる。


草原に入った。


線の外側にOBSERVER。青い円が回っている。今日は数が多い。

線の内側——変わっていた。


ORACLEの腕章の列が、草原の入口から中心に向かって二列に並んでいた。

白いローブ。背筋が正しい。

その間を歩くと、自然に中心に辿り着く。


参道。


参道の先にRAMPART。盾を深く地面に刺している。頷く。言葉はない。


YUはいつもの場所に座った。

草が冷たい。硬い。初日と同じ冷たさ。


MINAが三歩離れた場所にしゃがむ。

スクリーンにメモ画面。相対時間の記録用。


「いつも通りに。何も変えないで」


「はい」


「沈んだ瞬間だけ、メモする。あなたは何もしなくていい」


目を閉じた。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


Y。


横になる。草が頬に当たる。冷たい。


```text

Resting...

```


沈む。


沈んだ“直後”、MINAが息を止めた。

スクリーンに短い文字が打たれる。


——入眠。


その数秒あと、OBSERVERの青い円の回り方が変わった。

速くなる。脈打つように強くなる。


——異常。


そこから先は、音が薄くなる。

暗転、と言い切れない。

ただ、世界の“密度”が上がる。いてはいけない濃度が濃くなる。


数分もしないうちに、一体目の青い円が止まった。

止まった瞬間、輪郭がノイズに変わり、存在が薄れる。


続けて、二体目。三体目。

順番に落ちる。間隔を空けて落ちる。


MINAの指が震えながら、メモが増える。


——入眠のあと、数分以内に全滅。

——最初が最速、以降は順次。

——起点は“沈む瞬間”の直後。


闇の中で、RAMPARTの盾が鳴った。

一度、二度。守っている音。

何を、何から、守っているのかは分からない。


`Resting...` は消えない。


眠りは残る。

運営の目だけが剥がれていく。


---


朝。


草原は何事もなかった顔をしていた。

いつもの朝の嘘。


YUが身体を起こす。


——眠れた。


MINAが三歩先にいた。目が赤い。けれど目の奥に、昨日までなかったものがある。

確信。


「……合った」


「何が合ったんですか」


MINAはスクリーンを見せた。秒は書いていない。代わりに言葉が並んでいる。


入眠の直後。

OBSERVERが脈打つ。

数分以内に一体目が落ちる。

少し遅れて二体目。

さらに遅れて三体目。

——全部、入眠のあとに起きている。


「あなたが沈んだ直後に、運営の目が反応する。誤差じゃない」


YUは草を見た。

草は揺れている。風は冷たい。世界は平和の顔をしている。


「……僕が眠ると、何かが起きる」


「そう。原因かどうかはまだ分からない。でも、トリガーに近い」


トリガー。

引き金。


ORACLEが参道の端から歩いてきた。


「宣言は、もう出ます。早い」


MINAが聞く。


「どれくらい」


ORACLEは短く答えた。


「八十を超えています。——止まりません」


MINAは息を吐いた。長い息。


「私たちに残された時間は、今夜一晩」


一晩。

一晩で、もう一回分のログを取る。

二回分あれば、パターンは“傾向”になる。


YUは立ち上がって、メモを開き、インベントリを確認した。

黒い布がまた一枚増えている。


記録した。


記録する手は、震えていなかった。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 43


`701:`

討伐宣言、もう出るってよ


`704:`

人数どれくらい?


`706:`

八十超えてる。まだ増える


`709:`

REGALIAも後方支援名目で人出すって話あるな


`712:`

信者集団が草原に“道”作ってるの見たやついる?


`715:`

見た。白ローブが二列で参道みたいにしてる。走れなくするって


`718:`

止める気じゃなくて、暴発を遅らせるってことか。賢いのか狂ってるのか分からん


`721:`

運営のOBSERVER、今夜も落ちたって? また?


`724:`

落ちた。順番に落ちる。しかも“入眠のあと”っぽいって言ってるやつがいる


`727:`

入眠のあとって、寝てるやつがトリガー?


`729:`

トリガーでも本人は寝てるだけなんだよな


`732:`

黒外套の女、ずっと起きて記録取ってたらしいぞ


`735:`

あの女、何者だよ


`737:`

知らん。でも一個だけ分かる。明日は静かじゃない


`740:`

草原の王は?


`742:`

寝てた。起きてメモ取ってた


`744:`

メモ取ってるのが一番怖い。人間が状況に適応し始めた合図


---


夜が来る。


宣言が来る。人が来る。

包囲が形になる。


その前の夜。

最後に、もう一回ログを取る夜。


草は冷たい。初日と同じ冷たさ。

その冷たさだけが、まだ嘘をつかない。


YUは目を閉じる。

MINAは目を閉じない。

ORACLEは道を整え、RAMPARTは盾を立てる。


静かな嵐が、まだ降っていないのに、もう空気だけは重い。


そして、眠れる場所は——まだ草原しかない。


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