第5章 死戦
本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。
朝の光が、森の縁をゆっくりと照らし始めていた。さきほどまで赤く染まっていた東の空も、今は淡い金色を帯びている。
さっきまでの戦闘の熱だけが大地に残り、空気だけが妙に澄んでいた。
騎士アベル・ボリバルが、嫡男トーマスの遺体の傍らに、静かに膝をついていた。
アベルの背に、斜面の影が伸びている。朝日がその輪郭を際立たせ、誰よりも大きく見えた。しかし、朝陽に照らされるその背はどこか寂しげでもある。
「赦されるには、まだ足りないか……」
その言葉を遮れる者など、誰一人いなかった。
ドリス子爵家の忠義の士である彼にとって、息子とともに戦場に立ち、こうして連れ帰れなかった悔恨は、他者が軽々しく触れてよいものではない。
やがて、背後でカイル・ドリスに騎士ドワイト・オズボーンが低く告げる。
「……閣下、敵は追撃の準備を整えつつあると、斥候より。こちらの兵も十分とは言えませんが、これ以上の滞在は危険かと」
カイルはうなずき、ボリバル卿の背に歩み寄った。
「ボリバル卿……」
慎重で、敬意を含んだ声だった。
主君でありながら、父としての悲しみに寄り添おうとする声。
アベルはゆっくりと顔を上げた。
その表情に取り乱しはなく、ただ静かな決意だけがある。
「……置いてゆきます、閣下」
その一言に、周囲の兵たちが息を呑んだ。
「ボリバル卿、しかし——」
ユーグ・コスト騎士団長が思わず言いかける。
「撤退の隊列は伸ばせませぬ。遺体を運べば、殿軍に負担がかかりましょう。ここは……父ではなく、閣下の家臣としての判断をさせていただきとうございます」
そう言ってアベルは、息子の指から指輪を外し、短剣をベルトごと回収してから、整えた襟布でそっと顔に覆いをかけた。
一度だけ肩が震える。
カイルは唇を噛んだ。
譜代の忠臣が、主君に対して礼を崩さぬまま息子を置いていく覚悟を示している。
「ボリバル卿……」
胸の奥に熱いものがせり上がり、こらえようとした瞬間、ぽたりと、一粒の涙が落ちた。
地面に染みる音さえ聞こえそうなほど、静かな朝だった。
アベルはそれを横目にすると、穏やかに頭を下げた。
「その涙で、トマスは報われました。あとは大地へ還るのを待つのみ……。閣下、私はこれより先、死するまで閣下をお守りいたします」
カイルは小さくうなずく。
「……この短剣は騎士叙任の祝いに、トマスが閣下から賜りました。私が拝領しても宜しいでしょうか?」
「無論だ」
アベルは深々と礼をした。
そこへ、グラント軍騎士団を率いるチェンバレン男爵アルフレッドが進み出る。
「閣下、後方の丘陵地までなら、まだ間に合いましょう。今こそ動く時かとぞんじますが」
ユーグ騎士団団長、騎士のアベルとドワイト、ダニエル兵士長、ミック副長、がそれぞれの配置につき、撤退行軍の合図を待った。
カイルは最後にもう一度だけ、トーマスの亡骸へ視線を落とす。
「黙祷!」
全軍が静かに戦死者たちに別れを告げる。
風が、夜明けの香りとともに吹き抜けた。
「全軍、進め!」
その声が響くと同時に、低い朝陽が森の向こうから差し込み、部隊の影を長く地面へ伸ばした。
光はまだ強くないが、確実に一日の始まりを告げている。
撤退戦の幕が、静かに、しかし鮮明に上がった。
前方の渓谷道を、グラント=アコニット連合軍は急いで退却していく。
アルフレッド率いるグラント軍騎士団百騎が先鋒となり、索敵しながら進んでいく。
中央にアコニット軍騎士団が三十騎。
後続にアコニット軍の弓隊と歩兵が約三百人。この歩兵部隊は子爵領内の農民や町民から徴発した民兵が約半分、残りはカイル直属の近衛兵だ。
谷底に差し込む朝陽は心許なく、上方の岩肌にはまだ影が多い。
その影の中を——敵が動いた。
「来るぞ、蛮族だ!多分、アグニ族だ!」
ダニエル兵士長の怒号と同時に、渓谷の奥から怒涛の足音が響いた。
蛮族の歩兵が、一直線に突進してくる。騎馬突撃こそ封じたが、連中の脚は異様に早く感じられた。
「第一列、槍を構えろ!ドワイト、民兵部隊の指揮を取れ!……ユーグ、チェンバレン男爵に渓谷の出口まで急ぐよう伝達せよ!」
「はっ!」
最後尾のアコニット軍が槍列を組み直し、横一列に五枚の盾をぴたりと噛み合わせる。
それだけで、狭隘な道はたちまち強固な壁へと変わった。
次の瞬間、ぶつかった。
金属が打ち鳴らされ、槍の柄がしなる。
火の民の名に違わず、突撃は勢いが強い。
「押し返せ! 一歩でいい、前へ!」
ドワイトの号令に、槍列がうめき声とともに前進した。
が——その瞬間、頭上から石が降ってくる。
「投石だ、上を警戒しろ!」
渓谷の斜面を素早く駆ける影。
山岳遊牧民カーシャ族が、斜面の木立の間から石と短弓を浴びせかけてくる。
盾に当たった石が跳ね、兵の肩が揺れた。
「くっ……厄介な位置取りをしおって……!」
ドワイトが歯を噛みしめる。
騎士である彼らも、この地形では馬を降りて歩兵として戦うしかなかった。
しかし、カーシャ族は山で育った民。軽装の彼らは、足場の悪い斜面でも獣のように動く。
「右、押されるぞ!!ミック副長、弓隊で応戦させろ!」
「了解しやした!」
カイルは道を振り返る。
防御力を徹底的に強化したアコニット軍歩兵部隊だが、斜面の上からの攻撃は想定外で苦戦している。負傷兵が少しずつ増え、後退を余儀なくされている。
「それを貸せ、若造!」
アベルが負傷した兵士から槍を受け取ると、逆手に構え、斜面に陣取るカーシャの兵士にめがけて投擲した。
彼の年齢からは想像できぬ動きだが、槍が唸りをあげて飛んでいき、斜面から敵兵が悲鳴も上げずに転がり落ちた。
「敵の前列、崩れています!今なら押し返せます!」
ドワイトの声に、カイルは即断した。
「……槍隊、前へ!ダニエル、押し返して道を確保せよ!」
歩兵部隊が槍を前へ突き出し、前面に出た。
渓谷の狭い道が、怒号と足音で震えた。
槍列が一斉に押し込むと、アグニ族が退却を始めた。
「いけるか?……この一押しで——」
「閣下、上!」
ミックの叫びと同時に、斜面のカーシャ族が一斉に石を転がした。
「散開! 道を離れろ!」
人の胴ほどもある巨石が斜面を削りながら落下し、地面に叩きつけられる。土砂が弾け、足場がえぐれた。
悲鳴と同時に、押し返していた列が一気に乱される。
土煙が上がり、兵士数人が巻き込まれ、押し返しの勢いが止まった。
そこへ——蛮族の角笛が響いた。
引いたように見えていたアグニ族が、再び前進を始めて負傷した歩兵に襲いかかる。
「くそっ!やられたか……」
アグニ族の攻撃は力任せに押すだけの蛮勇ではないようだ。おそらく、この戦いを指揮している人間は優秀な将なのだろう。
「倒れた兵士を救出しろ!長弓で援護しろ!」
「閣下……このままではジリ貧です」
ドワイトが低く告げる。
だがカイルは首を振った。
「まだだ。渓谷の出口までは行けるはずだ」
その声に、兵たちの顔がわずかに上がる。
アベルが一歩前に出た。
「閣下、私がここを預かりまする。この先の中腹開けた場所がごさいますので、騎士団と近衛兵と弓兵で陣を張ってくだされ。兵士を救出後、そこへ退却いたます」
「……頼む、ボリバル卿」
「御意」
「ドワイト、負傷兵を率いてついて来い!」
「はっ!」
アベルが剣を構えると、残った兵たちが自然とその背に並んでいく。
「よいか!領主様が陣を張るまでの時間を稼ぐ!無理に追うな!いつも通りやれ!」
再びアグニ族の鬨の声が近づいた。
「来い……ッ!」
アベルの怒号とともに、槍列が衝突する。
渓谷の空気が震えた。
中腹には山頂へ続く峻険な道の途中に、そこだけ山肌が横に長く削り取られたような、幅五十メートルほどの平坦地があった。
奥行きは十数メートルと浅いが、背後は切り立った斜面であり、カイルは騎士団と近衛兵を誘導し、馬からおろして陣を張らせた。
そこへユーグが戻ってきた。
「閣下、チェンバレン男爵は順調に後退しております」
「よし、アベルが戻るまでに、木を急いで切れ!簡単な阻塞を作る!馬に引かせても構わん!」
近衛兵らが一斉に木を切り始めた。騎士も馬にロープを繋ぎ、木を引かせて引きずり倒すのを手伝う。
ものの数十分で木の枝による阻塞、いわゆる逆茂木が完成した。
ハの字に並べ、中央は後退してくる友軍の為に開けてある。
正面に騎士団、阻塞の後ろには歩兵部隊と弓兵が並び、敵を待ち構えた。
アベルらが密集陣形のまま、ゆっくり後退してきている。まるで亀の甲羅がゆっくり山を登ってくるようだ。
アグニ族もカーシャ族も追撃するが、アコニット軍の十八番であるこの陣形に攻めあぐねていた。狭い山道で回り込むこともできない。
負傷した兵を庇いつつ、アベルは兵士らを励まし続け、ついに中腹にたどり着いた。
アグニ族もは中腹の開けた場所で、一気にアベルらを包囲しようとした。
しかし、さらに彼らを半包囲する簡易陣地がすでに構築されているのを見て、足が止まる。
「いまだ!放て!」
カイルの号令で突出していた蛮族に矢が射かけられた。
一部は悲鳴をあげながら倒れ、逃げだした。逃げずに前進してきた者は阻塞に足を取られ、長槍の餌食となった。
その中でもアベルらはゆっくり後退し、陣地がの中へ入る。騎士団が盾壁を作り、敵の追撃を阻んだ。
敵もこれ以上は被害が増えると判断したのか、太鼓の音が響いた。
蛮族の兵士らが一斉に退却を始めた。
「追いますか?」
ユーグがカイルに尋ねた。
「いや、それより負傷兵の手当てを」
「はっ」
まだ日は高く、長い一日になる予感がした。
最後までお読みいただきありがとうございます。林忍です。
本章では、撤退戦が本格化する中で、アコニット軍がいかにして“追撃を受けながら前へ進むか”を描きました。
渓谷という不利な地形、斜面からの投石、二部族による挟撃。
数や勢いでは劣りながらも、陣形と指揮、そして兵同士の信頼によって、彼らはただ逃げるのではなく、「退くために戦う」選択を重ねていきます。
本章で描いたアベル・ボリバルの行動は、撤退戦における忠義と覚悟の象徴でもあります。
守るために立ち、守るために遅れ、そして守るために戻る。
その積み重ねが、軍を前へと運びます。
アコニット軍は、追い詰められているわけではありません。
彼らは生き残るために、より厳しい退路——
山を越えるという選択を、自ら選び取っています。
第6章「山頂」では、その選択の代償が描かれます。
高所を越えるという判断は、逃げ場を失うことではなく、兵の体力、士気、指揮官の決断力、そのすべてを試す試練です。
この撤退戦は、まだ終わりません。
むしろ、ここからが本番です。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
明日19時30分に、またお会いしましょう。




