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【短編小説】わたるな

掲載日:2025/12/27

 ずいぶんと遠くまで歩いてきた。

 どこから来てどこに行こうとしていたのかも覚えていない。なぜ歩いているのかも分からない。

 いっそ休んでしまいたい。

 踏みしめられて硬くなった土が、足に刺さるような感じがする。

 それでも足は止まらなかった。


 しばらく進むと、道が河に突き当たった。

 辺りを見回しても他に道は無く、その河に橋が架かっている訳でも無い。

 さて、どうしたものか。

 河幅はあるが浅い。

 仕方ないかと靴を脱ぎかけた時、河端の草むらに膝ほどの高さがある立て看板が置いてあるのに気づいた。


 「わたるな」

 そう書かれている。

 わたるな、と言われても来た道は一本道なのでどうしようも無い。

 進むしか無い。

 ……進むしかない、か。

 そんな前向きさが自分にも残っていたなんてな、と少し可笑しくなった。

 大人とは裏切られた青年の姿だと言うが、おれもすっかり大人になってしまった。

 そう思うと惨めな気分だが、こうやって前向きな瞬間があると救われる気がする。


 靴を脱ぎかけた手を止めてどうするか逡巡した。

 休みのついで胸ポケットにある煙草の箱を見ると、最後の一本だけが入っている。

 その煙草を咥えてからズボンのポケットをまさぐり、ライターが無いことに気がついた。

 惨めな気分になる。

 最近は電子タバコも多いし、ライターが無くて喫煙室を出ることもある。

 馬鹿馬鹿しいから煙草をやめようと何度も思ったが、結局はやめていない。


 ライターが落ちていたりしないかと辺りを見回した時、道を挟んで立て看板の反対側にある草むらに、ひとりの痩せた老人が座り込んでいるのに気づいた。

 人がいると思わなかったので驚いたが、別に老人に驚かす意図は無かっただろう。

 それに、勝手に歩いてきて勝手に誰もいないと思ってひとりで驚いたのはおれだ。

「どうも、こんにちは」

 軽く頭を下げて挨拶をした。

 老人は痩せているが汚い印象のない老人だった。


 おれの挨拶に微笑みで頷き返す老人に

「すみません、何か火をつけるもの持ってませんか?」

 と訊いてみるだけ訊いてみると、

「あるよ」

 老人は和やかに笑った。

 そして懐から使い込まれたオイルライターを取り出して寄越した。

 それはよく手に馴染むライターだった。


 感謝を述べて煙草に火をつける様子を、老人は相変わらず微笑みながら見ていた。

「すみません、これ最後の煙草で」

 煙草、欲しかったかなと思ったが老人は首を振って

「いいや、よいよ」

 と答えた。

 続けて、そのライターも欲しければやると言うが、さすがにそれは遠慮した。


 老人は煙草を吸うおれから視線を外して、河に向けた。

 おれも煙草を吸いながら河を見た。

 何もない、それでいて大きな河だった。

「あの、その看板って」

 なんですか?と訊く前に老人は笑顔のまま

「そのまんま。わたるな、と言うこと」

 と言った。


「わたると何かあるんですか?」

「何かあるかも知れないし、何も無いかも知れない」

「川が危ないとかですか?」

「川そのものは、危なくない」

「向こう岸が危ないとかですか?」

「向こう岸も危なくない」

「じゃあ、なにが危険なんですか?」

「なにも危ないことはないよ」

 老人は笑顔のままそう言った。


 そう言うものなのかな。

 大きく吸い込んだ煙草はフィルターを軽く焼いたので、おれはもみ消して吸い殻をポケットに押し込んだ。

「じゃあ、なんでそんな看板があるんですか?」

 老人は河を見て答えなかった。

「何も無いなら、渡ったって平気なのでは」

 続けて訊くと、老人は河を見たまた

「まぁ、平気かも知れないな」

 と言った。


「そうですよね。ほかに行く道は無いですし」

 やはり靴を脱いで渡るしかないかと腹を決めると、老人が振り向いておれを見た。

「本当にそうかな」

「え?」

「来た道を戻る、と言うのもひとつの前向きさだと思うが」

 老人の目はおれをまっすぐ見据えていた。

 鏡に映る自分のように、その目は動かない。


 来た道を戻る、それも前向きさ?

 説教くせぇ爺いだなと思ったが、案外とそんなものかも知れない。

 来た道を振り向くと、うんざりするほど途方も無く長い一本道が見えた。

 まぁ、確かにおれが向いている方が前なんだもんな。

 でもここを戻るのか、面倒だな。

 でも仕方ない。そう言う若さが昔の自分にはあったかも知れない。


「やっぱさっきのライター、貰っていいですか?」

 振り向くと老人は既に消えていた。

「やっぱあのライター使って煮炊きしたらダメなんだろうな」

 引きずるように足を動かしながら、おれは来た道をゆっくりと引き返した。

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