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10/21

運営からの警告


朝、相沢悠は歯を磨きながら泣いていた。


泣いている、という自覚はなかった。

鏡を見たら、目の下が濡れていた。

涙ではない。たぶん水が跳ねた。——そういうことにした。


歯ブラシを口から抜いて、鏡の中の顔を見た。

見慣れない顔だった。

頬が削れている。目の下が青い。唇が白い。


少し前の自分と比べたら、別人だろう。比べないから分からない。

分からないまま、こうなった。


(……行くか)


会社に行く。行くしかない。行けるから行く。

行けるうちは「行ける扱い」だ。


電車の中で、スマホに通知が一件来た。


ゲームの通知だ。

現実の画面に、ゲームの文字が刺さってくる。


> NEOSPHERE ONLINE — 重要なお知らせ

> お客様のアカウントにおいて、異常な活動パターンが検出されました。

> 詳細はゲーム内サポート窓口をご確認ください。


異常な活動パターン。


電車の揺れが一瞬止まった気がした。止まっていない。

自分の呼吸が止まっただけだ。


異常。

寝てただけなのに。


画面をスクロールしようとして、隣の乗客の肩が触れた。

触れた瞬間に画面を閉じた。見られたくない。

満員電車で警告を読んでいる自分を、見られたくない。


会社に着いた。

席に座った。モニターを点けた。


鬼塚のチャットが点滅していた。


開いた。


「念のため、昨日の資料、構成変更。午前中に再提出」


構成変更。

提出したものの骨格ごと変えろということだ。直しではない。作り直し。


「了解しました」


文字を打った。

打った瞬間に、電車で見た通知が脳裏に重なった。


「異常な活動パターンが検出されました」

「念のため、構成変更」


どちらも丁寧語で、どちらも逃げ道がない。

丁寧語は怒鳴らない。怒鳴らない代わりに、出口を全部塞ぐ。


午前中、資料を作り直した。

作り直しながら、頭の半分は草原にいた。


草原にいる半分の自分が、残りの半分に囁いている。


(今夜も、眠れるだろうか)


昼休み、社食に行く気力がなかった。

自販機の前に立った。ボタンを押した。落ちてきた缶を握った。冷たい。

冷たいものを握ると、手の中だけが現実に戻る。


スマホを開いた。

さっきの通知をもう一度読んだ。


「異常な活動パターン」

「サポート窓口をご確認ください」


サポート。

その言葉だけが、少しだけ温かく見えた。

サポートしてくれるなら、助けてくれるかもしれない。困っている人を助けるのが、サポートだ。


——たぶん。


缶を開けた。ブラックコーヒー。苦い。

苦いのに、味がしない。

味がしないものを飲める精度で、午後を回した。


鬼塚の「念のため」をいくつも処理して、終電より少し前に会社を出た。

コンビニで何か買った。たぶん菓子パン。袋の中身を確認する気力はない。


帰宅。

玄関の靴が散らかっている。直していない。直す理由がない。


部屋の電気を点けた。


点けた瞬間、蛍光灯の白さに目が眩んだ。

会社のモニターと同じ白さ。同じ眩しさ。同じ温度。

家にいるのに、会社にいる気がする。


VRギアが机の上にある。

黒い筐体。ヘッドセット。ケーブル。

それだけが、この部屋で唯一「別の場所」に繋がっているもの。


手が伸びた。


被る。目を閉じる。


落ちる。


---


視界が暗転して——白。


いつもの白。運営のフォント。硬い温度。

だが今日は、文面が違った。


```text

NEOSPHERE ONLINE

Important Notice — Account Alert


Your account [YU] has been flagged for abnormal activity

in the Grassland Safe Zone.


Continued anomalies may result in:

- Temporary access restrictions

- Area lockdown

- Account suspension (pending review)


Recommended action:

Refrain from using Sleep Mode in the Grassland area.

Visit the in-game Support Desk for further assistance.

```


一行ずつ読んだ。


異常な活動。——寝てただけだ。

アクセス制限。——入れなくなる。

エリア封鎖。——草原がなくなる。

アカウント停止。——沈める場所が、消える。


最後の行。推奨:草原でのスリープモード使用を控えてください。


控えてください。

丁寧語。

出口を塞ぐ言葉。


(……無理だ)


無理だ。

控えられない。控えたら眠れない。眠れなかったら——壊れる。


壊れるのは比喩じゃない。文字通りだ。

現実の身体が、もう限界の向こう側にいる。

ここで眠れなくなったら、朝が来なくなる。


白い文字が溶けて、草原が広がった。


風が冷たい。草が揺れる。鳥が鳴く。

いつもの顔。なのに今日は、少しだけ怖い。

この朝が、あと何回くるのか分からない。


YUは身体を起こした。


——眠れた。


眠れた。

その言葉の裏に、初めて小さな「期限」が生まれた。


草原の外側にOBSERVER。二体。

青い円が回っている。記録中。


インベントリは開かなかった。

見たくない。増えているのは分かっている。確認する行為そのものが、もう重い。


通知欄を開いた。

警告が残っている。消えていない。消せない。


推奨:草原でのスリープモード使用を控えてください。


控えてください。控えてください。


頭の中で、鬼塚の「念のため」と運営の「控えてください」が重なった。

丁寧語で人を追い詰める技術は、現実もゲームも変わらない。


立ち上がる。草を払う。

村に向かおうとした時——足音が来た。


足音のしない足音。


MINA。


黒い外套。フード。気づいた時には横にいる。

いつ来たのかは分からない。いつもそうだ。


「来た?」


声は落ち着いている。

でも目の奥に焦りがある。赤い目。眠っていない目。


「……来ました。警告、来てました」


「見た。——サポート窓口、行くよ」


「サポート窓口って……」


「村の中にある。昨日はなかった。今朝、生えた」


生えた。

運営が窓口を設置した。プレイヤーと直接話すための場所を、初期村の中に。


それは「対応する」という意志か。

それとも「記録を残す」というアリバイか。


どちらでも、行くしかない。


---


初期村の門をくぐると、広場の空気が昨日と違った。


討伐レイドの募集が、掲示板から溢れていた。


木の掲示板の前に人だかり。

罰則が出ていたはずなのに、今日は人がいる。

怖い話は、人を減らすより先に集める。


紙が増えている。

有志連合の募集に加えて、上位ギルドの声明らしきもの。

さらに参加表明の一覧。数字と役割が並び、熱が加速しているのが見える。


MINAが横で紙を読んでいた。

読む目が鋭い。情報を拾う目。感情で読まない目。


「……早いな」


「早いんですか」


「早い。“戻ってない”と“運営の警告”は燃料になる。怖がる代わりに集まるタイプが多い」


MINAは掲示板から目を離した。


「サポート、先に行く。こっちの方が急ぐ」


広場の奥に——昨日まで存在しなかった扉があった。


木の壁に金属の扉が嵌っている。

ファンタジーの建材の中に、現実のドアが混ざっている。

面談室のドアみたいな、会議室のドアみたいな、どれにも似ていて、どれとも違うドア。


扉の上に表示。


`SUPPORT DESK`


誰も近づいていなかった。

近づいていない、というより、手前で引き返す人が多い。

運営の窓口は助けてくれる場所であると同時に、記録される場所だ。

呼ばれてもいないのに行くと、「わざわざ来た人」になる。


MINAがノックなしに扉を押した。

躊躇がない。この人は、ドアの前で立ち止まらない。


開いた。


中は——白かった。


外の世界と空気が違う。

草の匂いが消えた。風が消えた。木の温度が消えた。

白い壁。白い床。白い光。天井が平坦で、影がない。


会社の会議室だ、と思った。

思った瞬間に胃が縮んだ。


受付台がひとつ。

その向こうに、人型が立っていた。


灰色のローブ。OBSERVERに似ているが、顔の造形がもう少し「人間」に寄せてある。

目がある。鼻がある。口がある。

でもどれも「対応するために最低限必要な顔」として配置されている。表情ではなく、部品。


頭上の表示。


`SUPPORT GM`


GM。運営。


GMが口を開いた。


「ご来訪ありがとうございます。対象アカウント `YU` でお間違いありませんか」


対象。


ユーザーでもプレイヤーでもお客様でもなく、「対象」。


YUは反射で頷いた。

反射で「すみません」が出そうになって、堪えた。

堪えたのはMINAが隣にいたからだ。この人の前で無意味に謝ると、怒られる気がした。


「……はい」


「警告内容はご確認いただけましたでしょうか」


「はい」


「それでは、現状のご説明をいたします」


GMの声は均一だった。高くもなく低くもなく、速くもなく遅くもない。感情を排した声。

仕事の声だ。YUは知っている。自分も「了解しました」をその声で言う。


「当該アカウントにおいて、以下の異常が継続的に観測されています。第一に、スリープモード中の活動記録の欠損。第二に、GM観測アバター・OBSERVERの強制終了。第三に、指定区域内における周辺プレイヤーの異常切断および戦意喪失——」


「それ以上はいらない」


MINAが遮った。


「列挙は分かってる。聞きたいのは一つ。——この人は、何かしたの?」


GMの目がMINAに向いた。

向いた目が、一瞬だけ揺れた。計算の揺れ。

「想定外の質問」ではなく、「想定より早く来た質問」を処理する揺れ。


「現時点では、当該ユーザーの意図的な行動による異常は確認されておりません」


MINAが一歩前に出た。


「確認されていない。つまり、無実」


「“無実”という表現は適切ではありません。意図的な行動が“確認されていない”状態です」


「それを世間では無実って言うの」


GMは答えなかった。答えない、という回答。


YUは二人のやり取りを聞いていた。

聞いていて、奇妙な気持ちになっていた。


自分のことが話されている。

自分の目の前で、自分の無実が議論されている。


会社でもあった。

自分のミスではないバグが自分のせいにされた時、上司と先輩が自分の前で話していた。

「相沢がやったのか?」「いや、ログ見ると違う」「でも担当だろ」「担当だけど——」


あの時も、自分は黙っていた。

黙って、椅子に座って、自分のことが自分抜きで決まるのを聞いていた。


今も同じだ。

MINAとGMが話していて、自分は立っているだけ。


——でも、一つだけ違う。


あの時、誰も「この人は何かしたの?」とは聞いてくれなかった。

MINAが聞いた。自分の代わりに。

「この人は何かしたの?」と。


その一言が、胸の奥で小さく震えた。


MINAが続ける。


「本人は初心者。武器もスキルもない。草原でスリープモードを使って寝ているだけ。——それに対して『異常な活動パターン』の警告を出して、アカウント停止をちらつかせる。これは妥当な対応?」


声が鋭かった。

会議室で、誰も言わないことを言う人の声。

「それ、おかしくないですか」を丁寧語ではなく直球で投げる声。


YUの指先が冷えた。

冷えたのは怖さではない。

自分が言えなかった言葉が、目の前で発射されている。その衝撃波が、指先に来ている。


GMは一拍置いて答えた。


「異常の原因が特定されていない以上、発生源に最も近いアカウントに対して予防的措置を講じることは、運営方針として妥当であると判断しています」


「予防的措置」


MINAが繰り返した。繰り返す声が低い。


「被害者かもしれない人に、予防的措置。——それ、責任の押し付けって言わない?」


押し付け。


その単語が出た瞬間、YUの呼吸が止まった。

止まったのは恐怖ではなかった。


「責任を押し付けるな」


その言葉を言いたかった。

鬼塚に。会社に。「念のため」に。「了解しました」に。


言えなかった。一度も。

言えないまま、四文字を打ち続けた。


今、目の前で別の人間がそれを言っている。

自分の代わりに。自分のために。


胸の奥が熱くなった。

熱くなったのは怒りではない。もっと手前のもの。

感謝と呼ぶには早すぎて、安堵と呼ぶには遅すぎる、名前のないもの。


目の奥が熱い。

泣いているのではない。泣く余裕はない。

でも——朝、鏡の前で目の下が濡れていたのは、これだったのかもしれない。


GMは短い沈黙を置いた。

短い沈黙の中で判断が走ったのが分かった。


「ご指摘は記録いたします。——現時点での運営の判断をお伝えします」


判断。

その一語で空気が変わった。


「第一に、当該アカウントの即時停止は行いません」


止めない。まだ止めない。


「第二に、草原区域でのスリープモード使用は非推奨としますが、禁止ではありません」


禁止ではない。まだ使える。


「第三に——」


GMが一瞬、口を閉じた。

閉じて、開いた。


「指定区域での異常が継続した場合、次のフェーズとして区域封鎖、またはアカウント一時停止を検討する可能性があります」


可能性。

「可能性」は「予定」の兄弟だ。いつでも入れ替わる。


MINAが言った。


「期限は」


「現時点では設定されていません」


「設定されてない、は“いつでも切れる”と同義でしょ」


GMは答えなかった。


MINAは一歩引いた。

引いたのは退却ではない。情報を整理する距離だ。


「最後に一つ。——宿屋の件」


GMの目がわずかに動いた。


「この人、草原以外で寝ようとして宿屋に行った。満室って言われた。初期村の宿屋が満室って、通常あり得ないでしょ」


YUが口を開いた。


「……満室って言われました。OBSERVERが宿屋の前に立ってた日です」


GMの指が、受付台の下で一度だけ動いた。

何かを確認する動き。あるいは記録する動き。


「宿屋の利用状況については、こちらで確認いたします」


確認します。


会社の「確認します」は、何も変わらない合図だ。

でも——


「なお、宿屋の安全区画は本来、スリープモードの代替利用先として推奨されています。利用できない状態であったとすれば、それは運営側の不備です」


不備。

運営が「不備」と言った。


自分のせいではなく、運営側の不備。


小さな言葉だ。小さいけれど、初めて「あなたのせいではない」に近い言葉が返ってきた。


YUの指の力が少し抜けた。

握りしめていた拳が、半分だけ開いた。


MINAがそれを見ていた。

見ていて、何も言わなかった。


GMが最後に言った。

言う直前、声のトーンがほんの少しだけ下がった。

均一だった声に、一瞬だけ人間の重力がかかった。


「……当窓口としても、事態の早期解決を望んでおります」


望んでいる。

マニュアルの外の言葉だった。


MINAが小さく頷いた。

頷きの中に、「この人にも限界がある」を認めた色があった。


---


外に出た。


扉が閉まった瞬間、草の匂いが戻ってきた。

風が吹いた。髪が揺れた。

白い部屋の均一な光が消えて、木漏れ日のまだらな影が足元に落ちた。


YUは立ち止まった。

立ち止まって、息を吐いた。


長い息だった。

サポート窓口の中では吸えなかった空気を、全部吐き出すみたいに。


「……僕、怒られるだけかと思ってました」


小さく言った。


MINAも足を止めた。


「怒られてないよ。——追い詰められてるけど」


「同じじゃないですか」


「違う。怒られるのは感情。追い詰められるのは構造。構造は壊せる」


壊せる。

MINAはそう言い切る。壊せると。


YUには壊した経験がない。

会社の構造も、鬼塚の「念のため」も、壊したことがない。

壊す代わりに、自分の方が曲がった。


でもMINAは「壊せる」と言う。


「……MINAさんは、強いですね」


言ってから月並みだと思った。


MINAは一瞬だけ目を伏せた。

伏せた目が、少しだけ揺れた。


「強くない。——怒ってるだけ」


怒っている。


MINAの中にある感情は、心配と怒りが半分ずつだ。

心配はYUに向いている。怒りは世界に向いている。

理不尽に眠れない人間がいて、その人間を追い詰める構造がある。その構造に怒っている。


「あのさ」


MINAが言った。


「窓口の中で、私が“押し付けるな”って言った時——あなた、息止めてた」


見られていた。


「……止めてました」


「言いたかったんでしょ。自分で」


図星だった。

図星すぎて、返せなかった。


MINAは小さく笑った。今度は本当に笑った。笑いの端が少し苦い。


「言えるようになりなよ。——今じゃなくていい。でも、いつか」


いつか。

その「いつか」に期限はない。

鬼塚の「念のため」と違って、MINAの「いつか」は締め切りを持たない。


それが楽だった。

楽だと感じたことに、少し驚いた。


---


広場に戻ると、掲示板の前の人だかりがさらに膨らんでいた。


有志連合の参加表明が増えた。

増えた事実が、人を集める。

数字は磁石だ。——だから運営も、ギルドも、数字を出す。


ORACLEが掲示板の横に立っていた。

いつもの位置ではない。掲示板を「監視する」位置。


MINAが掲示板を一瞥して言った。


「……明日には、もっと増える」


「そんなに?」


「“戻ってこない”は最高の広告。“運営が警告を出した”は最高の燃料。怖いものを倒したい人間は、怖ければ怖いほど集まる」


集まる。

怖いから集まる。


現実では、怖いものから人は逃げる。

ゲームでは、怖いものに人が集まる。


その違いが少しだけ羨ましかった。

羨ましいのに、怖かった。


ORACLEがこちらを見た。


目が据わっている。

穏やかな狂信の目ではなく、覚悟が混じった目。


ORACLEが静かに言った。


「運営は、あなた様を“対象”と呼びました」


知っている。さっき聞いた。


「討伐は、あなた様の夜を“排除”しようとしています」


知っている。掲示板に書いてある。


「どちらも、同じことを別の方法でやろうとしているに過ぎません」


同じこと。排除。


ORACLEの声が少しだけ低くなった。


「——我々は、排除を許しません」


許さない。


その言い方は信仰の言葉ではなかった。

宣戦布告の言葉だった。


MINAがORACLEを見た。

目が合った。


二人の間に初めて、何かが通った。

共感でも同意でもない。


「同じ方向を見ている」という確認。


守る側が二人になった。

方法は違う。言語は違う。動機は違う。

でも向いている方向が同じだ。


YUはその二人を見て、心臓が一つ大きく打った。


怖い。

守られることが怖い。


守られると期待される。

期待されると応えなければならない。

応える体力はもう——


(でも)


でも、嫌じゃなかった。

怖いけれど、嫌じゃなかった。


---


夕方。


草原へ向かう道で、YUは足を止めた。


遠くで金属が鳴っている。

武器を整える音。鎧を合わせる音。

丘の向こう側に、人が集まっている気配がある。


討伐の準備。

まだ始まっていないのに、もう始まっている。


MINAが横にいた。


「聞こえる?」


「……聞こえます」


「あれが、来る」


来る。

いつか、ではない。もうすぐ。


YUは歩いた。

丘を越えて草原に入った。


線の外側にOBSERVER。二体。青い円が回っている。

線の内側にRAMPART。盾を突き立てている。深い。

少し離れてORACLE。立っている。今日は膝をついていない。


全員が立っている日は、前触れがある。


YUはいつもの場所に座った。


草が冷たい。硬い。

初日と同じ冷たさ。


「……MINAさん」


「何」


「僕は、寝てていいんですか」


「いい。寝て」


「寝てる間に、たくさん人が来るんですよね」


「来る」


「来て、折れるんですよね」


MINAは答えなかった。

答えない時間が長かった。


「……折れるかは分からない。でも、来る」


「来た人を、MINAさんが止めるんですか」


「止められる範囲は止める。止められない範囲は——」


言いかけて止めた。


「……考えても仕方ない。今のことは今でいい」


今のことは今。

そうやって生き延びるのが、社畜の作法でもある。


目を閉じた。


```text

SLEEP MODE (Beta)

Safe Zone detected.

Proceed? [Y/N]

```


Y。


横になる。草が冷たい。


```text

Resting...

```


沈む。


沈む直前——MINAの声が落ちてきた。


「相沢。次、窓口にもう一回行こう」


「……何をしに」


「あなたの無実を、記録に残しに」


記録。

記録は現実でも最後の武器だ。

書いてあることだけが証拠になる。書いてないことは、なかったことになる。


「……分かりました」


「了解しました、は禁止ね」


MINAの声に笑いが混ざった。

久しぶりの、ちゃんとした笑いだった。


「……分かりました」


「それでいい」


意識が底へ落ちた。


---


夜が来るかどうかは、分からない。


ただ、遠くの金属音だけが、少しずつ近くなる。

草の匂いの中に、鉄の匂いが混ざり始める。


それでも `Resting...` は消えない。

消えないまま、沈む。


---


NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 42


601:

運営、YUに直接警告出したってよ


603:

マジ? 停止?


606:

停止はまだ。けど「次のフェーズ」って書いてあったらしい


609:

寝るのが違反扱いって何のゲームだよ


612:

黒外套の女、サポート窓口にYU連れて入ってたって目撃ある


615:

窓口ってあの白い部屋? 今朝生えたやつ


618:

出てきたYUの顔がちょっと違ったって話あるぞ


621:

違うって?


623:

うまく言えないけど「諦めてない顔」になってた、って言ってるやつがいた


626:

有志連合、参加表明また増えてる。運営の警告が燃料になってるの草


629:

草じゃねーよ。燃料すぎるんだよ


632:

REGALIAも名前出してたし、もう止まらんだろこれ


635:

草原突入、ボスレイド超えの人数になるぞ


638:

寝てる初心者の周りだけ戦争準備してるの意味わからん


641:

意味わからんのにスレが伸びるの、もうこのゲームのメインコンテンツだろ


644:

でも一番安眠してるのYUだけ説


646:

皮肉が利きすぎてて笑えない


---


運営は警告を出した。

討伐は膨らんだ。

上位勢が動き始めた。


全部が草原に向かってくる。


その草原で、一人の初心者が眠っている。


眠ることが罪なら、もう罪でいい。

眠ることでしか生きられないなら、もう眠るしかない。


草の冷たさが頬にある。

初日と同じ冷たさ。


——まだ、同じだ。


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