運営からの警告
朝、相沢悠は歯を磨きながら泣いていた。
泣いている、という自覚はなかった。
鏡を見たら、目の下が濡れていた。
涙ではない。たぶん水が跳ねた。——そういうことにした。
歯ブラシを口から抜いて、鏡の中の顔を見た。
見慣れない顔だった。
頬が削れている。目の下が青い。唇が白い。
少し前の自分と比べたら、別人だろう。比べないから分からない。
分からないまま、こうなった。
(……行くか)
会社に行く。行くしかない。行けるから行く。
行けるうちは「行ける扱い」だ。
電車の中で、スマホに通知が一件来た。
ゲームの通知だ。
現実の画面に、ゲームの文字が刺さってくる。
> NEOSPHERE ONLINE — 重要なお知らせ
> お客様のアカウントにおいて、異常な活動パターンが検出されました。
> 詳細はゲーム内サポート窓口をご確認ください。
異常な活動パターン。
電車の揺れが一瞬止まった気がした。止まっていない。
自分の呼吸が止まっただけだ。
異常。
寝てただけなのに。
画面をスクロールしようとして、隣の乗客の肩が触れた。
触れた瞬間に画面を閉じた。見られたくない。
満員電車で警告を読んでいる自分を、見られたくない。
会社に着いた。
席に座った。モニターを点けた。
鬼塚のチャットが点滅していた。
開いた。
「念のため、昨日の資料、構成変更。午前中に再提出」
構成変更。
提出したものの骨格ごと変えろということだ。直しではない。作り直し。
「了解しました」
文字を打った。
打った瞬間に、電車で見た通知が脳裏に重なった。
「異常な活動パターンが検出されました」
「念のため、構成変更」
どちらも丁寧語で、どちらも逃げ道がない。
丁寧語は怒鳴らない。怒鳴らない代わりに、出口を全部塞ぐ。
午前中、資料を作り直した。
作り直しながら、頭の半分は草原にいた。
草原にいる半分の自分が、残りの半分に囁いている。
(今夜も、眠れるだろうか)
昼休み、社食に行く気力がなかった。
自販機の前に立った。ボタンを押した。落ちてきた缶を握った。冷たい。
冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。
スマホを開いた。
さっきの通知をもう一度読んだ。
「異常な活動パターン」
「サポート窓口をご確認ください」
サポート。
その言葉だけが、少しだけ温かく見えた。
サポートしてくれるなら、助けてくれるかもしれない。困っている人を助けるのが、サポートだ。
——たぶん。
缶を開けた。ブラックコーヒー。苦い。
苦いのに、味がしない。
味がしないものを飲める精度で、午後を回した。
鬼塚の「念のため」をいくつも処理して、終電より少し前に会社を出た。
コンビニで何か買った。たぶん菓子パン。袋の中身を確認する気力はない。
帰宅。
玄関の靴が散らかっている。直していない。直す理由がない。
部屋の電気を点けた。
点けた瞬間、蛍光灯の白さに目が眩んだ。
会社のモニターと同じ白さ。同じ眩しさ。同じ温度。
家にいるのに、会社にいる気がする。
VRギアが机の上にある。
黒い筐体。ヘッドセット。ケーブル。
それだけが、この部屋で唯一「別の場所」に繋がっているもの。
手が伸びた。
被る。目を閉じる。
落ちる。
---
視界が暗転して——白。
いつもの白。運営のフォント。硬い温度。
だが今日は、文面が違った。
```text
NEOSPHERE ONLINE
Important Notice — Account Alert
Your account [YU] has been flagged for abnormal activity
in the Grassland Safe Zone.
Continued anomalies may result in:
- Temporary access restrictions
- Area lockdown
- Account suspension (pending review)
Recommended action:
Refrain from using Sleep Mode in the Grassland area.
Visit the in-game Support Desk for further assistance.
```
一行ずつ読んだ。
異常な活動。——寝てただけだ。
アクセス制限。——入れなくなる。
エリア封鎖。——草原がなくなる。
アカウント停止。——沈める場所が、消える。
最後の行。推奨:草原でのスリープモード使用を控えてください。
控えてください。
丁寧語。
出口を塞ぐ言葉。
(……無理だ)
無理だ。
控えられない。控えたら眠れない。眠れなかったら——壊れる。
壊れるのは比喩じゃない。文字通りだ。
現実の身体が、もう限界の向こう側にいる。
ここで眠れなくなったら、朝が来なくなる。
白い文字が溶けて、草原が広がった。
風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。
いつもの顔。なのに今日は、少しだけ怖い。
この朝が、あと何回くるのか分からない。
YUは身体を起こした。
——眠れた。
眠れた。
その言葉の裏に、初めて小さな「期限」が生まれた。
草原の外側にOBSERVER。二体。
青い円が回っている。記録中。
インベントリは開かなかった。
見たくない。増えているのは分かっている。確認する行為そのものが、もう重い。
通知欄を開いた。
警告が残っている。消えていない。消せない。
推奨:草原でのスリープモード使用を控えてください。
控えてください。控えてください。
頭の中で、鬼塚の「念のため」と運営の「控えてください」が重なった。
丁寧語で人を追い詰める技術は、現実もゲームも変わらない。
立ち上がる。草を払う。
村に向かおうとした時——足音が来た。
足音のしない足音。
MINA。
黒い外套。フード。気づいた時には横にいる。
いつ来たのかは分からない。いつもそうだ。
「来た?」
声は落ち着いている。
でも目の奥に焦りがある。赤い目。眠っていない目。
「……来ました。警告、来てました」
「見た。——サポート窓口、行くよ」
「サポート窓口って……」
「村の中にある。昨日はなかった。今朝、生えた」
生えた。
運営が窓口を設置した。プレイヤーと直接話すための場所を、初期村の中に。
それは「対応する」という意志か。
それとも「記録を残す」というアリバイか。
どちらでも、行くしかない。
---
初期村の門をくぐると、広場の空気が昨日と違った。
討伐レイドの募集が、掲示板から溢れていた。
木の掲示板の前に人だかり。
罰則が出ていたはずなのに、今日は人がいる。
怖い話は、人を減らすより先に集める。
紙が増えている。
有志連合の募集に加えて、上位ギルドの声明らしきもの。
さらに参加表明の一覧。数字と役割が並び、熱が加速しているのが見える。
MINAが横で紙を読んでいた。
読む目が鋭い。情報を拾う目。感情で読まない目。
「……早いな」
「早いんですか」
「早い。“戻ってない”と“運営の警告”は燃料になる。怖がる代わりに集まるタイプが多い」
MINAは掲示板から目を離した。
「サポート、先に行く。こっちの方が急ぐ」
広場の奥に——昨日まで存在しなかった扉があった。
木の壁に金属の扉が嵌っている。
ファンタジーの建材の中に、現実のドアが混ざっている。
面談室のドアみたいな、会議室のドアみたいな、どれにも似ていて、どれとも違うドア。
扉の上に表示。
`SUPPORT DESK`
誰も近づいていなかった。
近づいていない、というより、手前で引き返す人が多い。
運営の窓口は助けてくれる場所であると同時に、記録される場所だ。
呼ばれてもいないのに行くと、「わざわざ来た人」になる。
MINAがノックなしに扉を押した。
躊躇がない。この人は、ドアの前で立ち止まらない。
開いた。
中は——白かった。
外の世界と空気が違う。
草の匂いが消えた。風が消えた。木の温度が消えた。
白い壁。白い床。白い光。天井が平坦で、影がない。
会社の会議室だ、と思った。
思った瞬間に胃が縮んだ。
受付台がひとつ。
その向こうに、人型が立っていた。
灰色のローブ。OBSERVERに似ているが、顔の造形がもう少し「人間」に寄せてある。
目がある。鼻がある。口がある。
でもどれも「対応するために最低限必要な顔」として配置されている。表情ではなく、部品。
頭上の表示。
`SUPPORT GM`
GM。運営。
GMが口を開いた。
「ご来訪ありがとうございます。対象アカウント `YU` でお間違いありませんか」
対象。
ユーザーでもプレイヤーでもお客様でもなく、「対象」。
YUは反射で頷いた。
反射で「すみません」が出そうになって、堪えた。
堪えたのはMINAが隣にいたからだ。この人の前で無意味に謝ると、怒られる気がした。
「……はい」
「警告内容はご確認いただけましたでしょうか」
「はい」
「それでは、現状のご説明をいたします」
GMの声は均一だった。高くもなく低くもなく、速くもなく遅くもない。感情を排した声。
仕事の声だ。YUは知っている。自分も「了解しました」をその声で言う。
「当該アカウントにおいて、以下の異常が継続的に観測されています。第一に、スリープモード中の活動記録の欠損。第二に、GM観測アバター・OBSERVERの強制終了。第三に、指定区域内における周辺プレイヤーの異常切断および戦意喪失——」
「それ以上はいらない」
MINAが遮った。
「列挙は分かってる。聞きたいのは一つ。——この人は、何かしたの?」
GMの目がMINAに向いた。
向いた目が、一瞬だけ揺れた。計算の揺れ。
「想定外の質問」ではなく、「想定より早く来た質問」を処理する揺れ。
「現時点では、当該ユーザーの意図的な行動による異常は確認されておりません」
MINAが一歩前に出た。
「確認されていない。つまり、無実」
「“無実”という表現は適切ではありません。意図的な行動が“確認されていない”状態です」
「それを世間では無実って言うの」
GMは答えなかった。答えない、という回答。
YUは二人のやり取りを聞いていた。
聞いていて、奇妙な気持ちになっていた。
自分のことが話されている。
自分の目の前で、自分の無実が議論されている。
会社でもあった。
自分のミスではないバグが自分のせいにされた時、上司と先輩が自分の前で話していた。
「相沢がやったのか?」「いや、ログ見ると違う」「でも担当だろ」「担当だけど——」
あの時も、自分は黙っていた。
黙って、椅子に座って、自分のことが自分抜きで決まるのを聞いていた。
今も同じだ。
MINAとGMが話していて、自分は立っているだけ。
——でも、一つだけ違う。
あの時、誰も「この人は何かしたの?」とは聞いてくれなかった。
MINAが聞いた。自分の代わりに。
「この人は何かしたの?」と。
その一言が、胸の奥で小さく震えた。
MINAが続ける。
「本人は初心者。武器もスキルもない。草原でスリープモードを使って寝ているだけ。——それに対して『異常な活動パターン』の警告を出して、アカウント停止をちらつかせる。これは妥当な対応?」
声が鋭かった。
会議室で、誰も言わないことを言う人の声。
「それ、おかしくないですか」を丁寧語ではなく直球で投げる声。
YUの指先が冷えた。
冷えたのは怖さではない。
自分が言えなかった言葉が、目の前で発射されている。その衝撃波が、指先に来ている。
GMは一拍置いて答えた。
「異常の原因が特定されていない以上、発生源に最も近いアカウントに対して予防的措置を講じることは、運営方針として妥当であると判断しています」
「予防的措置」
MINAが繰り返した。繰り返す声が低い。
「被害者かもしれない人に、予防的措置。——それ、責任の押し付けって言わない?」
押し付け。
その単語が出た瞬間、YUの呼吸が止まった。
止まったのは恐怖ではなかった。
「責任を押し付けるな」
その言葉を言いたかった。
鬼塚に。会社に。「念のため」に。「了解しました」に。
言えなかった。一度も。
言えないまま、四文字を打ち続けた。
今、目の前で別の人間がそれを言っている。
自分の代わりに。自分のために。
胸の奥が熱くなった。
熱くなったのは怒りではない。もっと手前のもの。
感謝と呼ぶには早すぎて、安堵と呼ぶには遅すぎる、名前のないもの。
目の奥が熱い。
泣いているのではない。泣く余裕はない。
でも——朝、鏡の前で目の下が濡れていたのは、これだったのかもしれない。
GMは短い沈黙を置いた。
短い沈黙の中で判断が走ったのが分かった。
「ご指摘は記録いたします。——現時点での運営の判断をお伝えします」
判断。
その一語で空気が変わった。
「第一に、当該アカウントの即時停止は行いません」
止めない。まだ止めない。
「第二に、草原区域でのスリープモード使用は非推奨としますが、禁止ではありません」
禁止ではない。まだ使える。
「第三に——」
GMが一瞬、口を閉じた。
閉じて、開いた。
「指定区域での異常が継続した場合、次のフェーズとして区域封鎖、またはアカウント一時停止を検討する可能性があります」
可能性。
「可能性」は「予定」の兄弟だ。いつでも入れ替わる。
MINAが言った。
「期限は」
「現時点では設定されていません」
「設定されてない、は“いつでも切れる”と同義でしょ」
GMは答えなかった。
MINAは一歩引いた。
引いたのは退却ではない。情報を整理する距離だ。
「最後に一つ。——宿屋の件」
GMの目がわずかに動いた。
「この人、草原以外で寝ようとして宿屋に行った。満室って言われた。初期村の宿屋が満室って、通常あり得ないでしょ」
YUが口を開いた。
「……満室って言われました。OBSERVERが宿屋の前に立ってた日です」
GMの指が、受付台の下で一度だけ動いた。
何かを確認する動き。あるいは記録する動き。
「宿屋の利用状況については、こちらで確認いたします」
確認します。
会社の「確認します」は、何も変わらない合図だ。
でも——
「なお、宿屋の安全区画は本来、スリープモードの代替利用先として推奨されています。利用できない状態であったとすれば、それは運営側の不備です」
不備。
運営が「不備」と言った。
自分のせいではなく、運営側の不備。
小さな言葉だ。小さいけれど、初めて「あなたのせいではない」に近い言葉が返ってきた。
YUの指の力が少し抜けた。
握りしめていた拳が、半分だけ開いた。
MINAがそれを見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
GMが最後に言った。
言う直前、声のトーンがほんの少しだけ下がった。
均一だった声に、一瞬だけ人間の重力がかかった。
「……当窓口としても、事態の早期解決を望んでおります」
望んでいる。
マニュアルの外の言葉だった。
MINAが小さく頷いた。
頷きの中に、「この人にも限界がある」を認めた色があった。
---
外に出た。
扉が閉まった瞬間、草の匂いが戻ってきた。
風が吹いた。髪が揺れた。
白い部屋の均一な光が消えて、木漏れ日のまだらな影が足元に落ちた。
YUは立ち止まった。
立ち止まって、息を吐いた。
長い息だった。
サポート窓口の中では吸えなかった空気を、全部吐き出すみたいに。
「……僕、怒られるだけかと思ってました」
小さく言った。
MINAも足を止めた。
「怒られてないよ。——追い詰められてるけど」
「同じじゃないですか」
「違う。怒られるのは感情。追い詰められるのは構造。構造は壊せる」
壊せる。
MINAはそう言い切る。壊せると。
YUには壊した経験がない。
会社の構造も、鬼塚の「念のため」も、壊したことがない。
壊す代わりに、自分の方が曲がった。
でもMINAは「壊せる」と言う。
「……MINAさんは、強いですね」
言ってから月並みだと思った。
MINAは一瞬だけ目を伏せた。
伏せた目が、少しだけ揺れた。
「強くない。——怒ってるだけ」
怒っている。
MINAの中にある感情は、心配と怒りが半分ずつだ。
心配はYUに向いている。怒りは世界に向いている。
理不尽に眠れない人間がいて、その人間を追い詰める構造がある。その構造に怒っている。
「あのさ」
MINAが言った。
「窓口の中で、私が“押し付けるな”って言った時——あなた、息止めてた」
見られていた。
「……止めてました」
「言いたかったんでしょ。自分で」
図星だった。
図星すぎて、返せなかった。
MINAは小さく笑った。今度は本当に笑った。笑いの端が少し苦い。
「言えるようになりなよ。——今じゃなくていい。でも、いつか」
いつか。
その「いつか」に期限はない。
鬼塚の「念のため」と違って、MINAの「いつか」は締め切りを持たない。
それが楽だった。
楽だと感じたことに、少し驚いた。
---
広場に戻ると、掲示板の前の人だかりがさらに膨らんでいた。
有志連合の参加表明が増えた。
増えた事実が、人を集める。
数字は磁石だ。——だから運営も、ギルドも、数字を出す。
ORACLEが掲示板の横に立っていた。
いつもの位置ではない。掲示板を「監視する」位置。
MINAが掲示板を一瞥して言った。
「……明日には、もっと増える」
「そんなに?」
「“戻ってこない”は最高の広告。“運営が警告を出した”は最高の燃料。怖いものを倒したい人間は、怖ければ怖いほど集まる」
集まる。
怖いから集まる。
現実では、怖いものから人は逃げる。
ゲームでは、怖いものに人が集まる。
その違いが少しだけ羨ましかった。
羨ましいのに、怖かった。
ORACLEがこちらを見た。
目が据わっている。
穏やかな狂信の目ではなく、覚悟が混じった目。
ORACLEが静かに言った。
「運営は、あなた様を“対象”と呼びました」
知っている。さっき聞いた。
「討伐は、あなた様の夜を“排除”しようとしています」
知っている。掲示板に書いてある。
「どちらも、同じことを別の方法でやろうとしているに過ぎません」
同じこと。排除。
ORACLEの声が少しだけ低くなった。
「——我々は、排除を許しません」
許さない。
その言い方は信仰の言葉ではなかった。
宣戦布告の言葉だった。
MINAがORACLEを見た。
目が合った。
二人の間に初めて、何かが通った。
共感でも同意でもない。
「同じ方向を見ている」という確認。
守る側が二人になった。
方法は違う。言語は違う。動機は違う。
でも向いている方向が同じだ。
YUはその二人を見て、心臓が一つ大きく打った。
怖い。
守られることが怖い。
守られると期待される。
期待されると応えなければならない。
応える体力はもう——
(でも)
でも、嫌じゃなかった。
怖いけれど、嫌じゃなかった。
---
夕方。
草原へ向かう道で、YUは足を止めた。
遠くで金属が鳴っている。
武器を整える音。鎧を合わせる音。
丘の向こう側に、人が集まっている気配がある。
討伐の準備。
まだ始まっていないのに、もう始まっている。
MINAが横にいた。
「聞こえる?」
「……聞こえます」
「あれが、来る」
来る。
いつか、ではない。もうすぐ。
YUは歩いた。
丘を越えて草原に入った。
線の外側にOBSERVER。二体。青い円が回っている。
線の内側にRAMPART。盾を突き立てている。深い。
少し離れてORACLE。立っている。今日は膝をついていない。
全員が立っている日は、前触れがある。
YUはいつもの場所に座った。
草が冷たい。硬い。
初日と同じ冷たさ。
「……MINAさん」
「何」
「僕は、寝てていいんですか」
「いい。寝て」
「寝てる間に、たくさん人が来るんですよね」
「来る」
「来て、折れるんですよね」
MINAは答えなかった。
答えない時間が長かった。
「……折れるかは分からない。でも、来る」
「来た人を、MINAさんが止めるんですか」
「止められる範囲は止める。止められない範囲は——」
言いかけて止めた。
「……考えても仕方ない。今のことは今でいい」
今のことは今。
そうやって生き延びるのが、社畜の作法でもある。
目を閉じた。
```text
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
Y。
横になる。草が冷たい。
```text
Resting...
```
沈む。
沈む直前——MINAの声が落ちてきた。
「相沢。次、窓口にもう一回行こう」
「……何をしに」
「あなたの無実を、記録に残しに」
記録。
記録は現実でも最後の武器だ。
書いてあることだけが証拠になる。書いてないことは、なかったことになる。
「……分かりました」
「了解しました、は禁止ね」
MINAの声に笑いが混ざった。
久しぶりの、ちゃんとした笑いだった。
「……分かりました」
「それでいい」
意識が底へ落ちた。
---
夜が来るかどうかは、分からない。
ただ、遠くの金属音だけが、少しずつ近くなる。
草の匂いの中に、鉄の匂いが混ざり始める。
それでも `Resting...` は消えない。
消えないまま、沈む。
---
NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 42
601:
運営、YUに直接警告出したってよ
603:
マジ? 停止?
606:
停止はまだ。けど「次のフェーズ」って書いてあったらしい
609:
寝るのが違反扱いって何のゲームだよ
612:
黒外套の女、サポート窓口にYU連れて入ってたって目撃ある
615:
窓口ってあの白い部屋? 今朝生えたやつ
618:
出てきたYUの顔がちょっと違ったって話あるぞ
621:
違うって?
623:
うまく言えないけど「諦めてない顔」になってた、って言ってるやつがいた
626:
有志連合、参加表明また増えてる。運営の警告が燃料になってるの草
629:
草じゃねーよ。燃料すぎるんだよ
632:
REGALIAも名前出してたし、もう止まらんだろこれ
635:
草原突入、ボスレイド超えの人数になるぞ
638:
寝てる初心者の周りだけ戦争準備してるの意味わからん
641:
意味わからんのにスレが伸びるの、もうこのゲームのメインコンテンツだろ
644:
でも一番安眠してるのYUだけ説
646:
皮肉が利きすぎてて笑えない
---
運営は警告を出した。
討伐は膨らんだ。
上位勢が動き始めた。
全部が草原に向かってくる。
その草原で、一人の初心者が眠っている。
眠ることが罪なら、もう罪でいい。
眠ることでしか生きられないなら、もう眠るしかない。
草の冷たさが頬にある。
初日と同じ冷たさ。
——まだ、同じだ。




