いただきます、の夜
琥珀は、雛から視線を外すと社殿の奥へと歩き出した。
さわさわと木々の擦れる音と、祭りの音が遠くで響いている。
琥珀は何も言わない。
振り返りもしない。
ただ、ゆっくりと歩いていく。
雛は一瞬きょとんとしたが、すぐに小走りでついていく。
「……まってぇ、わんちゃん」
声は小さいが、必死だ。
琥珀は歩幅をほんの少しだけ落とした。
ーーーーーー
社殿の奥は、外よりも空気が澄んでいた。
木の匂いと、線香の残り香。
その奥にーー別の匂いが混じっている。
薄暗い中、神前だけがほんのりと明るい。
こには、小さな折敷がひとつ置かれている。
白い飯椀。
塩をひとつまみ盛った小皿。
水を張った小さな杯。
どれも派手ではない。
ただ、きれいに整えられている。
雛は、少し離れたところからそれを見た。
「……あれは…ごはん…?」
雛は、社殿の奥を指さすようにして、そう言った。
「……これ、たべるやつ?」
しかし雛の知っているご飯とはどこか違う様に感じる。
(それは、触れるものではない)
湊は毎日、ここにそれを供える。
朝でも、夕でも、忙しくても。
豪華にすることはないが、欠かさない。
"神様に食べさせる"ためではない。
ここに神が在ることを、整えるため。
琥珀は、それを知っている。
だから、手を出さない。
雛が見ているのが分かっていても、
神前の飯には、何もさせない。
琥珀は雛の問いには何も答えない。
その代わり、神前には近づかず、くるりと向きを変えて、奥の方にある台所の方へ歩いていく。
「ああん、わんちゃん…」
雛は一瞬迷ってから、あとを追う。
琥珀は一段上がった所にある床の間にひょいと乗る。
襖の隙間に鼻先を差し込み、器用に開ける。
畳の敷かれた居間を通り、台所へと歩みを進める。
琥珀の後ろに追いて台所に入った途端、雛の表情が変わった。
匂いが、違う。
あたたかくて、
おなかの奥が、きゅっとする匂い。
「……こっちは、ごはんだぁ!」
思わず、そう言っていた。
雛の顔にぱっと花が咲く
卓の上には、小鉢に分けられた煮しめ。
大根、人参、里芋。
色は地味だが、出汁を含んでつやつやしている。
甘辛い匂いが、空気を満たした。
そして厚焼き卵。
切り口がふんわりしていて、ほんのり甘い。
伏せられた茶碗と、箸。
卓の横に敷かれた座布団の隣に、琥珀が座る。
雛は、しばらく黙って見ていた。
そして、小さく聞く。
「……ひな、たべていいのかな?」
返事はない。
(…これは、余っておる物じゃからな)
そう思いながら、琥珀はスっと目だけ細める
雛は座布団に座ると、小鉢をじっと見る。
ほっとしたように息を吐いた。
そして、卓の下のお櫃に気づいた。
「ごはんだぁ!」
(子供と言うのは全て"ごはん"と言うのだな)
琥珀がそんな事を思っていると、雛がよいしょ、と両手で蓋を持ち上げる。
「んしょ、んしょ…」
がた、と音がして、中の白いごはんが見えた。
雛は、目を丸くする。
「まっしろごはんだぁ!」
櫃の横に置いてあったしゃもじを見つけ、
両手で持って、慎重にすくう。
ーーぽろ。
「あ……」
少しこぼして、雛はぺろっと舌を出す。
「えへへ……もっかい」
今度は、ちゃんと茶碗を持ってきて、櫃の横に置く。
そしてしゃもじでごはんを掬う。
入った。
「…あは」
雛は、それを両手で持って、座布団にぺたんと正座する。
いざ食べようと箸を手に持った所で、何かの気配に気付く
ジーー…
琥珀と目が合う
雛は、はっとした。
茶碗を置いて、手を合わせる。
「……えっと」
ちら、と琥珀を見る。
返事はない。
雛は、小さくうなずいた。
「……いただきます」
声は小さいけれど、
ちゃんと、言えた。
(作法は、大事じゃからの)
琥珀は満足そうに再び目を瞑る
箸を持つ手は、まだぎこちない。
煮しめの大根をつまもうとして、
少し震える。
ーーもぐ。
雛の動きが、止まった。
噛む。
それから、もう一口。
今度は、ゆっくり。
もぐ、もぐ
しばらく、何も言わない。
ただ、食べる。
頬が、少し膨らんでいる。
雛はしばらく噛んでから、ふう、と小さく息を吐いた。
肩の力が、ふわりと抜けていく。
「…んー…ぽわぁ…」
満足そうな笑みと、思わずこぼれた、小さな声。
琥珀は何も言わない。
けれど、伏せていた尾の先が、ほんの少しだけ揺れた。
(……腹が満ちる、とは、こういうことか)
神前の飯は、静かにそのまま。
人のごはんだけが、雛の小さな手の中で、少しずつ減っていった。




