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ホーステイル砦の撤退戦  作者: 林忍


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第4章 夜明

 本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。


「おい、見張りの交代に行くぞ」


 ジオキは仲間たちの声で目が覚める。

 外はまだ暗い。


「先に行ってて。しょんべんしてから行くよ」


 テントを抜け出し、岩陰で用を足す。

 星あかりの下に、松明で照らされた敵の砦が見える。


 彼はリビン王国から蛮族と呼ばれている遊牧民の一部族、カーシャ族の若者だ。カーシャ族は山岳地帯で山羊などの遊牧をしている部族だ。他部族、スリヤ族やアグニ族のように平原を駆け回る部族ではないので、あまり馬は得意ではないし、彼らのような荒々しさを好む部族ではなかった。

 だから今回の戦も歩兵として参加していた。


 この辺りは山も近く、ジオキにとっては庭のような場所だ。砦も山羊の乳から作ったチーズを売りにいく、いわばお得意様だ。

 何ヶ月か前、チーズを売りに行った時に顔馴染みの兵士が、たくさんの兵隊がもうすぐやって来るから、できるだけ遠くへ逃げろ、と教えてくれた。その後、両親や弟、妹、山羊たちを連れて離れてから、砦の周りにたくさんの兵隊がやってきて、彼らの縄張りにしてしまった。


 まもなく緊急の部族会議(メラナン)が開かれ、兵隊と戦って砦から追い払うことが決まったとき、彼は寂しい気持ちになった。

 他の兵士は山羊のチーズが臭いと嫌がっていたが、顔馴染みの兵士は癖になって酒と合うから、といつも買ってくれた。

 あの人は、無事だろうか……そんなことを考えながら、槍と盾を持って、仲間と合流する。


「ジオキ、遅いぞ。このグズ!交代した連中はもうキャンプへ戻ったぞ」


「アスピ、ごめんよ……砦の様子はどうだい?」


 アスピは五つ年上で幼馴染だ。初陣のジオキと違い、毎年戦に参加してるのを鼻にかけている。いつもおっとりしているジオキのことを、グズ呼ばわりするので、彼のことは得意ではなかった。


「変わらん。噂ではどうやら"毒花"の連中が籠城して戦うつもりらしい。"毒花"より偉い貴族が説得してるって話だが」


「"毒花"って、昨日の崩れなかった凄い奴らかい?」


「そうだ。トリカブトの家紋……毎年、苦戦を強いてくる連中さ。オレは連中と三回も戦って生き残ったんだぜ?」


「砦の中も内輪揉めすることあるんだね」


「そりゃあ、人間だからな。明後日までには返事するそうだ」


「降伏してくれりゃ、楽でいいな……あの"毒花"の連中とやり合うなんて怖すぎるよ。味方がバタバタ倒れていたし……あー、早く帰りたい」


「まったくだ。もう十分勝ったし、戦利品も十分にぶん取ったからな」


 二人が話に夢中になっていると、何かが軋む音が聞こえた。砦の方が少し明るくなる。


「……アスピ、あれは何かな?」


「砦の……扉が開いてる?」


「ま、まさか出撃してきた!?ふ、笛を!」



「ジオキ、ダメだ!ここで吹くな!」


——ピィー!


「バカッ!!」


 アスピは反射的にジオキを押し倒した。

 次の瞬間、数本の矢が彼らの頭上をかすめた。


「馬鹿野郎!死にたいのか!?」


「アスピ、ご……ごめん」


「動け!身を低くして戻るぞ!」


 笛の鋭い音が、夜明け前の野を裂いた。

 ひとつ、またひとつと応じる笛が続き、暗がりの中を伝っていく。


 草陰を低く這いながら、ジオキは東の空を振り返った。

 薄桃色の光が砦の輪郭を浮かび上がらせている。


 静寂は破れた。

 夜が終わり、戦の幕が上がったのだ。





「早々に気づかれましたな」


 各所に響く呼子笛の音を聞きながら、ユーグ・コスト騎士団長がぼやくように言う。

 グラント侯爵アンドリューは不安になってきた。


「そのような顔をなさいますな。兵が不安がります」


 ドリス子爵カイルがアンドリューに声をかける。

 門が開ききった。

 カイルが剣を掲げた。


「敵が気づくなど想定内だ……行くぞ!」


「応!!」


 騎士と兵士が呼応した。

 ラッパ吹きが短く鋭い音を吹き鳴らす。


 アコニット軍騎士団のアベル・ボリバルとトーマス・ボリバルの親子が先陣を切って飛び出した。


「トマス!参るぞ!」

「父上、トーマスな……」


 トーマスは西方(イグナシア)訛りの古風な言い回しが抜けない父に、兜の下で苦笑した。

 

 グラント=アコニット連合騎士団が彼らに続き、雄叫びを上げて突撃を開始する。

 アコニット軍歩兵部隊がそれに続いた。

 さらにグラント歩兵部隊が、負傷者と非戦闘員を護衛しながら前進する。


 目標は包囲網の東側、騎馬部隊の多いキャンプである。

 ここは歩兵が少なく、奇襲に対処できる兵がほとんどいないとカイルは読んでいた。


 突撃の衝撃で、繋いであった馬が悲鳴のような嘶きを上げて暴れだした。

 馬たちは繋ぎ柱を次々となぎ倒し、逃げ出そうと四方へ飛び散っていく。


 倒れた柱にテントが巻き込まれ、崩れた布の影からさらに兵が転げ出た。

 夜襲を受けた蛮族の陣営は、瞬く間に壊乱へと沈んでいく。


「ッ、なんだ——!?」

「起きろ!襲撃だ、襲撃——!!」


 寝起きの騎手たちがテントから飛び出した瞬間、アコニット騎士団の槍が容赦なく彼らを地面へ縫い止めた。

 武器を取る暇もなく、兵は四方へ散っていく。


「押し切れ!進め!」


 トーマスの声が響いた。


 騎士団長のユーグの部隊はトーマスに続いて右翼へ、ドワイト・オズボーン率いる部隊はアベルに続いて左翼へ展開した。


 カイル率いる歩兵部隊はそれに続くが途中で止まり、山道への入口の両脇に密集陣形を作った。

 

「今だ!走れ!」


 アンドリューの号令でグラント軍は両翼の歩兵部隊の間を抜け、山道へ駆け込んでいく。


 アーヴィン子爵イアンは、目を奪われていた。


 両翼に広がった騎士団と歩兵が、迫る敵を押し止めつつ、中央の本隊だけを滑らせるように前へ送り出す。

 両手で捕まえた小鳥を、そっと開いて飛ばしてやる——そんな繊細で、そして大胆な動きだった。


 先頭を駆けるカイルは一度も振り返らない。

 まるで戦場そのものが、彼の指示を先読みして形を変えているかのようだった。


 アンドリューも息を呑む。

 この動きは、兵の一人ひとりが役割と距離感を完全に把握していなければ成立しない。

 アルフレッド率いるグラント軍騎士団百騎も必死に追随しているが、どうしても差が出る。


 それに不安もある。

 本隊の足が遅い。グラント軍騎士団の残り百騎で歩けない負傷者を運んでいるが、負傷者と非戦闘員を抱えているからだ。

 そして最悪の予想どおり、敵騎兵が背後から回り込みつつあった。


「侯爵閣下!ここは私が指揮しますので、先に山道へお入りください!」


 イアンはそう叫ぶと、歩兵部隊に隊列を組ませた。馬から降りると、詠唱を始める。


「《炎の壁(ファイアウォール)》!」


 歩兵部隊の前に炎が壁のように立ち上がり、蛮族の馬が驚いて騎手を振り落とした。

 あるいは炎が服に燃え移り、悲鳴を上げながら敵兵が地面に転がる。

 たてがみが焦げて、パニックになる馬に蹴られた兵士が動かなくなる。


「弓!撃て!」


 カイルは敵の戦列の乱れを見逃さず、炎の壁の両脇から長弓部隊に攻撃させる。

 追撃の手が緩んだ。


 グラント軍が山道へ入っていくのを確認すると、ラッパ手に集合の合図を出させた。

 ラッパが長く吹かれる。グラント=アコニット連合騎士団が退却を開始する。

 

 やがてチェンバレン男爵アルフレッドが麾下のグラント騎士団と戻ってきた。


「アーヴィン子爵、先に退却を!」


「チェンバレン騎士団長、卿は!?」


「侯爵閣下が少しでも遠くへ逃げられるよう、ドリス子爵と残ります」


「では侯爵閣下の護衛にまわります。ご武運を!」


 イアンは撤退を開始した。






 未明の霧が地を這い、遠くで蛮族の鬨の声が微かに響く。

 退却のラッパが聞こえ、ユーグは耳を澄ませ、馬を止めた。見覚えのある馬が佇んでいる。その足元に倒れている騎士の姿。

 

 胸騒ぎがして近づくと、それは胸に深い槍傷を受けた青年……


「トーマス!」


 ユーグは泥を払いのけ、抱き起こす。

 既に血の気は薄く、呼吸は浅い。


「くそ……間に合ってくれ……誰か!援護してくれ!!」


 数名の騎士が駆けつけてきた。

 ユーグは手早くトーマスを馬の前に抱きかかえ乗せる。自身は後ろから腕でしっかりと支え、馬を走らせた。






 トーマスが陣地に運び込まれた瞬間、カイルとアベルは騒ぎを聞きつけて駆け寄った。


「トマス!おおお、トマス!」


 アベルは膝をつき、震える手でその顔を支えた。


「返事を……してくれ……」


 トーマスの瞼は重く、もうほとんど開かない。それでも、父と主の声だけは聞こえたらしい。


 カイルは静かにその手を取った。


「もう喋らなくていい。お前の息子オスカーは立派な騎士に育てる。お前の名は私が守る……もう、休め」


 その言葉に応えるように、トーマスの指がかすかに震えた。

 それが、最期の反応だった。


 アベルは息を詰まらせ、顔を伏せる。


「……お前は、よくやった。ボリバル家の誇りだ。胸を張って逝け……」


 その声が消えるのと同時に、

 トマスの胸は静かに上下を止めた。


 森から漂う朝霧が、陣地へと流れ込んでくる。


 ユーグが静かに目を閉じた。

 遅れて駆けつけたドワイトも、言葉を失ったまま立ち尽くす。


 カイルの頬を、一粒の涙が静かに伝った。

 それを拭おうともせず、彼はその手をそっと地面へと戻し、一度だけ深く頭を垂れた。


最後までお読みいただきありがとうございます。林忍です。


第4章「夜明」では、撤退戦が始まる瞬間を、敵味方それぞれの視点から描きました。

夜が明けるという希望の象徴であると同時に、戦が本格的に動き出す合図でもあります。


撤退は「逃げ」ではありません。

限られた時間と戦力の中で、誰を生かし、どこで踏みとどまり、どこで犠牲を受け入れるか——

指揮官に最も残酷な決断を迫る局面です。


今回、トーマス・ボリバルという若い騎士が命を落としました。

彼は英雄ではありません。

ただ役割を果たし、仲間を守り、そして帰れなかった一人です。

それでもその死は、確かにこの撤退戦を前へ進めました。


カイルは兵を家族と呼び、誰一人として失いたくないと願う指揮官です。

それでも戦場では、救えない命が必ず生まれる。

その現実を、彼自身も痛みとして引き受けながら、前に進み続けます。


夜が終わり、霧の中で始まった撤退戦は、まだ序盤に過ぎません。

この先、さらに厳しい選択が待っています。


第5章「死戦」。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。

明日19時30分に、またお会いしましょう。


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