第3章 名将
本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。
会議は決着を見ず、その日は散会となった。
窓の外、砦の周囲を蛮族の旗が彩る。遠くからは敵の太鼓や叫び声がわずかに聞こえ、緊張が張り詰める。
グラント侯爵アンドリューは夜の帳に向かい、護衛とともに天守閣から下りる途中、ふと兵士たちの様子に目をやった。アコニット軍の兵士が、他領の若い負傷兵の肩を支え、歩いていた。
「ドリス子爵様がせっかく戦場から助けてくださったのに、歩けなくて恩返しできねえなんて……」
「大丈夫だ。子爵様が守ってくださる。故郷へ帰れる、信じろ」
「情けねえ……」
「ああいう優しいお方だ。気にすんな」
少し泣いていた若い兵士の肩がゆるむ。アンドリューは息を呑んだ。以前、戦場で聞いた“変人貴族”という噂とは全く異なる。ここまで徹底して兵士からの信頼を築ける領主がいるのか。
護衛と共に歩く道すがら、チェンバレン男爵アルフレッドがぽつりと話しかけた。
「侯爵閣下、驚かれますな。あの若きドリス子爵は十四歳で家督を継ぎ、それから七年もの間、数々の討伐戦を経験したそうです」
「十四歳か……」
アンドリューは言葉を失った。
見た目は二十歳そこそこの若者だが、戦歴の重みが違いすぎる。年齢こそアンドリューは二十四歳と年上だが、経験値では自分の方が遥かに劣っている。彼が負傷兵を見捨てないと言うのも、何か自信があるのかもしれない。
井戸の周りに集まっているアコニット軍の兵士らを見ながら、ふと自分の判断に迷いが生じていることに気がついた。
その夜、砦の片隅が騒がしくなった。
アンドリューはベッドから跳ね起きると、従者に鎧を準備させる。
アーヴィン子爵イアンが寝所にやってきた。
「侯爵閣下、南西の城壁が攻撃を受けたようです」
「被害状況は?」
「不明です。アコニット軍がすでに展開し、対応しているとのこと。」
「早いな。すぐにそちらへ向かうぞ」
現場に駆けつけると、アコニット軍は板塀の上から暗闇へ火矢を射掛けていた。変人カイル・ドリスも足場の上にいて、暗闇に目を凝らしている。
「ドワイト、もういい」
「射ち方やめい!」
ドワイトと呼ばれた騎士の一人が弓兵を下がらせた。確か、カイルの側近の一人だ。
どうやら撃退できたようだ。
「燃えている残りの火矢を消せ!急げ!」
若い騎士の報告によれば、蛮族が火矢を射かけてきたとのことだった。
脆弱な板塀の防御力を下げるつもりだったようだが、昼のうちにカイルが板塀を水で濡らすよう指示しており、さらに水桶を周囲に配置したとのことで、素早く消火できているとのことだった。
確かに板塀の周りに水桶や陶器の器、馬の木桶など、水が入れられそうなものがいくつも置かれており、兵士らが板塀に刺さった火矢に水をかけて消していた。
(板塀の弱点と敵の攻撃を予測し、すでに予防策を打っているとは……昼間、兵士らが井戸の周りに集まっていたのは、このためか!)
舌を巻くアンドリューの近くに、矢傷を負ったグラント軍の兵士らが寝かされていた。横で手当てしているアコニット兵が言う。
「前線でも後方でも、ドリス子爵は負傷者を必ず連れ帰る。だから元気を出せ」
「本当ですか?置いていかれるのではないんですか?」
「他の連中から噂を聞けばいい。ここにいるアコニット兵は皆知っている」
兵士たちの表情に、ひそやかだが確かな安心感が広がる。アンドリューは心の中で呟いた。
(まるで神のように信じられている……だが、彼も兵を慈しみ、兵を信頼している。これがアコニット軍の強さか)
カイルが板塀の足場から降りてきた。
アコニット軍騎士団長のユーグも一緒だ。
アンドリューの姿を認めると、会釈だけして通り過ぎ、自分の宿舎へ戻って行く。
「失礼いたしました。また明日、正式に……」
ユーグが慌ててアンドリューに敬礼をして取り繕い、カイルを追いかけた。
カイルはまだ臍を曲げているようだ。
(難儀な性格だな……)
アンドリューは心の中で呟いた。
「侯爵閣下ご報告申し上げます」
不意に横から声をかけられた。
ドワイト、と呼ばれていた騎士だ。
「ドリス子爵家のドワイト・オズボーンと申します。戦況結果の説明をさせていただきたく存じます」
あんな変人にも、一見まともな家臣がついてくるのだから、戦場でしか感じられないカリスマがあるのだろう。
そして二手三手先を読む力は確実に持っている。
流石のアンドリューも、カイルの名将としての片鱗を見せつけられたと感じた。
同時に、彼の心は決まった。
二日目の朝、アンドリューは天守閣の窓から敵陣を眺めていた。敵は砦を包囲したまま動かない。こちらを兵糧攻めにするつもりなのかもしれない。
あるいは……アコニット軍が城内にいるのを警戒しているのかもしれない。散々、痛い目に遭わされているのだとしたら、それもありうる。
「蛮族も、毒花にだけは近づきたくないのかもしれんな……」
独り言が漏れた。
「侯爵閣下、軍議のお時間です」
イアンに促され、アンドリューは席につく。
カイルが左に座っているが、こちらを見ようとはしない。
すると彼の左、ユーグがカイルの耳元で囁いた。
カイルは少し唇を歪め、立ち上がってアンドリューの方を向くと、片膝をついて頭を下げた。
「侯爵閣下、昨日はご無礼を働き、申し訳ございませんでした。何なりとご処罰ください」
その顔は反省していると言うより、悪戯っ子が捕まってふてくされているようだった。
仮にもアンドリューは王家に連なるグラント侯爵である。国王グラント三世の再従弟で、彼の前に立った貴族は皆が背筋を伸ばして緊張したり、国王と同じくらい頭を深く下げたり、おもねるような笑みを浮かべて擦り寄ってきたりしてきた。
敵対勢力でさえ、無表情でそれなりに頭を下げてくるというのに……この変人貴族は!
身分の低い兵士らには家族のような愛情を注ぐが、身分の高い者には心から膝をつくことがない。
初めて出会う変人のひねくれ者の姿が、王都イレイアの宮廷道化師を見ているようで何だか可笑しく、アンドリューは笑いがこみ上げてくるのを、必死に堪える努力をしなければならなかった。
少し深呼吸をして答えた。
「いや、ドリス子爵、立ちたまえ……夜襲に対応してくださった礼として、この件は不問としよう」
ユーグはホッとした顔をする。
「ありがたき幸せ」
そう言って一礼して席に戻るカイルは、頬をわずかに膨らませたふてくされ顔だった。
アンドリューは生意気な弟を見ている気分になり、再び笑いを堪えなければならなかった。
その時、一人の老騎士が入口に立った。カイルの後にいた騎士だ。白髪の混ざった赤髪をしている。
「軍議中に失礼いたす!ドリス子爵家の騎士アベル・ボリバル、皆様にご報告申し上げる議があり、参上仕った!」
少し西の王国訛りの古めかしい言い回しが可笑しく、カイルへの笑いを堪えていたアンドリューは、ついに少しだけ吹き出してしまった。
カイル以下、他の参加者も唇を歪めて堪えている。
「ボリバル卿、どうした?」
一呼吸して、カイルが静かに尋ねた。
「はっ!蛮族どもから降伏勧告でございます。いかが致しましょう?」
「追い返せ」
アンドリューがそう言うと、カイルが手で制した。
「今すぐ返答しかねると伝えてくれ。グラント侯爵がドリス子爵に降伏の説得にあたっていると伝え、三日ほど待てと告げよ。」
「それは一体、どういう……」
まるでアンドリューが降伏に積極的のような言われ方で、少し憮然とした。
「お許しください、閣下。ドリス子爵が降伏に向けてグラント侯爵を説得中というより、そちらの方が信頼されやすいと思いましたので……」
アンドリューはハッとカイルの狙いに気づいて、アベルに声をかけた。
「ボリバル卿、聞いての通りだ。籠城して徹底抗戦を唱えるドリス子爵を、私が何とか説得しようと頑張っていると、お伝えしておいてくれ」
「承知!」
アベルは少しニヤリとし、一礼して戻っていった。
「では、ドリス子爵。負傷兵を連れて脱出する作戦案をお聞きしようか」
最後までお読みいただきありがとうございます。林忍です。
第3章では、アンドリューの視点を通して、ドリス子爵カイルという人物の「名将としての顔」を描きました。
兵の扱い、戦場での判断、敵の動きを読む力——
その一方で、身分や立場を踏まえた言葉選びはやや不器用で、しっかりとグラント侯爵を怒らせています(笑)。
ただ、兵を切り捨てるという選択肢を、どうしても呑み込めない彼の姿勢こそが、アコニット軍という集団の異質さであり、同時に強さでもあります。
名将ではありますが、万能ではありません。
この時点のカイルは、戦場に立つことは得意でも、貴族社会の空気を読むことについては、まだ途上にあります。
第4章「夜明」では、いよいよ脱出作戦が始まります。
彼の“理想”が、現実の戦場でどこまで通用するのか——
撤退戦という最も厳しい局面で、試されることになります。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。
明日の19時30分に、またお会いしましょう。




