理性の消える夜
その人の目には、理性の光がなかった。
音楽と談笑が満ちた高級レストラン。
その中央のテーブルで、ひとりの男がまるで飢えた獣のように料理を貪り、驚異的な速度で腹を満たしていく。
前菜が、スープが、メインディッシュが――次々と皿の上から消えていく。
あまりの速度に、厨房のシェフは青ざめた。
料理の提供が追いつかない。
彼は椅子の上に立ち上がり、狂気に満ちた苦悶の表情で、皿を叩いて催促した。
その異様な光景の中で、周囲の客たちは見て見ぬふりを決め込む。
いつもなら、テーブルマナーを説教するはずの人々が、だ。
ついに、デザートが運び込まれた。
コースが始まって、まだ五分も経っていない。
ウェイトレスの手は震えていた。
皿の上には、ひとかけらのケーキと、ひとしずくのソース。
その瞬間、場の空気が凍りついた。
「そんな量で足りるはずがない」
――誰もがそう思った。
恐怖が会場を包み込む。次に何が起こるのか、誰にも分からなかった。
しかし、彼は突然、静まり返った。
椅子に座り直し、服装を正す。
そして、両手を合わせて祈るように目を閉じた。
フォークをそっと手に取り、ケーキを小さく切り分け、口に運ぶ。
……その瞬間、彼の表情が変わった。
恍惚、涙、そして深い沈黙。
誰も声を出せなかった。
やがて彼は、微笑んだまま動かなくなった。
皿の上には、まだひとかけらのケーキが残っていた。
シェフはコック帽を脱ぎ、胸に当てた。厨房の灯りが、静かに消える。
それが、彼の最後の晩餐だったという。
人々はお互いの目を見合った。もしもマナー違反を説教していたら、彼はデザートにありつけなかっただろう。
……人は他人を知れない。
ただ、自らの偽善を、押し付けているに過ぎないのかもしれない。




