第6章 山頂
本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。
昼に中腹の陣地を引き払い、アコニット軍は山頂へとゆっくりと移動を開始した。
負傷兵を抱え、矢は乏しく、歩を進めるごとに兵たちの疲労は深まっていく。
中腹を過ぎ、傾斜がやや緩むころ、山頂に構築された簡易陣が見えた。
グラント侯爵家の旗が翻っている。
「まさかグラント軍はまだ残っているのか?」
騎士団長ユーグ・コストが独り言を言うが、皆歩くのに必死で答える者はいない。
兵士たちはその陣地を目指し、肩を寄せ合って慎重に歩を進めた。槍を支えに歩く彼らの背には、夕日が長く影を落とした。
山頂にたどり着くと、そこには無人の陣地があった。おそらくグラント侯爵アンドリューが構築し、アコニット軍のために置いていってくれたのだろう。最低限の矢や傷薬、わずかだが食糧を整えてくれている。
兵士らの表情に少し明るさが戻った。
ドリス子爵カイルが息をつきながら振り返る。
敵の追撃は、今のところない。
反対側の下を覗けば、グラント軍が麓へ向けて下山しているのが見える。
思ったよりも距離は開いていない。カイルは眉をひそめた。
老騎士アベル・ボリバルがカイルの隣に歩み寄った。
「少し近過ぎますな……予想以上に行軍が遅い」
後から騎士ドワイト・オズボーンが肩をすくめて答える。
「負傷兵を多数抱えて、一日であそこまで降りられたのなら、上出来でしょう」
カイルは、座り込んでいる兵士らを見渡しながら考え込んだ。
夜間の行軍は危険が大きく、松明を灯せば敵からも見える。ならば、明日はここで一日立てこもるほうが安全だろう。
譜代の家臣三人——ユーグ、ドワイト、そしてアベル——にその考えを提案すると、彼らもうなずいた。
「明日はここを堅守し、補給と負傷者の手当を優先すべきです」
夕陽が山頂の杉林を赤く染め、吹き渡る風が兵士たちの髪や服を揺らす。
彼らは疲れ切った体を支えつつ、明日の戦いに備えて簡易陣を整え始めた。
夜が深まる前に、全員が陣の中で待機する。
カイルは険しい顔で下の方のグラント軍を見やった。
明日一日行軍すれば、バーリー大公領の北辺の村々にたどり着くだろう。その時間をここで稼ぐことができれば、アコニット軍は負けなかったことになる。
——しかし、この静けさこそが、最初の罠だった。
翌朝の未明。見張りの声に、カイルは目を覚ました。
「どうした!? 狼狽えるな!」
副長ミックが地面に片膝をつき、息を弾ませながら報告する。
「報告です!放棄した中腹の陣地に、敵が侵入を開始しました!」
山頂から見下ろすと、松明の列が山道を登ってきており、どうやら中腹の陣地を一斉に攻め落としたようだ。
「連中が中腹を拠点にするのは想定内だ。狼狽える必要はない。各自、防御に専念せよ」
「へい!」
ミックはいつもの調子で軽く返事をして戻っていく。その人懐っこさは民兵とすぐ打ち解け、士気を底上げする不思議な力を持っている。少年期からカイルに仕える古い戦友でもあった。
もうそろそろ夜明けだと思うが、空はまだ暗い。風が杉林を揺らす音だけが、異様に大きく聞こえる。
カイルは見張り台に立ち、まだ薄暗い中腹を見下ろしながら、敵の気配を探った。
(火を消すのが早いな)
蛮族は陣地を奪った直後に松明を消し、光を完全に断った。中腹は薄暗くなっている。
(何か仕掛けてくる気か?それともこちらから射かけてくるのを警戒しているだけか?)
「ダニエル、こちらも松明を消せ。嫌な予感がする」
「はっ」
横にいるダニエル兵士長に指示した。
その時、鋭い衝撃音。短弓とは明らかに異なる、重い“唸り”が闇を裂いた。
次の瞬間、ダニエルの身体が横に弾かれ、地面に叩きつけられる。
盾ごと吹き飛ばされた兵士の悲鳴が重なり、ようやく皆が理解した。
——弩弓だ!…。
「ダニエル!」
カイルは倒れたダニエルを抱き起こしながら、奥歯を噛みしめる。
頭に矢が刺さり、即死だった。
温かかったはずの体温が、腕の中で急速に冷えていく。
守ると決めたのに、また一人失った。
家督を継いだ、あの日から、ずっと……
父親が戦死し、カイルは十四歳で家督を継いだ。母親は病弱で、翌年に他界した。
庶流の譜代家臣であるユーグ・コスト、ドワイト・オズボーン。そして先代から仕える契約騎士アベル・ボリバルの三人がカイルによる新体制を支えた。
しかし彼らの努力があっても、若すぎる領主を侮る周囲の騎士たちの圧力は強く、カイルは次第に感情を表に出さなくなっていった。
そんな中、身分の低い兵士たちだけは違った。
戦場では彼を領主としてではなく、ひとりの若者として受け入れ、酒や女、博打まで“世間”を教えてくれたのだ。
領主と兵士の距離が異様に近いカイルは、彼らにとって「守りたい弟分」のように見えたのかもしれない。
もちろん譜代家臣たちには叱られたが、それでも彼にとっては、戦場の兵士こそが家族だった。
しかし、その大切な“家族”は戦場へ行くと倒れ、傷つき、カイルはその度に胸を痛めた。
そして彼らを守るために、カイルは常識を覆す。
ドリス子爵家はナギム鉱山を有し、鉄鉱石による莫大な収入がある。
従来、護衛目的で雇っていた衛兵を——カイルは二倍以上、二百名規模にまで拡大し、町の治安維持にも投入した。
さらに砦の練兵場を拡張し、政務の合間に兵士らと汗を流し、剣を交えた。
カイルにとって、それは家族の団らんだった。
そして彼は、家族の命を守るために装備にも惜しみなく金を注ぎ込んだ。
結果、社交界からは“奇人”“変人”と噂されるようになる。
しかし、こうした歪んだ愛情の積み重ねこそが、蛮族から“毒花”と恐れられ、王国最強と謳われる、アコニット軍の中核たる近衛兵団を生み出したのである。
「閣下!伏せて!!」
矢が襲いかかる中、カイルを庇おうとした兵士レックスが、盾ごと背後に吹き飛ばされた。
「弩弓だ!伏せろ!」
「下からだ!」
敵の短弓の射程外から、数倍の威力の矢が撃ち込まれる。
それだけで兵士らの顔から血の気が引いた。
「総員、防御姿勢! 前列、盾を重ねろ!」
ユーグの怒号が響き、兵が慌てて大盾を掲げる。
しかし、それは合図に過ぎなかった。
山道下の影から、蛮族の喚声が沸き起こる。
「うおおおおおおお!」
復讐に燃えたアグニ族の若い戦士たちは叫びながら斜面を駆け上がってくる気配がする。
「あいつら……正面から来る気か!?」
「返り討ちにしてやる!」
弩弓の一斉射撃が一瞬、止んだ。今、おそらく弩弓を巻き取っている。
「松明を一本道へ投げろ!」
カイルの指示に、兵士らが松明を一斉に下へ投げ捨てた。
広場と山頂を結ぶ一本道が投げ捨てられた松明で明るくなる。
「弓隊、奴らの先頭を潰せ!」
アコニット軍の長弓が音を立て、松明に照らされた敵を撃ち抜いた。
盾も槍も粗末だ。だがその軽さで、奴らは山道を跳ねるように駆け上がってくる。
「ユーグ、騎士団を正面に出せ!突破させるな!押し返す!」
「はっ!」
ユーグが疾走する。
次の瞬間、再び弩弓の射撃が始まった。
「くそ……頭を上げられねえ!」
ミックが伏せたまま叫ぶ。
もはや勝利が確定したはずの蛮族どもが、本気で削りに来ている。
それでも、カイルは姿勢を低くしたまま表情を変えない。
「耐えろ!……ミック、もうすぐ弩弓が止む!ダニエルの代わりに近衛兵を指揮し、騎士団を援護しろ!」
「止むのか!?……わかったよ!坊ちゃんを信じますよ!」
山頂の正面、一本道との間で、騎士団とアグニ族が接触した。
弩弓が止む。
「止んだ……野郎ども、行くぞ!騎士団に手柄、取られんな!」
騎士団が押し返しているが、打撃力が足りていない。ミックの号令で歩兵部隊が騎士団の後ろに展開し、盾の間から長槍を敵の頭に叩きつけた。
カイルも兜の面を下ろし、騎士団と合流した。
重装備の騎士団と歩兵に頭を抑えられ、アグニ族は次々に討ち取られて、ジリジリと下がっていく。
やがて空が明るくなってくる頃には、敵は耐えきれず退却を始めた。中腹に弩弓部隊が見えてくる。
「長弓隊、中腹へ一斉に射ちつくせ!!」
カイルの号令が飛ぶと、長弓隊と弩弓隊の激しい撃ち合いとなった。
しかし速射性に勝り、阻塞で身を隠しながら放たれる長弓の前に、敵の弩弓部隊が打ち倒されていく。中腹に待機していたアグニ族の後続も遮蔽物がないため、混乱をきたして山道を駆け降りていった。
アコニット軍が勝ち鬨を上げる。
勝ち鬨の声が、風にさらわれて薄れていく。
その先の山麓一帯を覆うように、黒い塊が揺れていた。
一万を超える影が、山麓を黒く塗りつぶしていた。
上げかけた拳が、一斉に止まった。
最後までお読みいただきありがとうございます。林忍です。
第6章「山頂」では、アコニット軍が一時的に息をつく場所へたどり着きながらも、決して安堵できる状況ではないことを描きました。
彼らの退路は背後ではなく、この山を越えた先にあります。
ダニエルの死は、兵を家族と呼び、誰一人として失いたくないと願うカイルにとって、避けられない現実を突きつけるものでした。
アコニット軍の強さは、彼の歪なまでの情と責任感に支えられています。
そして章の終わりに現れる、一万を超える敵影。
それは敗北ではなく、これから迫られる決断の重さを示しています。
第7章「軍議」では、兵士たちが初めて胸の内を言葉にし、指揮官であるカイルと真正面から向き合うことになります。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
明日19時30分にお会いしましょう。




