寝てただけなのに土下座された
終電の窓に映る自分の顔が、ずっと他人だった。
目の下が暗い。口角が落ちている。まぶたは重いのに、眠気だけがどこにもない。頭の中では、昼の会議が止まらない。上司の声。クライアントの声。自分の声だけが聞こえない。
「今日中に。明日の朝イチで。クライアントに“念のため”確認して」
――念のため、が一番重い。
念のため、は「やらなくていいかもしれないけど、やらなかったらお前のせい」という意味だ。日本語の中でいちばん残酷な丁寧語だと、相沢悠は思う。
スマホの時計を見た。0:41。
明日も出社。明後日も出社。その次も。カレンダーに「休み」と書いてある日にもチャットは鳴る。鳴らない日は、鳴らないことが不安になる。
鳴っても地獄、鳴らなくても地獄。
それを「仕事」と呼ぶらしい。
駅からワンルームまでの道は短い。短いのに遠い。街灯の下を歩くたびに影が伸びて、縮んで、また伸びる。それが自分の一日みたいだった。伸びて。縮んで。どこにも届かない。
玄関の鍵を開けて、靴を脱いで、電気もつけずに床へ座り込む。
暗い部屋。冷蔵庫の低い唸り。水道管がときどき鳴る。
眠りたい。
布団に入っても、身体だけが横たわる。目は閉じられる。呼吸も遅くなる。なのに脳だけが煌々と点いていて、天井の染みを数えている自分がいる。
眠れない夜は、世界で一番時間が遅い。
一時間が三時間に感じる。三時間が一週間に感じる。でも朝は来る。朝だけは、絶対に来る。それが一番残酷だ。
「……無理だ」
声が出た。自分の声なのに、他人みたいに聞こえた。
悠は部屋の隅に目をやった。
白い外箱。三日前にコンビニ受け取りで届いたまま、開けていない。でかい文字が暗がりでも読める。
NEOSPHERE ONLINE 対応 VRギア
睡眠モード搭載
ゲームがしたかったわけじゃない。
同期が昼休みに見せてくれた広告動画。剣と魔法。ドラゴン。パーティ。そういうのは全部どうでもよかった。ただ、最後に一瞬だけ映ったテロップが、渇いた喉に引っかかって取れなくなった。
“脳波同調型スリープモード。あなたの脳を、休ませます。”
――現実で眠れないなら。
その夜、悠は外箱を開けた。
眠るための場所が、欲しかった。
---
初回ログインの手順は、丁寧だった。やたら丁寧だった。
キャラメイクに三十分。ステータス振り分けに十五分。操作チュートリアルに推定四十分。
悠は全部スキップした。
顔はデフォルト。体型もデフォルト。ステータスは初期値のまま。チュートリアルは「後で確認する」を押した。後で確認するつもりはなかった。
ゲームの遊び方に興味はない。
ただ、眠りたかった。
視界が暗転して、次に開けた時、世界は明るすぎるほど明るかった。
青い空。高い。雲が薄い。風が肌を撫でた。草の匂いがする。それが作り物だと分かっていても、肺の底まで入ってきた。
現実の空気と、何が違うんだろう。
同じ酸素のはずなのに、こっちのほうが柔らかい。現実の空気にはいつも、上司の溜め息と蛍光灯の埃が混じっている気がする。
目の前に淡いUIが浮かんだ。
```
WELCOME TO NEOSPHERE ONLINE
```
名前入力。
悠はキーボードを三秒見つめて、二文字だけ打った。
```
YU
```
考える余力がなかった。それだけの話だ。
初期村は賑やかだった。広場には露店が出ている。プレイヤー同士が話している。パーティ募集の看板が光っている。BGMは牧歌的で、NPCの衛兵が門の前で巡回している。
――全部、素通りした。
村の門を抜ける。道を外れる。人の声が遠くなる。
草原に出た。
風だけがある場所だった。
足元の草が、しゅる、と触感を返す。踏むたびに少しだけ沈む。遠くに丘。空が広い。
ここだ、と思った。理由はない。ただ、ここなら眠れる気がした。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Your avatar will remain in a resting state.
Proceed? [Y/N]
```
迷う理由がなかった。
YUはその場に座り込んだ。草が冷たい。土の匂いがする。空を見上げたら、雲が遠かった。
布団の柔らかさは、眠れない夜には敵になる。包まれているのに眠れない、という状況が孤独を倍にする。でも地面は違う。硬くて冷たくて、何も包んでこない。その突き放し方が、逆に楽だった。
「寝るだけ。寝るだけでいい」
自分に言い聞かせるように呟いて、YUは草原に横になった。
視界の端に、白い文字が浮かぶ。
```
Resting...
```
風が頬を撫でた。草が揺れる音だけが聞こえる。遠くで鳥が鳴いている。
脳の中で、上司の声がまだ回っている。念のため。今日中に。責任。念のため。
でもそれが少しずつ――ほんの少しずつ――遠くなっていく。
意識が沈んでいく。
久しぶりに、「落ちる」感覚があった。
眠りに落ちる。
その言葉の意味を、悠は何ヶ月ぶりかに身体で理解した。
---
目が覚めたのは、朝だった。
現実の朝じゃない。ゲームの中の朝だ。草原の空が白んでいて、朝露が光っている。
YUは身体を起こした。
――軽い。
頭の中にあった焦げつき。蛍光灯の残像。上司の声。念のため。今日中に。
消えてはいない。けれど、膜を一枚隔てたみたいに遠い。
身体の奥に「眠れた」という感覚が残っている。
それだけで胸の奥が熱くなって、目の奥がじんとする。
(泣くな。寝ただけだろ)
寝ただけ。
でも「寝ただけ」がこんなに嬉しいのは、どこかおかしい。おかしいけど、今はどうでもいい。
YUは立ち上がった。草原が広い。空がまだ白い。風は止んでいて、世界が静かだ。
――良い朝だ。
```
Login Bonus
+ 1,000G
```
(ログインボーナス……そういう仕組みなのか)
初期村へ戻ろう。何か食べたい――いや、ゲームの中で空腹があるのかも分からない。とりあえず戻ろう。
村への道を歩いた。草を踏む音。鳥の声。朝の光が長い影を作る。
平和だ。
本当に、平和だ。
村の門が見えた。
そこで――空気が、変わった。
門の向こうに人がいた。昨夜はまばらだった広場に、今は人が溢れている。全員がこちらを見ている。
(……え?)
YUが門をくぐった瞬間、群衆が割れた。
波が引くみたいに左右へ寄った。一本の道ができる。広場の中央まで、まっすぐ。
その両側に人が立っている。全員がYUを見ている。
(なに……なんだこれ)
足が止まった。心臓が跳ねる。人に見られるのが苦手だ。会議で発言するだけで喉が渇く。上司に呼ばれるだけで胃が痛くなる。それなのに今――数十、いや百に近い視線が、自分に集まっている。
広場の端で、誰かが小さな窓を開いていた。
無音の動画。夜の草原。暗転。悲鳴のテロップ。
切り抜き。拡散。夜通し回った噂が、朝には人を連れてくる。
誰かが息を呑んだ。
別の誰かが、小声で言った。
「——来た」
来た、って何が。
正面に、鎧を着たプレイヤーが立っていた。背が高い。装備が光っている。明らかに初心者ではない。近づきたくない種類の人だ。
その鎧のプレイヤーが――片膝をついた。
(え)
頭を下げた。深く。
(え?)
隣のプレイヤーが膝をついた。その隣も。そのまた隣も。
連鎖だった。波紋みたいに広がって、広場の端まで――全員が膝をついた。
土下座。
本当に、土下座だった。
YUは動けなかった。
誰かが顔を上げた。目が赤い。興奮しているのか、畏怖しているのか、区別がつかない。
「昨夜の……」
声が震えている。
「昨夜の、あれは……あなた様、でしょうか」
あなた様。
人生で一度も言われたことのない敬称が飛んできて、脳が処理を拒否した。
「あ、あの、すみません」
反射で謝った。いつもそうだ。何が起きても、まず謝る。知らない人に土下座されても、まず謝る。
その「すみません」が、広場に落ちた瞬間、空気が震えた。
「——声だ」
「昼の声。聞いたか」
「夜と、違う……」
「優しい……あんなに恐ろしかったのに……」
(夜?)
意味が分からない。分からないが、周囲の温度が上がっていくのだけは分かる。
(帰りたい。宿屋に帰りたい。寝たい)
YUは逃げるようにインベントリを開いた。画面を見ていれば、人と目を合わせなくて済むから。
```
Inventory
```
開いた瞬間、思考が止まった。
見覚えのない装備が並んでいる。
黒いコート。素材名すら読めない。金属光沢の手袋。指先まで継ぎ目がない。
そして武器欄――昨日は空だった場所に、短剣がある。
```
Relic Dagger: NIGHT'S TOOTH
Rank: ???
Acquisition: Unknown
```
取得方法――不明。
(……は?)
拾った覚えがない。買った覚えもない。そもそも所持金は初期の1,000Gしかないはずだ。
称号欄が点滅していた。
```
Title acquired: The One Who Sleeps on the Plain
```
――草原で眠る者。
(草原で寝た、それが称号になるの?)
分からない。ゲームのことは何も分からない。
でも、最近のVRMMOは初心者に優しいと聞いたことがある。だからきっと――
「最近のゲーム、初心者に優しいなぁ……」
思わず口に出た。
その瞬間、広場の空気が決壊した。
土下座していた全員が、さらに深く頭を下げた。額を地面につけている。
「——神託だ」
誰かが言った。声が裏返っている。
「“初心者に優しい”——つまり、弱き者を慈しめ、と」
「この世界の在り方を示しておられる……」
「我々は試されているのか……!」
(それ僕のただの感想なんだけど)
言えなかった。
流れが決まった空気の中で「違います」と言える勇気は、彼にはない。会社でもそうだ。会議の流れが固まったら、もう動けない。
困った顔で、小さく手を振った。
「いや、あの……違います。僕、寝てただけで——」
「寝てただけ」。
言った瞬間、最前列の誰かが顔を上げた。
泣いていた。
「……昨夜、全部失ったんです」
声が小さい。でも広場が静まりすぎていて、全員に聞こえた。
「パーティが壊滅して。装備も素材も。三ヶ月分が消えた。それで今朝、もうやめようと思って。なのに——」
その人はYUを見た。
「——“寝てただけ”って。あの人が。あんなことをした人が。“寝てただけ”って——」
声が詰まった。
「なんて……なんて、優しい嘘なんだ……」
(嘘じゃない。本当に寝てただけだ)
言えなかった。
周囲が、静かに泣き始めた。
(泣くことある?)
悠には分からなかった。
何も、分からなかった。
---
YUは隙を見て宿屋へ駆け込んだ。扉を閉めて背中をつける。心臓がうるさい。
受付のNPCが、いつも通りの笑顔で言う。
「ようこそ。お客さま、良い休息は取れましたか?」
「……はい」
それだけは本当だ。
椅子に座って、テーブルに両肘をつき、顔を埋めた。
土下座。謎の装備。称号。「王」。「神託」。泣いている人。
何が起きている?
朝起きて、村に戻っただけだ。昨日の夜は草原で寝ていた。それだけのはずだ。
(……イベント?)
運営が仕掛けるサプライズ。初心者にレア装備を配布して、周囲に“特別扱い”をさせる。テレビのドッキリみたいな。
(きっとそうだ。そうに決まってる)
窓の外を見る。
広場に、まだ人がいる。全員が宿屋の方を見ている。中には正座しているプレイヤーもいた。
視線を逸らした。窓にカーテンがない。設計者を恨みたい。
もう一度インベントリを開く。
さっきの装備は消えていない。夢じゃない。
黒いコート。金属の手袋。`NIGHT'S TOOTH` と刻まれた短剣。
そして――見覚えのないアイテムが、さらに増えていた。
素材が三種。鉱石らしきものが二個。宝石が一個。高額コインが——。
(えっ、5,000G?)
初期所持金が1,000G。それが一晩で六倍。
(初心者ボーナス、盛りすぎじゃない……?)
アイテム欄の一番下に、説明文のない何かがあった。
```
???
```
名前もない。アイコンもない。ただの疑問符。
タップしても何も起きない。捨てようとしても「破棄できません」と返される。
(……なにこれ)
そのとき、画面の端に通知が出た。
```
System Notice:
Resting record for [02:14 - 06:03] could not be retrieved.
Data partially corrupted.
```
深夜2時14分から、朝6時3分。
その間の「休息記録」が取得できない。データが一部破損。
(……?)
心臓が、一拍だけ跳ねた。
別に。おかしくはない。ベータ版の機能だ。バグだってあるだろう。ログが壊れることだって――。
でも、「休息記録」だけが壊れている。
(……たまたまだ)
そう思った。
そう思うことにした。
---
> 【緊急】初期村の草原で“王”を見たやついる?
> 1:名無しの旅人
> 昨夜の話なんだが。草原の端にいたら、一瞬視界が“暗転”した。バグかと思ったけど周りも同じ。あれ何?
>
> 7:名無しの槍
> 見た。いや“見えなかった”。暗転した。戻ったら味方がいなかった。三人パーティで俺だけ残った。ログには「戦闘不能」って出てるけど、俺は戦闘してない。
>
> 12:名無しの弓
> トップ勢の小隊が蒸発したって聞いたけどマジ?
>
> 15:名無しの盾
> マジ。戦闘ログ見たら「記録がありません」って出た。は?
>
> 19:名無しの僧
> 「記録がありません」って何だよ。怖い。
>
> 26:名無しの魔
> 草原で寝てた初心者がいるって聞いたけど。そいつが“王”なの?
>
> 33:名無しの槍
> さっき村に入ってきたやつ見た。皆が土下座してた。昼は普通の声だった。「すみません」って謝ってた。逆に怖い。
>
> 41:名無しの弓
> 名前なんだっけ?
>
> 42:名無しの旅人
> `YU` って表示が見えた。
>
> 55:名無しの魔
> 今夜確認しに行くわ。面白そうじゃん、草原。
>
> 62:名無しの旅人
> ……PKギルドが「草原行く」って配信で言ってた。
> 行ったやつが帰ってくるといいな。
---
宿屋の窓から空を見た。
昼の光が、ゆっくり傾いている。ゲーム内時間は現実より早く進むらしい。さっきまで真上にあった太陽が、もう西に寄り始めている。
夕方が近い。
つまり――夜が近い。
掲示板を閉じた。読まなければよかった、と思った。
「王」。「暗転」。「記録がありません」。「蒸発」。
全部、昨夜の出来事らしい。自分が寝ていた間の。
(……偶然だ。別の場所で、別の何かが起きてただけだ)
そう思おうとした。でも、インベントリの中身が反論している。見覚えのない装備。説明のつかない素材。破損した休息記録。
(関係ない。僕は寝てただけだ)
窓の外。広場の人影は減らない。むしろ増えている。新しく来たプレイヤーが古参に何かを聞き、古参が宿屋を指差す。新しいプレイヤーがこちらを見る。
(やめてほしい)
腹の底が、じくりと痛んだ。
この感覚は知っている。月曜の朝、会社の最寄り駅で改札を通る時の感覚。見られている。評価されている。値踏みされている。
休むために来たのに。
眠るために来たのに。
なのに――ここでも、見られている。
「……違う」
声に出した。自分のために。
「僕は、寝に来ただけだから」
寝に来た。それだけだ。だから今夜も草原へ行く。あそこで眠る。それだけでいい。
YUは宿屋の椅子から立ち上がった。
扉を開けると、広場の視線が一斉に集まる。
俯いたまま、人の隙間を縫って歩いた。誰かが何か言った。聞こえなかったことにした。
門を抜け、道を外れ、草原へ向かう。
背中に視線を感じる。足音を感じる――ついてきている。
振り返らなかった。
草原に着いた。風が吹いている。草が波打つ。昨日と同じ景色。昨日と同じ匂い。
ここだ。
YUは昨日と同じ場所に座り込んだ。同じ草の感触。同じ空。
```
SLEEP MODE (Beta)
Safe Zone detected.
Proceed? [Y/N]
```
迷わない。
横になった。草が冷たい。背中に地面の硬さ。
遠くで、誰かの声がした。
「——見ろ。寝てる」
「本当に、寝てるだけだ……」
「……今夜も、来るのか?」
何の話だろう。
どうでもいい。
```
Resting...
```
意識が沈む。昨日よりも早い。身体が覚えている。ここなら眠れると、もう知っている。
上司の声が遠くなる。蛍光灯の光が消える。念のため。今日中に。クライアントに――。
――全部、遠い。
草原の上で、YUのアバターが静かに目を閉じた。
風が止んだ。
空が、暗くなり始めた。
遠くで見ていたプレイヤーたちが息を呑んだ。
「……来る」
誰かが囁いた。
「“夜”が、来る——」
YUは何も知らない。
何も知らないまま、深く、深く、沈んでいく。
今夜もまた――“記録がありません”だけが残る。




